第35話 唐沢三兄弟
久しぶりに爽やかな青空が広がっていた。
ここ数日の雨のせいでイライラがピークに達したトオルに
とって、 梅雨の晴れ間は何よりの贈り物だった。
部活がなかったわけではない。
都大会を控えたテニス部は、たとえ雨でも屋内トレーニング、
ミーティング、勉強会など活動はいつもより多いぐらいだった。
しかし部活後のストリートコートでの練習までを日課とする人間
には、 この雨続きは辛いものがある。
あそこのコートは夜間の設備は整っているがインドアではない。
つまり雨が降ればプレーが出来ない。
それがイライラの最大の原因だった。
「今日は、 久しぶりに暴れまくるぞ!」
意気込んで向かったストリートコートでは、 黒山の人だかりが出来ていた。
後ろから覗き込むようにして見ると、 海南中の一年部員が背の高い オレンジ髪した少年にボールを
ぶつけられている。
それはラフプレイの域を越えて、 暴力に匹敵する悪質な行為だった。
しかも少年の後ろから、 仲間と思われる連中が応援についている。
どうやら性質の悪いグループにつかまったらしい。
見ているだけの観衆を掻き分けコートに入ったトオルは、 すぐさま相手に向かって怒鳴りつけた。
「おまえら芙蓉の連中か!?」
地区大会以来、 ラフプレイといえば芙蓉学園という図式が頭の中にあった。
「あんなアホ連中と一緒にすんな!」
「って疾斗……何やってんだ!」
振り返った少年は、 先週トオルが川原で出会った唐沢の弟 ・ 疾斗 (はやと) だった。
すでにコートの内と外にアザだらけの部員が数名いる。
普段のトオルなら、 すぐにでも殴りかかるところだが、 疾斗の異変に気づいてかろうじて堪えた。
今日の彼はどこかが違う。
まるで氷で出来たナイフのように、 その目は冷たい光を放っている。
前に川原で出会った時とは別人のようだ。
「トオル……だったよな。 こいつらも 『オレの仲間』 とか言い出すのか?」
「当然だ。 世話になった人の後輩だから、 オレにとっては大事な仲間だ」
「仲間……ねえ。 アチコチ仲間やダチがいて、 ご苦労なこった」
「疾斗、 オマエ弱い者イジメが嫌いなはずだろう。
だったらこれは、 どういうことだ?」
「見てるとムカつくから……悪い?」
瞳の中の冷たい光がわずかに歪んだ。
さっき感じた氷のような印象は、 単に冷たさからだけでなく、
触れれば解けてしまいそうな、 そんな危うさも含まれていた。
「テニスやらないって威張っていた割には、 ラフプレイだけはやるんだな」
「何が言いたい?」
「まともなテニスが出来ないのかって聞いてんだ」
「こんなもん、 マジでやろうって奴の気が知れねえって!」
奥に渦巻くぶつけどころのない怒りが、 トオルとの会話によって徐々に引き出されていく。
「マジでやろうって奴」 のなかには、 おそらく二人の兄が含まれているのだろう。
光陵学園テニス部 ・ 副部長の唐沢海斗と、 その兄 ・ 北斗。
北斗の方は 「光陵の伝統を変えた部長」 という伝説まで語り継がれている。
彼らの話が持ち出されるたびに、 弟の疾斗からは持て余し気味の確執が見え隠れする。
海南を助けるつもりで割り込んだトオルだが、 目の前の少年の方が重症に思えた。
「だったらマジでやるってのが、 どういう事が教えてやろうか?」
わざと挑発的な態度をとってみせる。
「笑わせるな。 オマエ、 まだレギュラーにも入ってねえんだろ?」
二人のやり取りを聞いた海南部員が慌てて止めに入った。
「やめとけ、 トオル。 大会前のオマエにケガでもされたら、 俺たちが伊達先輩に殺される。
もうすぐ来るから、 それまで待って……」
その言葉が耳に入る前に、 トオルはすでに決意を固めていた。
「オレはレギュラーじゃないけど、 ラフプレイするような卑怯な奴には絶対負けない」
「やめとけよ。 こう見えても、 俺は兄貴達と子供の頃からプレーしてきた。
この間の礼だと思って今日のところは見逃してやるから、 とっとと失せろ」
「逃げんのか?
