第 29 話 砕かれた砦

ダーツ・イメージ



街の中心部でひしめき合うシティホテルには、 大きく分けて
二つの顔がある。
旅行客に宿を提供する本来の役割と、 もう一つ。
地元住民の社交場としても機能している。
レストラン、 宴会場をベースに、 フィットネスクラブ、 テニスコート、
エステサロンなど、 目的に応じて住民が集える場を提供することに
より、 彼等がまた新たな客を連れて来る。
リゾート地と違って価格競争の激しい都市部では、
この第二の顔から得る収益が、 ホテルの命綱になると言っても
過言ではない。
トオルがこれから向かう 『セント ・ ラファエル ・ ホテル』 も例外ではなく、
ここはVIP専用のスペースを各施設に設けることで、 金持ちの客層に的を絞った営業を展開していた。
VIP待遇を望む客は、 自動的に同ホテルへ転がり込む図式である。

ずらりと立ち並ぶホテル群の中から一際重厚な造りの建物を見つけると、 トオルは正面玄関ではなく裏口へ回った。
二つの顔は施設の役割だけでなく、 出入り口にも言える事だった。
表から見れば格式のある高級ホテルだが、 裏へ回ればファーストフード店の従業員通用口と何ら変わりはない。
身なりの整った人間しか入れない正面玄関に対し、 裏口からはジーンズであろうが、 ジャージであろうが
誰も咎める者はいない。
例えホテルと関係のない子供であっても、 貧相な服装のヤンキーであっても、
今夜開かれるパーティの関係者ぐらいにしか思われないからだ。
無論、 今回トオルがここを訪れた目的は、 パーティに出席する為ではない。
もっと大切な用事、 つまりモニカのグラデュエーションの準備をする為であり、
その材料を求めて、 ある人物と会うのが目的だった。

「久しぶり、 ブレッド。 ストリートコートにいた頃より、 顔色いいんじゃねエか?」
ここ 『セント ・ ラファエル ・ ホテル』 は、 ジャックストリート ・ コートを卒業したブレッドの職場でもあった。
かつての仲間との再会に、 自然と笑みがこぼれた。
「ああ。 トオルも、 元気そうで何よりだ」
久しぶりに見たブレッドは、 ベルボーイの制服が板につき、 立派なホテルマンに成長していた。
ストリートコートに出入りしていた頃とは、 まるで別人である。
「悪かったな、 職場まで押しかけて。 頼んでいたアレ、 いいか?」
「ノー ・ プロブレム。 どうせ捨てるものだから、 こっちも助かる」
先日トオルは、 モニカからコーチのテストに合格したという連絡を受けて、 卒業式の準備を始めた。
なるべく少ない予算で盛大にやる為に、 ブレッドに頼んで宴会で使い終わった装飾用の花を、
まとめて引き取りに来たのだった。
これらを丁寧に解して、 花びらをシャワーのようにかけながら、 彼女をコートから送り出してやろうという計画だ。
「トオル、 今日は団体客が入っていて、 どうしてもグラデュエーションに行けそうにない。
俺の代わりに 『おめでとう』 とモニカに伝えてくれないか?」
ブレッドは卵や消火器の泡をかけられ、 見るも無残な姿で送り出された卒業生の一人だが、
人の良い彼は待遇の差に文句を言うこともなく、 仲間の卒業を心から喜んでいた。
「あと、 これを……」
上品な深緑の制服から、 彼がネックレスのような物を取り出した。
よく見ると、 それは飴やチョコを繋げて作った 「キャンディ ・ レイ」 と呼ばれる菓子の首飾りだった。
子供の誕生日パーティなどで使われることの多いキャンディ ・ レイだが、 ブレッドが渡してきたのは
高級菓子を紐で通して作られた 『セント ・ ラファエル ・ ホテル』 のオリジナルで、
これを買う為だけに来館する客もいる程、 若い女性の間では人気の高い商品である。
「もう少し気の利いた物の方が良かったんだけど、 ベルボーイの給料じゃ、 これが精一杯なんだ。
他に女性が喜びそうなプレゼントも思いつかなくて……」
外見はすっかり変わったと思ったが、 今でも仲間の事を考え、 背一杯を形にして差し出す彼は、
トオルがよく知るブレッドだった。
「サンキュー、 ブレッド。 モニカが見たら、 きっと喜ぶよ」
「だといいけど……」
「オレが保障する。 彼女は仲間の好意が分からない人間じゃない」
この発言を聞いて、 ブレッドが不思議そうな顔を向けた。
そして、 そんな彼の様子を見て、 トオルは時間の経過を感じた。

