第6話 サラブレッドと野生馬
年頃の女の子にとって、 朝の三十分ほど貴重な時間はない。
光陵学園は、 制服以外の装飾が自由なので、
毎朝コーディネートするのが、 却って大変でもあった。
あまりキメ過ぎるよりは、 ワンポイント、 遊びの部分を
取り入れるようなファッションが、 奈緒のポリシーでもある。
しかし今朝は、 そんな余裕はなかった。
昨夜、 怒涛のように起きた数々の事件を思い出していたら、
寝そびれてしまったのである。
こういう、 寝坊した時に限って、 いちばん重要な
髪型がキマらない。
奈緒の髪は、 ストレートではないけれど、 比較的クセのない髪だった。
しかし、 額の生え際にツムジがあるので、 きちんとブローをしないと、 前髪がパックリ割れるのである。
前髪 「命」 の彼女にとって、 おでこ全開は絶えがたい。
だが、 今朝はブローもそこそこに、 家から学校までダッシュした。
「あ〜、 今日は屋上から見学しようっと」
テニス部の練習のことだ。
本当はコートの側から見たかったが、 この前髪を近くで見られるのが恥ずかしかった ……
「誰に?」
一瞬、 トオルの顔が浮かんだが、 すぐに否定した。
友達として心配なだけだと思ったし、 たった一日で誰かを好きになるなんて、
自分にはあり得ないと信じていた。
放課後の屋上は、 人気が少なくて好きだ。
全てのものが小さく見えて、 ドールハウスを覗いている気がする。
そのままの気分で、 テニスコートを探してみる。
部員ひとりひとりの顔までは、 小さ過ぎてよく見えなかったが、 トオルらしき人物は見当がついた。
1年部員が、 先輩の指示に従って素振りをしている中、 ひとりだけ、 フォームがメチャクチャなのだ。
素振りというより、 それは 「うちわで風をおこしている」 という表現がピッタリくるほど、 大胆に違っている。
「ダ〜ッと、真嶋! おまえ、俺の説明聞いてたのか?」
二年の千葉が、 慌ててトオルの素振りを止めた。
光陵テニス部では、 二年生が当番制で、 一年生の基礎トレーニングを指導する決まりになっている。
今日は千葉と、 昨日トオルとレースを繰り広げた、 双子の陽一朗が当番だった。
「だいたいグリップの握り方からして、 違うじゃんか。 そんなんじゃ ……」 と千葉が続けようとした時、
「あの、千葉先輩。 グリップって何っスか?」
トオルは、 ラケットを握る部分に名前がついているとは思っていないらしい。
ラケット、 コート、 ボール。
トオルが知っているテニス用語(?)はそれだけだった。
一昨日まで、 テニスは外人がやるものだと思っていたのだから、 無理もない。
「はあ〜? おまえ、マジでテニスの事、何も知らねえのな。 部長が言ってた通りだ」
千葉はトオルに 「ちょっと待ってろ」 と合図をして、 陽一朗としばらく話をしてから、 すぐに戻ってきた。
「よっしゃ! オマエ、 これから個人指導な。
素振りの指導は、 陽一に任せたから、 俺と一緒にちょっと来いや」
千葉はトオルをコートの外へと連れて出た。
テニス部のコートは6面ずつ、 金網のフェンスで仕切られ、 二手に分かれている。
そのフェンスとフェンスの間には、 壁打ち用のスペースが設けられていた。
彼はそこで止ると、 大事な指示を出すかのように、 真顔でトオルに話しかけた。
「まず、一番大事な名称からだ。 俺の名前はケンタだ」
「へ?」
「だから、千葉先輩じゃなくて、 ケンタと呼べって言ってんだ」
トオルは混乱していた。
塔子の話によると、 都会の人間は、 初対面でファーストネームを呼ばないと、教わったはずなのに。
すぐさま千葉に、 その疑問をぶつけてみる。
「あの、ケンタ先輩・・・?
