第 28 話 あるべき場所
丸太の上で朝を迎えるのは、 これで何度目だろうか。
海面に広がる陽の光が細かい反射を繰り返し、
まだ夢覚めやらぬトオルの視界をちらちらと刺激する。
夜景が織りなすオレンジ色のイルミネーションと違って、
朝の光たちは慌しい。
太陽からもらいたてのエネルギーを存分に使い、
初めは港を、 続いてストリートコートを照らした後、
この街の住人達を起こす為に 大通りへと飛び出していった。
トオルは、 ここで迎える朝が嫌いではない。
例えどんな場所にいようと、 誰であろうとも、
平等に与えられるものが存在すると実感出来るから。
ただ一つだけ難を言えば、 体の芯まで堪える寒さである。
特に夏を迎える手前のこの季節は、 昼間との温度差が激しくて、 実際よりも厳しく感じる。
その上、 風通しの良い金網のフェンスと、コンクリートの地面では、 どこからでも体温が奪われてしまう。
「夜通し付き合わせて、 悪かったな。
寒くないか、 モニカ?」
トオルの問いかけに、 隣で膝を抱えるモニカが小さく首を振った。
「だいじょうぶ。
アナタこそ、 身体を冷やさないようにしないと、 肩でも壊したら大変よ」
「オレは慣れているからいいけどさ、 モニカは……その……一応、 女だし」
出来るだけ意識しないよう話したつもりだった。
昨晩の告白は冗談で、 強烈な平手打ちも、 心細げな涙も演技なのだと。
何度も思い込もうとしたが、 あの台詞だけは本心のような気がしてならない。
「自分でも……どうしていいのか分からないの。
ただアナタが好き。 それしか理由が見つからない」
トオルも奈緒に対して同じ感情を持つだけに、 嘘をついているように思えなかった。
いくら消しても込み上げてくる切ない想い。
あらゆる手段で否定しても、 最後には同じ結論に達してしまう。
ただアナタが好き ―― それ以上でも、 それ以下でもなく、 その後どうしたいのかも分からない。
認めるだけで背一杯になる制御不能の感情を、 シンプルに言い表したものだった。
あれは心の底から搾り出さなければ、 口に出来ないと思うのだが。
コートの入り口を確認する振りをして、 トオルはさり気なくモニカの様子をうかがった。
「だいじょうぶ」 と言ったわりには、 唇の色は紫になり、 膝を抱える腕も小刻みに震えている。
「あのさ、 そういうの可愛くないと思うぜ」
わざと憎まれ口で前置きをしてから、 着ているジャケットを彼女の方へ差し出した。
筋金入りの意地っ張りには、 こうでもしないと素直に好意を受け取ってもらえない。
ところが間髪入れずに、 その好意は突き返された。
「悪いけど、 可愛い女でいるより、 今はコーチでいる方が大事なの。
選手の身体を一番に考えるのが、 コーチの仕事。
アタシはいいから、 ジャケットを着なさい」
「モニカは、 いいのかよ?
その……コーチって意味で……」
自分でも余計なフォローを加えたと後悔した。
元々、 直球しか投げられない人間は、 意識しないよう話をするのが上手くない。
意識しないよう気をつけるのだからと考えて、 結局露骨な言い方になってしまう。
今の会話にしても、 わざわざ 「コーチって意味で」 と付け足さなくても、
二人の間にはコーチの話題しか出ていない。
なのに、 女と言われた時点で意識が昨日の告白へ飛んで、
それを否定するために不要なフォローを加えてしまった。
トオルは女からコーチへと、モニカに対する標準を慌ててリセットした。
彼女の気持ちに応えられない以上、 あの告白は冗談と受け取るしかない。
例えそれが演技だったとしても、 二度と触れてはいけない。
中途半端な態度を取られるのが、 きっと一番辛いはずだから。
「いいも、 悪いもないの。
アタシが選んだことだから」
挙動不審のトオルに反して、 モニカは毅然とした態度を通している。
「モニカがそう思うなら、 いいんだけどさ……」
自分でも歯切れの悪さを自覚したが、 これ以上余計な事を話せば状況が悪化しそうで、
トオルは突き返されたジャケットと共に大人しくしていた。
すると、 ぎこちない会話を修復しようとしてくれたのか、 彼女の方から新しい話題を提供してきた。
「ねえ、 トオル?
