第27話 エースのプライド
第一試合で負けた先輩には申し訳ないが、この一敗によって
唐沢に出番が回ってきた。
ようやく副部長の試合が見られるかと思うと、トオルは興奮を
隠せない。
光陵テニス部ナンバー2 と言われる男が、 どんな戦い方を
するのか。
ハルキをラブゲームで制する程の実力があり、
軍師の異名を持つ男。
影で校内試合を賭け事に利用し、 悪事を働いているにも
かかわらず、 コーチと部長、 両者から信頼されている。
おそらく、 その所業を帳消しにするほどの力を、 持ち合わせているからだろう。
現にトオル自身もカモにされ、 借金まで背負わされているというのに、
この大会で彼から教わった内容を考えれば、 尊敬すべき先輩として評価し始めている。
同時に、 対戦相手の季崎 (きざき) もまた、 アンビのエースを任されるぐらいだから、
その実力は疑いようもない。
先ほどの二人のやり取りを聞いた限りでは、 さしずめ因縁の対決といったところか。
いずれにせよ、 かなりレベルの高い試合になることは、
倍に膨れ上がった観客の数から見ても、 容易に想像がつく。
コートでは、 さっそく季崎が宣戦布告していた。
「君に、 あのウィニングショットは決めさせないから …… 」
ウィニングショットというのは、 いわゆる決め球の事だ。
トオルはまだ見たことはないが、 唐沢には決め球となるショットがあるらしい。
そして季崎には、 それに対抗する秘策があるという。
「へえ …… そりゃ楽しみだな、 タク」
涼しい顔で答えているが、 唐沢もすでに戦闘モードに入っているのか、 いつもより目つきが鋭くなっている。
「やっと思い出してくれたみたいだね。 僕の名前 …… 」
「さっきは、 ちょっとからかっただけだ。 集中しているところを邪魔されたから。
季崎タクミ …… ライバルの名前を、 忘れるわけがない」
開始前から、 緊迫した空気が流れている。
トオルは先輩のプレーを頭に叩き込もうと、 ベストポジションを確保して試合を見守った。
因縁の対決というぐらいだから、 序盤から激しいラリーの応酬になるかと思えば、
両者とも攻撃を仕かける様子もなく、 ひたすらベースラインでの打ち合いが続いていた。
時折、 季崎のステップが不規則に乱れるが、 それ以外は単調なラリーだった。
あまりの変化のなさに、 まだウォミングアップをしているような印象さえ受ける。
1ポイントを決めるのに、 一体どれくらい打ち合うと言うのだろうか。
様子をみるにしては、 長すぎる。
とくに唐沢は、 攻められないというよりは、 攻める気がないような、 のらりくらりとしたリズムで
ボールを返している。
華麗なプレーや、 攻撃的なショットを期待していたトオルは、 だんだんラリーに飽きていた。
その様子を察して、 日高がトオルの注意を引きつけた。
「トオル。 唐沢のプレー、 よく見ておけよ」
「よく見ておけって、言われても …… これじゃあ、 練習と変わらないじゃんか」
「ま、 今のオマエなら、 そう見えても仕方ないか」
「他に、 どう見ろっていうんだよ、 おっさん」
話の意図が見えず、 続きを聞こうとした瞬間、 季崎のボールがネットにかかった。
相手のミスショットで、 ようやく1ポイントが決まった。
ここまで来るのに、 ゆうに五分はかかっている。
再び、 日高が口を開く。
「いいか。 一見単調に見えるが、 このラリーの主導権は、 唐沢が握っている。
ヤツが繰り出すボールのスピード、 スピンのかけ方、 コース、 それからステップを
順番に気をつけながら見てみろ」
指摘された箇所を中心に、 トオルは再び先輩のプレーに集中した。
表面上は単調に映るラリーから、 少しずつ水面下で行われている攻防が見えてくる。
まず、 唐沢は球種を小まめに変えながら返球している。
ゆるいボールの合間に、 スピードボール、 トップスピンの合間にスライス。
山なりのストレートや、 直線的なクロスなど、 コースも違えながら打っている。
さらに、 のらりくらりと見えるのは、 上半身のゆるやかなフォームだけで、
ステップ自体は小刻みに動かし対応している。
「ラリーには、 長くなればなるほど、 ある程度リズムが生まれるだろ。
