第18話 シルバービーズの指輪

ビーズ作品イメージ


この二週間、 奈緒はできることなら 海の底に住みたいと
願い続けていた。
潮の流れとともに、 ゆったりと時間も漂う世界。
水の中ならトロい自分も 、並みの人間として 暮らしていける。
光だけを感じて、 音が遮断される生活。
言葉よりも、視界が優先される海の底なら、雑音など気にせずに、
好きな人をいつまでも眺めていられる。
あんな言葉に振り回されることもない。
「アイツ」 …… トオルはたしかに そう言った。
たったひと言、 彼の口から 「アイツ」 と聞いただけで
その存在がどうしようもなく 気になっていた。
二週間前の、 あの瞬間から。

あれは トオルと奈緒が、 学園祭の買出しをするために 、駅前のカフェに出かけた日のことだった。
クラスの出し物が 喫茶店に決まったので、 ふたりは コーヒー豆とリーフティーを仕入れていた。
「個人的には、 もうちょっと、 ベルガモットが多い方が好きなんだけどなあ。
アールグレイは香りが命だし…… 」
とウンチクをならべながら、 トオルはリーフティーを物色していた。
「オレは紅茶に詳しい」 の発言は、 ハッタリではなかった。
これに比べれば 「奈緒はコーヒーに詳しい」 発言の方が、 よほどインチキに思えてくる。
奈緒が知っているコーヒーの知識は、 せいぜいモカや、 キリマンジャロなど、 豆の種類を知っている程度で
味や香りまで聞かれると、 うろたえてしまう。
少年の高度なリクエストに、 カフェの店員もお手上げ状態で、 しまいには店長を呼び出していた。
「じゃあ、 全部で八千円ってことで、 どう?
ちゃんとオレ達、 この店で仕入れたって 宣伝するからさ」
さすが、 小学生からアルバイト人生を 送っていただけのことはある。
仕入れだけでなく、 値切ることも忘れていない。
店の人には申し訳ないが、 買出し係りを トオルに任せてよかったと、奈緒は 心底思っていた。

カフェからの帰り道、 ふたりは紅茶の話題から、 互いの 「こだわり」 に話が及んでいた。
「オレの基本は紅茶だけど、 ハーブティーなんかも時々飲む。
レモングラス と ミントのブレンドなんて、 結構イケるんだぜ」
「なんか、 すごく意外」
「そっか? たぶん、 アイツの影響だろうな …… 」
「え?」
「いや、 なんでもない。 ところで、 奈緒の こだわりってなんだ?」
トオルが慌てて話題を変えたが、 奈緒は 「アイツ」 の部分をしっかり聞いていた。
けれど、 その時は深く追求することなく、 彼に話をあわせていた。

「私はね、 アクセサリー …… 高価なものじゃなくて、 例えばビーズを使って、 作るのが好きかな。
服に合わせ易いように、 目立たなくて、 シンプルなデザインが好き」
「そんなモン作れるのか? すげエな」
「ぜんぜんスゴくないよ。 手芸部で、 学園祭用に作ったりするだけだし …… 」
「へえ〜、 オマエがどんな作品つくっているのか、 いちど見てみたい」
「ほんと?」
「ああ。 この前の試合、 見に来てくれただろ? だから、 オレもオマエの作品、 どんなのかなって」
奈緒は、 少し迷ったが、 思い切って作品を見せることにした。
6時を過ぎたこの時間なら、 ほかの手芸部員も帰宅している頃だ。
部外者の男子を連れて入っても、 冷やかされることはない。

だが、 部室の前まで来て、 驚いた。 まだ、 灯りがついている。
手芸部の先輩が、 まだ中で活動しているらしい。
トオルに見せると約束して、 連れてきてしまった以上、 ここで引き返すのは不自然だ。
恐るおそる様子をうかがうと、 部長の洋子が作品の仕上げをする為に、 残っているだけだった。
「よかった〜」
他の先輩ならともかく、 洋子なら安易に人を冷やかすことはない。
残っているのが 彼女であることに 感謝しながら、 奈緒はトオルを 中に入れた。

ずらりと並ぶ 手芸作品を眺めながら、 トオルは 「すげエ〜」 を連発している。
リメイクしたカバンを受け取った時と、まったく同じリアクションだ。
奈緒から見れば、 テニス歴二週間で ハルキから1ゲームを 奪うほうが、 よほど「すげエ〜」と思うのだが
本人はそれよりも、 ビーズ作品の方がスゴイと思っているようだ。
不得手な分野で偉業を見せられると、 原寸にプラスして、 「尊敬」 の念が割り増しされる。
運動オンチの奈緒は、 トオルのプレーを尊敬し
針が苦手なトオルは、 奈緒の作品を感心して見入っていた。

