第 38 話 絆

街イメージ



「どうしても気持ちは変わらないのかい?」
宿題の答えを持ってテニスショップを訪れたトオルに、
ハウザーが二度目の確認を入れた。
「ごめん、 ハウザー。 色々迷ったけど、 今が一番スッキリしている。
だから、 これがオレなりの正解だと思う」
「夢を諦めても?」
「いや、 諦めない。
夢も仲間も両方守れるリーダーになる」
「あそこのリーダーだけでも大役だよ。 自分の夢まで追いかけられる?」
一昨日の宿題を出された時と同じ質問が繰り返された。
しかし今度は躊躇 (ためら) う事なく答えられる。
「ジャンは諦めていなかった。
仲間を守りながら、 夢を叶えるチャンスを待っていたんだ」
「どうして、 そう思うの?」
「夢を諦めた奴に、 あのコートは守れない。
だって、 あそこは夢を叶えるための砦だから」

カウンターの内側で溜め息の漏れる音がした。
その顔には、 困惑の二文字がありありと浮かんでいる。
「ハウザー、 本当にごめん。
せっかくアドバイスしてくれたのに」
自分の出した答えが間違いだとは思わないが、 温厚で知られる店長を困らせる結果になった事は、
素直に申し訳ないと思った。
「ちゃんと将来の事も考えた。
手を貸すと言ってくれた人もいたんだけど……」
賛成してもらえなくても、 せめて理解してもらいたかった。
皆の反対を押し切ってリーダーになると決めた理由。
ジャックストリート ・ コートだからこその理由を。
「ハウザーの言う通り、 あんな所でいくら頑張ったって、 何も残らないのも分かっている。
でも、 あそこは何もないから価値があると思う。
誰の助けも借りずに自分の手で夢を掴んで、 自分の足で卒業できた時に、 初めて意味が……
いや、 意義と言うのかな?生まれるような気がして。
たぶん、 オレにしか分からない意義かもしれないけど」
「そうでもないさ……」
ハウザーの眉間に刻まれた皺が、 いくらか薄れたように見えた。
反対される事はなさそうだが、 賛成する気もないらしく、 彼は腕組みをしたまま動かない。
その様子から、 事の重大さを推し量ることが出来た。
トオルは黙って続きを待つ事にした。
今は何も話しかけてはいけない。 いつになく真剣な横顔から、 直感的にそう思った。
しばらくの沈黙の後、 ハウザーから告げられたのは、 反対でも賛成でもなく 「ついておいで」 の一言だった。
行き先ぐらいは教えて欲しかったが、 ここは大人しく従う他なさそうだ。
振り向きもせず店を出る背中を追って、 トオルも大通りを歩き始めた。

この時期のメインストリートは、 大して目を引く物はない。
ちょうどクリスマスの飾り付けが施される前で、 落ち葉が木枯らしによって片付けられた後。
通りを沿うように立ち並ぶ木々に彩りはなく、 それ故、 普段目立つはずのない店先の商品が
やけに鮮やかに見えた。
「トオルはこの街を美しいと思う? それとも汚いと思うかい?」
器用にもハウザーは、 通りで店を構える店主達と陽気な挨拶を交わす一方で、
トオルに対しては真面目な口調で話しかけてきた。
「う〜ん、 どっちだろ? 日本から来た時は、 ラッキーだと思った。
空の色も東京とは全然違うし、 自然に囲まれたキレイな街だって。
でも色んな事があって、 汚い部分も見えてきて、 ついこの間までは最悪だと思っていた」
「今は?」
「今は、 よく分かんねエや。
こうしてハウザーと歩いていると、 そんなに悪くないと思うけど、 前ほどじゃない。
オレにはキツイ事の方が多かったから……
ハウザーはどうなんだ?」
「トオルと同じさ。 綺麗に見える時と、 どうしようもなく汚く見える時がある。
ただ一つだけはっきりしている事は、 場所は箱であって中身じゃない。
箱の中身を良くするのも悪くするのも、 結局そこに住んでいる人なんだよね」
ハウザーが何故こんな話をして来るのか、 見当もつかなかったが、
数分後二人が向かった先で、 その理由は明らかにされた。
驚くべき事実と共に。

