第28話 ムスクをつけたナイト
地区大会後の控え室で、シャワーを浴び終えた季崎は、
いつもよりほんの少しだけ多めにコロンをつけてみた。
柑橘系やミント系のコロンを使用する部員が多いなか、
彼だけは 「ムスク」 を愛用している。
ワイルドさの中に甘めの香りが漂うムスクは、 一歩間違えると
オヤジのイメージになりがちな、 やっかいな代物である。
それをあえて極めることで、 彼は大人の男の仲間入りができるような気がしていた。
当然のことながら安いものではない。
貿易会社を経営している父を通じて、 パリから取り寄せたこだわりの一品だ。
つけ過ぎると下品になるので、 いつもは微量しか手に取ることはしない。
だが今だけは、 この香りに包まれて気分を紛らわしたかった。
少しでも敗北の屈辱が晴れてくれれば ――
シャワー室から立ち昇る湯気とともに、 大人の香りが部屋中に広がった。
「問題ないですよ。 僕にとってテニスは、 ただの余興に過ぎませんから」
幾層にも重なる白い蒸気を父親に見立て、 季崎は返事の練習をくり返した。
帰宅後、 父親から地区大会について質問を受けた時、
自分は平然とした顔でこのセリフを言ってのけなければならない。
悔しさを顔に出さずに、 冷静な態度でいられるよう何度も練習をした。
「問題ないですよ。 僕にとってテニスは、 ただの……」
会社を経営する季崎の父は、 独自の 「帝王学」 を持っている。
それによれば、 どんなに辛い状況に陥ったとしても、 リーダーたるもの常に
毅然とした態度でいることが要求された。
たかがテニスの試合に負けて落ち込むなど、 厳格な父の前では許される行為ではない。
たとえそれが、 長年にわたり憎みつづけた宿敵 ・ 唐沢に完敗した直後であっても。
天井に向かって昇りつめた湯気が、 次第に冷やされ消えてゆく。
その実体のない父親に向かって、 苦手な箇所をなめらかに言えるよう、 もう一度だけ復習した。
「ただの……余興ですから……」
家から用意された車で帰る途中、 季崎はできるだけ視線を外に向け、 新しい刺激を
自分の中に取り入れようとした。
悔しさを薄める材料を探して、 暮れ行く街の風景を必死になって追いかけた。
けれど充満した悔しさを塗り替えるほどの材料は、 そう簡単には転がっていない。
家路に急ぐ人々を目で追いながらも、 頭では唐沢との屈辱的な試合が繰り返されている。
「チクショウ! あんなに練習したのに……どうしてアイツに勝てない!?」
二度と取り戻せない時間の流れは、 後悔だけを積み上げていく。
「あそこで停めてくれ。 少し……散歩してくる」
車窓から何気なく目に入ったストリートコートで、 季崎は気分転換をすることにした。
テニスをしようと思ったわけではない。
今はそんな気力さえ残っていない。
しかし、 父の前で強気な息子を演じるためには、 どこかで情けない自分を着替える必要があった。
休日のストリートコートは、 多くのカップルや、 仲間同士のプレイヤーで、
和やかな雰囲気に包まれていた。
平日の、 他校の部員がコートをめぐって争う殺気は、 どこにも感じられない。
同じ場所でも一緒に過ごす相手によって、 苦痛が快楽になり、 天国が地獄にもなる。
ぼんやりと、 そんな事を考えながら、 テニスに興じるプレイヤーたちを眺めていた。
そこには優勝のプレッシャーと戦うエースもいなければ、 自分の気持ちに嘘をつき「余興だ」と断言する
御曹司もいない。
純粋にテニスを楽しむ人たち ―― セカンドサーブをミスしても 「ゴメンネ〜」と言って笑いあう彼らが、
別世界の住人に思えた。
はらわたが煮えくり返るほど悔しい思いをさせられたテニスが、
全く別のスポーツに見えるほど、 楽しげな空間がそこにはある。
手を伸ばせば届く距離にいながら、 決して交わることのない世界。
そこから、 ふっと目を背けた時だった。
とつぜん視界に飛び込んできた少女に、 季崎は思わず息を呑んだ。
コートの中に入らずに、 一人たたずんでいる少女は、 初恋の女性によく似ていた。
姿・形ではなく、 どこか頼りなげな雰囲気がそっくりだった。
特に首を軽く傾けて伏せ目がちにうつむく仕草は、 初恋の彼女がよくしていたポーズだ。
ためらうことなく季崎は声をかけた。
