第16話 敗者の教訓 (前編)

夕暮れ街


後味の悪い試合だった。
ラスト2ゲームの内容を、 トオルはほとんど覚えていない。
必死に喰らいついたのに、 すべてが裏目に出た展開。
記憶にあるのはそれだけだ。

午前の慎悟との試合では、 負けはしたが充実していた。
負けた試合からも、 得るものがあると確信したからだ。
だが、 いまのハルキとの勝負で得られたのは、
「敗北」 がもたらす虚脱感。
いくら必死で戦っても、 越えられない壁があるという現実。
「テニスはバカには向いていない」 と侮辱されたのに、 コートの上では正論よりも、
技術の方が優遇されるという耐えがたい真理。
「無力」 という言葉が、 トオルの気持ちをどん底へと陥れていた。
午前のように試合を振り返り、 反省する気力はどこにもない。
今はもう、 何も考えたくなかったし、 誰とも話したくはなかった。

「いや〜、 残念だったね、『ウ吉』クン。」
フェンス越しから、 唐沢が声をかけてきたが、 トオルはうつむいたまま、 無視していた。
ハルキに勝つまで 「ウ吉」 と呼ばれる約束だったが、 今さらそんなことは、 どうでもいい。
「俺、 途中からしか見てないけど、 結構いい感じに見えたんだけどな」
ヘタな慰めは、 却ってうっとうしい。
先輩といえど、 今だけは放っておいて欲しかった。
圧倒的な実力の差を見せつけられて、 大差で負けたというのに、 一体どこが「いい感じ」 だったのか。
みえみえのウソだとうのは、 小学生だってわかる。
そんなトオルの気持ちを無視して、 先輩はなおも話を続けた。
「俺、 ああいう試合展開、 わりと好きでさ …… 期待してたんだけどな。
ホント、 惜しかったよね」
「いい加減にして下さい!
一体あの試合の、 どこが惜しかったっていうんですか!?」
トオルの我慢も、限界に来ていた。
先輩として、 後輩の敗因をアドバイスするなら、 まだわかる。
けれど涼しい顔で、 慰め続けられるのは、 耐えられなかった。
「おまえが弱かっただけだ」と、 罵倒された方がまだマシだ。
怒りをあらわにしたトオルを前に、 唐沢の顔色はすこしも変わらない。
「へえ …… オマエ、 もうちょっと頭のいいヤツだと思っていたんだけどな …… 」
「オレが未熟なのは、 よくわかっていますから。
もう、 放っておいて下さい!」
後味の悪さを更にひどくして、 トオルはコートを飛び出して行った。
うしろで唐沢が、 何か言いたそうにしていたが、 無視して走り去った。

こんなとき、 岐阜にいた頃のトオルには、 ひとりになれる場所がいくらでもあった。
滝のそばにある小さな洞穴、 校舎の裏手にある樫の木の上、 山頂近くの壊れかけた山小屋。
好きな時に、好きなように、 身を潜められた場所。
傷ついた心を癒すための、 自分だけの隠れ家。
だが、 このアスファルトとコンクリートだらけの街には、 安心して 「こころを預けられる場所」 が
どこにもない。
いまのトオルには、 この街にいること自体が苦痛だった。

異常な人混み、 やたらに高いビル、 無機質な道路。
風の匂いも、 季節の色も感じられない。
広いだけで汚い河と、 その水面に平気で映っている 使い古された 雲。
ときどき見える空の色は、 ため息が充満しているようで、 その中で呼吸が出来るとはとても思えない。
今までと180度違う環境が、 大きなストレスとなって、 十二歳の少年に覆いかぶさってくる。
自分をこんな所に連れてきた父親が、 どうしようもなく憎らしく、
それに対抗する手段を持たない自分を、 とてつもなく情けなく感じていた。
転入して以来、我慢していた都会への不満が、 試合に負けたのをきっかけに、
トクトクと音を立てて身体から漏れ始めていた。