逃げるよりは、 負ける方がマシって言ったのオマエだろ?」
出口へ向かいかけた疾斗の足がピタリと止まった。
わざと止めさせたのだ。 相手の嫌がる言葉を使って。
「オマエが勝ったら何でも言うこと聞いてやる。
だけどオレが勝ったらオレのダチらしくしろ」
「この状況でまだ 『お友達ごっこ』 かよ。 バッカじゃねえの?
オマエらの幼稚な遊びに付き合うつもりはない」
「ああ 『ごっこ』 じゃない。 本気だ……オレのダチに卑怯なヤツは一人もいない」
「うっぜエ野郎だ! そんなに言うなら勝負してやる。
ただし俺が勝ったら 『疾斗様』 と呼べ。 一生パシリとして使ってやる!」
海南部員の心配をよそに、 二人のハーフマッチが始まった。
ボールをバウンドさせる間に、 トオルは一つの作戦を組み立てた。
いまの会話で疾斗は 「子供の頃から兄とプレーしてきた」 と話していた。
「だとすれば……」
最初のサーブの選択は決まった。
トオルのラケットから滑らかな曲線が繰り出される。
「海斗のスライス ・ サーブ! まさか……?」
外にそれていくボールの軌道、 回転、 そしてフォームまでも
唐沢そっくりのスライス・サーブが再現された。
唖然と見送る疾斗に、 トオルが不敵な笑みを浮かべる。
「へへっ! 少しは 『マジで』 やる気になったか?」
疾斗を本気にさせるために、 トオルはあえて唐沢そっくりのサーブを出した。
あの歪んだ危うい目は、 本気でテニスをするのを避けているように見える。
避けるが故のラフプレイ。 自暴自棄というのだろうか。
でなければ弱い者イジメを嫌う人間が、 あんな卑怯なマネを好んでするわけがない。
本気にさせた上で、 彼の本心を確かめたかった。
おそらく出てくる答えは自分と同じ ―― テニスが好きで仕方ないという本音が顔を出すはず。
「ガンガン行くぜ!」
焦る疾斗を追い立てるように、 トオルは次のサーブを打ち込んだ。
「同じサーブが通用するか……いや、 違う!」
慌てて戻る疾斗の足元をフラットサーブが突き抜けていく。
「オマエ……本当にノンレギュラーか?」
疾斗が確認したがるのも無理はない。
サーブのフォームといい、 トリッキーなプレーといい、 トオルは唐沢そっくりの試合を展開している。
よほどのテクニックがなければ出来ない事は、 弟が一番良く知っている。
「だから言っただろう。 卑怯なヤツには絶対負けないって。
オマエと違ってオレは 『マジで』 レギュラー目指している男だから」
言葉尻をとらえて 『マジで』 を連発するトオルに、 疾斗も本気で応戦する構えを見せた。
「ふ〜ん……弱くねエなら、 遠慮なく潰させてもらうぜ」
制服を脱ぎ捨てた疾斗は薄笑いを浮かべている。
危うさに加え、 怒りの矛先を見つけた喜びが、 その狂った笑顔に表れている。
最も危険な形で、 相手を本気にさせてしまった。
テニス部員ではないにしろ、 彼は唐沢ばかりか、 元 ・ 部長の北斗までも共にプレーしながら育っている。
芙蓉学園のラフプレイヤーと違い、 それなりの実力があるはずだ。
「大会前のオマエにケガでもされたら……」
今頃になって海南部員の言葉が耳に届いた。
ここでケガをすれば、 次回のバリュエーションに出場できなくなる可能性もある。
「それでも……」 と、 トオルは思った。
「オレのダチに卑怯な奴は一人もいないから」
胸によぎる不安を打ち消すと、 今度はコーナーぎりぎりにサーブを放った。
長身の疾斗が返球と同時にネットダッシュするのが見えた。
だが、 それを制したのは、 もう一つの唐沢の得意とするショット。
「海斗のパッシング!」
矢継ぎ早に見せられる兄のプレーに、 疾斗は驚きを隠せない。
トオルが力をつけたのは、 ストリートコートでの実戦経験からだけではない。
滝澤と見直したトレーニングメニューにより、 着実に必要な体力、筋力がつき始めていた。
