第 31 話 遺言
シアトル行きのバスに揺られながら、 トオルは窓の外の景色を
ぼんやりと眺めていた。
外は珍しく雨が降っている。 たぶん冷たい雨が。
しかし、 そんな事はどうでもよかった。
その目に映すものがないために、 仕方なく車窓からの景色を
受け入れている身には、 今さら何を見せられても同じだった。
全ての事柄が隔離された外の世界で起こっている気がした。
この窓ガラスに映し出される景色のように。
すれ違う車も町並みもそれぞれの時を過ごしているというのに、
外を眺める自分だけは流れから取り残されている。
ここだけ時間が止まっている。
溺れるでもなく、 逆らうでもなく、 ただ止まっている。
それでもよかった。 その方がよかった。
このまま時が進むよりは、 彼の余韻が残る空間に、 少しでも長く浸ることが出来る。
トオルは視線を膝の上に落とすと、 持ち主を失ったラケットから、 思い出となった彼の姿を手繰り寄せた。
初めてジャンと出会ったのは、 ジャックストリート ・ コートに高々と積み上げられた丸太の上だった。
鍛え抜かれた筋肉に包まれ、 鋭い目つきをした男は、 ひと目で本物のリーダーと分かるほど、
迫力のある存在だった。
あの時、 無理を言って試合を申し込まなければ、 ストリートコートのメンバーになる事はなかっただろう。
最強の男と試合がしたい。
その一念で五十人のメンバーと勝負をして、 リーダーと戦う権利を獲得した。
結果的には悲惨な負け方をしたが、 それが却ってテニスに対する情熱を再燃させる結果となった。
「ここを、 オマエが帰るための砦にしてみろ」
ジャンのこの一言で、 理不尽な差別を乗り越え、 再び夢に向かって前進するための気力を取り戻した。
同時に孤独からも開放され、 ジャックストリート ・ コートという居場所と仲間を得ることが出来た。
彼から与えられたものは、 それだけではない。
テニスプレイヤーとしての誇り ―― 大事な局面では、 この誇り高き魂を持っているかどうかが
勝敗の分かれ目となる。
「原石と、 石ころの違いを教えてやろうか?」
丸太の上で、 ジャンに問いかけられた事がある。
いないはずの彼の言葉が、 すぐ耳元で聞こえてきた。
あの時彼は、 トオルの左胸に大きな拳を作ってこう言った。
「ここに魂を持っている奴だけが、 本物になれる。
それがない奴は、 いくら素質があっても石ころと同じだ。
よく覚えておけ」 と。
数日前までは、 「魂」 と聞いた瞬間に左胸が熱くなった。
だが今は、 その言葉をもってしても、 何も感じられない。
感じるという事がどういうものなのかも、 忘れてしまったようだ。
冷たくなったジャンを見送ることも、 彼を死に追いやった連中に復讐することも禁じられた。
せめて怒りの矛先をどこかにぶつける事が出来れば、 少しは身体の感覚が戻るかもしれない。
ただ、戻ったところで何かが変わるわけではない。
例え復讐したとしても、 リーダーが死んだという事実は変わらない。
こんな状態で 「あるべき場所に帰れ」 と言われても、 トオルにはどうする事も出来なかった。
今はゲイルを通じて託された遺言を実行するしかない。
ジャンの最後の望み。 それは彼のラケットを、 シアトルの彼女に渡すこと。
ゲイルからこの遺言を聞かされたのは、 葬儀の後だった。
式は密葬。 立会人はゲイルのみ。
トオルは指示を守って式には参列せず、 教会から少し離れた森の入り口で棺を見送った。
『最強の男』 と評され、 数々の伝説を残したジャン ・ ブレイザー。
その偉大なプレイヤーを送るにしては、 あまりに簡素な式だった。
リーダーとして、 最期まで仲間の将来を気遣った彼は、 孤独な葬儀を選択したのだ。