アタシが何故コーチになろうと思ったか、 まだ話していなかったわよね?」
「そう言えば、 聞いたことないかな……」
「アタシね、 アナタと違って、 すごく飲み込みの悪いプレイヤーだったのよ」
「へえ……そんな風には見ないけど……」
それまで忙しく動き回っていた光たちが落ち着きを取り戻し、 初夏ならではの爽やかな空を演出している。
トオルはふと綺麗だと思った。
上空から注がれる透けるような朝の光も、 それを受けて本来の色を取り戻したモニカの横顔も。
ややこしい恋愛感情を抜きにして、 単純にそう感じた。
夢を語り始める人間の横顔は、 どんな状況でも輝いて見える。
「身体で覚えるよりも、 理屈の方を先に考えてしまうタイプだったのよ。
だから、 コーチが提示した練習メニューにも素直に従わなくて。
アタシを持て余して、 何人も担当コーチが替わったわ」
二人の間で立ち往生するジャケットを取り上げると、 モニカはトオルの肩にかけてから、 また話を続けた。
「自分が恵まれた環境にいると知らなかったのね。 代わりは腐る程いると思っていたから。
アタシのせいで辞めていったコーチもいたけど、 何とも思わなかった。
でもね、 ある時、 素晴らしいコーチとの出会いがあったの」
彼女の頬が紅潮するのが分かった。
話の核心に触れる前に、 記憶の方が先んじて興奮してきた顔だ。
「そのコーチは、 アタシが納得するまで根気よく説明を繰り返してくれたわ。
何故この練習が必要なのか、 それによって、 どんな成果を得られるのか。
全部説明してから練習に取り掛かるの。
アタシがコーチなら、 きっと投げ出していたと思うわ。 だって、 すごく忍耐力を要する作業だもの」
言われてみれば確かにそうだ。
練習の度にトレーニングの必要性を説くコーチなど、 聞いたことがない。
「だけど、 彼は何度もそれを繰り返したの。
アタシが彼を信用して、 素直にコーチの提案を聞き入れるまでね。
それでようやく分かったの。 彼がまず優先させたのは、 生徒との信頼関係を築く事だって」
以前彼女は、 トオルとジャンの関係を羨ましいと言ったことがあるが、
恐らくその発想は、 信頼関係を第一に考える コーチのポリシーが根底にあったからだろう。
「前にどうしてコーチになったか、 彼に聞いたことがあったの。
そうしたら、 なんて言ったと思う?」
トオルはすぐには答えられなかった。
プレイヤーなら即答できる。
しかしコーチという職業は、 人の成長を見て何が楽しいのか、 正直なところ理解できない。
「 『プレイヤーが輝く瞬間を、 最初に見られるのがコーチだから』 って、 彼はそう答えたの。
繰り返し伝えてきたことを、 生徒が自分の物にした瞬間。
ずっと超えられなかったハードルを越えた瞬間。
そういう時の選手は、 すごく輝いて見えるのよ。 さっきのアナタみたいにね」
「さっきのオレ?」
「そうよ。 アナタだけじゃないわ。
ビーもレイも、 課題をクリアした時の顔は、 皆輝いているのよ。
そして、 その瞬間を特等席で共有できるのがコーチの醍醐味。
だからアタシも、 彼みたいに選手を輝かせるようなコーチになりたいと思ったの」
「そうか、 分かった……いや、 よく分かんないけど、 コーチになる夢が大事なんだって事は、 よく分かった」
これはトオルの率直な感想だった。
たぶん他人の夢を全て理解するのは無理だろうが、 どれだけその夢が大切なのか、 推し量ることは出来る。
自分も夢を抱えていれば、 なお更だ。
歯切れの悪かった会話はいつものテンポを取り戻し、 トオルにも自然な笑みが戻った。
「アナタのお手本が、 登場したみたいよ」
モニカに言われて入口に目をやると、 ジャンがラケットを担いでコートに入ってくるところだった。
二日酔いで朝は大抵機嫌が悪いはずのリーダーが、 珍しく両眼をきちんと開き、 正しい二足歩行で登場してきた。
「ふん、 その様子じゃ完成したらしいな」
トオルの得意げな顔を見て察したらしく、 こちらから報告する前に、 ジャンはベースラインに ポジションを取った。
「ああ。 今から見せてやるから、 腰抜かすなよ?」
丸太から飛び降りると、 トオルもボールを取り出し位置についた。
