第 19 話 ガラスの優等生

ガラス・イメージ



「本気で」 ジャンを怒らせた罰として、トオル、 レイ、 ビーの三人は、
クリスマスホリデーの間じゅう、 毎晩遅くまで材木店で働かされた。
この時期、 材木店の忙しさは半端ではない。
旅行にも、 パーティにも行かないアメリカ人が、
休暇中に行く先と言えば、 ホームセンターである。
手作りの手間を惜しまない国民性が反映されているのだが、
彼らはそこで資材を買い込み、 家具やら、 家の修理やら、
子供たちの遊具やらを、 大工の存在を無視して
自分達でやってのける。
よってホームセンターの下請けで成り立つ材木店は、
目の回るような忙しさだった。
商品を納めた傍から注文が入り、 運び込む最中に他の資材の在庫を聞かれ、
問い合わせの合間に次の現場から催促が来る。
これが朝から晩まで、ひっきりなしに続く。
しかもジャンの知り合いの店とあって、 店主の人使いの荒さも半端ではない。
文句を言う暇も与えられず、 ひたすら扱き使われること二週間。
リーダーの怖さが骨身に染みた休暇となった。

この過酷なアルバイトの最終日、 ようやく仕事から解放された三人は、 迷わず 『ラビッシュ ・ キャッスル』 へ
なだれ込んだ。
無論、 祝杯を挙げる為である。
「マジで、 きつかったよな?
俺様、 いつ死んでもおかしくないと思ったぜ」
三人の中で最も現場に馴染んでいたビーが、 真っ先に文句を言った。
さすがに重量級の木材を運ぶのは辛かったようだ。
日々トレーニングを欠かさないトオルでさえ、 筋肉痛を起こすのだから、 無理もない。
「オレ、 もう駄目……腹減って死にそうだ」
「だったら、 トオルにはクソまずいキドニーパイを頼んでやる。
俺様はロースとビーフだ。 グレイビーソースのタップリかかったヤツ!」
「きったねえぞ、 ビー!」
ようやく訪れた自由を噛み締めながら、 三人が店の二階へ上がろうとした時だった。
偏屈で有名な店のオーナーが、 カウンター越しに手招きをしている。
彼が自分から話かけるのは珍しいと思って近づいてみると、 オーナーは迷惑そうな視線を一階の奥の席へと向けた。
テーブルにうつ伏せた状態で、 よく分からなかったが、 あの赤茶けた髪は見覚えがある。
メンバーの間では 「トオルが泣かせて追い出した」 事になっているモニカである。
かなり飲んでいるらしく、 彼女の長い手足は好き勝手な方へ伸び、
いつもキュッと一つに結ばれている髪も、 だらしなく肩の辺りでばら撒かれていた。
「みんな嫌い……パパも、ジャンも……
どうせ、 お嬢様ですよぉ……逃げ出しましたよ……自分からね!」
酒まみれで漏れてきた愚痴を聞いて、 トオルは胸の辺りがチクリとした。
「アンタのは、 居場所を失くしたんじゃない。 逃げ出しただけだ。
自分から捨てたくせに、 被害者面するな!」
二週間ほど前、 彼女の甘ったれた態度が気に入らなくて、 直接本人にぶつけた台詞である。

客よりも、 売上げよりも、 店の雰囲気を大事にするオーナーは、 モニカが 「ジャン」 と口走るのを聞いて、
知り合いではないかと声をかけてきたのだ。
店内が騒ぎになる前に、 さっさと連れて帰れということだ。
確かに、 この状況では 「襲ってください」 と頼んでいるようなものである。
ろれつの回らない彼女の周りには、 危なげな男達がいやらしい視線を短いスカートの裾に這わせていた。
「連れて帰るのはいいが、 俺様のアパートメントじゃ、 却って危ない。
トオル、 ここは一つ、 男の責任てことで……」
「ややこしい言い方するなよ、 ビー!」
原因の一端はあるかもしれないが 、酔っ払いを連れて帰る義理はない。
だが、 間髪入れずにレイから痛烈なコメントを浴びせられた。
「だけど彼女、 トオルのあの台詞でかなり傷ついたって感じ?
泣かせたのは事実なんだから、 責任取らないとね」
心の片隅にある罪悪感を突かれると、 返す言葉がない。
ここは 「責任を持って」 世話するしかなさそうだ。