トオルの人生において、 誰かを弔うという行為は初めての経験だった。
それは想像していたような深い悲しみや、 嘆きに満ちたものではなく、
涙よりも絶望を、 嘆ずるより怒りの方を強く感じた。
目標とするリーダーを失った絶望感。 大切な者を守り切れなかった己に対する怒り。
涙を流すことも、 声を発することもなく、 ただひたすらトオルは故人の好きだった曲をハーモニカで演奏した。
『アメージング ・ グレイス』 である。
かつてジャンが トオルを慰める為に、 そしてトオルがジャンを励まそうとして、
二人の間で何度も行き交った思い出の曲。
これを奏でる事だけが、 唯一許される行為だった。
短くてシンプルなメロディは、 同じ問いかけを繰り返すのに適していた。
何故、 彼を死なせてしまったのか。
何故、 自分の方が生かされているのか。
一人で眠りにつこうとしているリーダーに、 トオルは何度も同じ曲を演奏し続けた。
彼との思い出を一欠片も逃さないよう胸に刻みながら。
落ち込む事あると、 ジャンは決まって丸太の上から海を眺めた。
コートから背を向けじっと遠くを見つめる姿は、 孤独を知り尽くした彼の過去を映しているようで、
物悲しさを感じずにはいられない光景だった。
居たたまれなくなって、 下手を承知で 『アメージング ・ グレイス』 を演奏し、 何とか元気づけようとするのだが、
こっちは励ましているつもりでも、 気がつけばいつも立場は逆転した。
そして丸太を降りる頃には、 トオルの方が大きな安らぎをもらっている。
与えるつもりで登ったのに。
ジャンとは、 そういう男だった。
トオルが逆立ちしても届かない程、 何もかもが大きい男だった。
未完成な思い出 ―― この表現が最もふさわしい。
突然大切な人を失った時。 きちんと別れを言えずに去られた時。
思い出は過去形にならずに、 未完成のまま記憶の中を漂うことになる。
この場で手に取ることも許されず、 過去へ押しやることも叶わない、 悲しい形で存在し続ける故人の姿。
その未完成な思い出と共に、 トオルが曲を演奏している時だった。
葬儀を終えたゲイルが、 一本のラケットを渡しにやって来た。
ずしりと重いラケットは、 ジャンが護身用に鉄パイプを素材にして特注で作らせた一品だ。
「シアトルに、 『ノリコ ・ ハセガワ』 という女がいる。
このラケットを、 彼女に渡して欲しい」
シアトルにジャンの彼女がいるというのは、 以前にも聞いた事がある。
「今まで惚れた中で、 最高の女」 と話していた。
だが、 トオルは彼女の居場所を知らなかった。
ゲイルが残りの詳細を伝えるまで、 かなりの間があった。
後から考えれば、 親友の最後の願いを伝える為に、 彼なりに心の準備が必要だったのだろう。
ジャケットから煙草を取り出す仕草も、 火をつける動作も、普段よりも丁寧に行われた。
ゆっくりと下に向かって吐き出された白い煙が、 石造りの教会の壁と同化して一旦見えなくなり、
上昇するに従って空を背景に浮かび上がった後、 すぐにまた消えてなくなる。
これを二度、 三度と繰り返してから、 ゲイルはポケットから小さなメモを取り出し、 トオルに渡した。
「これがアドレスだ。
そこへ行って、 彼女にラケットを渡して欲しいと、 頼まれた。
約束を守り通した証として」
「オレが?」
「理由は分からんが、 ジャンは貴様に頼めと言った。
大事な用件なら俺が伝えると説得したんだが、 頑として聞き入れなかった」
名前から察するに、 『ノリコ ・ ハセガワ』 は日本人に違いない。
恐らくジャンは彼女にも分かるように、 日本語で自分の最期を伝えて欲しかったのだろう。
ラケットを武器として使用しない。
その誓いを立てたプロミスリングが、 しっかりと結ばれている。
