第 34 話 奪還

ストリートコートイメージ



ジャケットを取り戻そうと中へ入ったトオルだが、 真っ先に優先させたのは、
コートで怯える挑戦者を逃がしてやる事だった。
「後の話はオレがつける。 早くここから出て行け」
「あ、 ありがとう。 でも、 君はどうするの?」
「オレの事は心配しなくていいから、 早く」
「本当にだいじょうぶ? 話に聞いていたリーダーと違うみたいだけど……」
「ああ、 そうらしいな。 今度ここへ来る時は、
赤いジャケットを着たリーダーがいるかどうか確認してからにしろ」
「君は一体……?」
訝しげな顔を向ける挑戦者を外へ押し出すと、 トオルは他の連中に
気付かれないよう一つしかない出入り口に内側から鍵をかけた。
夜中の見張り番が使用する ダイヤルロック式の鍵である。
こうする事によって外からの侵入を防げる上に、 番号を知る者でない限り、
出て行く事も不可能だ。
これでモニカとあの挑戦者の安全は確保される。
同時に、 100対1のコロシアムが完成した。

単身ここへ乗り込むのは、 二度目である。
普段から信仰とは無縁のところにいて、 神の存在を意識した事もないが、
この時だけは不思議な巡り合わせを感じた。
大切なものを手に入れようとする時は、 常に捨て身の覚悟を強いられる運命なのかもしれない。
地面に落ちたジャケットを拾い上げると、 トオルは丸太の上のリーダーと向き合った。
「このジャケットは返してもらう」
「貴様、 もしかしてジャンが飼っていた日本人のガキか?」
トオルの容姿と後ろに背負った鉄製のラケットを見て、 チャンフィーは誰が乗り込んで来たか分かったようだ。
「ああ、 そうだ」
瞬く間にコート内のよどんだ空気が、 殺気に変わった。
「そいつは面白い。 俺も一度会ってみたいと思っていた。
ジャンはオマエを庇って、 死んだらしいな? まずは礼を言わせてもらおうか」
間近で見たチャンフィーは、 冷淡な笑いがよく似合う男だった。
だが初めて会った時ほどの恐怖心はない。
恐怖をねじ伏せるほどの強い感情が、 すでに体内で沸き起こっていたからだ。
「一つだけ聞きたい事がある。 何故こんな卑怯なやり方でコートを乗っ取った?
アンタもストリートコートのリーダーなら、 実力で勝とうと思わなかったのか?」
どうせろくな答えは返って来ないだろうが、 事を起こす前に事実を確認しておきたかった。
しかし彼の口から飛び出したのは、 予想を遥かに超える内容だった。
「人聞きの悪いことを言うな。
今回の騒動はジャンから仕掛けてきたんだぜ」
「嘘をつけ。 ジャンは自分から喧嘩を売るような真似はしない」
「頭の悪いガキだ……」
蛇を思わせる冷たい眼光が、 持論を言って聞かせる時は楽しげに揺れた。
「いいか? この世の中は、 勝利を収めた者が正義になる。
歴史を振り返ってみろ。 例え騙し討ちで勝ったとしても、 最後に権力を握った奴がヒーローだ。
勝者の俺が 『この喧嘩はジャンが仕掛けて、 それを返り討ちにしてやった』 と触れ回れば、
世間の奴等はこっちが真実だと思う。
俺は卑怯者を成敗した英雄だ」
「ジャンが卑怯者で、 アンタが英雄だと? そんなデタラメ、誰が信じる?」
「まともなリーダーなら、 仲間に見捨てられるわけがない。
あの時オマエも……血だらけになったジャンを置いて逃げた一人だろう?
すでに噂は、 ばら撒いてある。
ジャックストリート ・ コートの元メンバーは、 卑怯なリーダーに愛想を尽かして逃げ出した。
おかげでジャンは哀れな最期を迎えたんだとな」
恐らくジャンが刺された時の話をしているのだろう。
被害を最小限に食い止めようとゲイルが出した指示を悪用して、 チャンフィーは都合良く話を作り変えるつもりなのだ。