都会の人って、 最初からファーストネームを呼ばないって、 マネージャーから聞いたんスけど ……」
「ブハッ!おまえ、ホントおもしろいヤツだな〜。
なんか外人と話しているみたいだ。 ま、いいや」
千葉はひとりで笑って、 ひとりで納得しながら続けた。
「いいか、 俺の名前を続けて言うと、 千葉ケンタだ。 小学校の頃、千葉県・チバケンってからかわれてな。
だから俺は、 苗字で呼ばれるとトラウマってヤツ、 感じるワケだ」
神妙な顔で話しているが、 どう見ても、 トラウマを持っているタイプには見えない。
彼は、 4月だというのに、 すでに日焼けしていて、 話をしている口元からは、 白く健康的な歯を覗かせている。
接し方も、「親分肌」 の部類だが、 千葉本人が言うのだから、 間違いないのだろう。
「ここだけの話、 俺の苗字は伏せてある。 そのうち 俺、 イコール 『ケンタ』 になるようにだ。
だからオマエも、 これからは俺の事を、 ケンタと呼ぶように ……わかったな?」
「同じ部内で、苗字は隠せないだろう」 という疑惑の方を伏せて、 トオルは 「はい」 とだけ答えた。
体育会系の部活では、 よほどのことがない限り、 先輩に対しての返事は「はい」が基本だ。
これは、世渡り上手な高木から、伝授された知恵だった。
「よっしゃ、 いい返事だ。 俺もオマエのこと、 トオルでいいよな。
オマエの住んでたとこは、 名前で呼ぶらしいな。 マネージャーから聞いたよ」
「気楽にやれ」 と言いたげに、 千葉がトオルの肩をポンと叩く。
「もしかして……」直感的にトオルは思った。
この先輩は、塔子から昨日の出来事を聞いて、 わざと名前で呼ぶように仕向けてくれたのではないか、と。
昨日、奈緒がそうしてくれたように。
「ケンタ先輩!」
トオルの疑惑が、 信頼に変わる。
「オレ、 ケンタ先輩について行きます!」
「ハハハッ! 俺のしごきはハンパじゃねえぞ。 マジでついて来れっか?」
「ウッス!」
「そんじゃ、 素振りから始めるか…… 」
トオルにとっては、 素振りというのは、 生まれて初めての体験だった。
しかしボールがないのに、 ラケットを振るのは、 どうにも力が入らない。
テニスを見慣れていない彼には、 イメージが湧かないのである。
「ケンタ先輩。 素振りって、テニスするのに必要なんスか?」
「あったりまえだ。 基本中の基本だろうが」
「けど、ボールが来ないのに、 ラケット振る真似だけするってのは …… どうもよくわかんないっス」
「確かに、 振り真似じゃあ意味ネエな」
そう言いながら、 千葉は、 レギュラー陣が練習しているコートの側へ、 トオルを連れて行った。
誰かを探しているようだ。
「あのGコートでプレーしている滝澤先輩のフォーム、 よく見てみな」
千葉が指差した方向を見てみると、 何人かの先輩達がコートで打ち合っていた。
その中で、 ひときわキレイなフォームでプレーしているのが 滝澤だった。
ボールがどの位置に落下しても、 同じフォームで打ち返している。
その動きには、無駄がない。
「いいか、 トオル。 テニスってのはタイミングのスポーツだ。 ベストなタイミング ……
つまり、 最も効率よく、 ボールに威力がかけられる状態。 そこで打てば、 最高のショットになる」
彼の説明は、 初心者のトオルにもよく理解できた。
「そのベストな状態を作り出すために、 素振り練習があるってわけだ。 わかるか?」
「はい」
「滝澤先輩は、 うちの部のなかでも、 フォームが一番きれいだ。
最初はイメージ湧かねえだろうから、 ああいうフォームを真似するところからやってみな」
