第10話 ロブ
海南中 が練習に使用しているストリートコートは、
公営にしては設備が良く、 夜になってもコートを明るく
照らしていた。
一日の練習を終えて、 伊達と副部長の石丸がクールダウン
しようとしていた時だ。
後ろから息を切らして走ってくる少年の姿が見えた。
トオルだった。
「あ、 おまえ 、さっきの …… 帰ったんじゃなかったのか?」
伊達は驚いたようにトオルを見ている。
「はい。 ルールを頭に入れてから、 出直してきました」
トオルは村主(すぐり)に怒鳴られた後、
教室に置きっ放しの ルールブックとマニュアル本 を取りに戻っていた。
そして五冊とも一気に読破してから、 またストリートコートへ戻ってきたのだ。
石丸と伊達は顔を見合わせた。
村主は、すでに帰ったあとだ。
まさか 「出直してきます」 と言って、 その日のうちに戻ってくるとは、 誰も思わない。
「せっかっく、 戻ってきてくれたのに、 悪いんだけど …… 村主、 もう、 帰っちゃったんだ」
人のいい石丸は、 申し訳なさそうに少年に伝える。
他の部員も帰ったらしく、 残っているのは伊達と石丸のふたりだけだった。
トオルは即座にふたりの前に出ると、 おもむろに土下座した。
「今日はみなさんの練習を邪魔して、 本当にすみませんでした!」
とつぜんの土下座に、 伊達は驚いて見ていたが、
石丸には、 さっきの村主の言葉の意味を、 少年がきちんと理解したと映っていた。
だからこそ、 こうして他の部員にも頭を下げている。
時間は、 夜の九時をまわっていた。 人気のないコートに、 トオルの声だけが響ていた。
土下座すがたを見かねた伊達が、 頭を上げるように促したが、 トオルはそのまま動こうとしない。
というより、 土下座をして謝ったものの、 この後どうすればいいのか、わからなかった。
自分のせいで、 他校の部員にまで迷惑をかけたのだ。
正直、 ぶん殴ってもらった方が、 よっぽどスッキリすると思っていた。
「おい、もういいって …… 」
土下座をやめさせようとする伊達を制して、 石丸がゆっくりと話し始めた。
「真嶋 …… だったね。 君は、球拾いをする時、 どこでボールを受けるか、 考えてやっているかい?」
ようやく、 トオルは頭を上げたが、 正座のままだった。
「いえ、 特に考えたこともなかったッス」
「じゃあ、 素振りをする時、 ボールをどこで打つか、 イメージしながらやっているかい?」
「はい。 それは、 やってます」
「なぜ?」
何故と聞かれても、 素振りはボールを打つためで、 球拾いはボールを拾うためだからだ。
素振りと球拾いに共通点があるのだろうか。
その疑問を、 石丸が丁寧に解き明かす。
「素振りでは、 どこで打つかイメージして、 球拾いではそれをしない。
せっかくボールが飛んでくるのに、 もったいないと思わないか?」
この問いかけが、 大きなヒントとなった。
さっき村主が 「球拾いをバカにするな」 と言った意味が、 この時点でようやく理解できた。
「球拾いも、 インパクトのタイミングをつかむ練習になる ……そ ういう事ですか?」
トオルは確認した。
「そう。 他にも、 球拾いをする事で、 いろいろな練習ができる」
石丸が静かに続ける。
大衆の面前で怒鳴られたにもかかわらず、 健気にもコートへ戻ってきた少年に、
何かアドバイスをしてあげたい。
常に、 部長の補佐役にまわっている彼らしい配慮だ。
「例えば、 先輩のラリーを見ながら、 次に来るコースを予測してみる。
先輩が取れなかったボールを、 自分が返すつもりで拾ってみる」
「インパクトだけでなく、 フットワークや、 サイドステップの練習にもつながるって事ッスね」
「その通り」
石丸は、 少年の理解の早さに驚いていた。
ほんの数時間前まで、 サービスをどこに入れるか、 知らなかった人間とは思えないほどの理解力だ。
彼が ルールを頭に入れてから出直してきたというのは、 あながち嘘ではないらしい。
少年の熱意に感心しながら、 更に助言を続けようとしたときだ。
「石丸先輩 ……残りはメシ食いながら、 話しませんか? 俺、 もう死にそうなんッスけど…… 」
いまにも餓死しそうな顔つきで、 伊達が場所を変えようと提案した。