ブレッドがいた頃は、 トオルとモニカはまだ互いを信頼し合うほど仲良くなかった。
資材が置かれている保管庫へ案内される道すがら、 トオルは卒業後に起きたストリートコートでの出来事を
かいつまんで説明した。
ヘッドハンターが大物集団を連れて来た事や、 モニカと二人で課題のサーブを完成させた事、
それに 「俺を怒らせる三人」 の健在ぶりも。
「そうか……皆、 頑張っているんだな。 良かった……」
ブレッドが目を細めて喜ぶたびに、 胸の辺りがチクチクと痛んだ。
夢を諦めざるを得なかった彼が、 夢を掴もうとする仲間を応援する姿に、 卒業式の時に感じた理不尽さが甦った。
「ブレッドは、 その……」
再びコートに戻れるのか聞こうとして、 続けられなかった。
これは今の彼にとって残酷な質問かもしれない。
話しかけたまま口ごもるトオルに、 ブレッドが人懐っこい笑みを向けた。
「変わらないな、 トオルは」
「そ、 そうか?」
「俺がコートから出て行った時と、 同じ顔をしている。
あのグラデュエーションの時と同じ」
「ごめん。 あの時も今も、 何も出来なくて……」
「それは違う。 トオルが夢を追い続けてくれるから、 俺は安心して違う夢を探しに出られたんだ」
「違う夢?」
「そう。 今はベル ・ キャプテンになるのが、 俺の夢なんだ。
他の皆から見れば小さな夢かもしれないけど、 いつか必ずベルボーイのリーダーになりたい。
誰からも頼りにされるジャンみたいなリーダーに」
かつての仲間は、 もうとっくに新しい夢に向かって踏み出していた。
ストリートコートを卒業して、 この巨大ホテルの中で追いかけられる新たな夢を。
持ち場に戻るブレッドの後姿を見送りながら、 卒業式の日、 彼から言われた最後の言葉を思い出した。
「俺は、 トオルと同じコートでプレー出来たことを誇りに思っている」
皺一つない制服の背中を見つめ、 トオルはあの時言いそびれた返事をそっと呟いた。
「オレもだよ、 ブレッド。 I'm proud of you! (君を誇りに思う) 」

保管庫に入ったトオルは、 大急ぎで作業に取り掛かった。
花びらをシャワーのようにかけるには、 大量の花を解して持ち帰らなければならない。
卒業式に必要な物は大体用意できているが、 花だけは直前でないと汚くなる為に、
あえてモニカがコートに来る数時間前に受け取れるよう割り当てたのだ。
赤やピンクなど女性が好みそうな色を選んで袋に詰めていると、 廊下から従業員たちの会話が聞こえてきた。
周りに誰もいないと思ったのか、 舞台裏では当たり前のことなのか、 彼等は大声で客の悪口を話し始めた。
人の陰口を言うのも聞くのも嫌いだが、 そこから 「チャンフィー」 の名前が出たとたん、
トオルは反射的に耳を傾けてしまった。
「あんな下品な男が、 うちのテニスコートに出入りするなんて、 おかしいと思わないか?」
「確かに、 VIPの連れと言われなきゃ、 さっさと追い出しているところだぜ」
「聞かなかった事にして、 叩き出しておけば良かった。
コートマナーも知らない客の相手なんて、 言葉の通じない客より始末が悪い」
「おいおい、 本気でやるなよ。
ミスター ・ チャンフィーはともかく、 隣にいたVIPを怒らせたらマズイって」
「ああ、 分かっている。 あれは警察の……」
肝心なところで途切れてしまったが、 会話の内容から察するに、 このホテルにジャンと敵対する
もう一人のリーダー ・ チャンフィーが警察関係者と来ている事は分かった。
話をしていた連中は、 恐らくVIP専用のテニスコートでチャンフィーの接客を任された従業員だろう。
あまり時間的余裕はなかったが、 「チャンフィーと警察のVIP」 という組み合わせが気にかかり、
トオルはホテルの敷地内にあるコートへ向かった。