酒豪の父と、 酔っても素面 (しらふ) でもテンションの変わらない母。
この二人の間で育ったトオルは、 本物の酔っ払いの世話をした事がない。
モニカの場合、 絡み上戸というヤツだった。
帰る途中、 彼女は何度も同じ会話を繰り返しては、 一人で怒って泣き崩れた。
「コートに入れないコーチなんて、 あり得ないわよね?」
「そ、 そうか?」
「あり得ないの!」
「わかった、 わかった」
「笑っちゃうわよね?」
「うん、 まあ……」
「だったら、 笑いなさいよ! 早く!」
「無理言うなよ」
「コートに入れないコーチなんて……」
初めは適当に答えていたトオルだが、 会話が振り出しに戻るたびに、
片隅にあった罪悪感がど真ん中を占拠するようになった。
「コートに入れないコーチなんて……」
コートに入るのが怖いとは、 どんな気持ちなのだろう。
ちょっとした言葉で傷ついて、 酔いつぶれてしまうモニカ。
挫折を知らずに育った優等生は、 見た目よりも弱い人間だった。
たぶん精神年齢も、 高度な理論が収まる頭脳に反して、 ずっと幼いのかもしれない。

たくさんの留学生を受け入れているおかげで、 家の中に一人ぐらい増えてもどうってことはない。
やっとのことで自宅に辿り着いたトオルは、 ディナに頼んで空いている部屋を教えてもらうと、
酔いつぶれたモニカを三階まで担ぎ上げ、 何とかベッドへ寝かしつけた。
「ねえ、 彼女だいじょうぶ?」
枕を抱え、 まだ愚痴をこぼす様子を見て、 ディナが心配そうに聞いてきた。
「ひと晩寝れば、 だいじょうぶだろ?」
「そうじゃなくて、 精神的にかなり参っているんじゃない?
気が強いでしょ、 彼女?」
「メチャメチャ気が強くて、 おまけに口も悪い。
どうして分かるんだ?」
「トオルとは経験値が違うのよ。
彼女、 お酒の力を借りないと、 本音が言えないのね。
そういうタイプは一旦折れてしまうと脆 (もろ) いから、 気をつけてあげてね」
「なんでオレが?」
「あら、 責任を感じたから、 連れて帰って来たんじゃないの?
断れない理由があったとか?」
やはり姉貴分の言うとおり、 経験値の差は大きいようだ。
「なあ、 ディナ?
女が泣いている時って、 何て言えば……あ、 いいや。 なんでもない」
途中まで言いかけて、 ディナが意味ありげな笑みを浮かべるのを見て、 質問を引っ込めた。
あれは、 冷やかす準備の整った顔だ。
夜遅くに酔った女性を連れ込んだのだから、 彼女の大好きな類の話題である。
手始めに、 二人の関係を聞きたくて堪らないと、 緩んだ口元にも書いてある。
「何かお姉さんに聞きたい事があったんじゃなあい?」
「いや、 本当になんでもない」
それに、 聞かずとも分かっている事だった。
男女関係なく、 一度傷をつけてしまった心には、 言葉よりも修復の時間が必要なのだと。

次の日 ―― モニカは、 激しい頭痛と共に目が覚めた。
脳みそが岩になったかと思うような激痛である。
少しでも動くと頭が割れそうになるが、 見たこともない部屋にいるのが落ち着かなくて、
重い体を引きずって階下へ降りた。
「おはよう、 気がついた?」
最初にモニカを見つけたディナが、 にこやかな笑顔で声をかけてきた。
同じように数人の学生達が挨拶してきたが、 どの顔も記憶にない。
自分の今いる場所がトオルの家だと分かったのは、 彼によく似た日本人女性が
ハーブティーを勧めてくれた時だった。
「トオルのフレンドね?
これ、 ヘッドのアウチにグッドなのよ」
恐らく 「頭が痛い時に良く効く」 と言いたいのだろう。
スパイシーな香りのするハーブは、 二日酔いの頭をスッキリさせてくれた。
「フェンネルとローズヒップのハーフ&ハーフのハーブ……あらら、 言いにくいわね。
何て言えばいいのかしら? そうそう、 ミックス ・ ブレンド ・ ハーブなの」
日本人は完璧な文章でしか話をしたがらないと聞いたことがあるが、 彼女は片言の英語を駆使して、
メチャクチャな文法に構わず、 堂々と話しかけてくる。
良くも悪くも、 この物怖じしない態度は、 トオルと共通するものがある。
「あの……彼、 トオルは?」
「テニスコートにいるはずよ。 バックサイドのガーデンね」
母親らしき女性に礼を言ってから、 モニカは裏庭へ回った。
頭の中が混乱した。
昨夜 『ラビッシュ ・ キャッスル』 で飲んだところまでは覚えている。
そこから記憶がないという事は、 かなり酔った状態で運ばれたということだ。
分からないのは、 自分を運んでくれた人物が、 あの憎たらしい暴言を吐く少年で、
この豪邸が彼の自宅だという事実。
しかも 「コートを追い出された」 と言っておきながら、 裏庭にテニスコートまである。
ジャックストリート ・ コートに出入りしている他のヤンキー達とは、 少し事情が違うらしい。
トオルに対して多くの疑惑を抱えたまま、 モニカは裏庭までやって来た。