「昔から、 アイツは女に甘かった。 唯一の弱点というか、 俺に言わせりゃ汚点だな」
ゲイルが遠い目をして語り始めた。
独り言にしては声が大きいが、 特にこちらに向けて話しているようにも思えなかった。
「奴は大胆な発想をするわりに、 緻密なゲーム展開を得意とするプレイヤーだった。
そのくせ女の事になると、 後先考えない阿呆だった。
今回のことも……女との約束など破ってしまえば、 致命傷にはならなかったはずだ」
最後までジャンはプレイヤーとしての誇りを守り通し、 彼女との約束を優先させた。
トオルの記憶の中でも、 彼は 「女の為なら命がけになれる」 というような発言をしていた。
その時は単なる女好きの冗談だと思って聞き流したが、 ジャンは本気だったらしい。
「まったく、 歴史に残る阿呆だ。 『伝説のプレイヤー』 が聞いて呆れる」
本来なら故人を罵倒するなど、 決して許される行為ではない。
しかし、 トオルは黙って聞いていた。
二本目の煙草を吸おうとして、 ゲイルが軽く舌打ちをした。
空になったパッケージをクシャリと握り潰す手に、 必要以上の力が込められている。
煙というカムフラージュを失った彼が、 再び漏らした長い吐息。
それには、 らしからぬ本音が紛れていた。
「だが……その阿呆が、 俺は好きだった」
そしてこれが、 トオルの記憶に残る ゲイルとの最後の思い出となった。
「もうすぐシアトルに到着するわ」
モニカは、 隣の席にいるトオルに声をかけた。
「モニカ、 ごめんな」
「なにが?」
「グラデュエーション、 できなかった……」
「あなたのせいじゃないわ」
出来るだけ自然に答えながら、 モニカは心の中で安堵した。
一つはずっと沈黙を通していたトオルが、 返事をしたこと。
そしてもう一つは、 自分の嘘が気づかれていない事に。
本当は今日、 テニスクラブの面接を受ける予定だった。
テニスクラブのコーチになること。 これがモニカの夢だった。
そのためにコーチの資格試験を受け、 先週合格を果たしたばかりだ。
この資格を持って、 ようやく 『あるべき場所』 へ戻ろうとした矢先、 飛び込んできた悪夢。
それはモニカのコーチとしての才能を認め、 心から応援してくれたリーダーの死。
しかも自分が想いを寄せる少年をかばっての結果だった。
世話になったリーダーの訃報も悲しかったが、 それ以上に別人になったトオルを見て、 心が痛んだ。
恐らく自責の念から来るものだろうが、 感情がストレートに映し出されるはずの瞳は、 鉛がはめ込まれたように
生気を失い、 何も映さず、 何にも応えず、 ただひたすら故人の思い出を抱えて過ごしている。
どちらが死人だか分からない状態だった。
そんな彼がシアトルへ行くと言い出した時、 モニカは迷わずついて行くことを決心した。
この状態の彼を一人で行かせてしまったら、 もう二度と会えないような気がしたのだ。
相手の都合で面接が延期になったと、 初めてトオルに嘘をついた。
罪悪感はなかった。 それよりも優先すべきことが分かっていたから。
どんな事があっても、 トオルの傍にいる。
たとえ視界に入らなくても、 返事がなくても、 ただ彼に寄り添っていたかった。
せめて彼がジャンの死を受け入れて、 再び生きる気力を取り戻すまで。
それまでは、 何があっても傍を離れない覚悟を決めた。
「雨……?」
ずっと眺めていたにもかかわらず、 バスから降りるなり、 トオルが驚いたような顔を向けた。
「この時期のシアトルは、 雨が多いのよ。
きれいな街だし、 住みやすいって言うけど、 アタシは苦手なの」
すぐに思い出の世界へ戻ってしまうと知りながら、 あえてモニカは会話を続けた。
「ショッピングには最高だけど……そうそう、 確かシアトルには日本人の野球選手がいたわよね?