「ケンタ先輩?」
トオルはもうひとつ、 疑問があった。
「滝澤先輩って、 おカマなんスか?」
千葉は答えに詰まっていた。
実は、 自分も一年のときから、 疑問ではあった。
どうも、 あの先輩の話し方は、男にしては、 物腰が柔らか過ぎると思っていた。
が、 こういうデリケートな質問は、 なかなか率直に聞けるものではない。
しかし、 この純真な1年生の疑問には、 先輩として答えてやらねばと思った。
「あのな、トオル …… 」
千葉が答えようとした時だった。
「あ〜っ! なんだよ、 チバケン、 サボリじゃんか!」
陽一朗が、 不満そうな顔して立っていた。
「 『ウ吉』 の個人指導だって言うから、 素振り当番引き受けたのにさ!」
「チゲ〜よ。 今は素振り練習の重要性について、 コイツに教えてたんだよ。
オマエこそ、 サボリじゃねエのか?」
千葉が反撃している。
「俺ッチ達は、休憩タイム。 チバケンと違って、 『ウ吉』 ひとりを教えているわけじゃないからね。
結構疲れるんだって」
「てめエ、 さっきから聞いてりゃ、 チバケンって連呼してねえか?」
「チバケンはチバケンなんだから、 チバケンって呼ばないとね、 千葉県!
『ウ吉』 もさ、 こいつの事は、 チバケン先輩って呼ぶんだゾ」
さっきから陽一朗は、 「ウ吉」 と言って、自分に話しかけてくる。
「あの、 陽一先輩、 もしかしてオレの事ッスか? ウ吉って?」
トオルが恐る恐る聞いた。
「あったりまえっしょ! 他に誰がいるっての?」
「なんだ、 その、 ダッセえ名前は?」
千葉はトオルの前でチバケンと呼ばれたのが、 気に入らないらしい。
「うちで飼っているサルの名前。 『ウ吉』っての。
ホントはさ、俺ッチは ウッチー にしたかったんだけど、 太一が もん吉 にしたいって、 言い出してさ。
もん吉 はちょっとダサイから、 あいだとって 『ウ吉』 にしたってワケ」
いや、 どれもダサイことには変わりがない。
「そうじゃなくて、 なんでトオルが 『ウ吉』 なのか、聞いてんだって!」
「それは、俺ッチの追撃かわしたのって、 『ウ吉』 とコイツだけだからサ。
コイツには名誉ある 『ウ吉』 の称号を与えようかと思って」
「そ、そんな称号いらないッス」
トオルはこんな事なら、 足でも何でも踏まれておけば良かったと、 後悔したが遅かった。
「けどよ、 それならうちの部一番の俊足、 シンゴ先輩がいるだろうが」
千葉が口を挟んだ。
「よっしゃ、 ウ吉 の称号は、その先輩にあげてくれ」 とトオルは願った。
「だって、 慎悟先輩は、 まだ追いかけたことないからね。 とにかくコイツは 『ウ吉』 だから」
「オレ、 ウ吉 はかんべんして欲しいッス」
トオルは涙目になりながら、 千葉に訴えてみた。
「元気出せよ、トオル。 たとえ他の全ての先輩達が、おまえの事を 『ウ吉』 と呼んでも、
俺だけはおまえの事を、 トオルって呼んでやるからよ」
彼は励ましているつもりだったが、 「他のすべての先輩」 というフレーズがトオルを更に追い込んだ。
「そうだ、トオル。 いいネタ教えてやる!」
千葉はトオルに耳打ちした。
「陽一と太一は、 去年までお互い 『ターボー』、 『ヨーボー』 って呼び合ってたんだ。
だっせエだろ? 今度アイツに 『ヨーボー』 先輩って、声かけてみ。 絶対振り向くからよ」
要するに、 千葉は陽一朗を 「ヨーボー」 と呼ばない代わりに
「ウ吉」 の称号を撤回するよう脅せ、と言っているらしい。
「ターボー、ヨーボーじゃ、 どっかの天気予報みたいだろ?」
