第31話 壁
うす蒼い月明かりの中、いつもよりロードワークの距離を
伸ばし、 トオルはストリートコートに向かっていた。
体はトレーニング中でも、 意識は今日の敗北から
離れられない。
「あんなに練習したのに、 どうして……?」
レギュラーを決める校内試合を、
光陵テニス部ではバリュエーションと呼ぶ。
それは単なるランキング戦ではなく、 大会に向けての
レギュラー選抜の査定も兼ねているからだ。
今日のバリュエーションは、 都大会に向けて行われたものだった。
前回の知識も何もなかった頃と違い、 少しは成長したという実感を持って臨んだはずだった。
もちろん、簡単にレギュラー入り出来るとは思わなかったが、 闇雲に試合をしていた頃に比べれば、
何らかの成績を残せる自信があった。
部活後もストリートコートに通い、 朝晩自主トレをかかさず、 他の選手より努力をしてきたつもりだ。
二倍も、 三倍も、 何倍も。
なのに結果がついて来なかった。
「どうして差が縮まらない……?」
レギュラー決定戦で、 ノンレギュラーから勝ち上がったのはトオルとハルキの二人。
そしてレギュラーから降りてきた二人は、荒木と太一朗だった。
今回は、この四人でレギュラー枠三名分を争うことになった。
レギュラー決定戦の対戦相手は、 公平にくじ引きで決められる。
最初にトオルが対戦したのは、 ハルキだった。
奴には前回の試合で 「6−1」 という大差で負けている。
今度こそ屈辱を晴らすべく、 トオルはこの二ヶ月で学んだ全てを試合にぶつけた。
部活で教わったこと、 ストリートコートで自ら覚えたこと、
そして地区大会で学んだ全てを、 ライバルに叩きつけた。
だが結果は前回と同じ 「6−1」。 またしてもトオルの完敗だった。
しかもハルキから奪った1ゲームは、 唐沢のマネをしたスライス・サーブでキープしたもので、
そのサーブも次のゲームではあっさり破られてしまった。
季崎に通用したのは、 あくまでも唐沢との試合直後だったからで、
所詮ひと真似のサーブでは威力も何も無かったということだ。
せめて、 もう1ゲームでも奪っていれば、 自分なりに進歩が認められたのに、
ゲームカウントだけ見ても、 ライバルとの差は一向に縮まっていない。
それどころか試合内容を振り返るに、 ハルキは前回よりも断然強くなっていた。
実家がテニスクラブで、 毎日トレーナーに囲まれ練習しているのだから、 当然といえば当然だ。
テニス歴二ヶ月のトオルが、 いくら頭で考えトレーニングをしたところで、
簡単にエリートプレイヤーとの差が縮まるわけがない。
さらに次の試合で荒木と対戦したトオルは、 ますます自分の無力を思い知る結果となった。
荒木のパワーボールは、 フェンス越しで見るよりも遥かに重かった。
本来テニスボールの重さは変わるものではない。
しかし荒木から返されるボールは重かった。
鍛えられた筋肉から放たれるボールは、 パワーとスピードを携え、
受ける側のラケットに激しい重圧を加えてきた。
筋力もまともについていないトオルが、 簡単に返せる球ではない。
やむなく途中から両手打ちに切り替え応戦したが、 それでも当てて返すのがやっとだった。
そのうえ両手打ちに切り替えたことで、 今度は自分の動きが制限された。
右に左に振られながら、 必死で打開策を見つけようとしたが、
パワーボールに翻弄され、 文字通り 「手も足も出ない」 まま試合は終了した。
結局トオルを除く三人がレギュラーとなり、 ハルキは部長からレギュラージャージを受け取っていた。
光陵のレギュラージャージは、 練習用と試合用の二種類ある。
試合用は衿のラインが太い。
ただそれだけの違いだが、 ハルキが受け取る試合用のジャージを見たとたん、
トオルの中で処理し難い感情が芽生えた。
それは今まで経験したことのない感情。 たぶん、 これが嫉妬というものなのだろう。
トオルは、 ハルキがうらやましかった。
彼の恵まれた環境ではなく、 レギュラージャージでもなく、 テニスを教えてくれる父親がいることでもない。
ハルキは都大会にレギュラーとして出場できる ―― これがうらやましかったのだ。
今までは、 ただ強くなりたいと願うだけで、 特にレギュラーの座に固執したことはない。
しかしあの地区大会の激戦を見てからというもの、 トオルの中で勝負に対する欲求が大きく膨らんでいた。
体力も、気力も限界の状況下で、 魂をぶつけ合うような戦いに自分を放り込んでみたい。