何て名前だったかしら?」
「ノリコ ・ ハセガワ」
ゲイルから渡されたメモを握り締め、 トオルが呟いた。
彼は返事をしたつもりだろうが、 問いの答えにはなっていなかった。
本来は、 日本人なら誰もが知る大リーガーの名を挙げるところを、 彼は 「ノリコ ・ ハセガワ」 と返してきたのだから。
これが、 今のトオルだった。
思い出と現実と、 虚実の世界をさ迷う魂の抜けた少年。
「そうだったわね。
彼女のアパートメントは、 確かこの辺りのはずなのだけど……」
敢えてその答えを訂正することなく、 モニカは受け止めた。
「ここだわ」
目的の場所は、 モデルをしているという彼女が好みそうな、 すっきりとしたデザインの洒落た建物だった。
その入口の前で、 トオルの足が止まった。
モニカにも、 彼の気持ちは何となくだが分かった。
これから 『ノリコ ・ ハセガワ』 に会って、 ジャンの死を告げなければならない。
彼自身もまだ受け止め切れない現実を、 故人が最も愛した女性に伝えなければならない。
ラケットに結ばれたプロミスリングを見せて、 最後まで約束を守り通したこと。
そして、 誰をかばって刺されたのかも。
きっと彼は、 責められるのを恐れているのではないと思った。
責任の所在を明らかにされる事よりも、 ジャンの死を明らかにする事の方が怖かったのだ。
誰かに事実として伝えるには、 自分自身がその事実を受け入れなければならない。
また託された使命を終えることで、 ジャンとの接点を失くすという新たな悲しみが生まれる。
これらの感情が、 足を重くしているに違いない。
入口の前で躊躇うトオルを見兼ねて、 モニカは自分が先に入ってドアベルを鳴らした。
ところが、 中からの応答はなかった。
何度か鳴らしてみたが、 扉は閉ざされたままである。
「留守なのかしら?」
意見を聞こうと振り返ったが、 トオルは黙って入口まで引き返すと、 その場で膝を抱えて座り込んだ。
しばらく、 ここで待つつもりなのだ。
雨のせいもあるだろうが、 辺りはすでに暗くなり始めている。
人を待つのに好条件とは言い難い。
それに、 いくら治安のいいシアトルと言え、 暗くなってから土地勘のない者がうろつくのは危険が多い。
身の安全を優先させれば、 早々にホテルへ引き上げる方が、 賢い選択というものだ。
「モニカ……?」
建物から出ようとするモニカに、 消え入りそうな声が追いかけてきた。
呼び止めようとして、 声をかけたのだと思う。
名前しか呼ばれなかったが、 請うような眼差しが訴えてきた。
「もう少しだけ傍にいてくれ」 と。
「温かい飲み物を買ってくるわ。
この街は、 コーヒーだけは不自由しないのよ」
傍にいる ―― きっとそれはモニカ以外の誰かでも良かったのかもしれないが ―― その意志を確認した途端、
トオルは形見となったラケットに視線を落として、 再び思い出の世界へ帰っていった。
本人しか入れない虚の空間へ。
こんな弱々しい彼を見たのは初めてだった。
「口と諦めは悪い方だ」 と豪語し、 モニカの毒舌を物ともせず、 倍返しにして来るようなヤンチャな少年が、
今は見る影もない。
「だからシアトルは苦手なのよ」
せめて日が差していてくれれば、 少しは彼の気が晴れたかもしれないのに。
自分の不甲斐なさを実感したモニカは、 降り注ぐ冷たい雨に向かって文句をつけた。
テイクアウトのコーヒーを抱えて戻ってくると、 相変わらずトオルは俯いて座り込んでいた。
さっき別れた時と同じ格好で、 本当にそこだけ時間が止まったようだった。
袋からコップを取り出すと、 コーヒーの温もりだけでも伝わるよう、 冷たくなった彼の両手にしっかりと掴ませた。
それから、 また現実に呼び戻すための話題を探した。
「これ、 すごくステキなデザインよね。 オリエンタルな感じがして」
ジャンのラケットに結ばれたプロミスリングを指して、 話を引き出してみる。
「ああ、 彼女からのプレゼントだって。
昔ジャンが荒れていた頃に、 このリングを結んで誓いを立てさせられたって、 話していた」
「そうなの?」
「オレ達も分けてもらったんだぜ。 ほら!」
何を言っても反応しなかった彼が、 ジャンに話題が及んだと同時に、 息を吹き返した。
「前に魔女の姉貴が、 大物集団を連れて来た事があっただろ?
あの時、 モニカは先に帰ったから知らないと思うけど、 大変だったんだぜ」
「どんな風に?」
その詳細は他の仲間から聞かされていたが、 わざと興味深げな顔を向けた。
「オレに負けたアイツ……なんて言ったかなぁ?
