第 4 話 1 ドルの友情

ドル紙幣イメージ



自宅の裏庭に、 壁打ちボードがある。
これを知ったトオルは、 再び前に踏み出す勇気が湧いてきた。
「必ず、 ここから這い上がってみせる!」
想いを込めてボールを打ち続けていると、
背後から龍之介の声がした。
「おい、 クソガキ。
いきなり人の道、 踏み外そうってんじゃねエだろうな?」
「何の事だよ?」
「だから、 言っただろうが。 ボードは 1ドル、 コートは 2ドルだ。
先払いだからな」
「親父、 まさか金取るつもりじゃ?」
「この国で自由に出来るのは、 白人と力を持った人間だけだと、 さっき教えたはずだ。
金のない奴は、 息子でも断る」

ボードを見た時、 一瞬でも父に感謝した自分が愚かだった。
庭に置かれている物を、 そこの家の息子が使う。
この当たり前の行為に対して、 父は使用料を取ろうとしている。
こんな差別以上に理不尽なことがあっていいのか。
しかも、 数時間前にテニス部を退部させられたばかりの、 不幸のどん底にいる我が子に対して。
「テ、 テメエは鬼だな。 愛情……いや、 それは無理として……
せめて、 同情って言葉を知らねエのか?」
「さあ、 日本語も随分忘れちまったからなぁ」
「都合のいいボケ方すんなよッ! こっち来て、 まだ一ヶ月しか経ってねエじゃん!
だいたいオレに金が無いの知っていて、 わざと言ってるだろ?」
「金が無いんじゃ、 話になんねエなぁ……」
「鬼! 悪魔! クソ親父!」
「これが自由の国、 アメリカのルールよん!」
龍之介の口調は、 明らかに無力な息子をからかって楽しんでいる。
壁打ちボードを前にして、 ボールを打つことが出来ない。
自他共に認めるテニス馬鹿にとって、 これほど辛いことはない。
こんな事なら、 知らされない方がマシだった。
「ったく、 スクールの施設ごと無料開放する親もいるってのに……」
ハルキの父であり、 テニススクールのオーナーでもある日高。
日本で彼の過保護ぶりを体験した後だけに、 龍之介の薄情さが、 いつにも増して恨めしく感じた。
だが父の性格からして、 これ以上議論しても無意味なことも知っている。
不満が染みこんだラケットを抱え、 トオルは自分の部屋に戻るしかなかった。

階段を上がり自室の扉を開けたとたん、 ふうっと一つ深い溜め息がもれた。
「金が無いんじゃ、 確かに話になんねエよな……」
机とベッドだけの飾り気のない部屋が、 熱くなった頭を一気に冷ましてくれた。
思えばテニス部というのは、 無料でテニスコートの使用を許される、 唯一の練習場所である。
辞めたことに後悔はなかったが、 プライドを守り通した代償は、 想像以上に高くついた。
「はぁ、 ボール打ちてェ……」
空っぽの部屋。 練習のない放課後。
定年後のしょぼくれたオヤジのように、 時間も空間も持て余している。
立ち止まった自分に残されたのは、 居場所にもならない二階の一室だけ。
寝る場所さえあれば充分だと満足していた部屋なのに、 今はやけに虚しく感じ、
溜め息の通り道まで見える気がした。

「あぁ、 どっかに練習場所ねえかなぁ……って、 あれ……?」
三度目についた溜め息の先で、 トオルの視線はある物に釘付けになった。
部屋の片隅で置き去りにされている四角い箱。
「へへっ! 『近くの親戚より、 遠くの他人』 って、 よく言うからな!」
喜びのあまり、 諺の遠近感まで間違えているが、 トオルがそこまで興奮するには理由がある。
それは渡米する前に、 日本から衣類を詰めて送った箱で、 日高からもらった餞別を入れたはずの荷物。
「龍之介には内緒だ」 と渡されたのは、 親戚からのお年玉でしか見たことのない一万円札だった。
本当は新しいラケットを買うつもりで荷物に入れたのだが、 この際、 背に腹は変えられない。
アルバイトの当てもなく、 部活も辞め、 無一文の身で練習を続けるには、 取るべき道はただ一つ。
「おっさん、 一生恩に着るぜ!」
札に向かって一礼すると、 ドルに換金できる場所を聞くため、 トオルはエリックの部屋を訪ねた。
「この時間は銀行が閉まっているから、 ホテルのフロントぐらいかな?」
「わかった。 サンキュー、エリック!」
「待って、 トオル。 明日、 銀行が開くまで待てないのかい?」
部屋を出ようとするトオルを、 エリックが引き止めた。
「いや、 どうしても今日……っていうか、 いま必要なんだ」
「でも、 ホテルの換算レートは銀行より高くなるから、 随分と損をするよ」
知識豊富な彼ならではの的確なアドバイスだった。
トオルも貴重な一万円を有効に使いたい気持ちはあったが、
ボールを打ちたい衝動は、 どうにも抑えることが出来ない。
まさに目の前でニンジンをぶら下げられた馬と同じだ。