しかも時々ではあるが、 あの京極とも試合をさせてもらっている。
未だ連戦連敗の記録を更新中だが、 試合の勘というものに磨きをかけるには、
充分な役割を果たしていた。
「こいつ、 思った以上に試合慣れしている。何故だ?」
疾斗に疑問を残させたまま、第1ゲームはトオルが先取した。
問題はここからだった。
いくらトオルの実力が上がったとはいえ、 疾斗には子供の頃から兄達とプレーをしてきた経験がある。
その兄達は、 今や高等部と中等部それぞれのテニス部を代表するプレイヤーだ。
そう簡単に点差を許すわけがない。
加えて環境なのか、 血筋なのか、 彼は抜群のテニスセンスを持っている。
いわゆる勘がいい。
その勘は試合にも反映され、 押さえるべきポイントをきちんと処理した結果、
第2ゲームは疾斗がキープした。
ハーフマッチの短い試合では、 先に勢いに乗った側が勝利する確立が高い。
相手が勢いづく前に攻撃を仕かけなければ、 一度傾いた流れを覆すのは容易ではない。
「あのサーブ、 ここで試してみるか……」
本当は次のバリュエーションまで温存したかったサーブではあるが、 今はこの勝負に全力を尽くすしかない。
前よりさらに高いトスを上げると、 それに合わせて高く飛び上がった。
空中から放たれた弾丸のようなサーブ。
それは京極のフラットサーブを返すため、 練習中に会得したジャンピングサーブだった。
高い打点から繰り出されるサーブは、 ただでさえスピードのあるボールを、 さらに加速させていた。
あの屈辱的な試合から掴んだトオルの初めてのオリジナルサーブだった。
「速ッ!」
兄達との試合ならともかく、 ストリートコートでノータッチ ・ エースを決められることなど、
疾斗には今までにない経験だった。
驚きが興奮に変わり、 やり場のない怒りが 「コイツと真剣に勝負したい」 という闘争心へと変わった。
心地よい緊張感が体を包み込む。
そしてその緊張感こそが、 なにより疾斗が追い求めていたものだ。
変化したのは、 それだけではない。
仲間内での乱暴な言葉遣いは消え失せ、 かつて兄たちとプレーした頃の口調に戻っている。
兄の速いサーブに感動し、 高度なプレーを素直に 「スゴイ」 と言えたあの頃に。
だが本人はそれに気づくことなく、 初めて目にするサーブを返すことに夢中になっていた。
唐沢のコピーの後で出されたオリジナルサーブは、 それほどまでに疾斗に強烈な印象を与えていた。
ジャンピングサーブを 仕掛けることで第3ゲームを有したトオルは、 続く第4ゲームに勝負を賭けた。
疾斗に勝つには、 このチャンスしかない。
経験の浅い自分が試合を長引かせるのは、 逆に相手に反撃のチャンスを与える事になり兼ねない。
前の3ゲームでタイミングは一応つかんでいる。
あとは相手のコースを見切ることが出来れば、 狙ったところに返せるはず。
疾斗のフォームがゆっくりと視界に現れた。
かつて見た過去の映像ではなく、 いま現在の映像が目で追える。
これまでの練習の成果が、 運動能力のみならず、 視力にも、 そして勝負の勘どころにも
現れるのを実感した。
「コースが読める……」
その自覚より先に、 トオルの体が反応した。
ストレートでしか返せなかったサーブをクロスで返球すると、
すかさず前に出てネットからボレーを叩き込んだ。
相手のサービスゲームで、 初めてトオルは先制ポイントをあげたことになる。
それは、 このゲームで一気に勝負を決めるという予告でもあった。
思わぬ試合展開にコートを囲むギャラリーが騒然となった。
中には疾斗に向かって野次を飛ばすもの者いる。
無論、 海南サイドではなく不良グループの仲間たちだ。
「疾斗、 一発ぶちかましてやれ!」
「顔面ねらえ、 顔面!」
口々にラフプレイをそそのかしながら、 今にも暴れだしそうな勢いだ。
今まで仲間だと思っていた連中の声が、 疾斗にはひどく薄っぺらなものに聞こえた。