メインストリートを抜けてトオルが連れて来られた場所は、 他ならぬジャックストリート ・ コートだった。
意図を確認する間も与えず金網の扉を開けると、 ハウザーは中にいたレイとビーも呼びつけ、
フェンスに備えつけられているスコアボードの前に立たせた。
これは予 (かね) てからの疑問でもあるが、 こんなお粗末なコートに立派なスコアボードがあるのは、
どう考えても可笑しい。
ハーフマッチを基本に試合が行われるストリートコートでは、 最も使用頻度が低く、
どちらかと言えば不釣合いなアイテムである。
恐らく誰かが盗んできた物だろうと思っていたが、 三人揃って立たせられたという事は、
どうやらただのスコアボードではなさそうだ。
護身用の小型ナイフを使って、 ハウザーがその側面に刃先を立てると、
表面の板が外れ、 後ろからもう一枚緑のボードが現れた。
二重構造になっているらしい。
そしてその後ろのボードには、 数行にわたって文字が刻まれている。
ほんの一瞬、 文字の羅列にハウザーが顔をしかめたかに見えた。
まるで古傷を触られた時に取るリアクションように、 苦々しい思い出と恥ずかしさとが同居する歪み方だった。

「これから新リーダーを迎える儀式を始める」
「儀式!?」
唐突な宣言に、 思わずトオルは素っ頓狂な声をあげた。
スコアボードもさることながら、 テニスショップの店長がどうして儀式などと口にするのか。
レイとビーも訝しげな顔を向けているが、 三人に構わずハウザーは 「儀式」 とやらを始めた。
「ジャックストリート ・ コートの伝統では、 仲間にリーダーと認められた人間は、
このスコアボードに名前を残す習慣になっている。
逆に言えば、 ここに名前がない者は正式なリーダーと認められない」
「名前がない者」 とはチャンフィーの事を指しているのだろう。
淡々と話を進める口調が、 そこだけトーンダウンした。
「本来なら、 メンバーの他に前リーダーが立会人として儀式に参加しなければならないのだけど、
今回は私がジャンの代わりを務めるよ。 大昔のリーダーとしてね」
「えっ!?」
今度は三人ともが素っ頓狂な声を出した。
これまで人の良いテニスショップの店長だと思っていたハウザーが、 自分たちと同類のヤンキーで、
リーダーまで務め上げた兵 (つわもの) だったとは。

慌ててボードを確認すると、一番上に彼の名前が彫られていた。
「ハウザー、 アンタがここの初代リーダーだったのか……」
少しばつの悪そうな顔をして、 ハウザーが頷いた。
「誰もが平等にテニスを楽しめるようにと思って、 街の人達と協力して作ったんだ。
ここのコンクリートを敷き詰めたのは、 私だよ。
若気の至りってヤツだけどね。 一応、 高い理想はあった。
お金がなくても、 何の差別も受けずに、 テニスを好きな人間が自由に楽しめる場所。
ジャックストリート ・ コートをこの街の理想郷にするつもりだった」
遠い目をして語る彼は、 砦を作ったことを後悔しているように見えた。
「昔はここまで人も多くなかったし、 他にコートもないから大した騒ぎも起こらなかった。
人が集えば争いが起こるのは当たり前だと思う。
だけど最近の君達を見ているとね、 喧嘩の火種になるんだったら閉めてしまおうかと、 正直考えていたよ」
胸が痛かった。
乱闘でしか解決できない自分達の未熟さを、 心から恥じた。
「さっきトオルにも話したけど、 場所というのは箱であって、 その中身の価値は人によって決まる。
ジャックストリート ・ コートは夢を叶える砦にもなるけれど、 一歩間違えれば凶器にもなる。
自由を手にするというのは、 決して楽しいものじゃなくて、 本当はとても恐ろしい事なんだよ。
何にも惑わされない信念と、 どんな時でも自分を律するだけの強さが必要になるからね。
ここに名を刻んだ歴代のリーダー達は、 それぞれが自由と格闘して、 彼等なりに道を切り開いてきた者達だ」
そう言ってハウザーは、 ボードに掲げられた リーダーのリストを見せた。