「勝者には事実を捻じ曲げる権利もあると、 言いたいのか?」
本物の怒りが爆発する寸前。 自分でも、 もうすぐだと分かった。
トオルは亡きリーダーのジャケットに袖を通し、 いつでも身軽に動けるよう体勢を整えた。
「飲み込みのいいガキじゃねエか。 ジャンが可愛がっていただけの事はある。
無法地帯のルールはシンプルだ。 勝者が全ての権限を持つ」
「ああ、 オレもその意見には賛成だ。
自由にしたけりゃ強くなれと、 教わった」
努めて冷静に答えているが、 胸の内は自身の熱で溶けそうだった。
「気に入ったぜ、 小僧! そのジャケットくれてやるから、 俺と組まないか?
オマエがいれば、 他の白人のリーダーとも渡り合える気がしてきた。
アメリカにいる限り、 どうせ俺達アジア人が日の目を見ることはない。
だったら裏の世界で思う存分暴れ回って、 白人の奴等を見返してやろうぜ」
「せっかくだが、 外道に魂を売る気はない」
あからさまにリーダーを愚弄する発言に周りの手下達が身構えたが、 チャンフィーはまだ余裕の笑みを見せていた。
「ガキの分際で背伸びをするな。 どうせ形見のジャケットを取り返しに来たんだろ?
このまま無事に帰れると思っているのか?」
「いいや、 そんな事思っちゃいないし、 帰る気もない」
「何だと?」
「オレが取り返しに来たのは、 ジャケットじゃない。 この砦ごと全部だ」
「一人で、 俺達全員とやり合うつもりか?
別にどっちでも構わないが、 お上品な 『誓い』 ってヤツはもういいのか?」
チャンフィーの冷淡な微笑が、 優位な立場にいる者が見せる誇らしげな笑みに変わった。
「何故、 誓いの事を知っている? まさか……?」
聞いた直後に、 疑いようのない結論が浮かび上がった。
ラケットで人を傷つけない。 メンバーしか知らないはずの誓いを知っているという事は、
奴はかなり前からスパイを潜り込ませていたに違いない。
こちらの事情を念入りに調べた上で、 今回の計画を実行したのだ。

怒りが頂点に達して、 大きな峠を一つ越えてしまった。
奴はジャンがラケットを武器にしないと確信してから、 一人になるタイミングを狙って襲わせ、
コートを奪い取った。
目的を達成した後もステイタス欲しさに手下を使って墓を暴かせ、 棺の中からジャケットを盗ませた挙句、
汚いと言ってゴミ同然に投げ捨てた。
更には罪を故人になすりつけ、 自分は丸太の上で英雄気取りである。
ジャンの死も、 あの墓地の惨劇も、 ゲイルがあんな情けない死に方をしたのも、
全てこの男が元凶だというのに。