どのくらい街を歩き回っていたのだろう。
「さ迷う」 行為というのは、 本人があまり意識しないうちに、 しぜんに起こるらしい。
なにかに突き動かされて歩くのだけど、 どこを目的にしているのかさえ、 わからなくなってしまう。
ただ、立ち止まることができなくて、 とめどなくまた歩いていた。
気がつくと、 あたりは暗くなっている。
結局ひとりになれる場所もなく、 この街に自分の居場所がない事実だけを確認して、
トオルは家に戻っていった。

リビングのソファでは、 父 ・ 龍之介が頭を抱えて、 だらしない姿で寝転んでいた。
レモンのついたトマトジュースが、 父の 「二日酔い」 を証明している。
その光景を見たとたん、 息子の中の 「理性」 という堤防が、いきおいよく決壊した。
「なんで …… なんで、 テメエは、 いつもそうなんだよ!」
そう叫びながら、 トオルは龍之介に殴りかかっていた。
いつも自分中心で、 身勝手な父。
子供よりも、 自分の研究がいちばん大事な父。
今日、 父親が通った学校で、 父がプレーしたコートで、 必死に戦っていた息子の気持ちなど、
気にとめもせず、こともあろうに二日酔いで寝転がっている。
街をさ迷い、 すり切れたはずの怒りまで、 ふたたび息を吹き返していた。

不意打ちにもかかわらず、 息子の攻撃は軽くかわされ、 次ぎの瞬間
父の木刀が頭上めがけて振り下ろされた。
龍之介は 「武具屋のせがれ」 というだけあり、 剣道四段の腕前だ。
いくら肩の古傷があるとはいえ、 「ガキ」 の奇襲をかわすことなど、 朝メシ前だった。
だが、 トオルも負けてはいない。
瞬時に、 背中のラケットで木刀を受け止め、 反撃に備えて体勢を立て直す。
なんのことはない。 いつもの親子ゲンカが始まっただけのことである。

トオルが背中にラケットを背負うようになったのも、
もとはと言えば 、父の木刀を受け止めるための、 ひとつの対抗策に過ぎない。
二代に渡って血の気の多い父と息子の間では、
言葉よりも、 拳と木刀が行きかう場面の方が、 はるかに多かった。
息子の体勢を確認しながら、 龍之介が口を開いた。
「テメエに、 なんか迷惑かけたか? クソガキ!」
「迷惑なんてモンじゃネエ。 テメエが父親やってるだけで、 大迷惑なんだよ!」
「ほう、 そいつは悪かったな。 だがな、 それはお互い様だ!」

龍之介の木刀が、 息子の脇腹を狙って打ち込まれる。
とっさにラケットで応戦しながら、 トオルはさっきの試合で
ハルキが繰り出したドロップ ・ ショットのフォームを思い出した。
こんな時でも、 テニスの事が頭をよぎる。
情けなさと、 腹立たしさが、 こころのなかで揉み合っていた。
自分は、 テニスが好きなのか、 嫌いなのかさえ、 わからなくなってきた。
混乱する息子の隙をついて、 龍之介が攻撃を仕かける。
「甘いぜ、 クソガキ!」
「黙れ! クソオヤジ!」
必死で木刀を交わしながらも、 ドロップ・ショットの映像が、 頭から離れない。
「要は、 テメエの負け試合の八つ当たりだろ?」
龍之介から鋭い指摘が加えられる。
図星だった。
当たっているだけに、 父の言葉が 、膨らみすぎた不満の起爆剤となった。
「なんで、 アンタが父親なんだ!
なんで、 ハルキのオヤジみたいに、 テニス教えてくれなかったんだよ!?」

一瞬、 父の顔色が、 変わった。
言ったあとから、 トオルは 「しまった! 」と後悔したが、 もう遅い。
いちど口にした感情は、 親子の間に気まずい雰囲気を作りだしていた。
理由はわからないが、 龍之介がわざとテニスを教えなかったのは事実である。
そして、 この顔色の変わり方からして、 肩の故障が原因の一つだと判明した。
教えたくても、 教えられない状況で、 自分が父の 「古傷」 をほじくり返してしまったということも。
あきらかに、 トオルは 「いってはいけない言葉」 を発してしまったのだ。