「自信満々だな」
「オレとモニカの最強コンビで作り出したんだ。
当然だろ?」
「それじゃあ、 じっくり見せてもらおうか?」
「じっくり見る暇ないと思うぜ」
初めてジャンから課題を出されたのも、 こんな静かな朝だった。
最強と呼ばれる男から放たれたサーブは、 今まで目にしたどの球よりも凄まじかった。
凄まじいという表現がピッタリくる程に、 スピードも、 キレも、 重量感も、 全てにおいて次元が違う事を知り、
その途方もない迫力に一歩も動けなかったのを覚えている。
あの時と同じサーブを、 トオルは今から再現しようとしていた。
一回、 二回、 三回とボールをバウンドさせ感触を確かめてから、 全神経をトスに集中させた。
鍵を握るのは、 サーブ前にボールを上げる、 このトスにある。
左手がボールを上げると同時に、 ラケットを持つ右腕もゆっくりとスタンバイに入る。
何度も繰り返される練習の中で、 自然と培われた動作の数々。
最高の一瞬を生み出すために、 それぞれが自分達の役割を心得ているようだった。
視線はただ一つの打点を見据え、 右腕は打点に向かってラケットを振り切れるよう、 じっと出番を待っている。
下半身から背中、 背中から腕へと連鎖を続ける筋力は、 持てるパワーを最大限に活かすべく、
限界までその力を溜め込んでいる。
全ては最高の一瞬を生み出すために ――
ラケットがボールを弾く音と、 同時に聞こえるバウンドの音。
静けさを破った快音は、 二人の男に独自の満足感をもたらした。
「へへっ! じっくり見る暇なかっただろ?」
トオルは、 モニカの言う 「プレイヤーが輝く瞬間」 を自分なりに感じ取った。
たった一球のサーブだが、 ここに辿り着くために重ねてきた努力を思えば、 フルマラソンのゴールに値する。
そして、 そのゴールで待ち構える観客が一人。
労いの拍手も、 賞賛の言葉もなかったが、 そのふてぶてしさを含んだ笑みが合格を告げる証となった。
「ふん、 やっと気づいたか」
「ああ。 ちょっと苦労したけど、 オレには頼りになるコーチがいるから」
実際には 「ちょっと」 どころではなかったが、 可愛げのないリーダーの態度に合わせて、 トオルは見栄を張った。
「どうせモニカが気づいて、 手取り足取り教えたんだろう?」
「違うって! 見つけたのはオレが先だ。
だよな、 モニカ?」
慌てて相槌を求めると、 モニカも脇からフォローしてくれた。
「その通りよ、 ジャン。
最初にトオルが トスを前に上げることに気がついたのよ」
「あ、 いや……それは、 モニカのおかげだ。
オレは、 何となく気になった程度だから……」
昨夜モニカの部屋でディスクを調べていた トオルは、 自分と同じ背丈のプレイヤーが、
長身の選手並に鋭いサーブを使うシーンを発見した。
具体的な方法は分からなかったが、 その映像が気になって、 彼女に一緒に見てもらったのだ。
カメラのアングルが選手の正面から撮られていたので分かり辛かったが、 彼女とシミュレーションしていくうちに、
トスアップ時にボールを前に出して球威を操作していると判明した。
回転をかけないフラットサーブの場合、 スピードを重視するあまり、 なるべく高い打点から打とうとする。
ところがこの選手は、 トスを前に出す事で、 長身の選手と同等のスィングする距離を作り出していた。
但し前に出した分だけスピード上がるという単純なものではなく、 トスの高低差を埋める為の
巧妙なリストワークも要求された。
ラケットがボールを捕らえる瞬間に手首を返し、 一気に溜め込んだパワーを注ぎ込む。
これを下へ落ちて来る単純な軌道の中で行うのではなく、 前へ遠のくボールを捕らえてやろうと言うのだから、
そのタイミングを掴むのは想像以上に困難な作業だった。
しかも落下時間が短い上に、 スィングの距離が増えた分、 倍の速度でラケットを振り切らないと間に合わない。
プロの選手は易々と打ち込んでいたが、 全てのタイミングを合わせるのに、 結局ひと晩かかってしまった。
それでも、 この方法は苦労に値する もう一つの大きな利点があった。