先輩たちと同じように、 真剣勝負の場に挑んでみたい。
そう考えるようになっていた。
真新しいジャージを受け取るライバルを前に、 虚しさと嫉妬が体の中を占めていった。
初めて経験する嫉妬という感情は、 ひどく湿っぽく、
それでいて、 はらわたが煮えくり返るような悔しさを伴った。
レギュラーになるために、 考えつく限りの努力はした。
毎日へとへとになるまで練習もした。
それでも少しも縮まらないハルキとの実力差。
手も足も出なかった、荒木のパワーボール。
この二ヶ月で成長を実感していただけに、 落胆も大きかった。
そして何より辛いのは、 この現状を打破する解決策を見つけられないこと。
このまま同じやり方でトレーニングを続けたとしても、 ますます差が広がるのは目に見えている。
何とかしたい。 でもどうにもならない。
何かあるはず。 でもわからない。
そんな堂々巡りの焦りからだろうか。
トオルは夜も遅いというのに、 ついストリートコートまで足を伸ばしていた。
さすがに月が顔を出す時間まで、 ここで練習する人間はいない。
普段は熱気を帯びて見えるコートも 、暗闇に冷やされ静まり返っている。
最初から練習相手がいない事はわかっていた。
けれど、 どうしようもない焦りから来てしまった。
ここに来れば何らかのヒントが見つかりはしないかと。
トオルにとって、 このストリートコートはテニス部以外ではじめて獲得した練習の場所であり、
多くの選手と出会った思い出の場所でもある。
なかでも海南中の村主 (すぐり) との出会い。
彼からは多くのことを教わった。
強くなりたいという信念を持っていれば、 どこにいても、 何をしていても、
全てがテニスの練習につながる。
その大切な姿勢を教えてくれたのが、 村主だった。
こんなとき彼なら、 どうするのだろう。
ぼんやりと考え事をしながら歩き回るうちに、 気がつけば壁打ちボードの前まで来ていた。
思考はお手上げ状態であっても、 体は一人で練習できる場所を探していたらしい。
体に染み付いたテニスへの執念に対し、 思わず深いため息が漏れる。
「オレも相当なテニスバカってことか……」
自分で自分に呆れながらも、 トオルが壁打ちボードに向かったときだった。
隣のボードで、 見覚えのある顔が練習をしていた。
男は一人で二つのボールを巧みに裁いている。
クロスとストレートとを正確に打ち分けながら、 徐々にボールのスピードを加速させている。
よほどの技術と運動能力がなければ、 ここまで長くは続かない。
打ち込めば打ち込むほど、 ボールの速さが上がるというのに、 フォームを乱すことなく打ち続けている。
トオルが知る限り、 光陵テニス部の中で、 ここまでの高度な練習をしている部員はいない。
海南中でもない。
だが確かに彼とは、 どこかで会った記憶がある。
あのイノシシと同じ目をした、 眼光鋭い男。
瞬時に弱者を退かせる気迫を持った男 ―― 去年の都大会優勝校 ・ 明魁学園テニス部部長の京極だ。
トオルの気配に気がついたのか、 京極はいったん練習を中断した。
おそらく彼は、 地区大会でチラリと見ただけの他校の一年生を覚えていないのだろう。
挨拶することもなく、 すぐにまた練習を再開した。
鮮やかなボール裁きを目の当たりにして、 トオルはひとつの決心をした。
あまりにも大胆かつ無謀な決心を。
しかし、 それを口にするのは彼の練習が終ってからだ。
ここは学校の部活と違い、 他人の練習の為にやって来る人間など一人もいない。
互いの練習の邪魔をしないというのが基本ルールだった。
彼の流れるようなフォームと、 ステップを頭に刻みながら、 トオルは終るのをじっと待っていた。
三十分ほどしたところで、 京極はもう一度トオルに視線を移した。
「ここのボード使いたいのか?」
「いえ、 京極さんにお願いがあって、 練習が終るのを待っています」
「誰かは知らんが、 見ず知らずのヤツにお願いされる理由はない」
「オレは、 光陵学園一年の真嶋透です」
「名前はいい。 どうせ覚える気はない」
そう言って、 京極はまたボードに向かった。
更に三十分が経過した。
それでも終るのを待っていると、 さすがに根負けしたのか、 京極が練習の手を止めた。
「このままいても身体冷やすだけだぞ」
「それでも、 オレ待っています」
「ったく、 この時間なら集中できると思ったんだが、 とんだガキに捕まった。
で、 用件は何だ?」