「中に入るなよ!」
ひとまず礼を言うつもりで近寄ったモニカだが、 可愛げのないトオルの態度に一瞬ムッとした。
コートに入れないのを知っているくせに、 意地悪で言っているのだと。
しかし、 脇に掲げられた 「二ドル」 の表示を見て、 考えが変わった。
「もしかして、 お金取られるの?」
「コートの中に入ったら、 誰であろうと一回に付き二ドルだ。
アンタが無駄金払いたいと言うなら別だけど、 うちの親父はプレーしなくても、
通り過ぎた人間からでも容赦なく金取るから」
「アナタ、 ここの家の子供なんでしょう?
どうして自宅のコートを使うのに、 お金が必要なの?」
「そんなの、 知るか! うちのクソ親父に聞いてくれ」
周りを見渡すと、 壁打ちボードには一回の使用料が一ドルと提示してある。
どうもこの家は、 普通の金持ちとは勝手が違う。
このセコい表示と言い、 トオルの身なりも、 口の悪さも、 どちらかと言えば貧乏人に限りなく近い。
確かめたい事は色々あるが、 他人の家について根掘り葉掘り聞くわけにも行かず、
まずは今一番気になる疑問から切り出した。
「あれからずっと、 サーブ練習を続けていたの?」
「当然だ。 これを完成させないと、 次に進めないから」
「どうして、 そこまでジャンを信じられるの?
彼が間違った課題を出しているとは、 思わないの?」

これはモニカの中で、 最も大きな核となる質問だった。
昨日どこまで醜態を見せたか、 なぜ敵対する少年が心変わりしたかも気になるが、
それよりももっと疑問に思うことだ。
トオルとジャンの間には、 強く結ばれた絆がある。
お互い好き勝手言いながらも、 どこかで相手を深く信頼している。
二人に会った時から、 そう感じていた。
部員からも、 コーチからも、 簡単に絆を断ち切られたモニカには、
二人の揺るぎない信頼関係そのものが異物に見えた。
何の根拠もなく、 そこまで他人を信頼できるのは、 どうしてなのか。

「そんなこと考えて、 何になる?」
サーブ練習を続ける少年からの答えは、 モニカの意表を突くものだった。
「オレはジャンを倒すのが目標だから、 その為に出された課題なら、 何だってやる。
それにまだ自分に出来ることを、 全部試したわけじゃない。
諦めるのは、 その後でも遅くないだろ?」
「アナタ、 どうかしているわ。
こんな無駄な練習をずっと続けて……イカレているとしか思えない」
それを聞いたトオルが、 ふっと笑みを浮かべた。
機関銃のごとく反論してくる少年とは、 まるで別人のようだった。
「確かにイカレているよな。
だけど、 心底好きだと、 そうなるのかも」
「心底好き……?」
彼が何気なく使った 「心底好き」 の言葉が、 モニカの脳裏にさまざまな記憶を呼び起こした。
忘れかけていた遠い記憶。