「ねえ、 君……ひとり?」
大会終了後、 光陵の全部員が集まるなか、 部長の成田から今後の日程と、
太一朗への処罰が言い渡された。
地区大会が始まる前、 太一朗は決められた集合時刻に遅刻し、 大騒ぎとなった。
激戦が続いた試合に気をとられ、 トオルをはじめ、 他の部員もすっかり遅刻のことを忘れていたが、
部長の成田だけはしっかり記憶していたようだ。
「太一の遅刻の処罰だが、 まず丸坊主。
一ヶ月の部室掃除とコート整備、 それから……」
延々と続くと思われた処分の内容を、 唐沢がさえぎった。
「それぐらいにしてやろう、 成田。 これ以上の処罰は、 練習に響くだろう。
ダブルスの要の太一が潰れちゃ、 俺たちが困る」
たしかに遅刻は重罪である。
けれど年頃の中学生にとって、 「丸坊主」 は極刑に近いものがあり、
部室掃除とコート整備が加われば充分な処罰と言えよう。
しかも太一朗は寝坊したわけでもなく、 普段の生活態度からしても真面目そのものである。
副部長 ・ 唐沢の判断は、 全部員が妥当と思っていた。
「んじゃ、 そういうことで。 祝勝会、 パーっと行くぞ!」
日高の話はこれだけだった。
コーチとして、 選手をねぎらうこともなければ、 次の都大会に向けての激励もなく、
ただ少しでも早く酒が飲みたいと思っているらしい。
祝勝会へ向かう部員の流れに逆らい、 トオルは奈緒のもとへと急いだ。
前々からカバンのリメイクのお礼に、 ストリートコートでテニスをすると約束していたからだ。
祝勝会をサボるのは気が引けたが 、彼女のために最も長く割ける時間を考えると、 この機会しかなかった。
なかなか上達しない自分に嫌気が差し、 テニスを続けることを諦めた奈緒。
その彼女が 「もう一度テニスをしたい」 と言い出した時、 トオルは迷わず 「一緒にやろう」 と提案した。
それは単にカバンのお礼だけではなく、 心からテニスを好きな者として、
苦痛よりも楽しさを思い出して欲しいと願ったからだ。
「アイツ、 もう来ているかな……」
会ったら何から話そうかと考えを巡らせながら、 トオルはコートまで足を速めた。
全速力で走っているのは、 約束の時間がせまっているから ―― 自分ではそう思っていた。
ただの待ち合わせのはずなのに、 「会いたい」 気持ちがどんどん強くなる。
それでも約束のせいだと信じ込んでいた。
彼女の穏やかな笑みが頭に浮かぶ。
とりとめのない話に耳を傾け、 寄り添うようにして最後まで聞いてくれる奈緒。
失敗談をする時などは、 丸い目をもっと丸くして、 一緒に驚きもしてくれる。
転校後、 友達ができず孤独だったトオルには、 そんな彼女の存在がとてつもなく大きなものになっていた。
今までに体験したことのない感覚が全身を包む。
楽しみとか、 嬉しいとか、 はしゃぐとか。
そんな幼稚な感情ではなく、 帰るべきところに戻らないと体が落ち着かないような
なにか本能的なものだった。
心臓ごと強烈な力で引っ張られ、 それに合わせて走らされ、 体がついて行く。
胸の中に磁石でも仕込まれているかのように、 彼女のいる方へと誘導されている。
この引力のような感覚を不思議に思ったが、 深く追求はしなかった。
もう少しだけ深く掘り下げたなら、 きっと恋愛感情を自覚したはずなのに、
今は 「なぜだろう」 と問いかける暇があるくらいなら、 彼女に会うほうが先だった。
会って話をする方が、 この不思議な感覚から早く解放される。
どういうわけか、 それだけはハッキリと自覚していた。
地区大会の疲労を感じることなく、 トオルはストリートコートへと続く長い階段を一気に駆け上がった。
約束の場所に到着してみると、 そこには妙な男に絡まれ、 オロオロする奈緒の姿が目に入った。
「そんなに怖がらなくていいよ。 女性に対しては、常に紳士的でありたいと思っているから。
ヨーロッパでは 『ナイト的』 って表現なんだけど。
あ、 ナイトって夜のことじゃなくて、 お姫様を守る騎士のことでね……」
いかにも軽薄そうな男の演説に、 彼女はうつむくことでしか応戦していない。
この手の男をどうあしらっていいのか、 見当もつかないらしい。
ひたすら顔を背け無視しようとしているが、 饒舌な男の前では無駄に終わる。
