第8話 勘太の麻袋
久しぶりにトオルは、 岐阜の小学校時代の夢を見た。
父・龍之介が突然、 東京に転勤すると言い出してから、
怒涛のごとく過ぎ去った一週間。 三日で引越しの荷物を造り、
一日で入学準備を整え、 その翌日には光陵学園に通っていた。
あまりに忙しくて、 友達と別れを惜しむ間も、 住みなれた山々を
懐かしむ暇も、 ましてや夢を見る余裕すらなかったらしい。
枕に顔を埋めながら、 もう一度、 目を閉じてみる。
同じ夢は見られないとわかっているが、もう少し、 余韻に浸っていたかったのだ。
多くの仲間と過ごした、 あの懐かしい風景に ……
トオルが通っていた小学校には、 熊のような大柄な用務員がいた。
体格のわりに生真面目な彼は 、いつもどこかしら校舎の修理をしていた。
昔ながらの木造の建物は、 古くてあちこちガタガタだったので、 修理するには事欠かない。
名前は熊井なのか、隈野なのか忘れたが、 彼はみんなから 「熊のおっさん」 と呼ばれていた。
もしかしたら体格だけで 「熊のおっさん」 と呼んでいたのかもしれない。
トオルは、 その 熊のおっさん の道具箱を見るのが好きだった。
いろいろな大工道具がつぎつぎと出てきて、 子供の目には宝箱のように映ったのだろう。
熊のおっさんは、放課後になると、よく子供達と遊んでくれたし、 山の事もよく知っていた。
どこに行けば何の実が取れるとか 、どんな魚が取れるとか 、野生の熊並みに知り尽くしていたし、
それゆえ子供たちからは、 親・兄弟のように慕われていた。
小学校高学年ともなれば、 親の存在は疎ましく思う。
だからと言って、 まだ大人のアドバイスが必要な年でもある。
熊のおっさんは、 そんな彼らの 父親と兄貴の中間的役割を果たしていた。
中でも トオルは、特に可愛がられていた。
ヤンチャ盛りの少年は、よくイタズラをしかけては、先生たちから怒られていたが、
彼だけは、いつも笑って許してくれた。
ただ、一度だけ、 熊のおっさん にこっぴどく怒られたことがある。
校庭にある柿の実を、 テニスボールで採ろうとした時、 誤って教室の窓ガラスを割ってしまったのだ。
ガラスを割ったこと、 それ自体を責められたのではない。
トオルが打ったボールが、 窓ガラスを通過して水槽に当たり、 中にいた金魚が全滅してしまったのだ。
すぐに、 謝りに行けば助かったかもしれないものを、
ガラスを割った瞬間に、 怒られると思って逃げてしまった。
熊のおっさん がものすごい形相で、 家まで押しかけ、 熊並みの剣幕で怒鳴られたのを覚えている。
父親の龍之介は、 この時 「てめエの後始末ぐらい、てめエでつけろ」と言って、
息子が熊にさらわれるのを黙って見送っていた。
ふだんは温厚な彼だが、 生命を粗末にするような行動に対しては、 誰よりも厳しい態度で接していた。
結果、 トオルは丸一日、 校庭の柿の木に吊るされるハメとなった。
校長先生が止めなければ、 三日は吊るされていたかもしれない。
そんな苦い思い出もあるが、 それでもトオルは 熊のおっさん が好きだったし、
彼もなにかと気にかけて、 よく可愛がってくれていた。
数日前までいたはずなのに、 岐阜での生活が、 とてつもなく遠い昔に思えていた。
「熊のおっさん、元気かなあ……」
まだ暖かい布団に包まれながら、 トオルは緑に囲まれた懐かしい空間を、 ぼんやりと思い返していた。
そのころ小心者の久保田は、 唐沢の毒牙にかかっていた。
朝のミーティングと称して、 久保田だけを部室に呼び出していたのだ。
くどいようだが、 唐沢はギャンブルの為なら、 何でもする。
彼にとっては、 来週末に迫ったバリュエーション、 いや、正確には
「レース」の、 最終調整の段階に入っていたのだ。
「いいかい、久保田君。 君の、そのテニスに関する ズバ抜けた 知識。
そのままにしておくのは、もったいないよネエ」
満面の笑みだ。
「いや、 ぼくなんて、 そんなに知識なんて、 とんでもない」
久保田は完全にビビッている。
「謙遜なんてしなくていいよ。 俺、 君が入部したときから、 他のヤツとは、違うものを持っているって、
感じてたんだよね …… なにか、 思い当たることない?」
魔法の舌をもつ唐沢から見れば、 気の弱い久保田を思い通りに操縦するなど、 朝メシ前だった。
「アハハ、 わかりますか? いや、 実は、 ぼく、 マニアックな選手の情報とか集めるの大好きなんですよ。
テニス雑誌も月刊購読したりして …… 」
人をおだてて、 情報を収集する。 彼の得意の手口だ。
「なるほどね。 じゃあ、 当然、 テニスのマニュアル本とか、 ルールブックとか、