この真剣勝負の最中にラフプレイなど意味がない。
こうして本気で対峙してみて、 心の奥に封じ込めた思いがどれだけ強いかがよくわかった。
周囲に八つ当たりしても何の意味もないことも、 向き合わなければならない対象がどこにあるのかも。
トオルはそれを教えるために、 ケガのリスクを背負って試合を申し込んできた。
心の底でテニスをしたいと願う自分に気づかせるために。
彼が 「ダチ」 と言ったのは口先だけではない。
間違いなく疾斗を友達として扱ってくれている。
その相手に対して、 自分はどう応えられるのか――
ネットを挟み真っすぐ向き合うトオルに対し、 疾斗は覚悟を決めてサービスのポジションについた。
「俺がもっとも得意とするプレーで勝負してやる」
そう宣言してから、 外側に向かうサーブと同時に前方へダッシュした。
トオルが脇に押しやられたのを確認してから、 ネットからのボレー攻撃が開始される。
本来、 疾斗が得意とするのはサーブ&ボレーだった。
右に、 左に、 揺さぶるつもりでボレーを連打するが、
トオルはボールに喰らいついたまま一向に振り切られる気配がない。
「なんて脚力だ……」
そう思った瞬間。 一瞬の隙をとらえて、 トオルのロブが舞い上がった。
「しまった!」
慌てて後ろに下がろうとする疾斗の頭上を超え、 強く回転のかけられたボールはバウンドを繰り返した。
「あれは村主さんが得意のトップスピン ・ ロブ。 アイツいつの間に……」
フェンス越しに試合を見ていた伊達が、 深い溜め息をもらした。
途中から観戦した伊達は、 事情はよく呑み込めなかったが、
この試合が二人のプレイヤーにとって重要な意味を持つことだけは察がついた。
そしてかなり高度な戦いであることも。
「俺たちはとんでもない怪物に出会ったかもしれない」
先輩である村主(すぐり)は、 引退前にトオルのことをそう評価した。
今の溜め息は、 それを改めて認識した為に出されたものだ。
「確かに、 とんでもねエな……」
得意のボレーが抜かれた今となっては、 疾斗にも勝敗が見えてきた。
だが諦めるわけにはいかない。
最後まで本気でやり通す。 それが 「トオルのダチらしくする」 という事だから。
「トオル、 最後の二本は小細工ナシでやらせてもらうぜ」
長身の疾斗から高い打点のフラットサーブが繰り出された。
回転もなにもかけないスピード重視のそのサーブは、 彼の気性そのままを映し出していた。
真っ直ぐに、 迷うことなく真っ直ぐに突っ走ってきた少年は、 いったい何にぶつかったのか。
疾斗のボールを受けて、 トオルもまたフラットで返球した。
互いに試合の決着がつくのを惜しむかのように、 コースを狙うこともせず、 スピンもかけずに、
ただひたすらベースラインでの打ち合いが続いた。
小細工なしのやり取りは力の優劣を決める目的から、 ボールを追いかけることの喜びへと変わっていった。
どのくらい長い間、 打ち合っていただろうか。
十分にも二十分にも思えたが、 集中していたせいか一分ぐらいで終ったようにも感じた。
疾斗のボールが二度ともネットにかかる。
最後の勝敗を決めたのは、 現役のテニス部員との体力差だった。
ネット際で握手を求める疾斗に、 トオルは満面の笑みを浮かべる。
「オレの勝ちだ」
「ああ、 わかってる。 オマエのダチらしくしろって言うんだろ」
負けたわりには、 疾斗はすっきりとした顔をしていた。
後ろで試合を見守っていた伊達から二人に声がかかる。
「心配すんなって。 コイツは言うことはアホだが、 やっている事はまあまあまともだから。
ダチになって損はねえよ」
「伊達さんッ! 全然ほめ言葉になってないッスよ!」
口を尖らせるトオルを囲み、 海南のギャラリーからドッと笑いが起こる。
しかし疾斗が犯した過ちの始末は、 まだ済んでいなかった。
「おい疾斗! 負けたくせに和んでんじゃねえぞ!」
負けた側の松林の連中がコートに入って暴れだしたのだ。