ジャンからは 「あの男に関わるな」 と釘を刺されていた。
ジャックストリート ・ コートと並んで勢力を二分する、 ヴィーナスストリート ・ コート の リーダー ・ チャンフィー。
彼はアジア系のアメリカ人で、 イギリス系のどこから見ても白人であるジャンの存在が気に入らないらしく、
何かと理由をつけては乱闘を仕掛けて来る。
それも警察が介入しないのをいいことに、 メンバーの人数が少ない時間帯を狙って夜襲をかけるような卑怯な男で、
その一部始終を手下にやらせ、 自分は直接手を汚さないという性質の悪さだ。
しつこくジャックストリート ・ コートのリーダーの座を狙うのも、 彼が仕切るコート名の「ヴィーナス」の部分が
女々しく聞こえるからとの噂もある。
こんなくだらない理由で他人の縄張りを乗っ取るなど、 常識では考えられないが、
彼の場合は充分あり得る話だった。
自分の欲望の為には、 平気で他人を犠牲にする男。
そのチャンフィーが、 VIP専用のコートで警察関係者と会っている。
決して表に顔を出すことのないリーダーの出現に、 ひどい胸騒ぎを覚えた。

従業員が使用する通路を抜けてコートへ向かう途中で、 トオルは一人の男とすれ違った。
アジア系のアメリカ人。 黒い髪に、 浅黒い肌。
そして、 ほとんど変化を見せないであろう細い目から、 蛇とよく似た冷たい光が見え隠れしていた。
互いに面識はなかったが、 一目で彼がチャンフィーだと分かった。
同じリーダーでありながら、 ジャンとは異質な圧迫感がある。
威厳とは別の、 恐怖で人を押さえ込むような圧力が。
それに押されたトオルは、 情けない事に向こうが通り過ぎるまで、 黙って立ち尽くすしか出来なかった。
あの男に近づくな ―― ジャンの言った通りだった。
あの男だけは本当に危ない。 珍しくトオルの中で防衛本能が働いた。

「奴に任せていいんですか?」
コートから漏れ聞こえる話し声が、 凍りついた体を動かす原動力となった。
「あの男を信用して、 任せたわけじゃない。
どちらか片方でも潰れてくれれば、 手間が省ける」
「なるほど……やっかいなリーダー二人のうち、 一人が片付けば静かになりますからね」
近づいてみるとチャンフィーが座っていたと思われるテーブルで、 二人の男がまだ話し込んでいた。
身なりから判断して、 一人は例のVIPで、 もう一人はその部下のようだ。
「上のほうから、 治安維持体制の見直しがあったと言ったところで、 素直に聞く連中じゃない。
政治的な話はもっと分からんだろう。
目には目、 クズにはクズをもって制すればいい。 両方潰れてくれれば、 もっと助かるが……」
悪寒と冷たい汗が、 同時に背中を流れていった。
当たって欲しくない嫌な予感が、 現実味を帯びてきた。
トオルは半分にも満たない花びらの袋を引っ掴むと、 すぐさま出口へとダッシュした。
のんびりと卒業式の準備をしている場合ではない。
詳しい事情は分からないが、 今の会話は二人のリーダーの抹殺を示唆するものだ。
口では協力関係を結ぶと言って各リーダーに危険区域の治安を守らせて、 邪魔になれば今度は潰すつもりらしい。
ここにチャンフィーが呼ばれたのも、 彼をけしかけて騒ぎを起こし、 あわよくば両リーダーの自滅を狙っているのだろう。
当然、 チャンフィーのターゲットとなる人間は、 たった一人しかいない。
汚い仕事は、 全て手下に任せる奴のことだ。
今ごろは、 他の人間に襲わせているかもしれない。
「頼む、 間に合ってくれ!」
予感が的中しない事を祈りながら、 トオルは急いでホテルを後にした。