ずっと悩みの種だったバックハンドが上手く決まった時。
初めてスピンサーブを覚えた時、 試合で優勝した日のこと。
どの思い出にも、 今と違う自分がいた。
好きだからこそ、 上手く出来なくても頑張れた。
また、 その過程で出会ったコーチに憧れ、 同じ職業を目指したはずだった。
夢を追い続けていた頃 ―― あの頃の自分なら、 「なぜ頑張るのか」 と聞かれれば、
今の彼のように 「好きだから」 と答えていただろう。
他人から、 まことしやかに語られる理論よりも、 自分の中にある1%の可能性の方を信じたはず。
ごく自然で、 当たり前の理屈だった。
心底好きだから。
それなのに、 ジャンを信じて努力を続けるトオルに対し、 無駄だとか、 限界などと、
指導者にあるまじき発言をしてしまった。
コーチの夢を持つ人間として、 コートに入れないよりも恥ずべき行為である。

「ヘッドダウン……頭が下がっているわ」
「えっ?」
「打った直後に、 振り下ろした腕につられて一瞬だけ頭が下がるの。
コントロールに自信のあるプレイヤーにありがちなフォームよ。
ボールを最後まで目で追うようにしないと、 スィングの加速が甘くなるわ」
「それって、 オレのフォーム……?」
天敵からのいきなりの助言に、 今度はトオルの方が混乱した。
しかし、 今はそれどころではない。
せっかく手にした解決の糸口をみすみす逃す手はない。
言われた通り、 頭を上げるよう意識しながら打ってみると、 驚いたことにボールのスピードがぐんと増した。
今まで勢いよく振ることだけを考えて、 力の無駄遣いをしていたようだ。
実際に頭を上げて視線を残すことで、 肩がスィングの支柱となり安定するため、 力が効率よくボールに伝わる。
言われてみれば簡単なことだが、 無意識のうちについた癖というのは、 案外自分では気づかない。
「これでもまだジャンのサーブには届かないだろうけど、 少しは役に立ったかしら?」
「メチャメチャ役に立った。 ありがとう、 モニカ」
「あら、 意外に素直じゃない?」
「教えてくれた人に礼を言うのは当たり前だ。
それに……その、 この間は悪かった。 言い過ぎたって言うか……」
「何のことかしら?
アタシ、 お酒を飲むと全部忘れるの。 だから、 アナタも忘れてくれない?」
今回はエリックに教えられなくても、 今のが彼女なりの謝り方だと分かった。
「酔っ払って、 暴れて、 絡んで、 ゲロ吐いたことか?」
「えっ……アタシ、 そんなに酷かったの?」
「ゲロは嘘」
「アナタ、 やっぱり性格悪いわね」
「お互い様だ」

彼女と和解できるかもしれないと思った矢先、 出血した素足が目に入った。
ついたばかりの新しい傷だ。
「モニカ、 足切れているぞ。 靴は、 どうした?」
「脱いできちゃった……」
「なんで?」
「ここ、 芝でしょ? ヒールだと、コートを傷つけると思って……」
「バーカ! コートより、 自分の足の方を大事にしろよ。
ほら、 そこに座って」
トオルは彼女をベンチに座らせると、 倉庫から救急箱を取り出し、 すぐ処置に当たった。
母親が雑然と放置したガーデニングの道具か何かで切ったのだろう。
彼女の白い足が、 爪先だけ赤く染まっている。
「アナタ、 今 『バカ』 って言ったわよね?
コーチにも、 パパにも言われたことないんだけど?」
モニカにとって、 足のケガよりも 『バカ』 と呼ばれたことの方が、 傷ついたらしい。
「いいじゃねえか。 テニスバカって意味だ」
「嫌よ。 バカって呼ばれるのは、 絶対にイヤ。
第一、 女性に対して失礼よ」
「ったく、 アレコレうるさい女だなぁ……」
慣れないせいか、 どうも女性に対して優しい言葉をかけづらい。
まして短いスカートの片足を上げさせ、 向き合った状態で包帯を巻く立場にいる者としては、
このタイミングで甘い言葉をかければ、 いやらしく思われないかと気が気ではない。
必然的にぶっきら棒な言い方になってしまう。
「アナタ、 本当はアタシのこと馬鹿にしているでしょ?」
「そんなことねえよ。
さっきのヘッドダウンのアドバイスは、 さすがだと思った」
「……そう……?」
「酒乱で、 化粧濃くて、 気が強くて、 オレが今まで会った中で、 最悪の女だけど……
コーチとしては、 そんなに悪くないと思うぜ」
「コーチとして……?」
「アンタ、コ ーチ目指しているんだろ?
ちょっと理屈っぽいけど、 いいコーチになると思う」
「子供のくせに、 生意気……なんだから……」
「モ、 モニカ?」