「お前ら、 やめろ! 俺の負けだ。 約束は守れ!」
疾斗の制止も虚しく、 いったん暴れ始めた不良たちは手がつけられない。
「だいたいテメエがダッセエ負け方すっから、 こうなんだよ!」
仲間の一人が疾斗にも襲い掛かってきた。
「オレのダチに手出すな!」
疾斗をかばうようにして啖呵を切ったトオルが、 相手めがけて突進しようとした時。
脇腹をものすごい勢いでタックルした男がいた。
あまりのパワーと死角からの攻撃で、 さすがのトオルも吹っ飛ばされていた。
そして乱闘になるはずのコート内は、 瞬時に静かになっていた。
何が起こったか訳がわからないまま起き上がってみると、
コート中央にすごい形相で仁王立ちした荒木の姿があった。
トオルにタックルした男は荒木だった。
「あ、 荒木先輩……なんでココに?」
質問を無視して、 荒木は松林の連中を睨みつけている。
そのあまりの迫力に、 不良グループたちは一人残らず退散していく。
続いてもう一人、 コートの中にズカズカと入ってくる者ががいた。
「帰るぞ! 荒木、 サンキューな」
その人物はひと言だけ荒木に挨拶すると、 無理やり疾斗の襟首を掴んで外に引きずり出した。
「ちょ、 ちょっと待ってくれよ……兄貴!」
「兄貴」ということは、 彼は疾斗のもう一人の兄、 北斗らしい。
弟の必死の抵抗をものともせず、 北斗は強引に連れ去ろうとしている。
いかに長身の疾斗と言えども、 高校二年の兄とでは体格も体力的にも差があり過ぎる。
さらに次男と違って長男はよほど短気なのか、 懲りずに抵抗する疾斗を蹴り飛ばしていた。
「ちょっと待てよ。 アンタ、 疾斗の兄貴だろ?」
北斗の容赦なしの攻撃に、 トオルも黙って見ていられなくなった。
「ああ、 そうだ。 だからどうした?」
「だったら連れて行く前に、 弟の言い分ぐらい聞いてやったらどうなんだよ!」
驚いたように振り返る疾斗の隙をついて、 北斗はその体をひょいと肩にかつぎ上げた。
肩に乗せられた弟は、 手足をばたつかせるが何の効果もない。
「俺はコイツを回収しに来ただけだ。 更生させに来たんじゃない」
あまりの冷たい物言いに、 トオルの怒りが爆発する。
「兄貴のくせに弟のことが心配じゃねエのかよ?」
「頼んで兄貴になった訳じゃない。 コイツを引き取る気がないなら、 余計な口出しするな」
「やめとけ、 トオル。 無駄だって……」
つかみかかりそうな勢いのトオルを伊達が引き止めた。
何事もなかったようにコートから出て行く北斗の肩の上で、 疾斗はまたあの氷のような目をしていた。
一年部員を助けてくれたお礼だと言って、 伊達がトオルをラーメン屋 「がんこ」 に招待してくれた。
ひさしぶりの 「がんこ」 でのラーメンは格別美味かったし、伊達の好意も嬉しかったが、
トオルはさっきの北斗の横暴さに無性に腹を立てていた。
あの自分中心にしか考えない態度、 横暴がしっかり身についた上からの物言いと、
身内に対する冷酷な態度。
すべてトオルの父・龍之介そっくりだ。
「トオルがそんなにカリカリする事ないだろう」
ふて腐れているトオルを伊達がなだめる。
「正直言って幻滅しました。
村主さんが尊敬しているって聞いたから、 もっとすげエ人を想像していたのに……」
「気持ちはわかる。 俺も初めてアレを見た時、そう思った」
「って事は、 よくある事なんスか?」
「ああ、 しょっちゅうやってるよ。 北斗さんの時もあれば、 海斗さんの時もある。
まあ海斗さんのときは、 もう少し紳士的だけど……」
ラーメンを待つ間に、 伊達が知る範囲で唐沢家の内情を教えてくれた。
それによると、 唐沢の実家はお寺で厳格な父親のもと、
兄弟三人とも厳しい教育を受けて育てられた。
三兄弟のうち、 誰一人としてその教育が反映されているようには思えないのだが、 世間的にはそうらしい。