ジャックストリート ・ コートは、 厳密に言えば通りに面していない。
大通りに沿って生育する森のさらに奥にある。
従って、 通りから中の様子を知ることは不可能だった。
ところが、 森の奥からわずかに黒煙が見えた。
通りを走る車の騒音ではっきりとは聞こえないが、 いつもより騒がしい気がする。
トオルはラケットを背中から取り出すと、 最悪の状況に備えて準備した。
一瞬、 フレームに結ばれたプロミスリングが視界に入ったが、 今は約束をどうのと言っている場合ではない。
「ラケットで人を傷つけてはいけない」
頭の中でジャンと交わした約束と、 チャンフィーの冷酷な視線が交錯した。
「ジャン、 ごめん。 でも今は……」
約束よりも仲間を守る方が大事だと腹をくくると、 トオルはグリップを握り直してコートの中へ入っていった。
「皆、 無事か!?」
油を燃やした時しか出ない黒い煙。
コンクリートに散らばるガラスの破片と ボールの焼ける匂いから、
大量の火炎瓶が投げ込まれた事はすぐに分かった。
一刻も早くメンバーの無事を確認したいが、 煙に遮られて視界が利かない。
「誰か、 返事をしてくれ!」
「トオルなのか?」
入口から見て奥にある丸太から、 ビーの声がした。
トオルは敵に背後を取られないよう気をつけながら、 その声を頼りに駆け上がった。
コートの中は煙が充満しているが、 丸太の上は風が通る分だけ、 全体の様子も把握できる。
「だいじょうぶか、 ビー?」
「ああ、 取りあえずはな」
「チャンフィーの仕業か?」
「他に誰がいる? 不意打ちは奴の常套手段だ」
「相手は何人だ? こっちは誰が残っている?」
「最初に襲ってきたのは三十人ぐらいだが、 何人残っているかは、 煙が邪魔して分からない」
「とにかく片っ端から、 やるしかないってことか?」
「そういう事らしい……」
言っている傍から、 鉄パイプが振り下ろされる気配がした。
「危ない!」
素早くラケットで受け止めたトオルは、 跳ね返す勢いを利用して、 相手の胸元目がけてグリップでやり返そうとした。
その時だった。
「プレイヤーの誇りを忘れんなって、 言われただろ?」
聞き覚えのある声に、 手が止まった。
「レイ!」
鉄パイプで襲って来たのは、 仲間のレイだった。 あくまでも振りであるが。
「こんな時に、 悪い冗談やめてくれ!
もう少しで、 味方を殴り倒すところだったじゃねエか!」
「悪かった。 だけど、 おかげで頭冷やせただろ?
ほら、 この鉄パイプはトオルとビーの分だ。 さっさとラケットしまえよ。
誓いを破ったと知れたら、 後でジャンに殺されるぞ」
確かにレイの言うとおりだ。
この状況で木製のラケット一本持っていたところで、 大して役に立つとは思えない。
それにジャンと交わした約束の本来の意味は、 「どんな時でも、 テニスプレイヤーとしての誇りを忘れるな」 という
戒めだ。
ラケットは自分の夢を掴むための道具であって、 人を傷つけるための武器ではない。
おかげで冷静になれたトオルは、 背中にラケットをしまうと、 大事なその教えを心の中で繰り返した。