京極は 「あくまでも試しに聞くだけ」 という態度を崩していない。
ラケットとボールを握ったまま、 すぐにでも練習を再開する構えだ。
突拍子もない頼みなのは承知の上で、 トオルは覚悟を決めて頭を下げた。
「オレと試合してください!」
一瞬だけ間があったが、 すぐに京極が理由を尋ねてきた。
「なぜ俺と?」
「あなたが強いから」
それ以外の理由はなかった。
自分で考えた自主トレも、 ストリートコートでの練習も、 ほとんど成果が上がらなかった今となっては、
自分より強い相手と試合する事ぐらいしか思いつかなかった。
トオルの言葉を否定することなく、 京極は再び質問をした。
「見ず知らずのオマエが、 何故そう思う?」
「オレの勘です」
「だが、 俺にはオマエと試合する理由が無い」
「どうしてですか?」
「オマエが弱いからだ」
そう言われれば、 ぐうの音も出ない。 当然の理屈だ。
京極という男は、 村主ほど甘くはないらしい。
こうなったら最後の手段に出るしかない。
土下座 ―― この街に来て四度目になる土下座だ。
「お願いします。 1ゲームだけでも構いません。
オレと試合してください!」
必死で頭を下げるトオルを無視して、 京極は帰り支度を始めた。
明魁の部長ともなれば、 こういう試合の申込みやら挑戦は日常茶飯事なのだろう。
いちいち付き合っていては時間の無駄だと、 その態度が示している。
だいいち試合をして利になるような相手なら、 とっくに顔も名前も知っている。
この時点でトオルは、 彼にとって何の得にもならない、 ただの無謀な挑戦者に過ぎない。
「今日の練習は終わりだ。 オマエも帰れ」
土下座の脇を平然と通り過ぎる京極に、 トオルはなおも食い下がった。
「頂上が……」
必死だった。
なんでもいいから現状を脱出する糸口をつかみたかった。
「頂上……?」
「頂上がどのくらい高いのか、 知りたいんです」
京極の足が止った。
「オレが目指している頂上が、 どのくらい高いのか。
どこまで登ればたどり着けるのか、 どうしても知りたいんです!」
トオルの目は真剣そのものだった。
都大会優勝候補と噂される明魁の部長なら、 確実にハルキより強いはず。
ハルキとの歩幅を見極めるためにも、 頂点に君臨する男の実力を体験したかった。
ふうっと、 京極の口からため息が漏れた。
「1ゲームだけだ。
そのあいだに俺のサービスが一本でも返せたら、 ハーフマッチやってやる」
ネットを挟んで京極と向き合いながら、 トオルは久しぶりに興奮していた。
初めて山の中でイノシシと対峙したときの、 あの興奮だ。
彼は目つきだけでなく、 全身から発する気迫そのものが、 山の主と呼ばれたイノシシそっくりだった。
その彼から、 高いトスがあがる。
すると次の瞬間、 ボールはトオルの足元をすり抜けていた。
ノータッチ・エース。 つまり一度もボールに触れることなくサーブを決められた。
彼が放ったサーブは、 フラットサーブのはず。
回転がかかったわけでも、 軌道が曲がったわけでもない。
しかしスィングが速過ぎて、 コースも何も見る暇がなかった。
当然ボールを追うことなど不可能に近い。
予想以上に、 この山の主は強いらしい。
今度は、 かなり後ろにポジションを置いてみる。
たとえ取れなくても、 ボールの軌道ぐらいは目で追えるはずだ。
ふたたび京極から高いトスがあがる。
わずかだがフォームが見えてきた。
それはまるで釣りざおのように、 体全体が竹で出来ているようなしなやかさだった。
そして、そこから繰り出されるボールもまた、 勢いよく伸びる釣り糸のように、 まっすぐコートに突き刺さる。
だが肝心のボールが速過ぎて見えない。 一体どうすればいいのか。
考えている暇はない。 京極からのサーブはあと二本だけ。
見えなくても、 見るしかない。
取れなくても、 取るしかない。
自分に残された道があとの二本のサーブにかかっているように思えた。
神経を研ぎ澄まして、 じっと相手の動きに集中する。
三本目のサーブが放たれようとしている。
その時、 ひとつだけコースを予測する糸口が見えた。
ボールが見えないのなら、 フォームから判断できないだろうか。
一連の流れの中で、 体が横向きから前向きに転じる瞬間がある。
その方向こそが、 京極が狙ったコースに違いない。
サーブが今までと同じフラットならば、 ボールはほぼ直線に飛んでくる。
そこのタイミングを狙って、 打つしかない。
釣竿が横から前へと、 うねり始めた。