しばらく 「すげエ〜」 を連呼していたトオルが、 ふとビーズの指輪の前で静かになった。
こんかいの作品の中で 一番の自信作、 「シルバービーズ」 で作った指輪。
トオルはそれを慎重に手に取ると 、唐突に奈緒の薬指にはめていた。
瞬時に奈緒の頭はまっ白になり、 意味もなく 「カラ〜ン、カラ〜ン」 という鐘の音が鳴り響く。
いや、 意味はある。
この音は まちがいなく、 教会で鳴らされている鐘の音だ。
そして この光景は、 テレビでよく見る 結婚式のシーンそのままだ。
厳かに彩られたステンドグラスの前で、 新郎が新婦の手を取って、 薬指に結婚指輪をはめる。
ぎこちなさを伴うが、いま目の前で行われているのは、 ずっと頭に描いていた 誓いの儀式そのものである。
奈緒は自分の心臓の音を、 これほどハッキリと 聞いたことがない。
「ドキドキ」 なんて可愛らしいものではない。
「ドックン、 バックン」 と、 ひどく騒がしい音がしている。
「あ、 あの …… トオル?」
心拍数が上がるなか、 奈緒はつとめて冷静に、彼の真意を確かめようとしていた。

「オレ こういうの、 よくわからないんだけどさ。 これって、 女の普通サイズなのか?」
相手の動揺にまったく気づかず、 トオルは真剣に 指輪のサイズを気にしている。
「うん。 こ …… これは9号だから …… 女の人の …… 標準サイズ …… 」
答える声が、 震えている。
「ふうん。 じゃあ、 おまえの指が細いだけか」
「た、 たぶん …… 」
かろうじて質問に答えているが、 奈緒の心音はすでに 「爆音」 と化している。
指輪のサイズ差に 納得がいかないのか、 トオルはビーズを クルクルと回したまま
いっこうに手を離す気配がない。
これ以上続けられたら、 きっと心臓が爆発する …… そう確信した直後だった。

「じゃあ、 アイツにピッタリだな。 これ、 予約してもいいか?」
照れ臭そうに視線を外して、 トオルは制服のポケットから、 財布を出そうとしている。
さっきまで暴れていた心臓が、 瞬時に凍りついた。
「アイツ」 って …… ?
奈緒は、 しばらく返事が出来ずにいた。
予約することは、 全く問題ない。 むしろ、 手芸部としては 大歓迎だ。
現に、 親友の塔子と詩織も ブレスレットを 予約している。
しかし出来ることなら、 断りたかった。 指輪の行方が気になったのだ。
トオルが指輪を送る相手が、 自分じゃない事は確定している。
サイズが合わないのを知っていて、 指輪を贈ることはない。

停止状態の頭の中に、 買出しからの帰り道の 記憶が甦る。
さっきもトオルは 「アイツ」 と口走っていた。
母親に向かって、 アイツとは言わない。
ならば、 トオルが指輪を贈ろうとしている 相手は、 他に存在するということだ。
その人物は、 トオルを紅茶通にするほど、 影響を与える女性で
指輪をプレゼントするほど、 親密な関係。
ネックレスやブレスレットではなく、 指輪というのが、 その間柄を 深いものへと連想させる。
自分の給料で 買ってしまうOLと違って、 中学生の少女には、 指輪 イコール
結婚を示唆する 「誓いのシンボル」 に思えていた。
その誓いを結ぶ相手とは……
姿も見えない 「アイツ」 と呼ばれている女性に、 奈緒は 生まれて初めて 嫉妬という感情を 体験していた。

「いいわよ。 このシルバービーズ は人気商品だから、 すぐに売り切れちゃうと思うし」
奈緒の代わりに返事をしたのは、 手芸部の部長をつとめる洋子だった。
「いいッスか? ラッキー! ありがとうございます」
トオルは嬉しそうに、 指輪を受け取っている。
「そんなに喜んでもらえて良かったわ。 これ、 西村さんの力作なのよ」
「ああ、 やっぱり。 オレ、 どうせあげるなら、 気に入ったのがいいかなって。 エヘヘ」
珍しく 照れている少年を前に、 奈緒は気持ちが 意地悪く変化するのを 感じ取っていた。
いつもなら 照れている姿を 「純真」 と思うのに、 今は「 デレデレして情けなく」映っている。
トオルを見ていると思考が 「アイツ」 にリンクされ、 つい憎らしくなってしまう。
「アイツって誰?」
頭の中では何度も繰り返しているのに、 その一言がどうしても聞けない。
そんな自分も嫌だった。