またも揺らぎ始める彼女の瞳を見て、 トオルは慌ててフォローに回った。
「わ、 悪りィ。
オレ、 またキツイ言い方して……ゴメンな……」
今回は即行で謝罪を入れてみたが、 彼女は顔を上げてくれなかった。
仕方なくジーンズのポケットに手を突っ込んで、 涙を拭うものを探した。
言葉では無理でも、 せめてフォローする気がある事は分かってもらいたい。
「えっと、 ハンカチ……あれ?」
昔、 目の前で涙を見せる奈緒にハンカチ一つ渡せなくて、 ひどく落ち込んだにもかかわらず、
いまだ何も携帯しない自分を情けなく思った。
テニスの上達と、 日常生活とで、 これほど学習能力にギャップがある人間も珍しい。
「あっ! これ 、使えよ」
うろたえる少年を気の毒に思った神様が導いてくれたのか。
つい、 そう思ってしまう物が救急箱の中にあった。
「アナタって、 本当に非常識な人ね」
顔を上げたと同時に、 モニカの侮蔑を含んだ視線が突き刺さった。
「これ、 消毒用のガーゼじゃない!」
「でも、 ほら、 柔らかいし、 きれいだし……」
確かに、 空港で奈緒に渡そうとした化石のようなポケットティッシュよりは、 何倍も柔らかくて清潔だが、
常日頃からレディとして扱われているモニカには、 滅菌ガーゼは屈辱的な代用品だった。
「いいこと? 女性が泣いている時は、 男は黙って胸を貸すものなのよ」
「へっ?」

突如として、 頭の中が真っ白になった。
思考が停止して、 心臓の音だけが ドクンと響いた。
何の心の準備もないままに、 いきなりアメリカ人のマナーを実行されたのだ。
つまり、 泣いている女に胸を貸す状態。
ジャンなら日常茶飯事なのだろうが、 生粋の日本人のトオルとって、 これは紛れもなく男と女が抱き合う
「抱擁」 という行為で、 心臓が破裂するかと思うほど衝撃的な体勢だ。
誰かに胸を貸してやれるほど、 強い男になれ ―― そう教えられた。 そうなりたいとも思った。
だが、 相手が十八歳の女性では、 まるで話が違ってくる。
頬に当る彼女の髪は思ったよりしなやかで、 華奢に見えた身体の一部は、 女性特有のふくよかさを感じた。
今までに経験した事のない温かくて柔らかな感触が、 自分の胸を通して伝えられる。
嬉しいような、 恥ずかしいような、 このままでいたいような。
複雑な心境に、 何故か罪悪感が加わった。
そして、 奈緒を抱きしめたらこんな感じになるのかと妄想し、 へらっと笑いが出たところで突き飛ばされた。

ムッとした顔で離れたモニカの赤い唇から、 すぐに痛烈な批判が飛び出した。
「やっぱり、 子供じゃダメね。 最低」
「な、 なに!?」
「だって貸せる胸はないし、 信号機みたいに止まったままだし」
悔しさは別として、 彼女の意見は正しかった。
元々、 彼女の方が背は高い。
その相手に胸を貸そうとしても、 涙に濡れた顔はトオルの肩の上に来てしまう。
胸ではなく、 肩を貸している状態だ。
しかも、 髪をなでるわけでもなく、 優しい言葉をかけるでもなく、
ずっと固まっていたのだから、 非難されても仕方ない。
一方的に抱きつかれ、文句を言われ、 理不尽さを感じなくもないが、
後から付け加えられた一言で、 トオルの不満は解消された。
「でも……ありがとう」
文句に紛れて言われたので、 危うく聞き逃すところだった。
しかし、 彼女は確かに 「ありがとう」 と言ってきた。
プライドが高くて、 ワガママなお嬢様から出た感謝の言葉は、 これまでの因縁を一掃するに値するものだった。
ようやく和解成立である。