トスを前に出される事により、 受ける側から見れば、 コースの予測が立てづらくなるのだ。
すでにトオルは、 同じフォームで3コースを打ち分けられる。
つまり、 このトスをマスターした事で、 出された課題以上に強力なサーブを得ること出来たのだ。
「俺が出した課題以上のサーブを、 オマエ等二人で完成させたということか」
「だから言っただろ? 最強コンビだって!」
得意満面のトオルに、 ジャンから手厳しい評価が下された。
「サーブを打てるようになったぐらいで、 調子に乗るな。
オマエには、 まだやる事がある」
「ゲッ! そうなのか?」
「この課題は手始めだと、 最初に言っておいたはずだ。 当然、 次の課題もある。
だが、 今日のところは合格だ。 モニカ、 よく頑張ったな」
「だから、 なんでモニカばっかり褒めるんだよッ!?
オレ、 すっげエ頑張ったのに!」
「ほう…… 『ちょっと』 苦労しただけじゃないのか?」
明らかにジャンは、 完成までの苦労を承知の上で、 トオルをからかっている。
努力を認めるとか、 褒めるといった類の言葉を、 この性格の悪いリーダーに求めるのは愚かな行為である。
口を尖らせ不満を露にするトオルに対し、 苦労を共にしたモニカが労いの言葉をかけてくれた。
「トオルは、 よく頑張ったわ。
アナタの歳で、 ここまでのサーブを完成させるなんて、 大したものよ。
捻くれ者のリーダーにもっと自慢してやりなさい」
褒め言葉を強く望んだわりには、 面と向かって言われると照れ臭かった。
「いや……ジャンの言う通り、 完成できたのはモニカのおかげだから。
そうだ! モニカ、 このサーブに名前つけてくれよ」
「アタシが?」
「オレがここに来て、 初めて形になった物だから。
記念っつうか、 忘れたくないんだ。 いいだろ?」
トオルの気持ちを汲み取った彼女は、 しばらく思案した後で、 ある人物の名を口にした。
「それじゃあ……ブレイザー ・ サーブで、 どうかしら?」
ブレイザーは、 ジャンの苗字である。
「なんか、 やる気が失せるネーミングだな」
「どういう意味だ、 それは?」
名前の由来である本人から、 すかさず突っ込まれたが、 トオルはこの時とばかりに反論した。
「だってさ、 サーブ打つ度にアンタの顔を思い出すんだせ。
ムカついて、 集中できねえよ」
「確かに、 オマエのヘタレサーブに俺の名前を使われるのは不本意だ」
「ヘタレって言うな! 返せなかったくせに」
「指示通り完成させたか、 念入りに観察していただけだ。
あんなヘタレサーブ、 その気になれば瞬殺してやる」
「だから、 ヘタレって言うなって!」
「二人とも子供じゃないんだから、 いい加減になさい!」
永遠に続くかに思われた痴話げんかを、 良識あるモニカがピシャリと鎮めた。
「ジャン、 アナタ本当は嬉しいんでしょ? 予想以上に完成度の高いサーブを見せられて。
もっと素直に喜びなさいよ。
それからトオルも。
アナタは伝説のプレイヤーを目標に頑張ったのよ。 何も恥じることはないでしょ?」
二人の性格を熟知する彼女から理路整然と説かれては、 ぐうの音も出ない。
「ブレイザー ・ サーブでいいわね?」
「頼んだのはオレだから文句はないけど、 モニカの名前じゃなくていいのかよ?」
「コーチは、 表舞台に出るものではないわ。
それにこのサーブは、 元々ジャンのサーブからヒントを得ているのだから、 これが一番いいと思う」
「わかった。 それじゃあ、ブレイザー ・ サーブで決まりだ。
で、 次は何をするんだ?」
たった今サーブを完成させたばかりだというのに、 トオルは次の課題が気になって仕方がなかった。
「トオル。 少し休んだほうがいいわ。 アナタ、 昨日寝ていないのよ」
モニカの心配は当然である。
トオルは昨日どころか、 厳密に言えば、 一昨日からまともに睡眠を取っていない。
球技大会の作戦会議で夜通しエリックと語り明かし、 その翌日は球技大会を勝ち抜き、
オズボーンと試合をした後、 昨日の夜から今朝にかけてブレイザー ・ サーブを完成させたのだ。
疲れていない訳がない。
「そう思うんだけど、 何だか絶好調でさ。 こう、 上手く言えないけど……体が軽い感じ?