「へ? 天気予報?」
トオルがキョトンとして千葉を見ている。
「先輩、通じてないッスよ。 コイツの家、テレビないんだから」
ハルキが、 水のみ場から声をかけてきた。
どうやら、 ターボー、ヨーボーという天気予報は、 有名なテレビの番組らしいという事は、 トオルにもわかった。
「げっ!おまえん家、テレビねえのかよ?」
千葉が唖然としてトオルを見ている。
「違いますよ。 テレビはあったけど、電波が届かなかっただけッス」
きっちり訂正しておきたかった。
「変わんネエって。 そんじゃ、 夜とか、 どうやって過ごしてたんだ?」
予想以上の変り種の後輩に、 千葉は興味津々だ。
「夜は、 親父の手伝いで、 ピアノ弾いたり、薬品の整理とか、 道具の手入れさせられたり、
あと、ゲームは、やってましたよ」
「え、 なんで親父の手伝いでピアノ弾くんだ?」
「めんたいこでトレーニングするとか、 どうとか …… って言ってましたけど、 よくわからなかったッス」
「それさ、めんたいこじゃなくて、 メンタル ・ トレーニングじゃないの?」
ハルキが軽蔑したように、 トオルの言葉を訂正する。
「オマエの親父さんの論文に、 書いてあるぜ。 メンタル・トレーニング の重要性。
こういうのを、 宝の持ち腐れっていうんだよな。 自分の親父の価値も知らないなんてさ」
「ハルキ、 おまえさっきから、 なんでトオルにからむんだよ」
昨日の奈緒と同様、 千葉もハルキの異変に気がついていた。
普段は、 他人のことなど "われ関せず" の彼が、 いつになくトオルに絡んでいる。
「べつに…… なんでもないッス」
ハルキはふっと顔を横に背け、 先輩から視線をはずした。
「わかった!」
トオルが 「ひらめいた」 という顔つきで、 嬉しそうな笑顔を見せている。
「ハルキ、 おまえ友達いねえだろう?」
それを聞いた千葉が凍りついた。 それは言ってはいけない、 ひと言だ。
「コイツ、 いきなり本質つきやがる」
そう思ったが、 口にすれば 更にハルキに追い討ちをかけることになる。
「…… 」
ハルキの沈黙が真実を語っていた。
子供の頃から、 テニス漬けの生活を強いられていたせいで、
彼には友達と呼べる人間が、ひとりもいない。
「おまえ、 オレと友達になりたきゃ、 素直にそういえばいいじゃんか」
トオルは、 なにやら大きな勘違いをしているようだ。
「バカじゃないの! おまえ、俺を倒すんじゃなかったのかよ?」
珍しく、 彼はムキになっている。
「ああ、 そうだ。 けど、戦う奴が 友達だって いいじゃねえか」
「はあ? ワケわかんないよ。 おまえと話していると、 バカが移ってきそうだ」
そう吐き捨てるように言うと、 ハルキは練習へと戻っていった。
「う〜ん、 予想通りのおもしろいキャラだね …… 『ウ吉』 クン」
満面の笑みで、 今度は三年の唐沢が近づいてきた。
千葉は、 内心ヒヤリとした。
唐沢がこの顔で近づいてくるときは、 大抵ギャンブルのカモにされる時だ。
「 ウ吉クンって…… もう広まってるんスか?」
トオルの目から落胆の色がうかがえる。
「あれ? 唐沢先輩! いつから、そこにいたんですか?」
千葉はわざと明るい声で、 唐沢に話しかけながら、 トオルに向かって、 「逃げろ」 の合図をした。
だが、 トオルは 「ウ吉」 のショックで、 千葉の合図に気づかない。
唐沢が、 得意のスマイルを浮かべながら、 答えていた。
「う〜んとね、 滝澤がおカマかどうか、 ってとこらへん? ちなみにアイツはホモだから …… 」
「えっ、 そうなんスか?」