少しずつだが視界もハッキリしてきた。
「レイ。 奴らがここを襲ってから、 何分ぐらい経っている?」
「三十分ぐらいかな?」
「そのとき、 こっちは何人いた?」
「俺とビーを含めて、 二十人はいたと思うけど?」
おかしい ―― 何かが頭の中で引っかかる。
合わせて五十人もの人間が長い時間争っている割には、 中の被害が少な過ぎる。
上からざっと見る限りでは、 倒れている者は一人もいない。
しかも煙と騒ぐ声だけが大きくて、 向こうから襲ってくる気配もない。
さっきのレイではないが、まるで 「襲う振り」 をしているかのようだ。
「しまった!」
「どうした、 トオル?」
あの氷のようなチャンフィー視線。 奴はそんな甘い男ではない。
「ジャン……ジャンは来ているのか!?」
「それが、 まだなんだ」
「なんだって!?」
全身から血の気が引いた。
「 『ラビッシュ ・ キャッスル』 か?」
「たぶんね。 誰かの卒業式の前には、 たいてい一杯ひっかけてから来るから。
それが、 どうかしたのか?」
「これはチャンフィーの罠だ!」
頭に引っかかっていた謎が、 次々と解けていった。
ジャンを襲うと聞いて反射的にここに来てしまったが、 卑怯な奴が白昼堂々コートを襲うのは、
どう考えても不自然だ。
昼間のコートはメンバーもいれば、 武器もある程度ストックがある。
相手の狙いがリーダーただ一人だとすれば、 ここを襲う振りをしてトオル達を足止めさせ、
『ラビッシュ ・ キャッスル』 で酔ったジャンを狙った方が、 確実に仕留められる。
チャンフィーのことだから、 わざとこの日を選んだに違いない。
仲間のグラデュエーションの日。
寂しさを紛らわせるために、 ジャンは決まって事前に酒を飲んでくる。
「こっちはフェイクだ! ジャンが危ない!」

丸太から飛び降りたトオルは黒煙が充満するコートを抜け、 『ラビッシュ ・ キャッスル』 目指して駆け出した。
「だいじょうぶ……絶対に間に合う」
これは、 祈りでも願望でもなく、 確信だと自分に言い聞かせた。
こちらの騒ぎが続いているという事は、 ジャンはまだ無事でいるはず。
最強の男が、 簡単にやられるわけがない。
アメリカに来て、 初めて出会った本物のリーダー。
行き場のない自分を拾って、 魂の在り処を教えてくれた。
プレイヤーのあるべき姿も、 夢を追いかける道筋は一つではない事も。
彼と出会って初めて、 本物の意味を知った。
しかし、 そのリーダーは見た目と違って情に脆く、 メンバーの誰かが卒業する日は、
必ず事前に酒を飲んで酔っ払う。
そこを大勢で狙われたとしたら。
「……頼む……間に合ってくれ……」
無事を祈る気持ちと、 もしかしてという不安の両方に急き立てられ、
トオルは 『ラビッシュ ・ キャッスル』 へ着いたと同時に、 扉を突き破るようにして中へ飛び込んだ。

「ジャン!」
薄暗い店内の奥に、 見慣れた赤い皮のジャケットが見えた。
「よかった……無事だったんだな」
いつもと変わらないジャンの姿を見つけ、 胸の中に安堵が広がると共に、 急に全身の力が抜けていった。
「中に入るんじゃない、 トオル!」
ジャンの怒鳴り声と共に、 押さえつけられた両腕。
一瞬の気の緩みをつかれたトオルは、 入り口に潜んでいた男達によって、 後ろから羽交い絞めにされてしまった。
レイから渡された鉄パイプも、 敵の手に渡っている。
「オマエ達、 チャンフィーの……?」
身動きが取れないまま中の様子をうかがうと、 怪しい男が五人、 ジャンを取り囲むように座っていた。
自分を押さえつけている二人の男を合わせ、 店内の敵は全部で七人、 こっちはジャンと二人だけ。
トオルは、 リーダーが無事だと早合点し、 緊張を緩めた自分を呪った。
彼を助けるどころか、 足かせになってしまった自分を。
ジャンが 「中に入るな」 と忠告してきたという事は、 すでに怪しい連中の動きに気づいていたのだろう。
他の客を巻き込まないために、 場所を変えようとして出口へ向かったところを、 トオルが飛び込んで来たせいで、
また店内に引き返さざるを得なかったのだ。
それも人質を取られるという最悪の条件付きで。