「日本のサムライよりも、 僕はナイトの方がカッコイイと思うわけ。
だってお殿様を守るより、 お姫様を守りたいって思う方が自然でしょ?」
誰がどう見ても、 奈緒がナンパ男に迷惑している状況だ。
しかも慣れた話し方からして、 相手の男はロクでもない奴だ。
それならやることは、 ただひとつ。
トオルはその男の肩をつかむと、 強引に振り向かせた。
「せっかくだがコイツはオレが守るから、 オレの女に手を出すな」
驚いた顔をして振り向いた男は、 見覚えのある顔だった。
「あっ! 唐沢先輩にコテンパンに負けた、 キザ野郎……」
奈緒をナンパしていた男は、 季崎だった。
「な、 何を失礼な。 キザ野郎じゃなくて、 それを言うならキザピョ……」
そこまで言いかけて、 季崎は思わず口をつぐんだ。
これ以上、 『キザピョン』 の名を知る人口を増やしたくなかったからだ。
動揺を隠すように、 季崎が問いただす。
「君、 彼女とどういう関係?」
「だから、 オレの女だって」
奈緒の唖然とする顔が目に入ったが、 トオルは 「キザ野郎」 を追い払うことを優先した。
「今からコイツと大事な約束がある。 とっとと消えな」
通りすがりのナンパなら、 たいてい彼氏が現れた時点でジ ・ エンドになるはず。
季崎がすぐに引き下がることを期待して、 トオルは彼氏のふりを続けた。
だが、 あいにく饒舌なナイトは引き下がる気配がない。
それどころか品のいい顔を引きつらせ、 こっちを睨んでいる。
予想以上にしつこい相手に対し、 トオルも同じように睨み返した。
誰かと付き合った経験のない少年にとって、 ナンパ男から彼女を守るための手段は他にない。
互いに無言のまま、 しばらく硬直状態が続いた。
季崎はトオルが気に入らなかった。
決勝戦前から唐沢と季崎のやり取りを聞いていたトオルは、 名前だけでなく
『キザピョン』 のあだ名も知っている。
正確に思い出せずに 『キザ野郎』 になってしまったが、 彼がアンビのエースだということも知っていた。
けれど唐沢しか目に入っていない季崎にとって、 トオルは、 いま初めて会う人間だ。
初対面で人を嫌いになることなど、 滅多にないはずだが、 なぜか目の前にいる少年だけは
妙に癇(かん)にさわる。
初恋の人に似た彼女との関係を、 無神経にも邪魔する態度。
『キザピョン』 を思い出させる 『キザ野郎』 という呼び方。
「コテンパンに負けた」 という形容詞も気に入らない。
しかも着ているジャージから判断して、 憎き唐沢と同じ光陵学園のテニス部員らしい。
季崎には、 唐沢とトオルが同一人物に映っていた。
そしてトオルの次の発言が、 季崎の怒りに火をつけた。
「ん……? 何の臭いだ?」
まるで台所の焦げた魚でも探すように、 クンクンと鼻を鳴らしながら、 トオルは匂いの元をたどっている。
今頃になって、 彼はコロンの香りを察知したらしい。
「なんか……くっせーぞ!」
わざわざパリから取り寄せたこだわりのムスク。
大人の男を演出するための必須アイテム。
それを 「くっせー」 の一言で片付けられてはたまらない。
「あのねえ……君のような下品な男は知らないかもしれないけど、 これはムスクといって……」
そこまで説明しかけた時だった。
「あー、 わかった! デパートのおばさんのニオイだ! この臭さはそうだよな、 なっ?」
「デパートのおばさんって……」
確かにデパートの化粧品売場は、 あらゆる香水の香りがする。
いくら高級な香りでも、 多くの種類が混ざれば 「クサイ」 に変化する。
そのシンボルが 「デパートのおばさんのニオイ」 であり、 中学一年の香水に対する認識など、
所詮その程度のものだ。
ようやく匂いの正体がわかり満足げなトオルに対し、 季崎は愛用しているムスクの価値を否定され、
ひどく腹立たしい思いをしていた。
トオルに一切 、悪気はない。
彼にとって、 自然なもの ―― 例えば、 花や、 雨や風の匂い以外は、 全て 「クサイ」 のである。
恐らくトイレの芳香剤から、 何万円もする香水まで、 全部まとめて 「クサイ」 という枠に分類しているはず。
都会の人間よりも、 山で育った田舎者の 「クサイ」 カテゴリーは、 非常にワイドにできている。