忘れちゃったけど、 試合の後でいきなり殴りかかって来てさ。 コート中が大乱闘になったんだ。
そんで騒ぎを鎮めるのに、 ジャンがガソリンの入ったボトルを投げつけてさ。
オレ達三人、 思いっきり怒られた。 そうだ、 これも一緒に返さなきゃ……」
トオルが自分のラケットに結んであったプロミスリングを外して、 ジャンのラケットに結び直そうとした。
紐が短過ぎて、 不器用な少年の手には負えない状態だったが、 それでも必死になって結ぼうとしている。
こうしなければ、 生死に関わるとでも言わんばかりの真剣な表情だった。
「トオル、 貸してみて」
気の毒になって、 モニカは助け舟を出した。
「でも……」
「私のほうが上手く結べると思うけど?」
「わかった。 じゃあ、 頼んだ」
少しだけ、ほんのわずかな時間だが、 トオルが元の姿に戻った気がした。
「ビーとレイの分も、 返してもらえばよかったかな」
「でも、 アナタ達の誓いの証がなくなるわよ?」
「オレ達はいいんだ、 もう……」
ふと電池が切れたように、 彼の声がトーンダウンした。
話がジャンから逸れた途端、 また生気のない顔つきになった。
生き返った気がしたのは、 やはり錯覚だった。
二時間ほど待ってみたが、 『ノリコ ・ ハセガワ』 は戻って来なかった。
トオルよりはいくらか世間の常識を知るモニカは、 自分達の軽率な行動を悔やんだ。
ジャンの死で気が動転していたとは言え、 出発前に連絡を取り、 事前にアポイントを取っておくべきだった。
記憶では、 ジャンの彼女はモデルの仕事をしているはず。
もしかしたら長期で海外出張に出ているかもしれない。
急ぐ旅ではないが、 金銭的に余裕があるわけでもない。
特にトオルは、 今回の旅行で日本へ帰るために貯めていた貯金を、 ほぼ使い果たしたと聞いた。
それを考えると、 あまり長居はできない。
仕方なくモニカは、 アパートメントの住人に事情を話し、 管理人の連絡先を聞き出した。
驚いたことに管理人の話によると、 『ノリコ ・ ハセガワ』 は三ヶ月前に引っ越したそうだ。
モデル事務所を通しての契約だった為に、 彼女がどこへ引っ越したか、 行き先は分からないという。
しかも頼みの綱であるモデル事務所は、 すでに倒産した事まで聞かされた。
水物と言われる業界ではよくある事らしいが、 これで完全に彼女との繋がりが途切れた事になる。
意外だったのは、 ジャンが彼女の転居を知らされていなかった事である。
ひょっとしたら二人は別れた後なのか。
付き合っていれば、 引越し先ぐらいは教えるはず。
今となっては確かめようもないが、 トオルの気持ちを考えると、 これ以上悲劇的な展開にならないで欲しいと
心から願った。
「ジャン、 ごめん……最後の頼みなのに……」
主のいないラケットを抱え、 トオルはすでに 『ノリコ ・ ハセガワ』 の転居までも、 自分のせいにし始めている。
「きっとジャンは、 会いたかったんだ……最後に一番好きな人に……それなのに、 ごめん……」
「アナタのせいじゃない」 と言いかけて、 モニカは思い留まった。
今の彼に何を言っても、 ますます自責の念を深めるだけである。
するとそこへ、 レイから連絡が入った。
電話越しではあるが、 冷静な彼にしては珍しく口調が荒い。
「ゲイルがやられた! もう我慢できない……」
「ちょっと待って、 レイ? 一体どうしたの?
何があったのか、 まず説明してちょうだい」
「明日、 チャンフィーを……」
「チャンフィーを、 なに!?」
モニカが 『チャンフィー』 の名を口にしたと同時に、 トオルの目つきが変わった。
そして素早く携帯をむしり取ると、 電話口に向かって声を張上げた。
「復讐はぜったいにするな! これはジャンの遺言だ。
何のために密葬にしたか……おい、 レイ? 聞いているのか!?」
どうやら一方的に電話を切られたらしい。
二人の間に、 嫌な予感が駆け抜けた。
「モニカ? 今からサンフランシスコに戻る方法はあるか?」
「まさか、 これから帰るつもり?」
「ああ、 走ってでも帰る。
これ以上、 仲間を失ってたまるか!」
思い出の世界をさ迷っていたトオルが、 現実へ戻ってきた。
皮肉なことに、 チャンフィーによって失われた生気が、 その名の出現によって呼び戻されたのだ。
ただ残念なことに、 彼の胸の中に今宿っているのは、 魂ではなく憎しみの炎だった。