チャンフィーの手下の一人が、 勝ち誇ったような目をジャンに向けた。
「これが、 アンタの飼っている日本人のガキか?」
「だったらどうした?  オマエ達の用があるのは、 俺の方だろう?」
「そのつもりだったんだが、 アンタなかなか隙を見せてくれないからさ。
なあ、 人質と交換ってことで、 俺達に付き合ってくれないか?」
「いいだろう。 但し、 そのガキには絶対に手を出すなよ?」
「こっちの用事が済んだら、 すぐに放してやるさ」
ジャンと話をする男。
この状況で薄ら笑いを浮かべる彼からは、 チャンフィーと同じ冷酷さが漂っていた。
今から何が起ころうとしているかは、 男が手にした物からも察しがつく。
チャンフィーとこの男に共通する氷のような尖った目。
それと同じ類の光が、 男の手の中にもある。 銀色に輝く鋭利な光が。

「ふざけんじゃねエぞ、 ジャン! 今さら恩着せがましい事すんな!」
わざとケンカを仕掛ける振りをして、 トオルは時間を長引かせようと試みた。
相手が刃物を持っている上に、 自分も捕まっている状況では分が悪過ぎる。
だがもう少し待てば、 ビーやレイも到着するはずだ。
その考えを察してか、 ジャンが挑発に乗ってきた。
「そんな無様な格好で、 よく言うぜ。
だから、 いつまでもガキだと言われるんだ」
「うるせエぞ、 エロ親父! アンタが一番ガキ扱いして……」
言いかけたところで、 冷たい光がトオルの口にあてがわれた。
「お喋りは、 そこまでだ。 後は俺達の用事が済んでから、 ゆっくりと語り明かすんだな」
男が突きつけてきたナイフは、 二人に 「これ以上の引き延ばしは無駄だ」 と悟らせた。
店から出て行こうとする男達に、 トオルはなおも食下がった。
「やめろ! ジャンに何をする気だ?」
「ちょっと使い物にならないようにしてくれと、 頼まれたんでね」
「頼まれた?」
この男はチャンフィーの配下の者ではない。
手下なら 「頼まれた」 ではなく、 「命令された」 と言うはずだ。
最初に会った時から、 刃物をチラつかせているこの男だけは、 他の連中と比べて毛色が違うと感じていた。
今日のために雇われた、 人を危めることを生業とする人種。 彼には血生臭い匂いが染み付いている。
「タイム ・ アップだ」
男に連れられて、 ジャンが出口へと向かった。
「ダメだ、 ジャン! 行くな!」
今度は挑発でも演技でもなく、 本気だった。
このまま奴らについて行けば、 どんな目に遭わされるか分からない。
原因は油断した自分にあるというのに。
「行かないでくれ、 頼む!」
必死で懇願するトオルに、 ジャンが一度だけ振り向いた。
「ガキの一人ぐらい面倒見ると、 約束したはずだ」
「そ、 そんな……だって、 あれは……」