今なら、 続けてクリア出来そうなんだ」
嘘ではなく、 見栄を張っているのでもなく、 本当に調子がいいと感じた。
そして、 この状態をよく理解する男が、 トオルをネット際へ呼び寄せた。
「だったら、 次の課題を伝授してやる」
ジャンには、 この現象が手に取るように分かった。
なかなか超えられなかったハードルをクリアした直後というのは、 心身ともに興奮して、
理性で歯止めが利かなくなる。
自分がどこまでも高みに行ける気がして、 次から次へと新しいことに挑戦したくなり、
身体もいう事を聞いてくれると錯覚してしまう。
これはあくまでも本人の感覚であって、 実際には違うのだが、 それを説き伏せて無理に休ませたところで、
極度の興奮状態にある選手に効果はない。
同じ体験を持つジャンは、 高揚するトオルに新たな課題を提示した。
「次はアングルボレーだ」
さらに難易度の高いステップを知らせることで、 大抵は鎮静剤の役割を果たしてくれる。
ところが、 それを聞いたトオルは、 ますます興奮した。
サーブをクリアし、 ドリルスピンショットもマスターした今、 自分に足りないのはネット際での決め球だと思っていた。
あの京極を苦しめたジャンのアングルボレーは、 成田のスラッシュボレーを上回るほどの威力がある。
それを引っ提げて光陵へ戻れば、 ハルキを倒す事だって夢ではない。
「よっしゃ、 始めようぜ!」
ここまではエンジン全開だったが、 実際にジャンから送られてくるボールに体の方がついて行かない。
やはり、 体力的には限界のようだ。
「どうした、 トオル?
そんな動きじゃ、 ただのボレーだって打てねエぞ!」
スピードダウンするトオルに対し、 ジャンの球出しは加速する一方だった。
これでは伝授どころか、 ボレー練習にもならない。
この様子を脇で見ていたモニカが、 二人の間に割って入った。
「トオル、 少し休みなさい。
それから、 ジャン? ボールが速過ぎるわ」
モニカの指摘を受けたジャンは、 大げさに腕を広げてみせた。
「これが俺の限界だ。 これ以上遅い球なんて、 出せやしない」
「仕方ないわね。
それじゃあトオルがタイミングを掴むまでは、 アタシが球出しをするわ。
二人とも、 いいわよね?」
「モ、 モニカ……?」
この時点でトオルはある重大な事実に気づいたのだが、 途中まで言いかけて、 ジャンに遮られた。
「頼んだぜ、 モニカ。
トオル、 しっかりやれよ!」
意味ありげな笑みと共に発せられた 「しっかりやれよ」 の激励は、 決してボレー練習を指しているのではない。
ジャンも重大な事実に気づいたからこその後押しだった。
「まずは、 どんなボールが来ても、 確実にラケット面の角度を作れるようにして……」
ポイントを押さえた説明を加えながら、 モニカが球出しを始めた。
そこへ普段通りコートにやって来たビーが、 まず足を止めて目を瞬いた。
続いてレイも、 他のメンバー達も。
彼等もトオルとモニカの練習風景を見て、 重大な事実に気づいたらしい。
「おはよう……あら、 どうしたの? 皆で怪訝な顔をして?」
不思議がるモニカに、 ビーがその理由を述べた。
「モ、 モニカ……今どこに立っているか分かってんのか?