沸点を越えた怒りの後に、 新しく芽生えた感情 ―― 静かで、 冷たくて、 したたかな。 殺したいと思うほど
誰かを憎んだのは初めてだった。
今すぐ飛びついてジャンと同じ目に、 いや、 もっと酷い目に遭わせてやりたい。
こんな恐ろしい感情が自分にも存在する事に驚きながら、 その一方で、 どうやって奴を殺そうかと算段する行為を
止められない。 むしろ頼もしいとさえ感じる。
冷静に敵の人数と所在を記憶し、 最短距離で奴を殺すにはどのルートを辿ろうかと計算する悪魔のような自分を。
今度こそ、 この手で人を殺すかもしれない。 でなければ、 こっちが殺されるか。
「無理するな、 小僧。 誓いを破ったら、 大好きなリーダーが悲しむぜ?
それとも、 武器も持たずに素手で戦うつもりか?」
良心を試すような口ぶりで挑発してくるチャンフィー。 奴は本物の悪党だ。
悪魔と悪党。 刺し違えるには、 ちょうど良い相手かもしれない。
トオルの右手が背中のラケットに伸びた。
「オレはいつもジャンを怒らせていた……よく約束を破るから……
拾ってくれた恩も返せないで……喜ばせた事は一度もなかった」
ずしりと重い鉄製のラケットの感触が伝わってきた。
フレームに結ばれたプロミスリング。 この誓いを破る事に罪悪感がないわけではない。
だが、 歪められた真実を放っておけなかった。
「人の道に外れようが、 誓いを破ろうが、 どうって事はない。
だけどジャンの誇りだけは、 必ず守ってみせる」
「今さら死人の誇りを守ってどうなる?
第一たった一人で、 何をするつもりだ?」
ジャンの形見のラケットを構えると、 トオルは丸太の上のチャンフィーを正面から見据えた。
「これからアンタをぶっ殺して、 オレが勝者になる!」
「ガキ一人で敵討ちか? いいだろう。 そんなに死にたいなら望みどおりにしてやる。
間抜けなリーダーの後を追いな!」
トオルの覚悟が本物と悟ったチャンフィーが、 周りの手下に命令を下した。 その時だった。

バックヤードから聞き慣れた声がした。
「後を追うのは勝手だが、 オマエの墓は用意してやれないぜ?
俺様、 今月一度もバイト行ってねエし」
「ビー! どうしてここへ?」
「モニカが電話してきた。 『トオルを助けてくれ』 ってな」
「でも、 どうやって中へ……?」
「自分で作っておいて忘れたのかよ?」
ビーがバックヤードのフェンスの一部を顎で指し、 ニヤリと笑った。
それはトオル達が罰当番から逃げ出す為に、 秘かにフェンスを破りこしらえた穴で、
『俺を怒らせる三人』 以外は知らない秘密の抜け道である。
「まさかレイも?」
言った傍から、 レイが穴から顔を出した。
モニカから電話を受け、 二人はフェンスの抜け道を通って中へ進入してきたのだ。
「帰れよ、 二人とも」
顔を見るなり、 トオルは冷たく言い放った。
気持ちはありがたいが、 自分の命の保障も出来ない状況で、 二人を守りながら戦う自信はなかった。
「これはオレの喧嘩だ。 オマエ達を巻き込むつもりはない。 帰るんだ!」
「俺様も、 巻き込まれたつもりはない。
確かに、 ここへ来たのはモニカに頼まれたからだが、 一緒に戦うのは別の理由だ」
「別の理由?」
「てめエが仲間だからに決まってんだろうが!」
相棒に続いて、 レイも彼らしいコメントで留まる意思を示した。
「最後の命令も守らなかった事だし、 どうせ遺言破るなら三人セットじゃないと。
これって立派な復讐だよね?」
「オマエ達、 これがどういう喧嘩か分かっているのか?
ジャンとの誓いを破るんだぞ? テニスプレイヤーの誇りを捨てる事になる。
命だって……」
「ああ、 話は聞いた。 元々俺様のプライドなんて大したものじゃない。
ジャンの誇りが守れるなら、 それで充分だ」
亡きリーダーの為に、 そして仲間の為に。
何の躊躇いもなく プライドを捨てると断言するビーの言葉を聞き、 トオルの胸の中に
再び温かなものが流れ込むのを感じた。
一度は切れたと思った絆が、 また紡がれていく。 前よりも強く、 確かなものとして。
「オマエ等、 本物のバカだ」
「お互い様だ、 ボケ!」
これが 『俺を怒らせる三人』 の復活の合図となった。