唐沢は、 相手がリズムに乗る直前で、 ペースを変えて崩している」
「ペースを崩す …… ?」
ボールを返すか攻撃するしか、 打ち方を知らないトオルは、 「ペースを崩す」 という意味を
理解できずにいた。
それを見越して、 日高がさらに説明を続ける。
「簡単に言えば、 気持ちよくラリーを続けているところに、 水を差すのと同じ状態だ。
長いラリーで、 勢いに乗ろうする直前で、 とつぜん球種が変わる。 ただでさえ、 急にコースが変わるのに、
これをやられれば、 いくら季崎でも完璧に返すことはできない」
先ほど、 季崎のステップが不規則に乱れていたのは、 唐沢にペースを崩されていたからだ。
言っている側から、 またミスショットが起こっている。
漂々としている唐沢と対照的に、 エースと呼ばれる季崎の顔が曇っている。
「季崎は、 アンビのエースだけあって、 決して弱くない。
むしろ実力があるからこそ、 ここまでラリーが長引くわけだ。 それを見越してのチェンジペース作戦だ」
「チェンジペース作戦 ……
でも相手のサービスゲームだから、 先輩に主導権を握られる前に、 速攻をかけることもできるだろ?」
「少しは学習したようだな。 オマエの言うとおり、 そろそろ攻めてくるだろう。
敵も焦ってくる頃だ」
その言葉通り、 季崎が長いラリーに持ち込まれる前に、 先手を取ってネットに出ようとした瞬間。
唐沢からパッシングショットが放たれた。
まるで矢で射抜かれたように走り去るョットは、 今までに見たどのパッシングよりも、 数倍速いものだった。
「すっげエ! 伊達さんのパッシング以上だ!」
スピードに驚くあまり、 トオルは禁句の 「すげエ」 を使っていた。
「いや、 速さはそう変わらないはずだ。
ただその前に、 緩いボールを散々見せられているから、 何倍も速く感じるだけだ」
「そうなのか? オレには、 メチャメチャ速いボールに見えたけど …… 」
「目のいい奴ほど、 このトリックにかかり易い」
「これも、 先輩の計算通りってことか?」
「だろうな」
唐沢からのパッシングによって、 季崎が後方に下げられた。
白線に囲まれたコートをめいっぱい利用して、 ふたたび長いラリーが続く。
だがトオルは、 今度は飽きることなく、 むしろ食い入るように見つめていた。
相手のペースを乱すために、 コースやスピンの変え方、 そのひとつひとつの手順を目に焼きつけた。
どの組み合わせが最も有効なのかを確認し、 細部に至るまで記憶した。
細かく観察すればするほど、 このラリー自体、 高度な技術が要求されるとわかってくる。
季崎のスッテプが崩れて、 イージーボールが上がる。
それを楽々と決め、 唐沢が1ゲームを先取した。
静かに流れるゲームの中に、 徐々に張り巡らされる唐沢の戦略。
それは今まで見たことのない試合展開だった。
豪快なパワー勝負でも、 華麗な必殺技でもなく、 寸分と狂わずに重ねていくラリー。
緻密な計算と確かな技術が、 それを可能にしている。
着々と伏線を張りながらゆっくりと仕留める戦法は、 まるで、コートの上で将棋をさされているかのようだ。
彼が仕かけた罠の正体を知るにつれ、 体が硬直していくのが自分でもわかる。
「これが、 うちのナンバー2 …… 」
「いや、 これからだ」
日高がにやりと笑った。
長かった第1ゲームに比べて、 第2ゲームはすぐに決着がついた。
唐沢のサーブは、 パワーがあるわけでも、 スピードがあるわけでもなかったが、
フラットサーブとスライス ・ サーブを同じコースに打ち分ける事が出来た。
コースが同じで、 球種が違えば、 バウンドの仕方も違ってくる。
いちど体験したはずのサーブが、 落下後に違う軌道を描くのだから、 受ける側は混乱する。
季崎の技術をもってしても、 リターンは甘い返球となっていた。
その機を逃さず、 唐沢が仕留める。
ゲームカウント 「2−0」 と、光陵側のペースで試合が運ばれている。
再び第 1 ゲームと同じ戦法で進むなか、 日高がめずらしく穏やかな顔を向けた。
「アイツの …… 唐沢のプレーは、 昔の龍にそっくりだ」
「龍って、 親父に?」
「ああ。 龍も、 ああいうトリックプレイが得意だった」