龍之介は、 「ふうっ」 と長いため息をつくと、 急にトーンダウンした声でつぶやいた。
「文句があるなら、 俺と同じ土俵まで上がってからにしろ」
「アンタと …… オヤジと同じ道は歩かない」
即座に謝らなければならない場面で、 息子はまだ反論していた。
「アンタ」 を 「オヤジ」 と言いなおすぐらいしか 、誠意を見せる余裕はない。
これが他人なら、 すぐにでも謝罪しているところだが、
相手が父親であるがゆえに、 謝りたくなかった。
「だから、 テメエはガキなんだよ。 同じ土俵ってのは、 職業のことを言っているんじゃない。
一人前になったらって意味だ、 ボケ」
「それまでオレは、 オヤジに文句の一つも言えねエのかよ?」
幼稚だとわかっていながら、 トオルはさらに抵抗を続けている。
けれど屁理屈にもならない主張は、 あっさり無視され、
ふたたび出て行く父によって、 親子ゲンカは打ち切られていた。
謝るタイミングを失ったまま、 トオルは父親が出て行くのを、 黙って見送っていた。
扉がパタリと閉まった。
「オマエが俺を超える時期がきたら、 いくらでも教えてやる。 早く上がってこいや …… 」
扉を閉めてからの父の本心は、 息子に届くはずもなく、
ふんわりと漂う月明かりの中へ、 龍之介は鼻歌と共にまぎれていった。

自室のベッドに横たわり、 天井を見上げながら、 トオルはライバルとの試合を振り返っていた。
冷静になった頭で考えると、 今日の敗因が明確になる。
第5ゲームで、 ハルキのドロップ ・ ショットに動揺し、 第6ゲームでは、 完全に冷静さを失っていた。
ラスト2ゲームで、 自分のショットが裏目に出たのは、 当然の結果だ。
熱くなった頭で、 何をしたところで、 負けるのは当たり前で、
自分はハルキと戦う前に、 まず、己の精神力と戦わなければならなかった。
挙句の果てに、 唐沢と父親に、 八つ当たりまでしていた。

唐沢の言葉を思い出してみる。
「途中までいい感じに見えた」 というのは、 本当かもしれない。
なぜなら第4ゲームまでは、 ハルキの挑発をいっさい無視して、 冷静に対処出来ていた。
だから 「いい感じ」 に見えたのだ。
唐沢は、 「もうちょっと、頭のいいヤツだと思ってた」 とも言っていた。
あれは 「頭を冷やして考えろ」 という、 先輩なりのアドバイスに違いない。
なのに、 自分はなんて幼稚な態度をとってしまったのだろう。
明日、 本人に会って、 きちんと謝らなければ ……

次々に露呈する自分の未熟さを思うと、 気分は最低だった。
寛太たちがくれたカバンに、 手を伸ばす。
たしか奈緒がリメイクした時に、 弟分たちのメッセージを裏側に残してくれたはずだ。
「トオル兄、だいすき」 の文字を眺めていると、 少し気分が楽になる。
自分を受け入れてくれる仲間の存在が、 崩れそうな気持ちを、 暖かく包み込んでいく。
「ん …… これは?」
カバンの中から、 買った覚えのない缶を見つけた。
レモンティーの缶だった。
缶の脇にはメモがついいる。
「だいじょうぶ。 トオルならできるよ、 きっと!」
そう書いてあった。
小さくて、 丸いその文字は、 一目で奈緒のものだとわかる。
学校の中には、 ストレートティーはあっても、 レモンティーが置いてある自販機はないはずだ。
トオルがレモンティーを好むと知って、 わざわざよそで買ってきてくれたらしい。
ほんとうは試合後に渡そうとしたが、 荒れている自分を気遣って、 黙ってカバンに入れたのだろう。
トオルの顔から、 自然とやわらかな笑みがこぼれた。
「だいじょうぶ」 の言葉が、 うつむく心にやさしく寄り添い、
「トオルならできる」 の励ましが、 ふたたび立ち向かう勇気をくれる。
明日、 もうひとり、 謝る相手がふえた。
彼女の顔を思い出し、 トオルは少しだけ、 この街が好きになりかけていた。



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