「よし、 いまだ……!」
トオルのラケットが空を切った。
フレームにわずかにボールが触れた感覚が残る。
返せはしなかったものの、 どうやらコースはこのやり方で判断して良さそうだ。
「次はいける!」
まるで暗闇から希望の光を見出したような気がした。
腹の底からわき出る興奮が、 体全体に伝わる。
自分より強い奴を前にしたときの、 本能から来る興奮。
感情が引きおこす興奮は胸の鼓動だけですむが、
本能が導く興奮は、 腹の底から沸き上がり、 全身の血まで騒がせてくれる。
それにつられて、 あの感覚が蘇る。
最高に集中力が高まったときの独特の感覚。
静まり返った頭の中で、 コマ送りに映し出される映像と、 京極のフォームが重なって見えてくる。
しなやかな動きが、 横向きから正面に転じる一瞬。
「ここだ!」
相手のフォームからサーブのコースと飛距離を予測し、 ラケットを振った。
この感触は確かに当たっている。
最後の最後でついにサーブをとらえたのだ
だが京極のボールは予想以上に重かった。 体格の割には荒木並みの重圧感がある。
必死で押し返えそうとしたが、 トオルのリターンはわずかにネットにかかり、 ゆっくりと下へ落ちていった。
トン、 トトトンと、 ボールの軽やかなバウンド音が暗闇に響いた。
さっきまで鉄の塊のように感じたボールが、 今は力なく足元で転がっている。
それと同時に、今まで見えていた希望の光が、 もとの虚しさへと戻っていった。
結局、四本ともサーブを取れないままゲームを終了させてしまった。
トオルはボールを返し切れなかった自分のラケットを、 じっと見つめた。
村主のラケット、 唐沢のラケット、 成田、 千葉、 ハルキ ――
次々と強いと思う選手のラケットが思い出される。
同じように使っているのに、 扱う人間によって何故こうも差が出るのだろう。
ラケットを握り締めうつむいたままのトオルに、 京極がゆっくりと近づいてきた。
「頂上は、 見えたか?」
「いえ……せっかくのチャンスだったのに……
オレには頂上を見る資格もないなんて……」
次の言葉が続けられなかった。
あっけなく通り過ぎた頂上を見るための切符。
自分に力がないために、 すぐ目の前まで来ていたのに逃してしまった。
「どうして……?」
悔しくて、 情けなくて、 堪えようとした涙が、 トオルの喉を詰まらせた。
負けず嫌いの人間にとって、 悔し泣きほど堪えるのに手こずる涙はない。
やっと見つけた希望の光を、 自分の手で逃してしまった悔しさが一つ二つと頬をつたっていく。
ほとんど初対面の人間の前で、 悔し泣きするのは初めてのことだった。
相当みっともない行為だとわかっている。
しかし、 やり場のない悔しさは一度あふれ出したら止らなかった。
四本とも返せなかった京極のサーブ。
一度もネットを越えなかったボールは、 なかなか壁を超えられない現状を表している。
コートの中央に立ちはだかるネットが、 強者と弱者を隔てる役割をしているかのように見えた。
向こうの景色が見えるのに、 自分の放ったボールだけがネットに阻まれ落ちていく。
こんな時に限って、 バリュエーションで負けた悔しさまで、 セットでよみがえってきた。
なぜ超えない、 なぜ勝てない、 なぜ縮まらない。
うつむいたままのトオルから、 いくつも滴り落ちる涙を、 京極はしばらく眺めていた。
「オマエが本当に頂上を見たいのなら……
来週のこの時間までに、 俺のサーブを返せるようにしておけ」
山の主から低い声がもれた。
「えっ? 今、 なんて……?」
一瞬、 トオルは耳を疑った。
「俺は同じ事は二度言わない。 聞こえないバカに用はない」
「あっ、 いえ……聞こえました。
あの、 それって……もしかして、 もう一度チャンスをくれるって事ですか?」
思わぬ展開におどろくトオルを無視して、 京極が続けた。
「坊主、 先に言っておく。 俺のサーブを根性だけで返せると思うなよ」
山の主の目がギラリと光る。
「ありがとうございます! でも、 どうして……?」
「俺は面倒くさいのが嫌いだし、 いい人でもない。
だから次がラストチャンスだ。 じゃあな!」
なぜ京極が心変わりしたのか、 その返事からは推測できなかった。
ただ、 これ以上の質問を迷惑がっていることだけは確かなようだ。
そしてもう一度チャンスをくれることも。
「ありがとうございます。 次ぎは必ず……」
トオルは京極に一礼すると、 完全に山の主の姿が消えるまで見送っていた。