第32話 道標
早朝からトオルは校門の前で滝澤を待っていた。
「俺のサーブを根性だけで返せると思うなよ」
昨夜、 京極に言われた台詞。
この意味を、 うちに戻ってから何度も考えた。
おそらく闇雲にトレーニングをするだけでなく、
何かもっと工夫をしろと言いたいのだろう。
そして、 あれこれ悩んだ挙句、 ようやく自分に足りないものが
見えてきた。
今までトオルは、 先輩達のプレーを真似ることで
力をつけた気になっていた。
たしかに上手い選手の真似をするのは悪いことではない。
しかし、 それだけでは自分自身の弱点や欠点を改善できずに
放置することになる。
つまり非常にバランスの悪いプレイヤーになりかねない。
荒木との対戦で手も足も出なかったのは、自分の苦手とする要素が
そこにあったからだろう。
京極の言うとおり、 根性だけでこの先は進めない。
まずは己の実力を正確に分析した上で、 補うべき点を補い、
効率よく力を伸ばす練習方法を見つけだすこと。
ここから始めなければならない。
それに気づいたトオルは、 滝澤に相談する事にした。
部内でも知識の広さにかけては、 彼の右に出る者はいない。
集めたデータの分析と、 トレーニングプランの作成に関して、 とくに彼は優れた才能を持っている。
現役のマネージャーですら 彼の意見を求めるほどだ。
しばらく校門で待っていると、 滝澤と唐沢のふたりが登校してきた。
クラスが同じせいか、 この二人は行動を共にすることがやたらと多い。
トオルは滝澤の前に駆け寄ると、 ペコリと頭を下げた。
「滝澤先輩、 お願いがあります。 オレに力を貸してください!」
「あれ、 今日は土下座じゃないのか?」
すぐさま唐沢が、 からかってきた。
前に似たような場面で、 トオルは唐沢に土下座をしている。
つい先月のことだ。 しかも昨夜は京極の前で やったばかりである。
自分の行動パターンが同じことに気づき、 かなり恥ずかしく思ったが、 今さら後には引けない。
なんとしても自分なりの 練習メニューを完成させて、 今度こそレギュラーを目指す。
その為にはワンパターンだろうが、 なんだろうがお願いするしか策はない。
「あれだけ潔い土下座、 めったに見られないから。 真嶋、 もう一回やってくれ」
後輩の顔をのぞき込み悪ノリする唐沢を、 滝澤がたしなめる。
「こら、 海斗。 あんまり坊やをからかわないの。
自分だって、 そろそろ来る頃だって言っていたくせに……」
「そうだったか?
ま、 せいぜい可愛がってやってくれよ。 俺の大事な育成馬だからさ」
「育成馬」 といわれて素直に喜べる心境ではないが、 唐沢がトオルのことを
気にかけているのは確かなようだ。
「いまからミーティングだから、 昼休みに部室に来てくれるかしら?」
「わかりました」
滝澤に約束を取りつけ戻ろうとするトオルに、 唐沢が思い出したように声をかけた。
「そうそう、 オマエの借金。 2万9千5百円だから」
「なっ、 なんで、 そんなに増えているんですか?」
「それがさ……前回のバリュエーションで味しめたヤツらが、 今回ハルキにドカドカ賭けちゃってさ。
もう、 こっちは大損なんだって。
次回こそ頼むよ 『ウ吉』 クン。 君の大逆転、 期待してるから!」
いつもながら悪びれる様子もなく、 唐沢は会議室へと消えていった。
「2万9千5百円って……」
またしてもハメられた。
前回も勝手に掛け金を上乗せして、 借金を増やしたばかりだというのに。
その返済すら、 ままならない状態だというのに。
彼は同じ手口で借金をさらに増やしていた。
しかも、 こっちが試合の敗北に打ちひしがれている間に。
唐沢がトオルのことを気にかけていたのは、 後輩のためを思ったのではない。
あくまでも馬として、 ギャンブルの勝敗の行方を心配しただけのことである。
基本的に前向き思考のトオルは、 自分のことを可哀想だと感じることは滅多にない。
しかしこの件に関しては、 唐沢に目をつけられた自分を哀れに思った。
雪だるま式に増えていく借金を、 本当に返済できる日がくるのだろうか。
このアリ地獄のような借金人生は、 一体いつになったら終るのだろうか。
やっとのことで希望の光を、 ほんの一握り見出したというのに、
知らないうちにまた借金が増えているとは。
「2万9千5百円……マジかよッ!」
あまりの大金に、 一瞬目の前が暗くなった。
中学一年生が背負うにしては、 途方もない額である。