いつの間に、 コートに入れるようになったんだ!?」
これを聞いて一番驚いたのは、 モニカ本人だった。
「アタシがコートに入っている? 嘘!?」
「嘘」 と言って驚く時は、 大抵の場合、 紛れもない事実である。
ベースラインから中に入れなかった彼女が、 球出しをしている。
しかもコートのど真ん中で。
この事実に気づいたジャンが トオルに 「しっかりやれ」 と言い残し、 球出しの役を代わったのだ。
「これって、 夢じゃないわよね?」
突然ハードルをクリアした我が身を、 彼女はまだ信じられない様子だった。
「コーチとしての情熱が、 恐怖心に勝ったということだ。
だから、 言っただろう? モニカはコーチの素質があるってな」
ジャンには最初から分かっていたのだろう。
コーチを志す人間は、 熱意ある生徒の前では、 捨て身になって教えてしまう本能があるという事を。
「ジャン? もしかして、 わざとあんな球出しを?」
「いや、 あれは偶然だ。 俺はそんなに器用じゃない」
「そうそう。 このおっさんの球出しは、 昔から最悪だから。
モニカが自分で超えたんだよ」
リーダーの照れ隠しの発言に、 トオルが調子を合わせた。
「なんだと? 俺の球出しが最悪なら、 てめエのボレーは最低 ・ 最悪だ!」
「それはアンタの性格だろ?
少しはモニカみたいに、 丁寧に指導してみろよ!」
「もう、 二人とも……」
仲裁に入りかけて、 モニカはもっと効果のある言葉を二人に伝えた。
「二人とも、 ありがとう。
本当は半分諦めかけていたの。 もしかしたら二度とコートに入れないんじゃないかって。
でも、 トオルやジャンや、 ここにいる皆と出会って、 忘れていた大事なものを思い出したんだと思う。
ありがとう……まだ信じられないけど……皆のおかげだわ」
心からの感謝を述べる彼女を見て、 ジャンが満足げに頷いた。
「おめでとう、 モニカ。 これで卒業だな」
卒業 ―― 突然リーダーから発せられた言葉を、 その場にいるメンバー全員が複雑な思いで受け取った。
モニカがいずれ去る事は分かっていた。 それも自分達より短い期間で。
本来、 女性がここに出入りすること自体、 危険極まりない行為であり、 仲間になった時もジャンの秘書という名目で
メンバーとは線引きされていた。
それは 「ここにいてはいけない人間」 だったから。
皆の視線が一斉にモニカへ向けられた。
身の丈に合わないハードルを越えられない苦しみを、 彼女は誰よりも知っていた。
周りから見れば大した事でなくても、 本人には高いと感じる時もあるのだと。
その彼女が作る練習メニューは、 各メンバーの能力にきちんと合わせて組まれており、
おかげでモニカが ジャックストリート ・ コートに来て以来、 全員が着実に力を伸ばしていた。
見捨てられる事はあっても、 見守られた経験のない彼らにとって、 彼女の存在がどれだけ励みなったことか。
それを考えると、 言いようのない寂しさが込み上げてきた。
メンバーの想いを敏感に感じ取ったモニカも、 複雑な表情を見せている。
彼女の卒業を祝福する者もいなければ、 それを受ける者もなく、
リーダーが発した 「おめでとう」 は宙に浮いたままだった。
日が高くなるにつれ、 他のメンバー達もコートに集まってきたが、 事情を聞くと皆同様に口を閉ざしてしまった。
「最初からモニカの親父さんとは、 コートに入れるようになるまでという約束だった」
ジャンが後から来たメンバーにも聞こえるように、 ゆっくりと丁寧に話し始めた。
いつもの乱暴な命令口調ではなく、 どちらかと言えば我が子を諭す父親の口調だった。
「いいか、 よく聞くんだ。
ここはモニカのように、 帰るべき場所のある人間が長居するところじゃない。
そして、 オマエ等もだ。
人は本来、 それぞれ 『あるべき場所』 を持っている」