「親父も ……
親父って、 どんな選手だった? 強かったのか?」
これはトオルが、 ずっと父に聞きたくて、 聞けなかった質問だった。
前回の校内試合後に親子ゲンカして以来、 龍之介とはテニスの話をしづらくなっていた。
いくら気持ちが荒れていたとは言え、 ケガが元でテニスをやめた父に、 日高のように
テニスを教えてくれないと責めてしまったのだ。
ずっと後ろめたい気持ちを背負っていたが、 反抗期真っ只中の息子には、 父親に謝るという発想は
これっぽちもない。
けれど父 ・ 龍之介がどんな選手だったのか。
聞きたい事は山ほどあった。
「ま、 俺の次ぐらいに」
いたずらっぽい笑みを浮かべながら、 日高が続ける。
「唐沢の頭脳とテクニックに、 オマエのガラの悪さを足したのが、 龍之介ってところだ」
「オレは、 親父からガラの悪さしか 、継いでないのかよ!?」
ふて腐れながら抗議をするが、 日高は相手にしていない。
「今のところはな。 あ、 性格は、オマエに似ている」
「うれしかねえよ …… 」
常々、 性格が悪いと思っている父親に 「性格が似ている」 と言われて、 喜べるはずがない。
相変わらずコート上では、 長いラリーが続いていた。
唐沢は、 長身でも筋肉質でもなければ、 大柄でもない。
スポーツをするのに、 取り立てて恵まれた体型ではない。
それでもアンビのエースを、ここまで追い込めるのだから、 トオルにとっては 「すッげエ!」 としか
言いようがない。
唐沢のプレーが、 父の姿と重なった。
龍之介も、 こんな鮮やかなプレーをしていたのだろうか。
そして、 その父よりも強いのが、 隣にいる日高らしい。
自分で言っているので怪しい気もしたが、 仮にも元・プロなのだから、 あながちウソでもないのだろう。
トオルは、 さっきの村主の話を思い出して、 日高に確かめてみた。
「なあ、 おっさんって、 唐沢先輩の兄貴と、 光陵の伝統変えたって聞いたけど、 本当なのか?」
「別に、 伝統変えようなんて思ったわけじゃない。
ただ、 北斗が関東大会出たいって言うから、 そうしたまでだ。
部員の願いを叶えてやるのが、 コーチの務めだからな」
「全国じゃなくて、 関東 …… なのか?」
「ああ。 当時は、 関東大会だって厳しいぐらい弱小だった。
うちが全国に出たのは、 後にも先にも、 俺と龍が現役の時、 一度だけだ。
俺がコーチとして来るまでは、 せいぜい都大会まで行けば上等ってレベルだった」
ということは、 光陵が強豪と呼ばれたのは、 ほんの数年前からで、 それほど歴史があるわけでは
ないようだ。
「なんだ …… 光陵って、 ずっと強豪って呼ばれているのかと思っていた」
「常勝ってのは、 それだけ難しいんだ。
それに強豪と呼ばれるのは、 この地区だけで、 関東大会に進めば、 今でも弱小だ」
「もっと強い奴が、 たくさんいるって事か」
「ああ、 そういうことだ」
「じゃあ、 おっさん。 オレも、 強い奴ら見たいから、 全国まで行かせてくれよな。
部員の願いを叶えてやるのが、 コーチの務めなんだろ?」
一瞬、 日高の顔色が変わったが、 すぐにいつもの、 ふてぶてしい表情に戻った。
「やだね。 オマエは俺のこと、 コーチって認めていないからな」
「なんだよ、 おっさん。 オレだって、 部員じゃねえか」
「だったら、 俺のこと、 コーチと呼べ。 いつまでも、 おっさん、 おっさん、 言うな」
「おとなげないぞ、 おっさん」
「コーチだ」
父親の悪友という認識からか、 トオルは日高のことを 「コーチ」 と呼んだことがない。
入部したときから、 「おっさん」 を連呼している。
「おっさんがオレの願いを叶えてくれて、 本当にスゲエって思ったら、 そん時はコーチって呼んでやる」
「そういう意固地なところが、 龍そっくりなんだよ、 オマエは!」
「おっさんに言われたくないって」
おっさんかコーチかの議論は、 二人の前で展開しているラリーのように長く続いた。
だが、第3ゲームも唐沢が制すると、 二人とも次のゲームに集中すべく、 どちらからともなく黙っていた。
このゲームで、 季崎が反撃を開始しなければ、 挽回のチャンスは激減する。