あれはトオルが初めてストリートコートに訪れた時のことだった。
ゲイルに敗れたトオルを仲間に迎え入れようとして、 ジャンは他のメンバー達から猛反対を受けた事がある。
今にして思えば、 彼等が反対するのも当然である。
当時十二歳の子供をストリートコートに出入りさせるなど、 本人にとっても周りにとっても危険でしかない。
ところが難色を示す仲間達に対し、 ジャンは平然と言ってのけたのだ。
「なあに、 ガキの一人ぐらい俺が面倒見てやるから、 心配するな」
あれは約束というよりも、 メンバーを取り成すための軽口のようなもの。
あの時の豪快に笑うジャンの顔が、 今と重なった。
己が危うい状況にありながら、 それでも彼は顔色一つ変えずにリーダーとしての立場を貫いている。
「トオルは、 何も心配しなくていい」
そう言って微笑むと、 ジャンは再び出口へと歩を進めた。
「オレが油断したせいで……ジャン……!」
次第に遠ざかる赤いジャケット。 これ以上彼を先に進ませてはいけない。
だが身動きの取れない体で、 何が出来るのか。
自分の未熟さを悔やみ始めた時だった。
上着のポケットから、 ブレッドにもらったキャンディ ・ レイがこぼれ落ちた。
キャンディを繋ぐ細い紐を見て、 ある事を思い出した。
まだ手はある。

トオルは、 手下の一人にキャンディ ・ レイを拾うよう頼んでみた。
「おっさん、 これ拾ってくれよ」
「うるさい。 黙っていろ」
「なあ、 オレの大事なもんだから、 拾ってくれって」
「あとにしろ」
「もうジャンも出て行ったんだし、 いいじゃねエか!
これがないと落ち着かないんだよ」
「まったく、 ガキはこれだから……」
手下の男が拾おうとした隙をついて、 トオルは相手の顔面を思い切り蹴り上げた。
前に奈緒から聞いたことがある。
キャンディを結ぶテグスという紐は、 細い割には頑丈で、 強く引っ張ると指の方が切れてしまう事もあるのだと。
うずくまる仲間に気をとられている間に、 自分を押さえつけている男達をテグスで締め付けては、
次々と殴り倒していった。
ブレッドには申し訳ないが、 非常事態である。
乱闘に耐えかねてキャンディがバラバラと床に落ちていったが、 今は構っていられなかった。
脱出する方が先決である。
トオルはテグスを武器に、 残りの連中を手早く片付けた。

店内で乱闘が始まったと同時に、 ジャンがニヤリと笑った。
「どうやら人質に取る相手を間違えたようだな。
あれは、 ただのガキじゃない。 うちのナンバー2だ」
人質さえ解放されれば、 刃物を持った相手であってもジャンの敵ではない。
騒ぎに合わせるようにして、 リーダーも店の外にいる連中を片っ端から殴り倒していった。
「ジャン、 悪かった! オレのせいで……」
中の手下を片づけたトオルは、 ジャンを援護するために外へ飛び出した。
「だったら、 そのガキから始末してやる!」
―― 全てが、 一瞬の出来事だった。
例の男が トオル目がけて襲い掛かってきた。
ナイフのターゲットがジャンから自分に変更されたのは分かったが、 躊躇うことなく突っ込んできた相手を
かわす余裕はなかった。
「危ない、 トオル!」
声がしたかと思うと、 腹部に鈍い音を感じた。
刺されたような感触はあった。
何かを通して伝わってきたが、 不思議と痛みがない。
自分に向けられたナイフの光と、 男の影。
それが見えたということは、 確かに刺されたはずなのに ――

目の前には、 あの冷酷な笑みを浮かべた男が立っている。
しかし、 その男とトオルの間には、 ジャンがいた。
「ジャン! まさか……」
「……トオル……オマエはどんなことがあっても、 『あるべき場所』 へ帰れ……いいな?」
「ジャン、 なんで!?」
次の瞬間、 もう一度鈍い音を感じた。
今度はトオルの後頭部からだった。
「 『あるべき場所』 へ帰れ」
ジャンの声が、 顔が、 徐々に薄れていった。
ゆっくりと広がる赤い視界。
それが血の色なのか、 ジャンのジャケットの色なのか、 よく分からなかった。
あるべき場所へ ―― この言葉に絡め取られるように、 意識が深い谷底へと沈んでいった。
何も見えない。 何も聞こえない。 深くて暗い闇の中へ。



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