さっきまで 爆音を立てながらも、 弾んでいた気持ちは、 どこにいってしまったのか。
たったひと言 「アイツ」 と言われただけなのに、 気分は最低の上に、 どうしようもなく イジけている。
よくよく考えてみれば、 奈緒はトオルの事を、何も知らない。
知らないまま、 気がつくと好きになっていた。
人を好きになるのに、 理由はないとわかっているが、 あまりに彼のことを知らなさすぎた。
奈緒が 知っている情報といえば 、岐阜の山奥から来た少年 ということだけ。
もしかしたら、 その岐阜に、 彼女がいてもおかしくはない。
「こっちに知り合いがいない」 イコール 「彼女がいない」 ではない。
本人に確かめたかったが、 怖くて聞けないまま、 学園祭の初日を迎えていた。

手芸部の展示室に行くと、 洋子が待ち構えていた。
「西村さん、 昨日の彼、 来ていたわよ。
さっきまで、 あなたを待っていたのだけど、 唐沢君が連れて行っちゃったの」
「そうですか」
「探しに行っても、 いいわよ。 まだ、 そんなに人が入ってきていないし」
「いえ、 後で連絡しますから」
先輩の手前、 そう答えたが、 本当はトオルを避けていた。
指輪の彼女が誰なのか、 知ってしまうのが怖かったからだ。
もし、 彼女がいたとしたら …… そう考えるだけで、 顔を合わせるのが辛い。
いつの間にか膨らんだ想い。 それを、 どう扱っていいのか戸惑っていた。
勝手に暴れだしたかと思えば、 ささいなことで沈み込んで、 さらにはイジケてしまう。
そんな制御不能な恋心を、 奈緒はすっかり持て余していた。

「昨日の彼、 近くで見ると、 なかなか素敵じゃない。 それに、すごく優しそうで」
そう言われても、 今となってはヘコむだけだ。
うつむいている奈緒に、 先輩が優しく助言する。
「私は、 信じてもいいと思うな。 彼、 きっと不器用なだけだと思うわ」
奈緒には、 言われている意味がよくわからなかった。
女性に指輪を贈るという行為は、 むしろ、 器用な人間のする事に思えるのだ。
そして、 その彼女もまた、 紅茶やハーブティーに 詳しいぐらいだから、 きっと洗練された女性なのだろう。
「アイツ」 と呼ばれる 女性の存在を考えると、 奈緒の気持ちは、 また深く 潜っていくのだった。

緊急事態と言われて、 トオルが連れてこられた場所は、 いつも使用している テニス部の部室だった。
不思議に思いながら中に入ると、 四つのテーブルの上に、 それぞれ将棋のセットが置かれていた。
各テーブルに、 「三千円」、 「五千円」、 「七千円」、 「一万円」 と張り紙が貼ってある。
ものすごく 嫌な予感に襲われながらも、 トオルは満面の笑みの先輩に尋ねた。
「あの、 唐沢先輩、緊急事態って …… ?」
「実はさ、 ケンタが ドジッて、 五千円の席に座る奴いないんだよね。
クラスの出し物の迷路が壊れたとかで、呼び出されてさ。 おまえ、 代わりに座ってくれない?」
「オレ、 まだ状況が飲み込めてないんですけど …… ここで何するんスか?」
「見ればわかるだろ。 将棋だよ、 将棋。 まさか、 やった事ないとか?」
「ありますけど …… 五千円の席って …… ?」

この時点でトオルは、 嫌な予感が現実にならないように祈り始めていた。
「そうそう、 オレが七千円で、 久保田が三千円の席。 あ、 そういえば、 久保田がまだだ」
そこへ、 小心者の久保田が部室に現れた。
彼も状況がわからないまま、 唐沢に呼び出されたらしい。
ふだん使用している部室だというのに、 妙にオドオドしている。
「よし! これで、 全員そろったな。 そろそろ 『闇の学園祭』 を開始するか」