その広い選択肢の中から 「デパートのおばさんのニオイ」 と探し当てたのだから、
嬉しくなるのも無理はない。
だが、 海外から取り寄せるほどムスクを愛している季崎には、 「くっせー」 と言われた時点で、
すでに怒りが頂点に達していた。
それでも紳士的を強調して 口説き始めた奈緒のてまえ、 なんとか怒りを押さえて話を続けた。
「貴女のような繊細な方が、 どうしてこんな下品な男と付き合っているのか。
僕にはどうしても納得がいかない」
「いえ、 付き合っているなんて、 そんなことないです……」
「付き合う」 の言葉に敏感に反応した奈緒は、 思わず季崎の質問を否定してしまった。
「バカ! 奈緒……」
慌てるトオルを横目に、 季崎はニンマリした。
最低の一日の終わりに、 最高のラッキーを手にした気分だった。
「へえ〜、 奈緒ちゃんっていうんだ……やっぱりねエ。
君がこんな下品な男と付き合うわけないよね。 じゃあさ、 これから僕とテニスしない? ラケットもあるし」
「冗談言うな! 奈緒は、 これからオレと大事な約束があんだよ」
脇で吠えるトオルを完全に無視して、 季崎は続ける。
「今日、 君とここで出会ったのは、 きっと運命だよ。
せっかく神様がくれた贈り物を、 手放すわけにはいかないからね……」
「だったら、 トオルとしてもらえませんか、 テニス?」
何の脈絡もない彼女の発言に、 季崎とトオルが同時に驚いた。
「なんで!?」
トオルと奈緒、あるいは、 季崎と奈緒の組み合わせなら納得がいく。
しかし何故トオルと季崎がテニスをしなければならないのか。
二人の男は彼女の発想についていけず、 呆然としていた。
奈緒の中ではきちんとした理由があった。
以前コーチが 「トオルには実戦経験が必要だ」 と話しているのを、 彼女は聞いて知っていた。
季崎からテニスに誘われた段階で、 その話を思い出した彼女は、 これはトオルにとって
絶好のチャンスだとひらめいた。
トオルと季崎の組み合わせは、 彼に実戦経験を積ませるための配慮のつもりだ。
自分の事だと臆病なくせに、 トオルの為だと強気になるところが奈緒の魅力でもあるが、
今回ばかりはそうも言っていられない。
平日、 ここに訪れるテニス部員となら問題はない。
だが強豪 ・ アンビのエースとなると、 話は別だ。
エースを相手に初心者がプレーしたところで、 実戦経験どころか、 まともにラリーが続く可能性すらない。
彼女は肝心な部分、 季崎がアンビのエースだということを、 知らずに話している。
そして、 この提案が絶好のチャンスになったのは、 トオルではなく季崎の方だった。
「OK! じゃあ、 3ゲームの試合といこう」
奈緒の提案を受けて、 季崎が真っ先に快諾した。
事情はよくわからないが、 季崎にとっては 「渡りに舟」 である。
「その代わり僕が勝ったら、 ご褒美として付き合ってくれるよね、 奈緒ちゃん?」
確実に勝てる勝負を利用して、 彼は自分に有利な条件を提示した。
「えっ? 私、 そんなつもりじゃ……」
予想外の展開に、 奈緒は絶句している。
「バッカじゃねえの。 『キザ野郎』 なんか放っておいて行こうぜ、 奈緒!」
呆れ顔でトオルが奈緒の腕をつかんで、 その場を去ろうとした時だ。
季崎の中の溜まりにたまった怒りのマグマが、 ついに噴火した。
この光景は、 むかし唐沢に初恋の彼女を奪われた場面。 幼い頃の悲惨な記憶、 そのままだった。
『キザ野郎』 を 『キザピョン』 に変えれば、 「バッカじゃねえの」 から始まるセリフも、 そっくり同じだ。
唐沢にやられた仕打ちの数々を思い出し、 奈緒を連れ去るトオルの背中と重なった。
「逃げるのかい?」
季崎は完全に戦闘モードに入っていた。
ただでさえ試合に負けて機嫌が悪い上に、 唐沢と言動がそっくりの一年生にまでコケにされ、
黙って引き下がるほど大人ではない。
「まあ、 無理もないか……光陵と言っても、 きみはノンレギュラーだし。
アンビのエース相手じゃ、 シッポ巻いて逃げるしかないよね?」
その挑発を聞いたとたん、 トオルの足が止まった。
今度は、 奈緒が腕を引っ張り連れて行こうとしているが、 足が止まったまま動かない。
彼女との約束を果たしに来ているのだから、 挑発を無視して通り過ぎる方が正しいとわかっている。