ここで一旦区切ると、 リーダーは一人ひとりの顔を見渡しながら、 更に続けた。
「このジャックストリート ・ コートは、 永遠の居場所じゃない。
『あるべき場所』 へ帰るための砦だ。
最も能力を発揮できて、 最もいたいと願う場所。
自分を必要とされ、 自分自身も必要だと思える場所が、 必ずどこかにある。
ここは、 それを見つける為の仮の居場所だ。
だから、 『あるべき場所』 を見つけたモニカは、 もうここにいてはいけない。 分かるよな?」
ジャンの言うとおり、 ジャックストリート ・ コートは 「あるべき場所」 を失った人間が、
流れ着いて出来た溜まり場である。
初めてトオルがストリートコートに入った時、 ここが自分の望んでいた 「最後の砦」 だと思った。
それは今でも、 そう思う。
しかし世間から見れば 「どん底」 と疎まれる最悪の危険区域で、 モニカのようなプロのコーチを目指す人間が
いつまでも留まる場所ではない。
最後の砦を仕切るリーダーの説明に、 それぞれが自分の流れ着いた経緯を思い浮かべていた。
本当はもっと明るい道を目指していたはずなのに、 理不尽な差別や、 不当な扱いを受けて、
そのルートから外れてしまった。
壁に突き当たり、 出口のない迷路をさ迷った挙句、 このどん底に辿り着いた。
ここしか受け入れてくれる場所がなかったから。
誰も、 ここを自分の 「あるべき場所」 だとは思っていないし、 いくら居心地が良くても、
本来の居場所にしてはいけない。
最後の砦は、 最後の居場所ではない。
トオルはふと、 グラデュエーションの時のジャンを思い出した。
メチャクチャなやり方で仲間のブレッドをコートから追い出した後、 ジャンは一人で丸太に上がり自分を責めていた。
不本意な形でメンバーを卒業させてしまったリーダーの願いは、 ここにいる全員を
「あるべき場所」 に帰してやる事なのだろう。
ジャンの気持ちを察したトオルが、 最初に口を開いた。
「卒業おめでとう、 モニカ。
モニカのグラデュエーションは、 盛大にやってやるからな!」
「トオル……」
「オレ達もすぐ後に続くから。
今度は、 どこか他のコートで会おうぜ」
「他のコートで?」
「そう、 もっとマシなコートで。
お互いテニスを続けていれば、 きっとどこかで会えるだろ?」
「そうね。 アナタの言うとおりだわ。
だけど今度会う時は、 せめてコンクリート以外のサーフェスがいいわね」
一人、 また一人と心の準備が整っていく。
仲間の巣立ちを受け入れる準備が。
「モニカのグラデュエーションは、 俺様が責任を持ってペンキ使用禁止にしてやるから、
安心して来いよな!」
最もペンキの使用頻度が高いビーの発言を受けて、 レイが冷やかなコメントを加えた。
「だったら、 ビーは出入り禁止にしないと……」
「なんでだよッ!?」
皆が納得したのを見届けてから、 ジャンがグラデュエーションのまとめ役として トオルを指名した。
「モニカのグラデュエーションは、 トオルが仕切れ。
オマエが一番世話になっただろ?」
「任せておけって!
モニカ、 いつがいい? 早いほうがいいよな?」
「ここは今日で卒業するけど、 グラデュエーションは秋まで待ってもらえないかしら?
十一月のプロコーチのテストに合格してから、 堂々とここを卒業したいの。
ジャックストリート ・コ ートの一番の出世頭としてね」
勝気なモニカらしいリクエストだった。
「それじゃあグラデュエーションは、 十一月で決まりだな。
ど派手にやろうぜ!」
夢を諦めて去るのではなく、 夢に向かって旅立つ為の卒業式。
彼女のためにも、 それを願うリーダーのためにも、 盛大な式にしようとトオルは胸を躍らせていた。
だが、 その卒業式の日がジャックストリート ・ コートのメンバー全員に悪夢をもたらすことを、
この時はまだ誰も知らずにいた。