だが、 もう前に進むしかない。 要するに勝てばいいだけだ。
せっかく掴んだチャンスを無駄にしないためにも。
「進むしかねえよな……」
昼休みの部室は、 いつもより閑散として広く感じられた。
慣れた手つきでパソコンを動かす滝澤のとなりで、 トオルは各選手のモデルとなる トレーニングメニューを
見せてもらった。
同時に、 過去の自分のデータを渡し、 それをチェックしてもらいながら、
ここに至るまでの経緯を話していった。
自己流のトレーニング方法では成果が上がらないと気づいたこと。
あらゆる角度から自己分析の必要性を感じたこと。
さらに実力をつけるためには、 自分に合った練習メニューを見直す必要があると判断したこと。
これらを、 一つ一つ順序だてて説明していった。
トオルの話を聞き終えた滝澤は、 その長い説明をひと言で片付けた。
「つまり、 坊やは壁にぶつかったって事よね」
「ええ、 まあ……そんなところです」
さすが分析名人。
言われてみれば、 その通りだ。 つまり 「壁にぶつかったので、助けてくれ」 と、 言いたいのだ。
渡されたデータを見ながら、 滝澤が最初に指摘したのはトオルの知識不足だった。
「ひと口にトレーニングと言っても、 単に走れば体力がついて、 打てば技術が上がる訳じゃない。
それはわかるわよね?」
「はい」
「まずはトレーニングの種類、 方法、 目的。
これらを正確に理解したうえで、 自分のメニューに取り入れるかを判断するものなの」
豊富な知識の中から、 滝澤は必要な情報を絞り込んで解説していった。
彼の分析によれば、 トオルの弱点にして、 伸ばすべき点 ―― それは筋力だった。
ずば抜けた運動神経に対応するだけの 発達した筋力が備わっていないこと。
トオルが何となく感じたバランスの悪さを、 滝澤は数値として具体的に提示してきた。
グラフにしてみると、 筋力の部分だけ極端に数字が落ちている。
パワーボールに苦戦する原因は、 これを見れば一目瞭然だった。
さらに滝澤は解決策として、 ウェイトトレーニングとパワートレーニングを
組み合わせる必要があると教えてくれた。
「筋力をつけるというと ウェイトトレーンングだけを想像しがちだけど、 それだけでは無意味なの」
いくら筋力をつけようとしたところで、 増加するトレーニング量に耐えられるだけの体力がなければ
長くは続かない。
筋力をつけるウェイトトレーニングと、 基礎体力を伸ばすパワートレーニング。
この双方をバランスよく組み合わせなければ、 効果は上がらないということだ。
同様にウェイトトレーニングも、 一箇所の筋肉を鍛えるだけでは効果はない。
「例えばパワーボールを返すために、 腕や肩だけ鍛えても返せるものではないでしょ。
それを支える脚や腹筋も連鎖的に鍛えなくては、 いくら腕や肩だけ鍛えたとしても効果は出ない。
そういう事よ」
先輩の説明を聞きながら、 目的によって、 こんなにもトレーニングメニューに種類があり、
やり方が違うということを、 トオルは初めて知った。
今までの自分は、 トレーニングに対する知識がなさ過ぎた。
これではハルキとの差が開いていくのは当然の結果だ。
最後に滝澤は各トレーニングの 負荷と回数の算出の仕方を説明し、
決して無理をしないよう念を押した。
「成長期にこれ以上無理をすると故障の元よ。 それは、 坊やがよくわかっているわよね」
それはトオルの父を指している。
無理をすれば、 父のようにテニスが出来なくなる危険もあると。
滝澤の指示のもと、 ひと通りメニューの見直しが終ったトオルは、 改めてこの頼れる先輩に感謝した。
さすが軍師 ・ 唐沢の 「知恵袋」 とうたわれるだけのことはある。
その知識と分析力、 プランの立て方はプロのトレーナーのようだった。
「滝澤先輩、 ありがとうございました。 なんてお礼を言っていいか……」
「これで安心しちゃダメよ。 データは常に変化するものだから、 時々更新して見直す必要があるわ。
わからない事があったら、 いつでも言ってちょうだい」
「本当にありがとうございます。 オレ、 いつか必ずご恩返ししますから」
「そう思うのなら、 坊や自身が強くなること。 それがテニス部の為だし、 皆の為になるわ。
そうだ、 坊や。 あなた竹って見たことあるかしら?」
唐突な質問にトオルは首をかしげた。
都会では珍しいかもしれないが、 山育ちのトオルは竹ならいくらでも見たことがある。
「壁ってね、 竹の節に似ていると思わない?
