第11話 メロリン

公園イメージ


女の子なら誰しも、 女の子だった人も含めて、
「恋のおまじない」 のひとつぐらいは、 試した経験が
あるだろう。
好きな人の名前やハートを何十回も書いてみたり、
相手が触れたものを最後まで使い切るという、
根気のいる作業を実行したり、行き場のない恋のパワーを
おまじないの努力に向けてしまう。
「恋は盲目」 といわれるが、確かに恋愛中の人間は
いつもより判断基準が狂っている。
ふだんは踏みつけるだけの四葉のクローバーが、
恋愛成就の必需品に昇格し、 相手の髪の毛や、 身の回り品を持ち去るという
泥棒まがいの行為まで、 平気でやり遂げてしまえる。
後になると 「くだらない」 と笑えることでも、 その時は信憑性(しんぴょうせい)があると思い込んでいる。
それが、 恋愛中の証だ。

ネコキューピットの 「メロリン」。
奈緒の学校で流行っている 恋のおまじないは、 これだった。
「メロリン」 は、 女の子から男の子への願いを叶えてくれる ネコキューピットで、
キーホルダー付きのマスコット人形だ。
姿かたちはネコだが、 頭に二本の触角がついていて、 触角の先には、 ピンクのハートがついている。
うわさでは、 その触覚が一本取れた場合は、 自分の想いが 相手に届くが 片思いになり、
二本取れると、 両想いになるという話だった。
ただしその触覚は、 自然に取れないと効果がなく、 むりやり取っても意味がない。
しぜんに二本の触覚が取れた時点で 「メロリン」 はネコキューピットから、 普通のネコに戻るのだ。
噂によっては 「メロリン」 を好きな人にあげると、 恋が叶うという別バージョンもあった。

奈緒はこの 「メロリン」 が気になっていた。 すごく欲しいワケではなかったが、 450円は魅力だった。
まるまる信用していたワケではなかったが、「 触覚の一本でも取れてくれたら ……」 と思っていた。
けれど、 買いにいく勇気が、 どうしても湧かない。
自分がこれを買うという事は、 「私は恋をしています」 と、 店員さんに宣言しているようなものだ。
「だから、 どうした?」 と思うタイプの人間は、 とっくに買って、 カバンなどにつけている。
外に出して、 雨風にさらされた方が、 早く触覚が取れるらしい。
ところが奈緒は、 店員さんにさえ、 知られることが恥ずかしいのだ。
よっぽど、 「妹がどうしても欲しいと言うので」 と演技をしようかと思ったが、
そんな勇気があるくらいなら、 とっくの昔に 「メロリン」 をゲットしている。
「はあ〜」 とため息をついて、 首を軽く傾けた。

「おまえ、 もしかして、 徹夜したのか? 眠そうだぞ」
とつぜんトオルが、 隣の席からのぞき込んできた。
「オレのカバン、 大変だったらムリしなくていいぜ」
どうやら彼は、 自分のカバンのリメイクで、 奈緒が疲れていると勘違いしているようだ。
奈緒は慌てて否定すると、 けさ完成したばかりのカバンを差し出した。
「え? これ、ホントにオレの?」
トオルが目を丸くしながら、 蘇ったカバンをしげしげと見ている。
「あ、 ホントだ。 ここんとこ、 ちゃんと残ってる …… すっげエ〜!!」
十回以上 「すっげエ〜」 を連発しながら、 子供たちが書いた 「トオル兄、だいすき」 の
メッセージが残っている部分を確認している。
正直その部分を残すのに、 かなり苦労した。
布地が麻で縫いづらい上に、 子供がランダムに書いた文字を、 デザインとして使うのだから、
手芸部の彼女でも頭を悩ませる課題だった。
そもそも麻袋をカバンとして使用すること自体、 無理がある。
けれど、 その苦労も彼の満面の笑みで、 一瞬のうちに消え去ってしまう。
「ありがとな、 奈緒。 おまえ、天才だ。 コイツの命の恩人だ!」
カバンの命の恩人と言われても、 ピンとこなかったが、 トオルの反応はうれしかった。
「この笑顔が見たかった」 奈緒は、 そう思った。