「闇の学園祭?」
トオルと久保田が、 そろって声を上げた。
「いいか、 よく聞け。 まず、 客の参加料は千円だ。
そして 三千円から一万円のうち、 好きな席を選んで挑戦できる」
後輩二人に 説明し始めた唐沢は、 ミーティングで見せる顔よりも、 意気揚々としている。
「もし相手が勝てば、 選んだ席の金額分、 客の儲けになる。
だが負ければ、 参加料は、 俺らがもらうことになる」
「あの、 先輩。 それって、 要は、 賭け将棋じゃ …… ?」
小心者の久保田が、 ビビり ながら確認している。
「まあ、 そうとも言うな」
唐沢は平然と答えている。
「それ、 ヤバイっすよ。 もし、 成田部長や、 他の先輩が知ったら …… 」
無駄な抵抗と知りつつ、 トオルは 「闇の文化祭」 を阻止する方向に 話を向けた。
「ああ、 それだったら、 心配ないって。 全て、 手は打ってある」
「軍師」 と称される知略の名人から、 自信の二文字が溢れている。

唐沢の話によると、 部長の成田は、 クラスの出し物で外に出られないという。
劇中で最も出番が多い役に、 部長を推薦するよう、 クラスの女子に頼んだらしい。
「ま、 『忠臣蔵』の大石内蔵助だから、 一度始まったら、 2時間は出られないだろうな。
シンゴは、 陸上部の助っ人でいないし、 荒木はもともと無口だから、 見たとしても喋るような奴じゃない」
「滝澤先輩は …… ?」
次々と候補が消えるなか、 万に一つの望みを託して 聞いてみる。

「ああ、 アイツはオレのクラスで 占いの最中」
「う、占いですか?」
「そうそう、 『滝澤風雅の占いの館』 っての。 うちのクラスの出し物でさ、 けっこう評判いいんだぜ」
今回の作戦で、 いちばん巧くいったのか、 唐沢が嬉々として語り始めた。
「アイツのデーターから 割り出す予想だから、 ヘタな占いよりよっぽど当たる。
しかも準備が 超 ・ 簡単。 椅子と机、 出しとけばいいし。 本人もデーター収集になるって、 乗り気だし」
先輩の鮮やか過ぎる陰謀に、 トオルは頭を抱えていた。
「策略」 という一点だけで述べるなら、 唐沢の才は 大いに評価されるだろう。
しかし、 テニス部の副部長 という立場では どうなのか。
後輩から慕われる 面倒見のいい副部長、 軍師の異名を持つ 実力者、 部長に最も信頼されている男。
これらの仮面の裏で、 校内試合をギャンブルに利用し、 後輩から金を巻き上げ、 仲間を欺き
そのうえ トオルたちを 「賭け将棋」 に引き込もうとしている。
この先輩は、 頭の中がギャンブル一色 というよりは、 賭け事をするためだけに
学校にきていると断言してもいい。
なぜなら 目の前にいる先輩は、 トオルが知るどの場面の 唐沢よりも、 気合というものが感じられる。

今のトオルの借金が一万四千円。
唐沢のことだから、 もし五千円の席で負ければ、 とうぜん負け分を、 借金に上乗せするに違いない。
一人負ければ五千円、 二人負ければ一万円と、 借金が増えていく。
それだけは、 なんとしてでも、避けたかった。
たとえウソをついてでも、 逃げ出さなければ。
「あの、 先輩。 うちの家訓で、 賭け事は一切やらないようにと、 親からきつく言われていて …… 」
慣れないウソに冷や汗をかきながら、 トオルが逃げ口実を並べ立てたとき
とつぜん部室の扉が開いて、 コーチの日高が入ってきた。

「ほほう、 そりゃ驚いた。 この『闇の学園祭』 の創始者は、 おまえの父親・ 龍之介なんだがな」
「はあ?」
トオルは、 目の前が真っ暗になっていた。
このはた迷惑な 「賭け将棋」 を始めたのは、 テニス部のOBである自分の父親 ……
闇の事実を聞かされた息子は、 龍之介を父に持ったことを、 心の底から恨んでいた。
だが同時に、 頭の中で新たな疑問が生まれていた。
いったい父親は、 このテニス部で、 何をしていたのだろう?
「もしかして …… 」 とトオルは思った。
龍之介が、 自分にテニスを教えないのは、 とくべつ深い意味などなく
単に賭け事が好きだっただけで、 テニスに興味はなかったのかもしれない。
そう考えれば、 テニスをしている自分に、 全く関心を示さない 父の言動にも納得がいく。