「アタシね、 本当はトオルとジャンが、 うらやましかったんだと思う」
「なんで?」
「口に出さなくても、 お互いを信じ合っている。
そういう関係が、 アタシにはないから。
きっとコーチになっても、 生徒と信頼関係を築くなんて無理だろうなって思ったら、 すごく不安になって……」
「まだ、 コートに入るのが怖いか?」
「わからない。 ただ入ろうとすると、 足がすくむの。
自分でも馬鹿げていると思うけど、 怖くて……」
これが彼女の本心なのだろう。
不安げにうつむくモニカは、 ひどく怯えた目をしていた。
彼女の姿が、 ライバルのハルキと重なった。
小さい頃から周囲に期待されて育ったせいで、 知らず知らずのうちに、 弱い部分を誰にも見せられなくなった。
決して誰にも言えないが、 存在してしまう弱い自分。
それを隠し通していくうちに、 自分自身を追い込んでしまう。
ハルキと一緒にいると、 彼も時々こういう目を見せる。

胸を貸すのに失敗したが、 トオルは今の精一杯を言葉にして伝えた。
「あのさ……気が向いた時でいいから、 オレのコーチしてくれよ」
「えっ?」
「好きなら、 上手く出来なくても、 やれるところから始めればいい。
コートに入らなくたって、 ベースラインからでも、 コーチは出来るだろ?」
「そんなの格好悪いわ」
「そうかもしれないけど、 コートの外にいるよりはマシだと思うぜ」
「同じことよ」
「同じじゃない。 少しだけど近づいている。
夢に向かって」
「アナタって、 本当に生意気ね。
だいたい、 これだけ口ごたえする生徒、 御免だわ」
「駄目……か?」
「考えておくわ」
やはり時間が必要なのだろう。
裏庭を後にする彼女を見送りながら、 トオルはモニカがコートへ戻って来るのを黙って待とうと思った。
罪悪感からでも、 責任感からでもなく、 同じ仲間として。
この時までは、 確かに思っていたのだ。

翌日、 トオルがジャックストリート ・ コートへ入ると、 新しくなった丸太の上で、
ジャンと並んで腕組みするモニカの姿があった。
いつもの短いスカートとヒールではなく、 テニスシューズを履き、 髪もきちんとまとめている。
テニスウエアも、 控えめの化粧も、 昨日までの彼女とは別人に見えた。
「コーチのテストに合格するまで、 ここで勉強することにしたの。
ヨロシクね!」
「モニカ、 なんで? 昨日は 『考えておく』 って、 言ってなかったか?」
昨日の怯えた目は何だったのか。
傷つき易い優等生はどこへ行ったのか。
「考えたら、 こうなったの。
ベースラインから指導するのは格好悪いから、 丸太の上からコーチをやらせてもらうわ。
まず、 トオルは昨日のサーブ練習からね。
コースはレシーバーの正面のボディも増やして、 各コース二百本ずつ。 合計千二百本。
それからレイとビーには、 新しいメニューを作ってきたから、 目を通して。
あとブレッドは……」
「ちょ、 ちょっとタンマ!
なんで、 オマエが仕切っているんだよ?
だいたい、 そこへ上がれるのはリーダーだけだ」
どうも雲行きがおかしい。
嫌な予感がする。
「モニカは俺の秘書だから」
スケベ顔丸出しで、 ジャンが口を挟んだ。
「秘書って……?」
「要するに、 他のメンバーとは別格だ。
だからコートで戦わなくていい代わりに、 俺の次に偉いってことだ」
「代わりって、 どこが代わりなんだよ?
戦力にならない奴が、 なんでオレより偉いんだ?」
「やかましい! リーダー命令だ。
今後、 モニカに逆らうことは俺が許さない。
オマエらは、 大人しく彼女の教材になっていろ」
「勝手なこと言うな、 ジャン!
っつうか、 そのエロい顔はなんだ? アンタ下心、 大アリだろ?」
鼻の下が伸びきったジャンに代わって、 モニカがやり返してきた。
「あら、 勝手じゃないわよ。
昨日、 ナンバー2のアナタが頼んできたじゃない。
『オレに、 テニス教えてください』 って」
「あ、 あれは、 そういう意味じゃなくて……」
「口答えしないで、 さっさと始めなさい。 強くなりたいんでしょ!?」
人一倍傷つき易い優等生は、 その分、立ち直りも早いらしい。
結局、 ジャンに加えて口うるさい人間をもう一人増やす結果となり、
トオルは二度と女を泣かせるのは止めようと心に誓うのであった。



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