一瞬のうちに、 奈緒は60階から1階まで、 一気にエレベーターで降りたような気分になった。
「私、トオルに恋してる?」
自分の恋心を自覚したとき、 どうしてこう激しいショックを受けるのだろう?
もっと、 ほのぼのと気づく方法はないのだろうか?
音でいえば 「じんわり、 のほほん」 がベストだが、 実際は 「ガ〜ン!」であり 「ドッカ〜ン!」だ。
これは恋愛感情に疎い人間であればあるほど 、ショックが大きい。
なぜなら、 そうとう深みにはまらないと、 自分の恋心に気づかないからだ。
本来なら 「メロリン」 が欲しいと思った段階で、 自覚するはず。
更にさかのぼれば、 前髪が上手くキマらないからと言って、 彼に見られないよう横を向いていた頃から、
その兆候に気づくべきである。
だが、 中学一年生の奈緒には、 それらが恋の初期症状だと知る由もない。

「おまえ、 やっぱり熱あるんじゃねえのか? 顔、赤いぞ」
おもむろに、 トオルの手が、 奈緒の額に触れる。
「お願い、 やめて ……」 自分の気持ちに気づいた今となっては、
トオルのこの行為は、 火に油を注ぐがごとく、 奈緒の顔をますます赤くするだけだった。
耳まで赤いのが、 自分でもわかる。
「だ、 だ、 だいじょうぶだって …… 」
「んなワケあるか。 熱いぞ、 頭。 ほら、保健室行くゾ!」
「い、いいって、 ホントに」
「ダメだ」
トオルは真顔で、 怒っているように見えた。
「すぐ我慢するの、 おまえの悪いクセだ」
「えっ……?」
奈緒は驚いて、 彼を見上げた。
いつも勇気がなくて、 諦めていた自分。 出来ないと諦めていた自分。
でも、 その心の底に、 いつも 「我慢」 という 重石 をギュッと押しつけていた。
そんな自分の十三年間を、 一瞬で見透かされたようだった。
「オレの前では、 我慢すんなよ …… な!」
照れ臭そうに横を向きながら、 トオルは早口で奈緒に告げた。

案の定、 奈緒の熱は平熱だった。 36.8℃ぐらいなら、 ここまで後ろめたく感じなかったかもしれない。
が、 体温計の表示は36.1℃だった。
平熱中の平熱だ。
仮病をつかって保健室に来たようで、 ばつが悪かったし、
素直に 「よかった、よかった」 と、 はしゃいでいるトオルをだましたようで、 気がとがめた。
「ごめんね、 トオル」
奈緒はなんとなく、 謝っていた。
「バ〜カ! なんで、 おまえが謝るんだよ。 熱がなかったんだから、 それでいいじゃねえか」
トオルはいつもこうだ。
ありのままの奈緒を 「それでいいじゃねえか」 と受け入れてくれる。
いつも結果を気にして、 右往左往している奈緒には、 それが新鮮だった。

「おまえ元気なら、 オレに付き合わねえか?」
「えっ!?」
「今日、 部活終ってからになるけど …… カバンのお礼、 ちゃんとしなきゃな」
奈緒は心臓が止るかと思った。
いま、 熱ではなく、 心拍数を測ったら、 間違いなく病気を疑われるハズだ。
「オレに付き合わねえか」 と 「オレとつき合わねえか」 では、 意味が大きく異なる。
ありがちなシチュエーションにもかかわらず、 恋愛初心者の奈緒は、 かなり動揺していた。
「何か欲しいモンあるか? っつっても、 オレあんまり金ないから、 千円以内でカンベンな」
トオルのへそくりの千円である。
「あ、 うん、 そうだよね …… 」
返事するのが精一杯だった。
左脳では、 トオルが 「買物に付き合え」 と言っている、 とわかっているのに、
右脳が、 「つき合わねえか?」 を繰り返し、 頭の中で響かせていた。
好きな人の声で言われると、 その言葉を思い出すたびに、 心拍数が上がってしまう。
たとえ意味が違っていたとしても、 自分の勘違いだったとしても、 だ。
人を好きになるとは、 そういう右脳と左脳がアンバランスに動いてしまうということで、
自分の中に潜伏している 数々の矛盾に気づいてしまうということでもある。
「よし、 決まりだ。 あとで、 校門でな!」
そう言い残して、 トオルは席に戻っていった。