アンビのエースのプライドに賭けても、 なにか仕掛けてくるはずだ。
ところが第4ゲームでトオルが見たものは、 外側に大きく反れるスライス ・ サーブに翻弄される
季崎の姿だった。
「おっさん、 さっきのスライス ・ サーブと、 なんか違うよな?」
「アイツはフラットとは別に、 二種類のスライス ・ サーブを打ち分けられる。
まっすぐ低く弾むスライスと、 外側に大きく反れるスライスだ」
「回転のかけ方によって、 軌道を変えられるってことか?」
「軌道だけじゃなくて、 バウンドの仕方も変わる。 さっきまでセンターばかり狙っていただろ?」
たしかに唐沢は、 センターばかり集中してサーブを入れていた。
「けどそれは、 フラットとスライスで混乱させるためじゃなかったのか?」
「それだけじゃない。 ずっと同じコースに打たれることで、 反射的にバウントの上下だけを意識してしまう。
そこへ反れるサーブが急に追加されれば、 かなり戸惑うはずだ。
つぎは上か下か、 右か左かってな」
いぜんトオルは、 ハルキとの試合で、 スライス ・ サーブを体験したことがある。
だが、 それは軽く曲がる程度のスライスで、 ここまで大きく反れることはなかた。
大きく反れるということは、 それだけ軌道が読みづらいという事だ。
直線コースなら、 ある程度予測がつく。
しかし曲線となると、 その軌道に慣れるまでに時間を要する。
だから唐沢は序盤で使わずに、 この曲がるサーブを後半になるまで温存していた。
相手に軌道に慣れる時間を与えないために。
高いトスをあげて、 ゆったりとスィングする彼のフォームは、 まるで 「取れるものなら取ってみろ」 と、
相手に見せつけているようだった。
このゆったりとしたフォームは、 トオルにとっては研究するのに助かるが、
季崎にとっては苦痛の時間となっていた。
あの品のいい顔が、 苦渋に満ちている。
右か左か、 上か下かと惑わされる様子が、 コートの外からでも見て取れる。
審判からゲームカウント 「4−0」と、 コールされた後、 唐沢は更に追撃を加えた。
「タク …… そろそろ、 楽にしてあげようか?」
優位に立つ者だけが出来る、 余裕の笑みを浮かべながら、 唐沢はライバルにささやいていた。
しかし季崎にとっては、 チャンス到来だ。
「楽にしてあげる」 ということは、 ラリーが続くチェンジペース作戦ではなく、
一気に勝負をつけるという事だ。
ついに唐沢が、 決め球を出そうとしている。
カウンターパンチャーの季崎は、 この油断を待っていた。
幸いなことに、 ここからは自分のサービスゲーム。
しかも、 これまでの4ゲームで相手のフォームは全て頭に入っている。
次にどのショットを繰り出すか、 たいていのボールなら予測がつく。
ウィニングショットを叩き潰し、 試合の流れを引き戻すには 、今が絶好のチャンスだ。
季崎は、 敢えてトップスピンを連打して、 鍵をにぎる決め球を誘い続けた。
ところが、 その逆をつき、 唐沢は後ろから回り込んでスライスを放とうとしている。
「しまった!」
思わず季崎が後ろに下がったとたん、 その手から放たれたのはドロップショットだった。
フェンス越しに見ていたトオルには、 今ひとつ季崎の心理が読めずにいた。
「なあ、 おっさん。 今のボールって、 ドロップショットだろ?
なんで季崎は拾えるポジションにいたのに、 わざわざ後ろに下がったんだ?」
「あれは、 唐沢が第1ゲームから仕かけたトリックに、 引っかかったんだよ」
「まだトリックがあったのか?」
「唐沢のチェンジペース作戦は、 単に相手のミスを誘うだけじゃなく、 わざとラリーを長引かせる事で、
自分のフォームを相手の目に焼き付けさせることが目的だ。
季崎ほどの実力があれば、 ラリーの最中に相手のクセを読み取って、 次の返球に備えるはずだからな」
そう言われて、 トオルはやっと理解できた。
つまり唐沢は、 わざと相手にスライスのフォームを覚えさせ、 同じフォームでドロップショットを放ったのだ。
とっさに、 後ろに伸びるスライスと思い込んだ季崎は、 前にいながら後方に下がり、
みすみすドロップショットを逃してしまった。
「オマエ、 唐沢のプレー、 しっかり見ていただろう?