「ここはひとつ、 落ち着いて考えてみようか」
唐沢が獲物に向って、 最後の罠を仕かけ始める。
「例えば一日10人相手にして、二日で20人。 全部勝てば 千円 × 20 で 二万円だ。
君の借金 チャラにする 絶好のチャンスだと思うけどなあ……『ウ吉』クン」
前回の試合以来、 先輩に 「ウ吉クン」 と呼ばれると、 トオルは条件反射的に 従うクセができていた。
千葉の 「樹里」 にしても、 唐沢はこういうキーワードを使っての 心理操作が 絶妙にうまい。
一万円の席に腰を下ろして、 日高もトオルを誘っていた。
「おまえ、 龍と将棋さしてたんだろ? だったら、 問題ねエだろ」
「って、 おっさんが座るのかよ、 一万円の席 …… あんた、コーチだろうが!」
「ああ、 コーチは教師じゃねえからな。 別に構うことねえって。 遊びだ、遊び!」
融通が利きすぎるコーチのとなりで、 唐沢はにこやかな笑顔を向けている。

どうやら、 とんでもない先輩に 目をつけられてしまったようだ。
千葉が 「唐沢先輩には、気をつけろ」 と注意したのは、 こういう「闇の世界」に
引きずり込まれるのを予想して、 事前に教えてくれていたのだろう。
だが、 借金一万四千円を抱える身分では、 選択肢はひとつしかない。
アリ地獄のように、 どんどん闇に落ちていくような気もするが
とりあえずは、 目の前の火の粉を 振り払うしかない。
「オレの担当は、 五千円の席ですよね?」

結局、 あんなに楽しみにしていた文化祭は、二日間とも テニス部の部室で 、将棋をさすハメになっていた。
けれど、 悪い気はしていない。
トオルは連戦連勝、 二日間で、 一度も負けなしだったのだ。
たぶん、 金額的にも挑戦しやすい席なのだろう。 五千円 と 三千円の席に、 客が集中していた。
トータルで少なくとも、 50人近く勝ち抜いたはず。
一年生を相手に、 楽勝だと油断している挑戦者を、 トオルはこっぱみじんに粉砕していた。
ずっと集中していたので、 さすがに フラフラするが
「これで借金の返済が出来る」 と思うと幸せな気分だった。

「よし、儲けを分けるぞ」
唐沢が 千円札の束を数えながら、 分け前を渡していく。
「コーチが二万、 俺が一万四千、 『ウ吉』が五千で 久保田がゼロ」
「へっ? 先輩、 なんで、そうなるんスか?」
トオルは ワケがわからなかった。
「ふつうは 席の金額に応じて、 分けるだろ?」
「ちょっと待ってください。 俺が一番、 多く勝負してたじゃないッスか?」
「あのな、 高額の席に座るって事はだ、 それなりのリスク料がかかっているんだよ。
例え、 対戦相手が少なくても、 リスクはリスクだ」
「それでも、 五千円って、 少なくないッスか?」
「それは、 久保田が13人負けてるから、 その分を引いたら、 こうなった」

たしか久保田は、 30人ぐらいしか、 相手にしていないはず。
という事は、 約半分は負けたという計算になる。
理不尽な説明にもかかわらず、 小心者は申し訳なさそうに 肩を落していた。
おそらく自分が負けたことで 、儲け分が少なくなったと、 自責の念に駆られているのだろう。
本来なら一歩も譲りたくなかったが、 久保田の手前、 これいじょう抗議するのは 気の毒に思えてきた。
けっきょく後輩二人は、 唐沢と日高に、 いいように使われていたのだ。
実質 稼いだのは、 久保田とトオルなのに、 まんまと稼ぎをかすめ取られていた。

トオルはため息をつきながらも、 受け取った五千円のうち、 半分を久保田に差し出した。
「真嶋君 …… ?」
久保田は、 驚いてトオルを見上げた。
唐沢も 「おや?」 という顔を見せている。
「久保田も、オレの仲間だから。 ひとりで、 儲けをもらうわけにはいかないって」
少ない分け前を半分にして、 トオルは部室から出ていった。
「仲間 …… ねえ」
日高は 唐沢にチラリと 視線を送ると、なんども「仲間ねエ」と繰り返し、ニヤニヤしながら出て行った。