上に登るからこそぶつかって、 そこを突破することで、 さらに上のステージにいける。
壁に突き当たるという事は、 それだけ成長している証拠だと思うの」
今まで壁をそんな風にとらえた事はなかったが、 言われてみれば確かに成長の証ともとれる。
成長しているからこそ壁に突き当たる。 何もしない人間が壁にぶつかることはない。
なんとか壁を突破しようと、 もがいていた気持ちが少し楽になった。
「そうそう、 坊やはその意気揚揚とした顔が似合うわね」
「オレ、 そんなに暗い顔していました?」
「ええ。 落ち込んだ顔も、 母性本能くすぐられちゃうけど、 坊やは今の顔の方がス ・ テ ・ キ !」
隙を突いた滝澤のウィンクをまともに受けて、 トオルは思わずのけ反りそうになった。
しかし、 ここまで世話になっておいて、 あからさまに顔を背けるのは、 さすがに気が引ける。
嫌な予感に取り付かれながらも、 かろうじて両足で踏みとどまった。
しかしデータを分析した時の 真面目な表情から一変して、
隣にいる先輩からは妙な雰囲気が 充満し始めている。
愛しい恋人でも見るようなトロンとした目つきと、 怪しげにアピールしてくる濡れた口元。
しなだれかかるつもりなのか、 こちらに体をくねらせている。
ふと唐沢の 「目をつぶっていれば、 だいじょうぶ……」のセリフが頭の中を横切ったが、 すぐさま否定した。
「強くなりたいけどホモにはならない、 強くなりたいけどホモにはならない……」 と、
魔よけの呪文のように何度も繰り返した。
今朝は壁にぶち当たり、 突破口を模索する事で頭がいっぱいだった。
だが、 よくよく考えると、 こんな密室に滝澤と二人でいる事自体、 危険極まりない行為だ。
一刻も早くこの妙な雰囲気から逃れようと、 トオルが部室のドアを開けようとしたとき。
背後から信じられないぐらい強い力で、 ガッシリと引き戻された。
抱きしめられたと言ってもいい。
「あら、 まだ話は終っていないのよ」
「た、 た、 滝澤先輩……オ、 オレそろそろ……行かないと……」
恐怖のあまり喉が貼り付いて、 まともに声が出せない。
幽霊や、 おばけの類に恐怖を感じた事はない。
もともと度胸のあるトオルのことだ。 山で熊に遭遇した時ですら、 ここまでの恐怖はなかった。
しかし、 オカマとなると話は別だ。 いや、 ホモだったか。
いずれにせよトオルには理解不能なアブノーマルな世界。
正直、 もうダメだと思った。
何がダメなのか、 よくわからないが、 反射的にダメだと思った。
生きた心地がしなかったのだ。
蛇に睨まれたカエルは、 きっとこんな気持ちなのだろう。
完璧に静止状態のトオルの髪を、 滝澤は丁寧に撫でていった。
「坊やは今から、 らせん階段を登ると思ってね」
冷静に考えれば、 早く会話を終わらせなければならないはず。
にもかかわらず、 トオルは混乱しているせいか聞き返してしまった。
「は、 はい?」
「らせん階段よ」
「らせん……階段……?」
先輩のしなやかな指がトオルの髪に絡みつき、 そこからゆっくりと首筋をつたって、頬へと移動した。
もう顔を背けることは不可能な状態になった。
そのうえで滝澤は顔を近づけ、 いかにも大事な話をするかのように声を潜めささやいた。
あの、 生温かい息が耳元にかかる。
トオルの脳裏に地区大会で 「はがい締め」 にされた恐怖体験がよみがえってきた。
「坊やが今まで登っていたのは、 そこそこのプレイヤーが通る直線階段。
そして、 これから登ろうとしているのは、 真のプレイヤーだけが登るらせん階段。
百段登って、 やっと一段分の高さなの」
いや、 待て。
怪しげな体勢はともかく、 滝澤は本当に大事な話をしている。
「頂上に行くには、 見かけ以上に途方もない道のりよ。
だけど坊やが上を目指すと言うのなら、 いくらでもサポートして、 あ ・ げ ・ る !」
その言葉とともに滝澤は、 もう一度トオルの耳元に息を吹き込むと、
強烈なウィンクを残し部室から出て行った。
「助かった〜」 というのが、 正直な感想だ。
48時間ぶりに解放された人質のように、 トオルは全身の力が抜けてその場に座り込んでいた。