奴のフォームを見ながら、 次にくるボールを予測してみろ」
言われた通りにやってみて、 トオルは愕然とした。
ドロップと思えば、スライス、 スライスと思えば、 ドロップ。 ことごとく違う。
同じフォームで打たれるだけに、 予測が難しい。
しかも、 スライスだけではない。
彼はスピードの遅いボールを、 両手打ちのバックハンドで繰り出している。
通常、両手打ちといえば、 ボールに更なるスピードをつけたり、 回転を加えたりする時に使うものだ。
それを逆手にとって、 わざわざ両手打ちのフォームで、 緩いボールを返球する。
それも緩いボールかと思えば、 次ぎは本当に速いボールが襲ってくる。
まるで予測する者をあざ笑うかのように、 ことごとく裏をかいてくる。
自分の目が信じられない。 自分の記憶にも裏切られている。
唐沢からの返球は、 トオルに混乱の二文字を突きつけてきた。
そして季崎もまた、 トオルと同じ状況に陥っていた。
全ては第1ゲームのラリーから、 罠が仕掛けられていたのだ。
チェンジペース、 目の錯覚、 そして、予測の裏をかかかれることによる混乱。
何より苦痛なのは、 奪われたポイントの大半が、 自分のミスが原因となっていることだ。
唐沢は一度たりとも攻撃をしてきたわけではない。
自分の落ち度による失点 ―― それは、プレイヤーにとって、 何より屈辱的な負け方である。
プライドが高ければ高いほど、 その苦痛は倍増する。
エースと呼ばれるプライドが、 必要以上に季崎を追い込んでいた。
トリックプレイに完全に体勢を崩し、 アンビのエースは第5ゲームも落としていた。
トオルには季崎が、 蜘蛛の巣にかかった蝶に見えていた。
精巧に練り上げられた網目模様の罠に、 羽をとられた獲物。
一度でも触れてしまった瞬間から、 随所に仕掛けられた罠が始動する。
そして、もがけばもがくほど、 まとわりついた糸に絡め取られて自滅していく。
身動きできないエースを前に、 優勝へのカウンドダウンが始まった。
「そろそろ仕上げだろう」
日高の予想通り、 唐沢は勝敗が決まる第6ゲームで、 最後のトリックを披露した。
ゆっくりとしたフォームで、 またもスライス ・サ ーブを打ち込まれると思った季崎は、
サイドへ大きくステップする。
だが実際に入ったのは 、体の正面を狙った、 ただのフラットサーブだった。
唐沢は、 第4ゲームの大きく曲がるサーブにも、 罠を仕かけておいた。
ゆったりとしたフォームは 曲がるサーブだと印象づけておいて、 そのフォームでフラットサーブを
打ち込んでいる。
「アイツが打ち分けられるサーブは、 一つのフォームだけじゃない。
別のフォームでも、 三種類のサーブ。 それに、 センター、 ボディー、 ワイドの3コースを打ち分ける」
「マジかよ!? そんな神業みたいなことが出来るのか?」
「グリップとインパクトのタイミングを調節することで、 可能にしている。
現に、 目の前で起こっているだろうが」
フラットだと思えばスライス、 反れるかと思えば、 正面に向かって食い込んでくる。
記憶したはずのフォームが、 裏目に出てしまう季崎に、 最終ゲームから挽回する気力はない。
終ってみれば、 ゲームカウント 「6−0」 で唐沢の圧勝だった。
結局、 一度も決め球を出すことなく、 彼は季崎に勝利したことになる。
「昔から、 自意識過剰だったから …… キザピョンは」
試合後の握手を求めながら、 唐沢は涼しい顔で話しかける。
「最初から、 ハメるつもりだったのか!」
「なにが?」
「トボけるな! ウィニングショット、 出すつもりなかったんだろ!?