ところが疾斗が受験に失敗した頃から徐々に狂い始め、 仲の良かった兄弟はバラバラになっていった。
寺の住職の息子、 カリスマ部長 ・ 北斗の弟 、人望厚い副部長 ・ 海斗の弟。
兄二人は光陵学園に入学できたのに、 弟だけは松林に ――
さまざまなプレッシャーが疾斗を苦しめたのだろう。
しかも長男 ・ 北斗は、 世間的にはカリスマ部長だが、
あの横暴さを見れば 「カリスマ=横暴」 の方程式がたってしまう。
にもかかわらず、 光陵だけでなく他校からも、 北斗を尊敬する生徒は大勢いる。
さっき仲裁に入った荒木も、 むかし北斗に世話になったらしく、 ときどき疾斗のケンカを止めに入るらしい。
疾斗は、 どこにいても北斗の監視下にいるようなものだ。
それに、 もうひとり。
トオルが知る限り、 次男 ・ 海斗は世間的には人望厚いかもしれないが、 あの悪魔ぶりは半端ではない。
北斗のように表面に出さないだけ余計にたちが悪い。
尊敬を集めるカリスマ部長は、 家に戻れば横暴で、
面倒見のいい副部長は、 ただの悪質なギャンブラーで。
そういう人間の裏側を見て育てば、 疾斗でなくてもグレたくなる。
「それともうひとつは……」
一瞬だけ伊達はためらいを見せたものの、 すぐに続きを話し始めた。
「北斗さんと海斗さん、 前にトラブルがあったらしい。
それもアイツが荒れる原因の一つだと聞いたことがある」
「兄弟ゲンカってことですか?」
「詳しいことはよくわからないけど、 村主さんがよく気にしていたから……」
言われて思い出したが、 地区大会の時、兄の話をされた唐沢が 露骨に嫌な顔をみせたことがあった。
感情を滅多に出さない唐沢にしては珍しいと思った記憶がある。
「身内だからこそ、 譲れない事ってあると思うんだよ……」
伊達がポツリと付け足した。
確かにトオルにも思い当たる事がある。
他人なら腹が立たないことでも、 親だから、 兄弟だから、 譲れない、 許せない。
そういう他人とは違った境界線が、 肉親に対しては存在する。
「その気持ちを捨てろとは言わないけど、 俺はそれに振り回されるのは、 自分が損するだけだと思う」
珍しくシリアスな顔で伊達が話すのを見て、 「がんこ」 の店主が杏仁豆腐をサービスで出してくれた。
「つまり、 こういう事なんだよ」
杏仁豆腐を指差して、伊達が続ける。
「俺も、 オマエも、 親や兄弟だけの為に生きているわけじゃない。
夢中になれるテニスがあって、 それを続ける事で、 こうして杏仁豆腐をサービスしてくれるオッチャンとか、
村主さんとか、 いろんな人達との絆が出来て、 自分なりの世界が広がっていく」
甘く柔らかなデザートを頬張りながら、 満足そうに伊達が微笑む。
「俺が言わなくてもわかっていると思うけど……トオル、 アイツの最初の絆になってやれ」
「了解ッス! けど、 伊達さん? オレお願いがひとつあるですけど……」
杏仁豆腐の皿に視線を落としたトオルが甘えるように擦り寄った。
「な、 なんだよ、 トオル……気持ち悪いぞ、 オマエ」
「コレ、 いただきます!」
そう言って伊達の器からサクランボを奪い取ると、 トオルは素早く口に放り込んだ。
「あっ! それは最後の楽しみにとっておいたのにッ!」
「やっぱ、 そうッスか?
オレもこの一つしかないサクランボみると、 無性に食いたくなるんですよね〜!
ごちそうさまでしたッ!」
悔しげな伊達に向ってトオルがニッカリと歯を見せる。
「やっぱりいいッスね。 こういう絆って!」
「ったく、 とんでもねえ絆を作ったもんだ……ああ、 俺のサクランボ……」
絆は一つではない。
今はよじれた絆でも、 他の仲間と紡ぐことで、 いつか修正できることがあるかもしれない。
二人のやり取りを黙って聞いていた店主が、 カウンター越しに珍しく口を開いた。
「心配しなくても……絆ってのは、 こうやって増えていくモンだから」
その手には赤いサクランボがもう一つぶら下げられていた。