レイが護身用の小さなナイフを取り出し、 ラケットに結んだプロミスリングを切り裂いた。
「それじゃあトオル……いや、 リーダー? 俺達に指示を出してくれないか?」
「オレが リーダー?」
同様にしてビーが誓いを裂いて、 ナイフをよこした。
「その赤いジャケットを着た時点で、 オマエが次のリーダーだ。
俺様の命は預けたぜ!」
「わかった……」
受け取ったナイフの刃先をプロミスリングに合わせると、 トオルは二本とも断ち切った。
ジャンと自分の二人分の誓いを。
それから脇で控える二人の仲間に向かって、 リーダーとして最初の指示を伝えた。
ここで与える指示と言えば、 一つしかない。
「オレの顔に泥塗るなよ」
「了解!」

新リーダーの指令と共に、 百人対三人の乱闘が始まった。
単純に計算して一人に付き三十人は倒さなければならない。
誰からともなく三人は互いに背中を合わせ、 後を取られないようフォーメーションを組んだ。
まずレイが相手の攻撃を受け止め、 その隙にビーが武器を叩き落し、 最後にトオルが仕留める。
明らかに敵の数が多い状況で、 味方の一人が倒れれば人質に取られる危険性もある。
それを避ける為に三人一組となって、 一人ずつ確実に片付ける方法を取ったのだ。
正確に状況判断ができるレイと、 素早さに長けたビーと、 剣道四段に鍛えられた腕を持つトオル。
この三人だからこそ成り立つコンビネーション戦法だった。
ところが敵の三分の一を倒した辺りから、 ビーとレイに疲れが出始めた。
コンビネーション戦法は手間がかかる為に、 体力の消耗が激しい。
何かこの窮地を脱出する方法はないか。
味方のピンチを察したトオルは、 新たな作戦を取ろうと必死で考えを巡らせた。

きっとこれが一人なら、 力尽きるまで戦い通し、 命を落としていたかもしれない。
けれど、 今は大切な仲間がいる。 こんな自分に命を預けてくれる掛け替えのない仲間が。
ここへ入る前は、 多くは守り切れないと判断して一人で乗り込んだ。
捨て身の覚悟で臨まなければ、 砦は奪い返せないと。
しかし、 その考えは間違っていたと、 今なら断言できる。
人は守るものが多ければ多いほど、 強くなれる。
だからジャンは強かったのだ。 彼の形見となったジャケットが、 その事を教えてくれた。
まるでトオルを導くかのように。
憎しみの炎が少しずつ消えていった。
本当に大切なものを守る。 それは汚さないよう守ってこそ、 価値がある。
血塗られた復讐という経路を辿らずに、 純粋に奪還のみを目指す。
改めて決意を固めた。 砦も、 リーダーの誇りも、 そしてこの仲間も。
ここから先は、 一人の犠牲も出さずに全てを守りきる事を。

「作戦を変更する」
トオルの声かけに、 レイが驚いたように振り返った。
「オマエに作戦なんかあったのか?」
「オレの勘が正しければ、 ジャンの事だから絶対にアレを用意していたはずだ」
「まさか、 アレって……アレか!?」
「ああ、 たぶん丸太の下に隠してあるはずだ。
オレがあそこに辿り着くまで、 援護してくれるか?」
「任せておけ」
それまでコート中央で暴れていた三人が、 丸太に向かって駆け出した。
信頼する仲間の援護を受け、 トオルは一気に頂上を目指した。

意表を突いた襲撃に慌てたのは、 チャンフィーだった。
高みの見物を決め込んでいた彼は、 まさか敵が足場の悪い丸太の上で乱闘を仕掛けてくるとは思わなかったようだ。
しかも二人しかいない味方を下の援護に付け、 トオル一人で駆け上って来ようとは。
咄嗟に身の危険を感じて降りようとしたが、 丸太の下ではレイとビーが手下達と揉み合い動きが取れない。
チャンフィーは自分の手下達に逃げ道を阻まれ、 一人足止めを食らった状態だ。
「今さら逃げようなんて考えるなよ?
アンタには、 最後まで付き合ってもらうからな!」
かつてジャンと夜景を眺めたその場所で、 トオルは鉄製のラケットを相手の喉元に突きつけた。
「ガキが、 いい気になるじゃない!」
逃げ場を失いながらも、 チャンフィーはコートに残った他の手下達に号令をかけた。
「おい! このクソガキを丸太の上から引きずり降ろせ!」
「やれるものなら、 やってみろ。
但し、 オマエ等のリーダーがどうなってもいいならな!」
その怒鳴り声に振り返った手下達は、 それぞれが信じられないという表情で、 丸太の上の光景を呆然と見つめた。
この時トオルが手にしていた物は、 チャンフィーに突きつけたラケットともう一つ。
ストッパーを外したばかりの消火器だった。 三人が話していた 「アレ」 である。