ひと通り読破しちゃってるってわけ?」
「もちろんです!」
「スゴイな〜。 いや、 感心、 感心。
こういう一年生がいてくれると、 俺たち3年も心強いよ」
久保田は完全に、 唐沢の 「誉め殺し作戦」 にハマっていた。
「そこで、 君の実力を見込んで、 頼みがあるんだけどな〜」
ギャンブラーのささやきが、 久保田を操縦するリモコンに、すり替わった ……
「奈緒、 今日のおかず何だ?」
肉だんごをあげて以来、 トオルは毎日のように、 奈緒のお弁当のおかずをチェックしにくる。
「えっと、 シューマイと、 卵焼きと、 アスパラと ……
全部言い終わらないうちに、 トオルは奈緒の弁当箱を覗いて、 何が入っているか確認していた。
隣の席にいるのだから、 覗いた方が早い。
「そっか、 シューマイと、 卵焼き、 残ったらオレに言え。 喰ってやるから」
そう言われて、 あげないわけにはいかなかった。
「この卵焼き、 甘さ加減がちょうどいいな。 うん、うん、うっめエ〜」
かなり図々しい行為だが、 トオルが喜んでほおばっている顔を見ると、 あげてよかったと思ってしまう。
この感情は、 弟に対しては抱いたことがない。
奈緒の弟も、 よく人のおかずを横取りするが、 その場合はたいてい兄弟げんかへと発展する。
けれどトオルの場合には、どういうわけかケンカにはならない。
それどころか、あげてよかったとすら思っている。
「どうしてかな?」
弟のように気になる存在。
そう思っていた少年を、横目で観察していると、突然、ジジジ ……ジリジリ ……
と布が引き裂かれるような音がした。
続いてビリビリビリ!と、ドサドサッ!が、ほぼ同時に教室内に響き渡る。
トオルの席にかけてあった 「麻袋」が大破した音だ。
「あっちゃ〜! やべエかなと思ってたら、 ついに、やっちまったか」
トオルはそう言いながら、 そこらじゅうに散らばった本やノートをかき集めている。
本だけでも、すごい量が入っていた。
いくら麻袋といえど 、ここまで本を詰め込んだら、 破けるのは目に見えている。
とっさに、 隣の席にいた奈緒も手伝った。
「あれ、 この本…… 」
それは、 奈緒がテニススクールに通っていた時に、 クラブハウスで読んだ事がある本だった。
他にも、 テニスに関するルールブックや、 マニュアル本が五,六冊散らばっていた。
「トオル、 こんなに勉強してたんだ。 スゴイ!」
「いや、 これは今朝、 久保田からもらったばっかりだ。
なんか急にさ、 『おまえには知識が必要だ。 これからは俺が支えになってやる』 とか言っちゃってさ。
いいヤツみたいだな、 久保田って」
唐沢の策略とも知らず、 トオルは素直に感謝していた。
ギャンブラーの最初の指令は、 久保田からトオルにテニスの知識を与えることだった。
テニス知識ゼロの状態では、 いくら頑張ったとしても限界がある。
限られた時間内でハルキとの勝負に勝たせるためには、
肉体と知識の両面からサポートするほうが、 効率がいい。
当然、 先輩としてではなく 、賭けに勝つための戦略だ。
「へえ、 良かったね。 この本は、私も読んだことあるけど、 判りやすかったよ」
トオルと同様、 唐沢の裏の顔を知らない奈緒も、 自分のことのように喜んでいる。
「ああ、 初心者が読んでもわかる本ばっか選んでくれたらしい。
それにしても、 どうするかな、 コレ?」
破けた麻袋をヒラヒラさせて、 トオルは穴の開き具合を確認している。
まだ使うつもりらしい。
男の子が使えそうなカバンなら、 奈緒の家にも、 弟のモノがいくつかある。
けれど、 「それを言うのは失礼だろうか?」 ちょっと迷っていた。
彼女の目から見れば、 どう考えても麻袋を背負った中学生は恥ずかしい。
出来ることなら、 これを機会に 「普通のカバン」 を持って欲しかった。
だが、 テニスシューズも買えなくて困っている人間に、 それを言うのは抵抗があった。
「恵んでやる」 ような態度に思われないかと、 ためらっているのだ。
しかし、 そう思うことのほうが余計に失礼なのでは ……
思考が堂々巡りになっていく中、 麻袋に視線を落とすと、 布地に何か書かれているのが目に入った。
「トオル、 それ …… なんて書いてあるの?」
トオルは照れ臭そうに、 麻袋を広げて、奈緒に見せてくれた。
そこには、 幼い字で 「トオル兄、だいすき」と書かれ、 勘太をはじめ、
何人かの子供のサインらしき文字が、 びっしりと埋め尽くされている。
恐らくトオルを慕っていた子供たちが、 麻袋に想いを書き綴って渡したのだろう。