トオルが、 真面目に反応している。
「そうそう、 あいつは君みたいなタイプ大好きだからね。 気をつけないと喰われるよ」
「マジっすか?」
本気で怯えるトオルの肩を ポンポンと叩きながら、 唐沢はささやいた。
「俺、 こう見えて、 かなりの情報通だから。 困ったことがあったら、 何でも相談してくれよ」
「あんたが一番やっかいだ」 と、 千葉は内心おもっていた。
唐沢は、 テニス部では部長の成田と 1,2 位を争うほどの実力者であり、
副部長をやるだけのことはあって、 部員からの人望も厚い。
立場上、 部長の成田は、 部内の規律を守るために、 苦言を呈することの方が多い。
反面、 人あたりのいい唐沢は、 部員の相談を受けたり、
悩み事を聞いてやるなどで、 成田のフォロー役に徹している。
周りから見れば、 部長・副部長 の理想形であった。
が、 実際は、 唐沢が相談役をかって出るのは、 試合での部員の情報を掴むためであり、
揺するためであり、 試合の勝ち負けを賭けたギャンブルに、 勝つためであった。
彼は、 ギャンブルをする為にテニス部にいる、 と言っても過言ではない。
気が利く副部長の仮面の裏で、 彼は部員の試合の勝敗を賭けた、 ギャンブルのディーラーを務めている。
その唐沢が、 満面の笑みでトオルを抱き込んでいる。
「ところでさ、 『ウ吉』クン。 ハルキに宣戦布告したんだって?」
「唐沢先輩、 ウ吉 だけはやめてもらえませんか?」
トオルの目が、 ふたたび涙目になっている。
「男が宣戦布告した以上、 当然、 勝つもりなんだよね」
唐沢は 、トオルの懇願をあっさり無視して、 話しを進めている。
「もちろんッス!」
「俺の予想では、 今度のバリュエーションで、 ハルキと対戦することになると思うけど……
今月末までにハルキより強くなれる?」
「ギャンブルさえしなきゃ、 最高のプレイヤーであり、 頼れる先輩なのに ……」
千葉はそう思っていた。
現に唐沢の指導で、 大きく成長した部員はたくさんいる。
彼の冷静沈着な判断が、 試合結果にも充分現れ、 部内で軍師的役割も果たしている。
神様のように慕う部員も多い。
なのに、 唐沢自身は、 プレイヤーである前にギャンブラーだった。
「よくわかんないッスけど、 俺はいつでも勝つもりッス!」
無邪気にトオルが答えている。
「それを聞いて安心したよ。 それじゃ、君、自己投資してみない?」
「ジコトウシ?」
「まず、 君は俺に千円預ける。 今度のバリュエーションで、 ざっと見積もって
ハルキに賭ける奴が30人程。 君に賭ける奴は、 今のところ君ひとり。
ここで君が勝てば、儲けはどうなる?」
トオルが唐沢の罠にかかる前に、 千葉は話の腰を折ろうとした。
「アハハ、 唐沢先輩。 こいつ、 メチャメチャ貧乏なんッスよ。
昨日だって、 シューズが買えなくて、 太一から恵んでもらったぐらいッスから」
努めて明るく割り込んだつもりだったが、 唐沢の方が一枚上手だった。
「そう言えば …… ケンタ。 樹里 が部室に来いって呼んでたゾ」
「なっ …… ! 唐沢先輩、 なんでそれ …… 」
「早く行った方がいいよ。 可愛いマネージャー を待たせちゃいけないって。
なんなら俺が、 コイツの素振り見てやってもいいからさ」
ニヤニヤしながら唐沢が手を振っている。
明らかに、 唐沢の策略だ。
「樹里」 というのは、 千葉が密かに好意を抱いている二年のマネージャー、 柏木樹里のことだった。
恐らく樹里が呼んでいるというのは、 真っ赤なウソである。
これは千葉を遠ざける為の口実であり、 脅しでもあった。