モニカの卒業式を行うにあたり、 ジャンと他のメンバーはずっと揉めていた事があった。
女性を送り出すのだから、 トオル達は花びらをかけてやろうと提案した。
結婚式などでよくやるフラワーシャワーというヤツだ。
しかしながらジャンだけは男女差別に繋がるからと言って、 ブレッドの時と同じく消火器をかけると主張した。
無論、男女差別は薄っぺらい建前で、 消火器を噴射するのが楽しみである事は、 一目瞭然だった。
前回のグラデュエーションで ブレッド共々甚大な被害を被ったトオル達は、 卒業するのが誰であれ、
消火器を使われたくないというのが本音である。
普段は協調性のないメンバーが、 この時だけは全員一致団結してフラワーシャワーを支持した為に、
仕方なくジャンは諦めた。 正確には 「諦めた振り」 をした。
頑固者のリーダーが、 そう簡単に楽しみを諦めるわけがない。
メンバーにバレないよう持ち込んで、 当日隙を見て丸太の上から大量の泡を降りかける段取りを組んでいたはず。
そう睨んだトオルは、丸太に到着すると同時に調べ回り、 見事 「アレ」 を探し当てたのだ。
その数、 十本。 内緒で隠し持っていただけでなく、 前より数を増やしたリーダーの行動を軽蔑しなくもないが、
今となっては感謝の気持ちの方が強かった。

トオルは消火器のノズルをチャンフィーの顔面に向け、 いつでも発射できる準備を整えた。
「心配するな。 人体に害はないそうだ。
但し、 こんな近くで直接食らえば、 どうなるか分からないぜ。
窒息するか、 或いは噴射の勢いで下に落ちて骨折するか……」
「き、 貴様……どこから、 そんな物を!」
「さっきまでアンタがふんぞり返っていた、 この丸太からだ。
ここはパーツを一つ外せば、 中は倉庫になっている。
砦を守る為の緊急用の武器が、 山のようにストックされているんだよ」
常にジャンが丸太の上に座っていた理由も、 ここにある。
リーダーとして、 いつでも大切な砦を守れるように。