彼の小学校の生徒は15人程度と言っていたから、 他にもたくさん、 友達がいたようだ。
「これさ、 勘太達がオレの卒業祝いに作ってくれたカバンでさ。
針とか持ったことないヤツらが作ったから、 カバンっていうより、 まんま袋 なんだけどさ。
アイツらなりに、 すっげエ苦労して作ったんだろうなって思ったらサ、 使ってやりたくて …… 」
トオルは、 子供達が書いた文字を、懐かしそうに眺めている。
その目から、 あの琥珀色の優しい光が映し出される。
「人気者だったんだね」
「そんな事ねえけど、 あいつらは、 オレの大切な仲間だ」
確かに彼の言うとおり、 その麻袋は 、カバンというより袋そのものだった。
カバンの底に紐が通せるぐらいの布を縫い付け、 絞り口のところから紐を底へと通して、
リュック形に背負えるようにしただけの代物だ。
布の縫い目は粗く、 ホッチキスでつなぎ合わせた方が、
まだ丈夫ではないか、 と思えるほどお粗末な出来だった。
普通なら、 ありがたく頂戴したとしても、 クローゼットにしまっておくか、
せいぜい部屋に飾っておくのが関の山だろう。
けれど、 トオルは 「大切なカバン」 として、 制服とのミスマッチにもめげずに使っている。
奈緒は、 彼のこういう不器用な優しさが、 仲間をひきつける魅力だと感じていた。
「ねえ、トオル?」
ためらいながらも、思い切って声をかけた。
「もしよかったら、そのカバン、リメイクしてみない?」
「りめいく?」
奈緒は、子供達が書いた文字の部分を残して、 残りを布で補強して、 頑丈なカバンに作り直そうと提案した。
「う〜ん …… リメイクか …… 」
トオルはしばらく、 頭を抱えて悩んでいた。
無鉄砲な彼が、 用心深く考える姿を見せるのは、 これが初めてかもしれない。
「あのさ、奈緒。 その、リメイクって、 針使うよな?」
「うん、 縫い直さないといけない所が、 いくつかあるし」
「実はオレ …… 苦手なんだよな …… その、 針が」
「針って、 裁縫針が? 注射じゃなくて?」
「いや、 針全般」
「針全般」という言葉が存在するかは別として 、どうやら彼は 「針と名のつく全て」 が苦手らしかった。
てっきり怖いもの知らずだと思っていたので、 彼の告白は意外だった。
話によると、 子供の頃、 父親の研究所でイタズラしていて、 棚から箱ごと注射針が落ちてきたらしく、
それ以来、尖った物が苦手なのだそうだ。
「よく槍が降るって言うだろ? 針が降る方が怖いって!
腕とかにさ、 浅く刺さってんだぜ。 プスプスって …… 」
真面目な顔して、 トオルは奈緒に訴えていた。
その顔は、 どんなに怖い体験をしてきたか、 一生懸命に母に説明する息子のようだった。
トオルには悪いが、 身振り手振りを加えながら語る姿を、 カワイイと思ってしまう。
恐らく彼は、 自分が針を持って縫い直すつもりで、 悩んでいたのだろう。
針を苦手とする彼よりは、 奈緒が縫った方が、 はるかに早いし確実だ。
そう確信して、 もう一度トオルに提案しなおした。
「二日くれれば 、私が作ってみるけど …… 荷物とか、 だいじょうぶ?」
「ええっ? マジ、マジ? 二日で、そんなこと出来んのか?
荷物は教室置きっぱするし、 ラケットだけ持って帰るから、 オッケーだ。けど、本当にいいのか?」
いいのかと聞きながら、 少年の目は期待に満ちていた。
「あんまり、 期待されると不安になるけど、 一応、 手芸部だし」
「おまえ、 やっぱ、すっげエなあ! 針、 使えるんだもんなあ ……」
そこは、 針を使えることに感心する場面ではない。
本来なら、 リメイクの方を賞賛して欲しいと思うのだが、
きっと彼はリメイク自体、 まだ理解し切れていないのだろう。
「頼む! こいつを蘇らせてくれ!」
トオルはペコリと頭を下げた。
麻袋を受け取りながら、 奈緒は複雑な気持ちだった。
トオルに 「オレの大切な仲間」と 言ってもらえる勘太たちが、 とてもうらやましく感じていたのだ。
「どうしてかな?」
恋の入り口に立っている時は、 ほとんどの人が、その扉の存在に気づかずに入る。
そして、 少し奥に入ってから、 人によってはドップリと深みに入ってから、
初めてそこが 「恋愛」 という森の中だと理解する。
山あり谷ありの道もあれば、 光り輝くような泉もある。
恋愛の形によって、 多種多様な地形が出現する。
ただ共通して言えるのは、 その森の地形を詳しく記した地図が存在しないという事。
そして初心者には、 そこが迷路のように見えるという事だ。
西村奈緒、 中学一年生。
彼女の場合、 その森に迷い込んだと知るのは、 この数日後だった。