ハウザーから始まり、 最後の名前はトオルがよく知る 「ジャン ・ ブレイザー」 のサインである。
彼は七代目のリーダーだったらしい。
「ハウザー、 これ……?」
見覚えのあるサインは、 二人だけではなかった。
五代目リーダーのところには、 カフェのシェフの名がある。
「シェフもリーダーだったのか?」
言われてみれば、 最初にトオルがストリートコートへ行こうとした時、 強く反対された覚えがある。
「生きていたかったら、 絶対に近づくな」 と脅された。
リーダーを経験してきたからこそ、 彼はここがただの 『自由の砦』 ではない事を知っていたのだ。
「君があまりに自分と似ているから、 シェフは止めたんだよ」
「オレが、 シェフに?」
「正確に言えば歴代の リーダー二人、 シェフとジャンに似ていると、 私は思うのだけどね」
わざわざ 「私は」 と補足を入れたという事は、 当人同士は気付いていないか、 否定したかのどちらかだろう。
確かにあの二人には共通点がある。
口の悪いところも、 気が短いところも、 素直に親切心を出せないところも。
「ちょっと待ってくれ、 ハウザー?
あの二人はともかく、 オレはそんなに捻くれてないだろ?」
「今のところはね……」
ハウザーが必要もないのに口元に手をやり、 「ククッ」 と喉を鳴らした。
笑いを噛み殺そうとしているのは、 一目瞭然である。
「今のところはって、 どういう事だよ?」
トオルがムキになって反論の材料を探していると、 横からビーが突いてきた。
「おい、 これってゲイルじゃないのか?」
その指先は、 リストの六番目で止められている。
五代目のシェフと、 七代目のジャンの間に挟まれて、 もう一人トオルが知る リーダーがいた。
六代目リーダーは、 あのゲイルだ。
これでようやく合点がいった。 トオルに負けた後、 何故彼がここを去ったのか。
元リーダーのプライドがナンバー3にまで堕ちる事を拒んだからだ。
メンバーの入れ代わりが激しいコートでは、 この事実を知っていたのはジャンぐらいだろうが、
ゲイルの性格からして許せなかったのだ。
親友とトップの座を競い合う関係を壊され、 ナンバー3に転落する自分自身を。

歴代のリーダーの名が刻まれたスコアボード。
ハウザーから数人のリーダーを経てシェフへ。
シェフからゲイル、 そしてジャンへ。
知り合い同士の繋がりを目の当たりにして、 トオルは改めて気付かされた。
自分がいかに多くの人々に守られてきたか。
このコートを中心にして広がる、 絆という糸に支えられてきたかを。
今度はトオルが、 この絆の一員に加わる番である。
新たな糸を紡ぎ出すために。

ボードに掲げられた一人ひとりのサインを指でなぞりながら、 トオルはもう一度ハウザーに決意を伝えた。
「ハウザー? オレ、 アンタがここの初代リーダーだって、 威張れるぐらいの場所にする。
本物の 『自由の砦』 にしてみせる。
だから、 もう一度だけチャンスをくれないか?」
「そのつもりで連れてきたんだよ。
君なら歴代のリーダーの想いを、 きちんと引き継いでくれると分かったからね」
ハウザーからナイフが手渡された。
初代リーダーと二人の仲間が見守る中、 トオルはナイフを手にボードに向かった。
たった三人のギャラリーで、 スコアボードに名前を彫るだけの儀式だが、
そうそうたるメンバーと同じ場所に名を連ねるかと思うと、 ひどく緊張した。
一文字ずつ丁寧に木の板に刻みつける作業が続いた。
『自由の砦』 への願いを込めて。
歴代のリーダー達と肩を並べる事に、 誇りと責任を感じながら。
八代目リーダー トオル ・ マジマ ―― 新リーダーの誕生である。

「それから、 もう一つ引き継がなければならない物があるよね?」
ハウザーが丸の上に掛けておいたジャケットに視線を移した。
「あれはいいよ。
オレはまだ似合いそうにないから」
リーダーの勲章である赤い皮のジャケット。
本来は一緒に引き継ぐべきだろうが、 まだそんな気にはなれなかった。
自分が着るには足りない物が多すぎる。
ところが彼は丸太の上からジャケットを引き上げると、 半ば強制的に新リーダーの肩に掛けてきた。
「与えられた器が、 人を大きく成長させる事もある。
今回の一件で君が多くの事を学んだみたいにね。
このジャケットは勲章と言うより、 『自由の砦』 の リーダーを務める覚悟の証なんだ。
だから、 これを背負ってやってごらん」
初代リーダーと知らされたせいもあるだろうが、 ハウザーの言葉には重みがある。
穏やかに話していても、 従わざるを得ないような説得力が。
「儀式」 の時と同様の緊張を感じながらも袖を通してみた。
このジャケットにしがみついて泣いた事もある。
ペンキをつけて怒られた事もある。
数々の思い出が染み込んだジャケットは、 リーダーと共に歩まなければならないように思えてきた。
「分かったよ、 ハウザー。
オレにはデカ過ぎるけど、 背負ってみる」
「そうだね。お世辞にも調度良いとは言えないけど、 前よりは様になったと思うよ」
再びハウザーが 「ククッ」 と喉を鳴らしたが、 今回は噛み殺すことなく、
喜びの表現に変った笑みが、 その口元に映し出されていた。