「仕方のないやつだな、 まったく」
そう言いながらも、 石丸は後輩の提案を受け入れた。
時間は九時を過ぎている。
自分たちだけでなく、 目の前の少年も腹をすかせているに違いない。
「真嶋、おまえも来いよ」
石丸がトオルを食事に誘った。
「いや、 あの …… オレ、金なくて ……」
当然、 腹は空いていた。 だが、テニスシューズを買う金もない状態で、 どこかで食事をする余裕はない。
「なに言ってんだよ、 石丸先輩のおごりに決まってんだろ?」
すかさず、 伊達が口をはさんだ。
海南中のテニス部は、 食事は先輩がおごるものという、 暗黙のルールがあった。
石丸は、 やれやれという顔をしながらも、 伊達とトオルをラーメン屋に連れて行った。
海南中の行きつけの店、 ラーメン屋 「がんこ」 では、 トオルが質問攻めにあっていた。
知識と理解力、 技術と運動能力が 見事にアンバランスな少年の正体を、
石丸と伊達は知りたがっていた。
トオルは、 山奥での生活の事や、 父親の仕事の内容など、
「都会の人」にも理解できるよう、 考えながら説明した。
質問攻めにあうのは、 これで二度目なので、 スムーズに話を進められた。
テニスの知識はゼロだが、 山の中の生活で、 必要な運動能力を身につけていたこと。
ボールで果物を採っていた為、 ボールをコントロールする能力だけは磨かれていたこと。
塔子の時と同じように、 石丸も伊達も興味津々で聞いている。
伊達とは、 数時間前にケンカしそうになったが、 今はすっかり心を開いてくれている。
恐らく、 トオルと同じで、 性格が単純明快にできているのだろう。
自分が悪いときは悪いで、 土下座してでも謝るような、 ハッキリした性格の人間が、伊達は好きだった。
とんこつみそラーメンとギョーザをたいらげて、 デザートの杏仁豆腐が来る頃は、
話題が海南中学の話に移っていた。
彼らが所属する海南中は、 男女合わせてコートが一面しかないそうだ。
そのため学校では、 一日交替でコートを使用し、 他の日はストリートコートで練習している。
今までは三年生が引退するまで、 二年を含む後輩は、 ボールに触らせてもらうこともなく、
ひたすら球拾いと、 基礎練習を繰り返していたらしい。
けれど、 村主が三年で部長になってから、 「みんなで強くならなきゃ意味がない」 と言って、
後輩にもボールを打たせ、 ラリーの練習を出来るようにしたそうだ。
村主も石丸も、 一、二年の苦労があったからこそ、
球拾いひとつをとっても、 練習につながるよう、 工夫をしていたのだ。
「どこにいたって、 テニスの練習はできるんだよ」
石丸の言葉を、 トオルは噛み締めた。
テニス部といっても、 いろいろな環境があると思った。
トオルが所属する光陵学園は、 男子部だけで十二面のコートがある。
他校からすれば、 恵まれた環境だ。
反して海南は、 男女合わせて一面しかなく、 ストリートコートまで来て練習をしている。
どう考えても不公平だ。
なのに海南中の部員は、 その事を卑下せずに、 いま必要な練習を工夫しながらこなしている。
そんな部員を率いる村主に、 トオルはもういちど会いたくなった。
会って、 きちんと謝りたかったし、 お礼も言いたかった。
次の日、 部活が終るとすぐに、 トオルは例のストリートコートに向かった。
今日は、 海南中が来ない日だとわかっていたが、 もう一度、行ってみたかった。
ひょっとしたら、 村主に会えるかもしれないという期待もあったが、
それに加えて、 海南中の部員達を見て、 自分なりに必要な練習を工夫してやりたくなったのだ。
恵まれた環境に甘えずに、 常に自分を磨くこと。
彼らとの出会いは、 トオルに新たな刺激を与えていた。
ひと通り、 テニスの知識が頭に入った今、 自分に欠けている要素が明確になる。
それは、 実践練習だ。
その不足を埋めるためには、 部活の練習に加え、 ストリートコートで試合経験を積むことが、
もっとも 効率の良い方法だ。
今まで果物や動物しか相手にしていなかったトオルは、 人間を相手にラリーをやったことがない。
相手と打ち合うことで、さまざまな状況が生まれる。
昨日のように、 サービスの打ち方を理解していても、 ラインを踏んでフォルトになることもある。