チャンフィーを足止めさせたままで、 トオルは本人ではなく手下達に向き直った。
「ここへ入って来る時、 出口の鍵を閉めさせてもらった。
オマエ等に逃げ場はないし、 頼りになるはずのリーダーはこのざまだ。
そこで質問がある。
最初にオマエ達がストリートコートに来た理由は何だ?
乱闘する為か? 敵を陥れる為か? それとも、 コイツから汚い仕事を言いつけられる為か?」
この問いかけに、 手下達の動きが止まった。
「周りを見てみろ。
今までに何人やられた? これから何人やられると思う?」
たった三人で全体の三分の一を倒された現状を見て、 コート内の殺気は沈下していった。
「惑わされるな! これは奴らの罠だ!」
慌ててチャンフィーが怒鳴りつけたが、 敵に追い詰められた情けない姿では何の説得力もない。
しかも 「汚い仕事」 ばかり押し付けられた彼等にとって、 今自分達がどちらに耳を傾けるべきか。
どちらが正しい事を話しているか。 本能的に察知した。
「ここに選択肢が二つある。 どちらもオマエ達の為に用意された道だ。
このまま外道の指示に従って、 オレ達にやられるか。
それとも卑怯なリーダーに見切りをつけて、 本来のテニスプレイヤーに戻るか」
寸分たりともラケットを動かさず、 トオルは一人ひとりの目を見て語りかけた。
「よく思い出してみろ。
ここは何をする場所か。 足元にある白いラインは何だったのか。
こんな危険な場所まで来て、 まだラケットを手にしている理由は何だ?
オマエ達だって本当は気付いているはずだろ? 自分達が何をしたいのか?」
恐らくチャンフィーの手下達は、 選択肢というものを与えられた経験がないのだろう。
人を人とも思わないリーダーから発せられるのは、 常に絶対服従の命令ばかりで、
自分達の為に何かを選ぶ事などなかった。
人格を認められた人間は、 自信を持って正しい選択をする。
誰かに従うのではなく、 何かに流されるのではなく、 己の為に何が必要かをきちんと判断出来るようになる。
「これからオレが自由になる為の番号を教えてやる。
今なら間に合う。 テニスプレイヤーに戻りたい奴は出口へ急げ。
番号はダブル ・ サーティーン (1313) だ!」
そのかけ声と共に、 両脇で控えていたレイとビーが、 それぞれ手にした消火器のレバーを引いた。
勢いよく吹き出る泡が引き金となって、 残りの手下達が一気に出口へ殺到した。
感覚的なものだが、 いくら自分たちが優位な立場でも、 閉じ込められたと分かった瞬間に脱出しようとするのが
人間の心理である。
トオルが扉の鍵をかけたことによって、 番号を知らない彼等は閉じ込められたと感じる。
そして倒された仲間と、 追い詰められたリーダーの姿を見て、 心の底では逃げ出したいと思うはず。
後は勇気とキッカケさえ与えてやれば、 元々恐怖だけで支配されていた手下達が、 仲間を裏切り出て行くのは
分かり切った事だった。
虐げられた者の痛みを知る、 トオルならではの心理作戦だ。

しかし一つだけ誤算があった。
「なあ、 トオル? 今さらだけど、 俺達のリーダーって正真正銘、 本物のバカだったんだな」
消火器から吹き出る泡を、 レイが複雑な表情で眺めている。
「ああ、 ゲイルもそう言っていた」
トオルの予想通り、 ジャンは消火器を準備していた。 その事については感謝している。
問題はその中身である。
コート全体に広がる消火器の泡 ―― メンバーに言われてモニカが女性である事を意識したのか、
今回ジャンは女性用に特別注文したらしい。 ピンクの泡が吹き出る消火器を。
いくら女性が好む色に変えたところで消火器には違いなく、 頭からかけられれば迷惑極まりないというのに。
着色された分だけシミになり、 もっと迷惑になるとは考えなかったのだろうか。
「『歴史に残る阿呆』 か……ゲイルの言った通りだ」
コート一面に広がるピンクの泡を前にして、 トオルは亡きリーダーの子供染みた所業を
しばらくの間目を細めて眺めていた。