気分は、 奇跡の生還を果たした主人公といったところか。
少し気分が落ち着いたところで、 もう一度 「らせん階段」 の話を思い返した。
今まで調子よく力がついたと思っていたのは、 直線階段を登っていたからだ。
そして、今後さらに上を目指すなら 「らせん階段」 を登らなくてはならない。
この努力の差が、 ノンレギュラーとレギュラーの分かれ道なのだろう。
滝澤はそれを言いたかったに違いない。
もっとまともな体勢で、 普通に話してくれれば良かったが、 この際それは贅沢な望みと諦めた。
この個性的なテニス部において、 身の安全を確保しながら前に進もうなどと考えてはいけない。
トオルは、 その 「らせん階段」 の頂上にいるかもしれない男の事を考えた。
長い長い道のりを制したプレイヤー。
その頂点に君臨する男。
それが部長の成田なのか、 昨夜会った京極なのか、 或いはまだ見たことのない誰かなのか。
ようやく、 ふもとに立ったトオルには見当もつかなかった。
だが、 もし目の前にあるのなら、 その 「らせん階段」 を登るしかない。
たった一段を登るのに、 どんなに苦労しようと、 進めない苦しさから思えばどうってことはない。
「おっしゃ! 絶対、 登りきってやるッ!」
その頃、 京極は昨夜の出来事を思い出していた。
サーブを返す度に 徐々に鋭くなっていったトオルの目が、 なぜか頭から離れない。
あれは、 まるで獲物を狙う狼のような、 鋭く研ぎ澄まされた目だった。
あんな目をする男に、 京極はここしばらく会っていない。
正直なところ、 あの目をもう一度見たくて、 再びチャンスをやったようなものだった。
そこへチームメイトの越智がやって来た。
「ずいぶん、 ご機嫌じゃん」
「そうか? ちょっと考え事をしていただけなんだが」
「そうやって京極が腕組みしている時って、 おもしろい奴を見つけたときなんだよね。
誰に会ったの?」
越智とは一年の時からの付き合いだ。
ちょっとした仕草で、 京極の考えている事はお見通しだった。
「あのジャージは、 確か光陵だと思うんだが……」
「名前は? なん年生?」
「俺に人の名前を聞くなって」
「なんだよ。 それじゃあ何にもわかんないじゃん。 相変わらずだな、おまえは」
こうして批判めいた発言が出来るのも、 京極に次いでテニス部ナンバー2の実力を誇る彼だけだ。
「面倒は嫌いなんだよ。 ただでさえ部長なんて面倒くせエこと引き受けてるし。
ただあのガキ……見ない顔だから一年生だろうけど、 俺のフラットサーブを四本目で
ラケットに当てやがった」
それを聞いて、 越智の顔色が変わった。
テニスの名門と言われる明魁の一年生でさえ、 今の段階で京極のサーブをまともに返せる者はいない。
ラケットに当てる事すら出来ないほど、 そのスピードは速かった。
それを、 たった四本で当てるとは、 ただ者ではないと察しがつく。
越智のデータから、 あらゆる情報が引き出された。
「ひょっとして光陵テニス部コーチの息子、 日高ハルキじゃないの?」
「いや、 あのタヌキ親父の息子の顔なら、 わかるはずだ。
あのガキは俺の見覚えのない顔だし、 地区大会でも出場していなかったから、
まだレギュラー入りしていないと思う」
「んじゃ、 あと考えられるとしたら、 誰かの秘密兵器?」
「たぶんな。 成田か、 唐沢か……」
軽い口調と裏腹に、 越智の緻密なコンピューターが分析を開始する。
「成田はそんな器用な男じゃない。 やるとしたら、 もうひとりの方……」
「唐沢か。 あいつなら、 やりかねない」
「どうすんの? そんなに気に入ったのなら スカウトしてくるかい?」
「いや、 もう少し様子を見よう。
あのガキが本当に唐沢の秘蔵っ子なら、 へたに手を出して奴を怒らせたら、 後々面倒なことになる」
唐沢の悪魔ぶりは、 他校にも知れ渡るほど有名な話らしい。
ただ当の本人が秘蔵っ子としてではなく、 育成馬として育てていることまでは知る由もない。
「それに俺の勘だが……」 と、 京極は付け足した。
「あのガキは、 自分が認めたリーダーにしか絶対について行かない。 そんな気がする。
引っ張るにしても、 それなりの手順が必要だ」
腕組みをする京極の口元がかすかに緩んだ。