知識と運動能力があるだけでは計り知れない、 多くの経験が必要だ。
「まずは、 サーブとリターンの練習からだ」
当面の目標を決めて、 昨日と同じ場所に足を踏み入れた。
早い時間に行ったので、 ストリートコートはまだ、数人しか並んでいない。
するとトオルの背後から、 村主が声をかけてきた。
「待ってたぜ、坊主」
「村主さん、 昨日は、 本当にすみませんでした!」
会うなりトオルは謝った。 もちろん、 土下座だ。
周りの連中が一斉に注目したが、 村主は知らん顔してトオルに指示を出している。
「アップして待ってろ。 今、コート空けてやる」
そう言い残すと村主は、 並んでいた挑戦者を全員「3−0」でくだして、
あっという間にトオルの順番まで進めてくれた。
「コート空けてやる」 とは、 この事だったのかと、 初めて村主の強さを実感する。
彼は、 石丸と伊達から昨夜の一件を聞いて、 わざわざトオルに会いにきてくれたらしい。
「昨日の続き、 始めるか!」
息ひとつ乱さずに、 村主がコートへと誘った。
たかが他校の一年部員のために、 彼は時間を割いて来てくれた。 トオルの謝罪を聞くために。
そして、 昨日の試合の続きをするために。
筋の通らないことは嫌いだが、 こちらが誠意を持って接すれば、 必ずそれに応えてくれる。
たとえ相手が年下であろうが、 なんの義理もない他校の生徒であろうが、 その姿勢は変わらない。
村主はそういう芯の通った男だった。
トオルの直感どおり、 彼は 「熊のおっさん」 に良く似ている。
ストリートコートの決まりでは、 最初のサーブ権は挑戦者にある。
軽くボールをバウンドさせながら、 トオルはサーブの打つ方向を考えていた。
村主はベースライン手前の、 やや外側に構えている。
あの位置なら、 コーナーぎりぎりを狙えば、 自分のスピードで取られる事はまずない。
気持ちを集中させ、 出来るだけ高い打点から、 ボールをコーナーへと叩き込んだ。
体験的に、 高い打点からボールを打ったほうが、 スピードが速くなると知っていた。
が、 次の瞬間、 トオルの目の前を、 同じ速さのボールが駆け抜けていった。
村主のリターンエースだ。
一瞬、 何が起こったのか、 よくわからない程のスピードだ。
もう一度、 外側のコーナーを狙ったが、 結果は同じだった。
しかし今度はなんとか、 状況を目で捕らえることが出来た。
村主は、 外側を狙ったサーブに、 上手くラケット面を合わせ、 そのままストレートで返したのだ。
このやり方だと、 サーブのスピードが上がるほど、 返球のスピードが出る。
ちょうど、 壁打ちで強打すれば、 そのままの勢いで戻ってくるのと、 同じ原理だ。
しかも、 村主は大柄なので、 いくら外側を狙おうと、 容易にボールに追いつける。
トオルとは歩幅が違うのだ。
「よし、 わかった」
トオルはもう一度、 高くトスをあげた。
狙ったコースは同じく外側だが、 今度は村主の返球を想定して、 素早く左へダッシュした。
サーブをストレートで返されるなら、 それに追いついて返すまでだ。
だが、 左へダッシュしたと同時に、 ボールは逆コースへと叩き込まれていた。
村主はトオルの行動を読んで、 クロスで返球したのだ。
何度も同じコースで戻ってくると、 信じた自分が甘かった。
考えることの出来る 「人間」 を相手にしているのだ。
果物や木の実を相手にするのとは訳が違う。
自分が返せない球を考えて打っているように、 相手も返せない球を打ってくる。
「そこが、おもしろい」 と日高が言っていたのを思い出した。
「まったくだぜ、 おっさん」
トオルも心底そう思った。
すでに3ポイントを、 相手に取られている。
1 ゲーム中、 4ポイント先取されれば負けになる。
1 ポイント毎に、 15、 30, 40 と数えていくので、 今のカウントは 「0−40」 だ。
次を取られれば、 ブレイク、 つまり自分のサービスゲームを取られることになる。
ここで踏ん張らなければ、 次は相手のサービスになり、 逆転はますます厳しくなるだろう。
これまでの試合内容で、 トオルにはひとつ、 わかった事がある。
自分はサービスに集中するあまり、 相手のリターンに対する準備をしていなかった。