「さてと……」
残りはチャンフィーだけである。
手下に見捨てられ一人敵陣の中に置き去りにされた悪党は、 トオルが拍子抜けするほど情けない姿で
丸太にしがみつくように震えていた。
「アンタの言った通りになった。
まともなリーダーなら、 仲間に見捨てられるわけがない」
「か、 か、 金ならある。 挑戦者からの戦利品は全部やる。
もちろんコートも明け渡す。 だから……た、 助けて……テニス出来なくなったら、 俺……」
「ふざけんな!」
あまりに身勝手な言い分に、 ビーがいち早く反応した。
「これはテメエが仕掛けた喧嘩だろうが! きっちり落とし前つけてもらうからな!
なあトオル、 どうする?
干乾びるまで丸太に縛り付けてやろうか?
それともギッタギタに切り刻んで、 カラスの餌にしてやろうか?」
「頼む、 助けてくれ。 ずっと羨ましかったんだ。
何をやってもジャンの方が上で……白人ってだけで皆から慕われて……」
チャンフィーが トオルの足元にすがり付いてきた。
「なあ、 オマエもそう思うだろ? アジア人だからって、 何度差別を受けた?
外見の違いだけで苦しめられるなんて、 理不尽だとは思わないか?
俺は差別した奴等に復讐しようとしただけだ」
これはかつて自分も抱いた疑問であり、 いまだ社会に根強く残る現実でもあった。
もしもテニス部を追い出された時、 ジャックストリート ・ コートではなく、 ビーナスストリート ・ コートへ
転がり込んでいたなら、 チャンフィーと同じ道を歩んだかもしれない。
だが幸いな事に、 トオルが流れ着いたのはジャックストリート ・ コートで、 ここでの経験が彼とは違う答えをもたらした。
「いいや、 思わない。
アンタが苦しいのは人種のせいじゃない。 弱いからだ」
「俺は努力した!
努力して強くなって……ジャンと同じリーダーの座を勝ち取った」
「オレが言っているのは、 心の強さだ。
ジャンが皆から慕われたのも、 力じゃない。 心が強かったから。
痛みを優しさに変える強さがあったからだ。
汚いやり方で勝とうとした時点で、 アンタの負けなんだ」
「俺の負け……?」
「もう勝負はついた。 さっさと立ち去れ」

大切な人の命を奪った悪党にしては、 情けない退陣の仕方だった。
よろよろと這うようにして丸太から降りて行くチャンフィーを見て、 ビーが不満げな顔を向けた。
「いいのかよ、 トオル?」
「あんな奴、 殴る価値もない。 これ以上、 オレ達の手を汚す必要はない。
それに、 これだけ観客がいれば事実は伝わっただろ?」
フェンスの周りには騒ぎを聞きつけたヤンキー達が、 成り行きを見守ろうと各地から集まって来ていた。
その群集に混じってモニカの姿があった。
真っすぐトオルを捉える視線には、 非難めいた感情は見られなかった。
ほんの一瞬だけ。 目が合った瞬間に彼女はわずかに眉を寄せたが、 すぐにいつもの勝気な笑顔に戻って
姿勢を正すと、 大通りに向かって足早に去っていった。
「卒業おめでとう。 さようなら……」
独り言のつもりで呟いた言葉の切れ端を、 隣にいたビーが拾い上げた。
「ああ、 これで悪党ともスッキリ、キッパリおさらばだ」
「えっ? 悪党?」
食い違う返答を不思議に思って振り向くと、 丸太を降りていたはずのチャンフィーの姿が忽然と消えている。
モニカに気を取られていた数秒の間に、 何が起きたというのか。
慌てて辺りを見回すと、 少し離れた先で地面にうずくまる男の影が見えた。
それも腰の後ろの部分、 つまり尻を抱えるようにして。
得意げなビーの様子から、 大よその察しはついた。
「ビー、 オマエ……いきなり命令無視かよ?」
「命令は守ったぜ。 殴っちゃいない。 蹴飛ばしただけだ。
これなら文句ないだろ?」
何の危害も与えず逃がした事を不満に思ったビーが、 丸太を降りようとするチャンフィーを後ろから、
具体的にはケツの穴を蹴飛ばし転落させたのだ。
あの様子では、 何箇所か骨折しているかもしれない。
「やれやれ……」
頭を抱えるトオルに、 珍しくビーが殊勝な態度を見せた。
「後悔してんのか?」
「何が?」
「その……どさくさに紛れて、 オマエにリーダー役を押し付けちまった事とか。
遺言破った事とか、 いろいろ……」
「いや……」
丸太の上からコート全体を見渡して、 トオルは満足げに答えた。
「もっと大人になって、 ジャンぐらい強くなれば反省する事があるかもしれないけど。
でも後悔はしないと思う。
オレが今一番大事だと思うものを、 こうして守れたから」
ここにストリートコート始まって以来の最年少のリーダーが誕生した。




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