放課後、 奈緒は頭をフル回転させていた。
トオルと買物に行く前に、 準備することが山ほどあった。
まずは、 前髪。
パックリと割れていないか、 チェックした。 OK!
次に、 制服のリボンが、 形よく結ばれているか、 スカートにシワはないか、 靴は汚れていないか、
ハンカチとティッシュはすぐに出せるか …… 確認事項はつきることがなかった。
そして最後にもう一度、 鏡で前髪をチェックしたとき、 大変な事に気がついた。
今日に限って、 お気に入りのリップクリームを持って来ていない。
奈緒のお気に入りは、 シトラスオレンジのリップクリームだ。
香りはもちろん、 ほんのりとオレンジ色が唇につくところが、 うれしかった。
けれど、 今日持っているのは、 試しに買ったストロベリーミントの方だ。
これだと、 ピンクについてしまう。
内気な性格を気にしている奈緒は、 ピンクよりオレンジ系の方が明るく見えると思っていた。
しかも、 オレンジと比べて、 微妙に色が濃い気がした。
落胆している彼女には気の毒だが、 トオルはオレンジだろうが、 ピンクだろうが、一切気にしないタイプ、
いや、 気がつかないタイプだ。
おそらく、 髪をショートにしたとしても、 気づかないぐらい鈍感な男だ。
それでも彼女は、 もう帰りたくなるくらい落ち込んでいた。

「おっ! わりィ、 待ったか?」
最低のタイミングでトオルが来てしまった。
落ち込むあまり、 リップクリームを塗り直すのを忘れていた。
ストロベリーミントでも、 塗らないよりはマシだったが、 彼の前で、そんな事が出来るはずもない。
なるべく顔を見られないよう下を向いて、 あとについて行く。
「今日に限って、 後片付け、 遅くなってさあ」
トオルはいつものペースで話している。
「陽一先輩とシンゴ先輩が、 ケンタ先輩のこと、 ネットで 『す巻』 にしちまってサ。
オレ、 先輩に世話になってるから、 助けに行こうとしたら、 今度はオレがターゲットにされて …… 」

彼は奈緒の気持ちにかまわず、 テニス部の話を続けている。
あまりに無頓着な様子に、 リップクリームの色を気にしている自分が、 段々ばからしく思えてきた。
「必死で応戦したけど、 シンゴ先輩って、 足速いのな。 驚いたぜ」
「知ってる …… シンゴ先輩って、 まえは陸上の選手だったんだよ」
いつの間にか、 トオルの会話に引き込まれていた。
「そっかあ。 どうりで、 速えエはずだぜ。 山ン中なら負けなかったと思うんだけどなあ。
グランドじゃ、 障害物なさ過ぎ」
トオルのくやしそうな表情から、 かつてのイタズラ小僧の顔が覗いている。
「クスッ!」
思わず、 笑いがこぼれる。
「あっ、 おまえ、 今、オレのこと笑っただろ?」
「だって…… アハハ!」
一度笑い出したら、 止らなかった。
大人たちは 「箸が転んでもおかしい年頃」 と言って、 気にも留めないだろうが、
奈緒にとっては、 トオルのひとつひとつの表情の変化が、 おかしくもあり、 楽しくもあり、 うれしいのだった。
「オレの前で我慢するな」 と大人びた発言をするかと思えば、 今のような子供染みた一面もある。
新たな彼の内面を発見するたび、 自然と心が弾んでいく。
それが再び、 笑いとなって溢れ出す。
親友の塔子と詩織を除いて、 人前でこんなに声を立てて笑うのは、 初めてかもしれない。
口を尖らせて、 ムスッとしているトオルの横顔が、 更に笑いを引きずらせる。

ふいに奈緒の笑いが止った。
ネコキューピットの 「メロリン」 が視界に入ったのだ。
「願いが叶うマスコット」 という宣伝文句が、 ハートマークで囲まれている。
値段はやはり450円。
こういうキャラクター商品は、 値段が下がらないのが原則だ。
インチキと言ってしまえば、 それまでだが、
今の奈緒には 「メロリン」 が、 キューピットどころか、 神様にさえ、 思えてしまう。