だからこそ、 敢えて樹里の名前を出したのだ。
これ以上妨害すれば、 「ケンタが樹里に惚れている」 事実を暴露する……
というメッセージ付きなのだ。
千葉は、 唐沢を相手に、 阻止しようとした自分がバカだったと悟った。
ギャンブルのことになると 、手段を選ばないのが唐沢という男だ。
「トオル、悪りいな。 ホント、ごめんな」
そう心から謝って、 千葉はその場を離れた。
「気にしないで下さい、 ケンタ先輩。 俺なら唐沢先輩にシゴかれてますから!」
素直に唐沢のいう事を信じているトオルが、 けなげに見えた。
「さてと…… 」
唐沢が、トオルに向き直って質問した。
「おまえ、 騎手のいないサラブレッドと野生馬が競走したら、 どっちが勝つと思う?」
「先輩、 オレ、 競馬よくわかんないッスよ」
「フフッ、そうか。 おまえには、まだこの質問は早かったか」
唐沢が自嘲気味に笑う。
それから、 おもむろに両ポケットからボールを四つ取り出して、 トオルに渡した。
四つとも 「真嶋」 と大きく名前がかかれているが、
部室から拝借してきたボールだという事は、 一目瞭然だった。
しっかり者のマネージャー達が、 唐沢のような部員にパクられないよう、
光陵学園の 「光」 という字をボールに捺印していたからだ。
「これ、オマエにやる」
「やるって、 これテニス部のボールじゃないッスか?」
「ああ、 そうだ」
唐沢はまったく動じてない。
「マズいんじゃないッスか?」
「ああ、 マズいだろうな。 けど、がめたのは、オ・マ・エ。 名前かいてあるし…… 」
「か、唐沢先輩?」
トオルが彼の罠にはまるのは 、もう時間の問題だった。
「ボール4つで、 千円分。 買ったと思って、 俺によこせ」
「そ、そんな、 ムチャクチャなあ。 オレ、 ほんとに金ないッス! カバンも買えって言われてるし、
シューズも地区大会までには、 自分の足に合うもの買っとけって言われて …… 」
千円を出し渋る後輩に、 突然、 唐沢の態度が急変する。
「甘い! オマエ、 人生ナメてんのか? いいか、 よく聞け。
人間、 自分に投資するぐらいの覚悟がなくて、 人生の勝負事に勝てると思うのか!?」
唐沢の舌が、 魔法の呪文をかけ始める。
「よく考えてみろ。 ここで千円、 自分に投資することで、 おまえは後がなくなる。
こうする事で自分を追い詰め、 高め、 そしてオマエは強くなる。
月末には、 間違いなくハルキに勝てる力をつけるはずだ」
普通に考えて、 そんな都合のいいように物事は進まない。
けれど、 彼が放つ魔法に、 トオルはすっかり魅了されている。
ギャンブラーの呪文は、 更に続いた。
「そうなれば、 おまえの取り分は、 少なくとも二万円は固い。
二万円だぞ、 二万円! バッグもシューズもラケットも買い放題だ」
トオルの頭の中で、 二万円の数字が行き交う。
田舎者ほど、 マインドコントロールにかかり易い。
唐沢が、 最後の仕上げに取り掛かる。
「もう一度聞くぞ。 おまえは、自分に自己投資する覚悟があるか?」
「ハイ、唐沢先輩。 オレ、千円払います!」
「そうだ、 それでこそオレの後輩。 健闘を祈るよ、 『ウ吉』 クン!」
「ウッス! 唐沢先輩。 オレがんばります!
けど、 その ウ吉 だけは、 やめてもらえませんか?」
それを聞いた唐沢がニヤリと笑う。
「いいとも、 『ウ吉』 クン。 但し、ハルキに勝ったら …… なっ!」
これでもう、後がなくなった。 ハルキに勝つまで 「ウ吉」 と呼ばれる事になる。
トオルが唐沢の罠に落ちた瞬間だった。