今のトオルの実力では、 いくら強いサーブを打ったとしても、 村主に必ず返球される。
サーブを打ったらすぐに、 次のリターンに備えなければならない。
相手の返球を頭に入れながら、 サーブを打った直後に、 すぐにセンターへと踏み込み構えてみた。
このポジションなら、 どこにリターンを打ち込まれても、 たいていのコースに追いつける。
今度の返球コースは、 ストレートだ。
「これなら、 返せる!」
トオルは素早く走り込み、 とっさに、 バックハンドで打ち返した。
だが、 打った瞬間 「しまった!」 と思った。 まだ、 バックハンドを習っていなかったのだ。
久保田から借りた本を読んで、 バックハンドのイメージが定着していた為、 すっかり打てる気になっていた。
けれどトオルはまだ、 フォアハンド の素振りしか教えられていない。
「打てる気」 だけで返したボールは、 無残にもネットにかかって転がっている。
「残念だったな、 トオル。 ブレイクしちまった」
村主が苦笑しながら、 声をかけた。
まるで父親が、 連敗している息子をなぐさめているような、 そんな表情だった。
「いいッスよ、 オレもブレイクすれば、 同じッス!」
トオルは口を尖らせながら、 精一杯の反論をする。
口だけは強気の姿勢を見せていたが、 心の中は正直ヘコんでいた。
フォアハンドに比べ、 バックハンドは思ったよりも難しい。
体の右で捕らえるか、 左で捕らえるかの違いだけなのに、 どうもフォアハンドと勝手が違う。
できることなら、 フォアハンドだけで勝負したかったが、 村主のスピードのついたボールに追いつくには、
やはりバックハンド を何とか攻略しなければならなかった。
こういう窮地に立たされて初めて、 素振り練習がいかに大事か、 おもい知らされる。
そして、 なぜ先輩たちがボールを打たせる前に、 基礎練習ばかりをやらせようとしたのかも。
しかし、 いまは彼らの指導方針に納得している状況ではない。
容赦なく戻ってくるボールを、 どんな形であれ返さなければならない。
トオルは気を取り直して、 リターンのポジションで身構えた。
「ぜってエ、返してやる!」
しかし、 次のゲームは、 前のゲームより早く決着がついた。
4ポイントとも、 村主に サービス・エース を決められたのだ。
大柄な村主から繰り出されるサーブは、 まさに剛速球と呼ぶにふさわしい。
これでは、 リターン練習どころではない。
ボールに合わせて、 ラケットを当てるのが精一杯だ。
村主と同じ要領でリターンしようとしたが、
バックハンドで空振るか、 ネットに引っ掛かるかの、 どちらかだった。
今度こそ、 本当に後がない。
このゲームを取られれば、 負けるのである。
部活を抜けて、 トオルと試合する為に来てくれた村主にも、 申し訳なかった。
この2ゲームを取られるのに、 通算五分とかかっていない。
たった数分のために、 他校の部長に部活を抜け出させたかと思うと、
申し訳ない気持ちと同時に、 自分が情けなくなった。
「せめて、 数球でもいいからラリーを続けたい」
落ち着いて、 今の自分が置かれた状況を整理してみる。
まず、 大柄な村主を相手に、 外側のコースを狙っても意味がない。
それどころか、 そのままストレートで返球されれば、 こっちが追い込まれることになる。
となると、 次に狙うべきコースは、 必然的にセンターになる。
「今度こそ!」
外側のコーナーを予想していた村主は、 一瞬とまどいながらも、 確実にセンターへ返してきた。
思ったとおりだ。
これで、 ラリーの主導権が自分の方に戻ってきた。
真ん中のポジションを陣取って、 相手を右に左にと揺さぶり始めた。
しかし左右にふられながらも村主は、 トオルの弱点、バックハンドを確実に狙ってくる。
なんとかタイミングを合わせて返したが、 村主はすでにネットについて、 ボレーの体制に入っている。
「0−15」
またしても、 取られてしまった。 今度は、 ボレーだ。
ようやくストロークを使えるようになった初心者に、 ネット際からのボレーの攻撃はキツかった。
ボレーはバウンドがない分、 早い対応が求められる。
だが、 やっとバックハンドが形になった人間に、 ボレーを取れというのが無理な話だ。
常に自分の作戦のうえを行く村主を相手に、 自分の未熟さを思い知らされる。