闇の学園祭から開放されたトオルは、 奈緒がいる手芸部へとダッシュした。
この二日間、 時間が許すかぎり手芸部に通ったが、 彼女とは会えずにいた。
どうやら、 すれ違いになっているらしい。
「今度こそ」
トオルは、 全速力で走っていった。

「よかった! 奈緒、 やっと会えた」
洋子と奈緒が戸締りをしているところに、 トオルが駆け込んできた。
珍しく、 息を切らしている。 よほど急いで走って来たに違いない。
けれど 奈緒は、 そんな彼を 直視できずにいた。
後輩の様子を察した洋子が、 代わりにトオルに話しかけた。
「真嶋君…… だったわよね。 ねえ、 どうだった? 指輪をあげた、 彼女の感想は?」
「はい? 彼女って? ああ、 お袋。 おかげさまで、 すっげエ、 喜んでました。
あの時は、 ホントありがとうございました」
「え? お袋って、 お母さんへのプレゼントだったの?」

「アイツ」 の正体がわかった奈緒は、 ようやく口が開けるようになった。
「おい! 言っとくけど、 オレは、 マザコンじゃねえからな。」
トオルはかなり、 ムッとしている。
「ただオレと親父が仲悪くて、 いっつも 迷惑かけてるから。 それで …… 」
「そうよね。 うちにも弟がいるからわかるけど、 真嶋君の年齢って
照れ臭くて、 素直にお母さんにプレゼントしにくいのよね」
洋子が優しく フォローを入れる。
「あ、 いや …… ま、 そうなんスけど」

トオルが いつになく照れていたのは、 洋子がトオルのことを 「不器用」 と言ったのは
プレゼントの相手が母親だったからだ。
おそらく 「アイツ」 と言っていたのも、 照れ隠しか、 マザコンと思われたくなかったか
いずれにせよ、 この年頃の男の子には、 よくある事らしい。
沈んでいた奈緒の気持ちが、 勢いよく上昇していく。
きゅうに 明るくなった後輩の顔を 見届けてから、 洋子は先に帰っていった。

「ごめんね、 トオル」
とっさに、 奈緒は謝った。
「え? なんで、 おまえが謝るんだ?」
「えっと、 えっと、 それは、 あの …… 」
「勝手に誤解して、 ヤキモチ妬いていました」 とは、 口が裂けてもいえない。
奈緒は必死で、 謝る理由を探していた。
「あの、 なんども来てくれたのに、 会えなくて」
そう言うのが、 精一杯だった。
本当は、 「会えなくて」ではなく、 「会わなくて」だったのだが ……
「おまえが謝ることないって。 それに、 もう 会えた」
いつもの、 トオルの笑顔だ。
さっきまで 遠くに思えた彼との距離が、 いまは心が触れ合うほどに、 身近に感じてしまう。

「ところでさ、 奈緒。 この間の約束なんだけど …… 」
「え? 約束 …… ?」
「ほら、 テニスするって」
「あ、 あれ、 覚えていてくれたの?」
「忘れるわけねえだろうが。 ったく、 オレのこと信用してネエだろう?」
「そ、 そんな事ないけど …… 」
否定しつつも、 少し前まで、 トオルを疑っていた奈緒は、 胸が痛かった。
「まあ、 いいや。 そんでさ 、今度の地区大会が終った後に、 ストリートコート行かないか?」
「え、 いいの? でも、 祝勝会やるんじゃないの?」
「そうだけど、 オレはレギュラーじゃないから、 勝ったとしても、 祝勝会に出るつもりはない。
それよりも、 おまえとの約束の方が大事だから」
トオルはそこまで言うと、 ぷいっと横を向いてしまった。
照れ臭そうなその表情は、 指輪を買った時と同じ顔をしている。
けれど今は、 デレデレしているようには映らなかった。
きっと女性を誘うこと自体、 あまり慣れていないのだろう。
不器用な少年の行動は、 やはり 「純真」 に思えてしまう。

奈緒はもう一度、 自分が海底の住人に なればいいと願っていた。
だがそれは、 今までのようなネガティブな 理由からではない。
ゆったりと流れる時間のなかで、 この瞬間を誰よりも長く 味わっていたいからだ。
たったひと言で落ち込んでいたのに、 ささいな言葉で幸せになる。
「おまえとの約束の方が大事」
その言葉だけを抱きしめて、 大好きな人を見つめていたい。
不器用な彼の横顔を、 ずっと、 もっと 、ずっと ……



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