「へえ〜。 奈緒、 こういうの好きなのか?」
こともあろうに、 トオルは 「メロリン」 のリングの穴に指を通して、 ぶんぶん振り回している。
恋の神様に、 なんて事をするのだ、 この男は!
「それにしても女ってのは、 なんでカバンにいろんな物、 ぶら下げたがるんだ?
オレなんか、 少しでも荷物減らしてエけどな」
「メロリン」 は、 まだ、トオルの人差し指で、 大車輪をしている。
奈緒以上に、 恋愛感情に無頓着なトオルは 「メロリン」 が恋のキューピットという事も、
女子のあいだで流れている噂も、 全く知らない。
けれど、 彼女が欲しそうにしていることだけは、 なんとなく察した。
「オレ、 買ってやる。 450円だし …… 」

予期せぬ申し出に、 奈緒は戸惑った。
たしかに 「メロリン」 は欲しかった。
だが、 もしトオルに 「メロリン」 のおまじないの噂が知れたらと思うと、
とてもじゃないが、 買ってもらうワケにはいかなかった。
それは、 好きな相手に 「私は恋してます」 と言っているようなものだから。
「い、 いいよ。 ちょっと見てただけだから …… 」
奈緒は慌てて否定する。
心拍数が、 また上がる。
ドキドキドキ ―― 恥ずかしくて、 頭までクラクラしてきた。
いや、 違う。 本当に、 フラフラしている。
「奈緒!」
トオルの呼ぶ声が、 遠くで聞こえたような気がした ……

気がつくと、 奈緒は公園のベンチに横たわっていた。
身体の上には、 制服の上着、 ジャージ、 スポーツタオル、 あらゆるものが掛けられている。
それらは全て、 トオルが普段つかっているものだ。
「気がついたか。 だいじょうぶか …… 奈緒?」
心配そうにトオルが声をかける。
光の加減だろうか、 琥珀色の瞳が、 いつもより黒く見える。
「あ、 うん …… だいじょうぶ。 ゴメンね」
「だから、 謝るなって。 オレの方こそゴメンな。 おまえ、 やっぱり具合悪かったんだな。
校門のところで、 元気ないかなって、 ちょっと思ったんだけどさ」
「あ、 違うの。 あのね …… 」
そう言いかけて、 口をつぐんだ。
自分では、 倒れた原因がわかっていた。
トオルのカバンのリメイクに、 この二晩、 徹夜をしていたのだ。
けれど、 そんなことを言ったら、 彼はますます、 自分を責めてしまうだろう。 それは、避けたかった。

口ごもる奈緒の様子を察したのか、 トオルが話を変えた。
「なんか、 飲むか? オレ、 あそこの自販機で買ってくる。 なにがいい?」
「カフェ ・ オレが …… いいかな」
「ちょっと待ってろ」
そう言って、 彼は足早に自販機に向かっていった。
見るとトオルは、 Tシャツに短パンの体操服しか着ていない。
自分の着ていたものも、 すべて奈緒の体にかけていたのだ。
四月と言っても、 まだ肌寒い。
急いで起き上がると、 奈緒は身体にかけてあった制服やジャージを、 ひとつひとつ丁寧にたたんでいった。
「まだ起き上がっちゃダメだって!」
トオルが慌てて奈緒に駆け寄った。
「うん、 でも …… 」
「言っただろう。 俺の前で、我慢するなって。 おまえ、 もうちょっと休んでなきゃダメだ」
奈緒の隣に座ると、 トオルは暖かいカフェ ・ オレを渡した。
やんわりと手から伝わるぬくもりが、 いつも以上に心地よく感じる。
となりに目をやると、 彼はレモンティーを飲んでいる。

「紅茶、 好きなの?」
まえもトオルが紅茶を飲んでいたのを、 奈緒は思い出していた。
あの頃から、 知らず知らずのうちに、 彼の行動を目で追っていたのだ。
「ああ、 そうだな。 缶で飲むなら、 レモンティーがいいな。
けど、 なかなか自販機でレモンティー置いてあるとこ、 ないんだよな」
「そうなんだ …… 」
「コーヒーって苦いじゃん。 オレは、 飲むなら、紅茶がいい」
いまどき、 コーヒーが苦いと言っている中学生は少ないだろうが、
こういう 「たわいのない会話」 が、 気持ちを少しずつ解きほぐしていく。
「あれ、 笑わないのか?」
トオルが不思議そうに見ている。
「どうして?」
「たいていのヤツは、 ガキっぽいって笑う」
「私も同じ。 だから、 カフェ ・ オレ」
「なんだ、 そっか! いいヤツだな、 おまえ」
少年の瞳が、 琥珀色に戻っている。