なのに体が前に進んでくれない。
キザ野郎から吹っかけられた 「逃げる」 の言葉は、 トオルの戦闘モードにもスィッチを入れた。
しかし、 まだ奈緒との約束が頭の中にあった。
彼女との約束を優先するか。 それとも――
「弱い奴は逃げるしか能がないからね。
僕と試合をしたところで、 君に彼女を守れるわけないか」
この季崎からの追い討ちが、 かろうじて残っていた理性を消し去り、 ここに来た本来の目的を吹き飛ばした。
トオルの右手が背中のラケットに伸びる。
「ここで退いてはいけない」と、 心の奥で命令されている気がした。
「彼女を守れるわけない」といわれた瞬間に、 無性に腹立たしさを覚え、
彼女を困らせるキザ野郎を自分の手で叩き潰したくなった。
「やめとけよ〜、 『ウ吉』。 おまえじゃ無理だって」
声のする方を振り返ると、 そこには祝勝会に行ったはずの陽一朗が立っていた。
「そうそう、 いくら唐沢先輩にコテンパンに負けたって言っても、 一応この人アンビのエースだし……」
その横には千葉もいる。
「先輩たち、 なんでここに?」
思わぬ訪問者に、 トオルはラケットから手を離した。
「だって、 俺ッチは 『ナッチ応援団』 だからサ」
陽一朗が、 ピースを作っている。
「祝勝会は?」
「俺は一敗しているから、 とても祝勝って気分じゃねえんだ」
シリアスな顔で話す千葉に続き、 陽一朗も眉をひそめた。
「俺ッチもさ、 太一とちょっと気まずくて。 こっちの方が、 おもしろそうだし……」
二人とも真剣な素振りを見せてはいるが、 要するにトオルと奈緒を冷やかしに来ただけらしい。
先輩たちの出現によって、 トオルは冷静さを取り戻していた。
確かにアンビのエースを相手に、 初心者の自分が試合をするなど無謀にも程がある。
おまけに自分が負ければ、 奈緒は季崎の出した条件につき合わなければならない。
だけど ―― いったん手放したラケットが、トオルの背中で揺れていた。
キザ野郎を叩き潰したいという欲求は、 とうに失せていた。
それなのに 「エースと呼ばれる男と勝負がしたい」 という願望が、 トオルの背中を何度もつつく。
強い相手と戦ってみたい。 地区大会の先輩たちのように。
大会で頭に叩き込んだプレーの数々が 目の前を通り過ぎる。
しかしこの願望は大きなリスクを伴う。
今の自分の実力では、 季崎に勝つのはまず不可能だ。
「行こう、 奈緒」
本来の約束を優先して、 トオルが立ち去ろうとしたときだった。
「だいじょうぶ……トオルならできるよ、 きっと」
わずかに震えた声が、 背後から聞こえた。
「奈緒……?」
驚くトオルに向かって、 奈緒がにこやかな笑みを返す。
彼女には、 性格だけでなく、 トオルが今なにを望んでいるのかも分かっているらしい。
売られたケンカを買う以外、 選択肢を知らないこと。
「逃げる」 という行為を誰よりも嫌っていること。
そして、 強い相手を前にして戦いたいと願っていること。
「わりィ、 よく聞こえなかった……もう一回、 言ってくれ」
「だいじょうぶ。 トオルならできるよ、 きっと!」
内気な奈緒がめいっぱい声を大きくして、 言い直してくれた。
それは立場上、 見守ることしか出来ない人間が、 心から応援したいと思う時にかける言葉。
本当に信頼している相手にしか、 口にしない言葉。
千葉の試合で、 自分も同じ経験をしただけに、 その意味がよくわかる。
そして、 そこに込められた想いの強さも。
トオルが千葉に対して祈ったように、 奈緒も祈りを込めて伝えている。
自分を信じて全力で戦えと。
すべての可能性は、 そこから掴めると。
リスクに対する不安の代わりに、 闘争心だけを引っつかんで、 トオルは真っすぐコートに向かった。
「だから、 やめておけって!」
後ろで先輩たちが騒ぎ出したが、 それを奈緒が制している。
もう迷うことはない。
自分のことを 誰よりも理解してくれている彼女のためにも、 絶対に負けられない。
例え相手がエースだろうが、 勝つ以外の解決策は残されていない。
コートに入る直前で、 トオルは一度だけ振り返ると奈緒に誓った。
「アイツには絶対に渡さないから……この試合の勝利も、 それからオマエも!」