散々、 人のこと持ち上げておいて …… 」
悔しさを露わにしながら、 季崎は握手もせずに去っていった。
日高が、 トオルの肩を叩きながら言う。
「だから、 さっき言っただろう。 アイツの中では、 もう試合が始まっているって」
それを聞いて、 ようやくトオルは納得した。
あの時、 「唐沢の中では、 試合が始まっている」 と言われた理由を。
この試合が始まる前、 新聞を読んでいた唐沢は、 季崎を 「キザピョン」 と呼んでからかっていた。
恐らくあれは、 わざと呼んだに違いない。
そして試合に入ると 「タク」 と言い直し、 あたかも季崎を重要視しているように印象づけた。
第5ゲームで、 季崎に決め球が出ると思わせたのは、 「楽にしてやる」 のセリフだけでなく、
その前のあだ名を言い直すという、 伏線があったからこそだ。
自分は重要視されているのだから、 決め球を出さないはずがない。
「タク」 と呼ばれることで、 季崎は反射的にそう勘違いしていた。
だが唐沢の中では、 最初から決め球を出す気などなく、 相手を調子づかせるための演出に過ぎない。
季崎のプライドの高さを利用したトリックは、試合前からすでに準備が始まっていた。
「『駒落ち』 って知っているか?」
おもむろに、 日高が聞いてきた。
駒落ちとは、 将棋で対戦相手と実力差がある場合に、
強い側の駒をいくつか外して戦う、ハンディ戦のことだ。
「唐沢にとっては、 この試合で決め球を出さなかったのは、 さしずめ駒落ちってとこだろうな」
それほど季崎と唐沢の間には、 実力の差があったという事で、 まだまだ本気を出さずとも
勝てる相手だったというわけだ。
言われてみれば唐沢は、 たしかに将棋が強かった。
「闇の学園祭」 のときに、 それは実感した。
父親に鍛えられて、 そこそこ自信のあるトオルですら、 舌を巻くほどの腕前だ。
将棋の戦略にも、 攻めると見せかけて相手を翻弄し、 戦局を見誤らせる戦法がある。
唐沢は、 それをコート上で実行した。
しかも、 自分にもハンディを課しながら。
あの先輩が本気を出せば、 どのくらい強いのか。 想像しただけで、 体中の血が騒ぐ気がした。
「ヤツが、 決め球を出さなかったのは、 もうひとつ理由がある」
日高は、 コート脇で唐沢と話をしている、 目つきの鋭い男を指差した。
「去年の都大会優勝校、 明魁(めいかい) 学園の部長、 京極だ」
説明を聞かずとも、 本能的に京極という男をリーダーだと察知した。
彼の鋭い視線は、 子供の頃に対峙した、 「山の主」 と呼ばれるイノシシにそっくりだったからだ。
弱者を瞬時に退かせる気迫が、 彼にはある。
「恐らく、 偵察に来たんだろう。 自分の学校も、 今日は地区大会のはずなんだがな」
「えっ!? 部長が出場しなくてもいいのか?」
思わず大声を出したトオルを、 京極がギロリと睨んでいるように見えた。
迫力のある人間は、 チラリと見ただけでも、 ギロリと睨んでいるように見えるものだ。
「うちと違って、 わざわざ部長が出なくても、 地区大会ぐらい余裕で勝てるそうだ」
京極の代わりに返事をしながら、 唐沢はトオルに近づいてきた。
「あいかわらず、 嫌味な男だな。
いまの試合といい、 陰険そのものだ」
山の主が、 低い声で文句を言っているが、 唐沢は全く気にしていない。
「頭脳プレーと言って欲しいね」
「ウィニングショット隠しておいて、 よく言うぜ。
わざわざ見に来てやったのに …… 」
「ああ、 アレ …… 出す前に、 勝っちゃったんだよね」
明らかに、 唐沢はとぼけている。
「ったく、 喰えない野郎だ」
「オマエほどじゃない」
唐沢は季崎だけでなく、 コートの外の偵察を含めて、 試合展開を考えていたらしい。
底知れないナンバー2の実力を垣間見て、 トオルは改めて彼を先輩として、 プレーヤーとして、
さらには副部長として尊敬していた。
息ひとつ乱れていない唐沢が、 トオルの前まで来て立ち止った。
「試合、 しっかり頭に叩き込んだか?」
「はい! もう、 バッチリです!」
トオルは考えている事が、 すなおに態度に出る。
尊敬する先輩の前で、 背筋がピンと伸びていた。
「よし、 いい返事だ。 次ぎは、 都大会に向けてのバリュエーションがあるからな。
今日の試合をどう生かすかは、 オマエ次第だ」
「はい!」
「なんたって、 オマエに貸している借金、 1万1千5百円だから。
今度こそ稼がせてくれよな、 『ウ吉』クン!」
「へっ!? 借金 …… ウ吉って …… 唐沢先輩?」
呆気にとられる後輩を置いて、 唐沢はスタスタと控え室へと消えていく。
尊敬すべきプレイヤーは、 大会終了と同時に、 後輩思いの副部長から、
もとの悪質なギャンブラーへと戻っている。
どうやら、 この大会で授けてくれた教えは全て、 トオルを 「レース」 に勝たせるための指導だったらしい。
この地区大会で、 トオルが学んだ最も重要なこと。
それはダブルスの陣型でも、 プレースタイルの重要性でも、 ましてや、試合の見方でもない。
安易に人を尊敬してはいけない ―― 特に唐沢は。
この事をしっかりと肝に銘じ、 トオルは軽い足取りで立ち去る副部長を見送った。