「俺の前で我慢するな」
ふいにトオルの言葉が、 頭の中でよみがえった。
その言葉に背中を押されるように、 奈緒は思い切って、 心のフタを開け始める。
「あのね、 トオル …… 私、 テニスしたい」
「えっ?」
「私ね、 テニスの練習、 辛くてやめちゃったの。 だけど、テニスが嫌いじゃないと思う」
ここまで話すだけで緊張した。
まだ何も核心に触れていないのに、 心のふたを開けて話すというのは、 かなりの勇気を必要とする。
緊張はしていたが、 出来るだけ整理しながら、 気持ちを伝えようと思った。
トオルは黙って、 奈緒の話を聞いている。
「テニスがんばってるトオルを見てて、 すごく応援している自分がいて。
でもそれは、 私が挫折した分、 トオルにがんばって欲しいって思ってるかもしれなくて …… 」
ここまで伝えるだけで、 限界に近かった。
いままで自分から 「何かして欲しい」 とリクエストすることなど、 一度もなかった。
そんな自分が、 いま 「一緒にテニスをして」 と誘おうとしている。

運動オンチの自分には、 テニスなど向いていないと思っていた。
たぶん、 周りの人間のほとんどは、 それを否定しないだろうし、
テニスクラブを辞める理由としては充分だった。
だが、 トオルと出会ってから、 奈緒のなかで変化が起きた。
テニスが好き。 ヘタだけど、 すき。
周りの目を気にして辞めたけど、 ほんとうはテニスが好き。
それが奈緒の本心だ。
「ありのままで、 いいじゃねエか」
彼はそのことを教えてくれた。
だからこそトオルとなら、 もういちどテニスコートに立てる気がした。
テニスクラブに戻ろうという、 大それた事を考えているわけではない。
ただ、 苦手で辞めた自分に、 終止符を打ちたかった。
苦手なままで、 終わらせたくなかったのだ。
心臓の鼓動が、 すべての言葉を消し去るように大きく鳴り響く。
その音は 「ドキドキ」 から 「バクバク」 に、 パワーアップしている。
けれどトオルの優しい瞳が、 奈緒をふたたび勇気づけていた。
もう少しだけ、がんばろう ――

「このままだと、 本当にトオルを応援していることには、 ならなくて ……
テニスが嫌いのままで、 終っちゃう気がする。 だから、 お礼の代わりっていうか …… 一緒に、 あの …… 」
奈緒の勇気はここまでだった。
最後のひとこと 「今度、一緒にテニスして」 の言葉が、どうしても言えなかった。
好きな人を誘うのは、 デートの申込みをしているに等しい。
やはり、 恋愛初心者には荷が重かったようだ。
自分の勇気のなさを歯がゆく思っていると、 さいごの言葉をトオルが、 すんなりと形にしてくれた。
「よし! 今度、 一緒にテニスしよう。 好きなんだろ、 テニス?」
「うん。 すごくヘタだけど …… 好き …… 」
「好きなら、 それでいいいじゃねエか。 一緒にやろうぜ!
あ、 でも、 来月になっちまうけど …… いいか?」
「うん、 だいじょうぶ …… わたし、待ってる!」

こころの重石から解き放たれた安堵から、 奈緒の顔には 、飾り気のない笑みがこぼれている。
いままで言えずに我慢していた言葉。
ギュッとフタをして閉じ込めていた本心。
それらが桜の花びらのように、 軽やかなリズムを刻んで飛び立っていく。
恋をすると強くなれるのかな ――
まだ温もりが残っているカフェ ・ オレを口に運びながら、 奈緒はゆっくりと頭を上げた。
肌寒さを感じるが、 春の風は透き通っていて気持ちがいい。
それは、 あらゆる生命の芽生えを含んでいるからかもしれない。
もう首を傾けてあきらめるのは、 卒業できるかもしれない。
夕暮れの穏やかな風は、 奈緒にそんな予感を運んでいた。



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