「トオル、 グッドニュースを持ってきた!」
フェンスの向こうから興奮気味の声が飛び込んできた。
元メンバーのブレッドと、 隣には親友のエリックもいた。
「グットニュース」 と叫んでいたのは、 ブレッドの方である。
「今度うちのホテルでバトラーを募集する事になったんだ。
テニスクラブ会員専用のバトラーだ。
どうだい、 やってみないか?」
ここを卒業してホテルのベルボーイとして働いているブレッドが、 どこからか噂を聞いて、
トオルの為にアルバイトを探してきてくれたらしい。
しかし手放しで喜ぶわけにはいかない。
バトラーとはVIPに仕えて身の回りの世話をする執事のような役目で、 通常は厳しい訓練を受けたホテルマンしか
就けない職種である。
「オレなんかが雇ってもらえるのか?」
「ノー ・ プロブレム!
今回は期間限定だからアルバイトの方がいいんだって。
最初はテニスの知識があるからと俺に回ってきた仕事なんだけど、 ベルボーイと両方こなすのは無理だから、
ボスにトオルの話をしたんだ。
そうしたら、 明日からでも来て欲しいってさ」
「日本人なのに?」
「うちのボスは、 人種差別はしない。
現に黒人の俺でも、 ちゃんと仕事をやれば認めてくれる」
「中学生なのに?」
「知識も技術もプロ並だと伝えた。
あの 『伝説のプレイヤー』 に仕込まれた天才児だってね」
「ストリートコートの リーダーなのに?」
「それは内緒さ」
茶目っ気たっぷりにブレッドがウィンクをして見せた。
バトラーの時給は、 皿洗いの約三倍。 つまり今までの三分の一の期間で資金が貯まる計算になる。
しかも真面目に接客すればチップがもらえる上に、 運が良ければ有名選手に会う機会もある。
稼ぎながら一流のプレーを間近で見られるなど、 トオルにとっては夢のような仕事である。

続いて話し始めたエリックも、 用件は割のいいアルバイトについてだった。
姉貴分のディナが知り合いに頼んで紹介してもらった仕事で、 大道具などを扱うファッションショーの裏方である。
こっちもバトラー並みに給料がいい。
昨日の夕食時に相談した事を、 彼女なりに気にかけてくれたのだろう。
「ディナがね、 『悩むのはいいけど、 立ち止まるのはトオルらしくない』 って」
「ディナが?」
「それで僕にも声をかけてくれてね。 二人で一緒に頑張れって。
引き受けてもいいよね?」
「ありがとう、 エッリク。 それにブレッドも。
言葉にならないって言うか、 何て言っていいのか……すっげエ嬉しい。
本当にありがとう」
一度は手放した夢が一気に射程内戻ってきた。
もう、 途方もない距離ではない。
むしろ皿洗いだけで頑張っていた頃よりも、 現実に近くなった。

「トオル、 入口の看板 『アンダー14』 に変更しておくからな!」
扉にくくりつけられている 「十六歳未満立ち入り禁止」 の看板を、 ビーが得意のペイントを使って
16から14に書き換えていた。
それは昔 「十八歳未満」 だった警告を、 上から十六歳に塗り替えた経緯がある。
「うちの リーダーがコートに入れないんじゃ、 洒落になんないからね」
年下の リーダーを気遣ったレイのコメントに、 トオルは笑顔で頷いた。
初めてここへ来た時は、 塗り替えられた警告を見て危ない連中の溜まり場だと怯えた自分が、
今はそれを容認する立場ある。
しかし以前のように 「最低だ」 と言って落ち込む事はなかった。
『自由の砦』 を介して得た仲間達を、 心から誇りに思うから。
だぶついたジャケットを着たままで、 トオルは丸太の上に登った。
足元にはペンキだらけのコンクリートのコートが見える。
少し視線を上げると、 右手はサンフランシスコの港まで、 左手には大通りの並木が一望できて、
さらにその上には青空が広がっていた。
久しぶりにキレイだと思った。
自分の住んでいるこの街が。
トオルは横になると、 抜けるような空を体全体で仰いだ。
丸太の上に寝そべって空を眺める リーダーの姿 ―― それは、 かつてジャンが暇な時によく見せた
お決まりのポーズだった。




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