同じ作戦が通用しないと知りつつも、 今度もセンターを狙ってサーブを打った。
なんとかラリーを続けて、 村主を攻める糸口をつかみたかったのだ。
「0−30」, 「0−40」 次々とポイントを決められていく。 あと 1 ポイントでゲーム・セットだ。
この人は 熊のおっさん よりスゴい。
そう思ったときだった。
トオルは 熊のおっさん の弱点を思い出した。
「試してみるか …… 」
先ほどと同じように、 左右に村主を揺さぶる。
持ち前の運動神経のよさで、 トオルはすこしずつ、 バックハンドのタイミングを把握し始めていた。
フォアハンドほどの強打ではないが、 イージーボールを与えるようなミスショットはない。
右に左にと打ち分けながら、 トオルが狙うのは、 相手の足元だった。
熊のおっさん に追いかけられたとき、 捕まらない為には、
遠くに逃げるよりも、 むしろ、 大柄な身体の下、 つまり足元に逃げた方が確実だ。
大柄な体型というのは、 小回りが利かないのである。
トオルはそれを応用して、 外に逃げるボールの合間に、 足元に詰まるようなボールで、 村主のミスを誘った。
予想通り、 ネット際に浅いボールが落ちてきた。
「よし、 これで、 ネットにつける!」
さっきやられた村主のボレー作戦を、 そっくり返してやろうというのだ。
「逆転のチャンスは、まだある!」
トオルが俊足を生かしてネットにつき、 ボレー体制に入った時だった。
村主が放ったボールは、 下から上へと大きく弧を描きながら、 ゆっくりとトオルの頭上を通り過ぎた。
ボールの勢いはそれほどない。
けれど、 高く打ち上げられたボールが頂点に達すると、 急にスピードを増して急降下するように見えた。
それは、 トオルが生まれて初めて見る、 ロブという種類の打球だった。
ベースライン際でストンと落ちた球は、 コートの外へと跳ね上がっていく。
ネット際でこのロブを打たれれば、 まず追いつくことは不可能だ。
きのう読破したマニュアル本にも、 ロブは載っていた。
通常のストロークと違い、 プレイヤーを避けるようにして打つ方法は、
初心者のトオルには 邪道 のように思えていた。
けれど、 このタイミングでロブを打たれれば、 れっきとした攻撃になる。
知識と実践が、 つながった瞬間だ。
村主はトオルをわざとネット際に誘い、 最後はロブで決めるつもりだったのだ。
ゲーム・セット、 トオルの完敗だ。
「村主さん、 やっぱ、 強いッスね」
負けはしたが、 すごく充実した気分だった。
「トオルは、 予想通りヘタだったな」
昨日のトオルの言葉を借りて、 村主はからかった。
からかいながらも、 目の前の少年を恐ろしいとも思っていた。
たった3ゲームのうちに、 リターン、 バックハンド、 ネットダッシュを、 未熟なりにも体得している。
コイツは一体、 どんな成長をするのだろう。
昨日の試合前よりも、 ますます少年に興味がわいていた。
「ヘタだった」 の言葉に、 唇をかんでいるトオルを見て、 つい村主は口元が緩む。
彼はこういう 「負けず嫌い」 な人間を、 頼もしいと思うタイプだ。
誰しも経験のあることだが、 たとえ強い相手だとわかっていても、 試合に負けると悔しい思いをする。
肝心なのは、 その悔しさを、 この先どう生かすかだ。
「確かに下手だったが、 これから強くなるんだろ? きのうオマエはそう言っていた」
「はい。 そのために、ここに来たッスから!」
少年の顔に人懐っこい笑顔が戻る。
「また、 来いよ」
「はい、 ありがとうございました!」
トオルと村主はネットを挟んで、 ガッチリと握手した。
テニスというスポーツは、 単に力技だけではない魅力がある。
パワーや、 スピードで攻めようとしても、 さっきの村主のロブのように、
相手の射程外にボールを落とすような攻撃方法もある。
日高が 「相手が返せない球を考えて打つ」 と言ったのは、
こういう技術や判断力も含めての意味なのだろう。
そこがおもしろい。
自分の勘は当たっていた。
テニスはマジ で面白い。
ボールを強打することしか知らなかった少年が、 いま、本当の意味でのテニスの魅力に引き込まれていた。
そして長い長い階段を、 登り始めようとしていた。