すぐにでも換金したい理由をエリックに話すと、 彼は 1ドル札をよこしてきた。
「本当は、 学生同士のお金の貸し借りは、 ルール違反なんだけど……」
真面目な彼のポリシーに反するのか、 渡し方がぎこちない。
同様に、 トオルも手を引っ込めた。
「それはマズイって。 気持ちはありがたいけど、 オレ借金は作りたくない」
エリックとは、 同じクラスになったというだけで、 金を貸し借りするほどの間柄ではない。
また仮に仲が良かったとしても、 これまで金に苦労してきたトオルは、借金自体に抵抗があった。
光陵での、 唐沢から強いられた借金生活が、 トラウマとなって残っているのだ。
笑顔つきの小額から始まる借金は、 いつか多額の負債となって戻ってくる。
諺の記憶は適当でも、 生きていく上で必要な真理は、 ちゃんと身体が覚えている。
「遠慮しないで。 明日、 銀行で換金してから返してくれればいいから」
人の良さそうなエリックの笑顔は、 後輩をカモにする時の悪魔の微笑とは違う。
その違いはよく分かるのだが、 トオルにはまだ疑問が残る。
「でも、 なんでオレなんかに……?」
理由もなく、 何かと親切にしてくれるドイツ人。
性格が合うわけでも、 話をするわけでもないのに、 気がつけばサポートしてくれている。
それがトオルには不思議だった。
「それは、 同じ齢だから……かな?」
ちょっと困ったような顔を向けるエリックからは、 悪意の欠片も見られない。
「さあ、 早く行かないと、 練習の時間がなくなるよ」
「わかった。 かならず明日、 返すから。
サンキュー、 エリック」
ここはひとまず素直に好意を受け取る事にして、 トオルは貴重な練習時間を優先させた。

次の日、 朝一番で換金を終えたトオルは、 借りた1ドルを返そうとエリックの部屋に向かった。
ところが二階の廊下で、 イタリア人のジョセッピと出くわした。
ジョセッピはトオルの姉貴分であるディナに、 「九月になるから」 という不可解な理由で、
一方的に別れを告げた男だ。
いわゆる元 ・ 彼というヤツで、 すでに終わった話ではあるが、
いまだ失恋のショックから立ち直っていない姉貴分を思えば、 ひと言文句を言ってやりたかった。
「ジョセッピ、 聞きたい事がある」
「なに?」
「どうして、 ディナと別れた?」
「九月になるから」
ジョセッピの答えは、 ディナから聞いた内容と同じだった。
しかし、 その理由こそが納得のいかない最大の原因だ。
「なんで九月になると、 彼女と別れなくちゃいけないんだ?」
「それはね、 トオル。 夏が終るからさ」
「はぁ……?」
ジョセッピの答えは、 更にトオルを混乱させるものだった。
例えば、 九月に別の彼女が来るというのであれば、 事の善悪はともかく、 まだ理解のしようもある。
しかし九月になって、 夏が終わると、 なぜ別れなければならないのか。
ジョセッピの悲しげな表情から察するに、 本人も好きで別れたわけではなさそうだ。
それが、 ますます混乱を呼んだ。
どうやってこの謎を解き明かすか思案していると、 廊下に面したエリックの部屋の扉が開いた。
「トオル……きっと君がこれ以上質問しても、 彼から納得のいく回答は得られないと思う。
後で僕が説明するよ」
そう言ってエリックは、 トオルを階下へ誘導した。

学校へ行く途中で、 エリックは 「九月になるから」 の理由を、 一般人にも分かるよう解説してくれた。
「僕の友達にもいるんだけど、 イタリア人……特に観光地に近いところでは、
観光シーズンになると恋が始まって、 終わると別れる人達がいるんだよ」
「その観光シーズンってのが、 夏ってことか?」
「うん。 文化というか、 風習って言うのか、 本人も悪気はないと思うのだけど。
夏が来たから恋して、 終わるから別れるという理屈が、 彼らの常識なんだ」
エリックの説明で、 「九月だから」 の謎は解けた。
だが、 その理屈が常識と思える人種の方は、 トオルの理解を超えていた。
「いくら好きでも、 夏が終れば別れるって事だよな?」
「そういうことになるね。
ディナはアメリカ人だから知らなかったと思うけど、 ヨーロッパでは有名な話さ」
ドイツ人のエリックにとっても、 これは当たり前の話なのだろうか。
淡々と説明する口調からは、 ディナに対する配慮が見られない。
その冷静な態度に気分を害したトオルは、 つい意地悪な質問を返した。
「エリックも、 常識だと思っているのか?」
「と、 とんでもない。
僕は彼等とは違うし、 それに恋愛なんて、 まだ……」
慌てて首を振るエリックの頬に、 わずかながら赤みが差している。
「もしかしてエリック、 彼女いないのか?」
「いるわけないよ」
「一度も?」
「だってまだ十三歳だよ。 それに今はこっちの生活に慣れるほうが先だから」
「ふ〜ん、 そっか……」
そっけなく聞き流すふりをしたが、 トオルは緩み出す口元を隠すのに必死だった。
出遅れているはずの自分と、 同じ奴がいた――
「コイツ、 案外いい奴かもしれない」
かなり幼稚なきっかけだが、 「その他」 の人種としてではなく、
心許せる仲間としてエリックを見られるようになったのは、 この時からだった。

昼休みになってから、 トオルはまだ 1ドルを返していない事に気がついた。
今朝のジョセッピの一件で忘れていたが、 元はと言えば、金を返すために部屋まで行ったのだ。
教室を見渡すと、 いつも本を読んでいるはずのエリックが、見当たらない。
図書館にも、 食堂にも、 行きそうなところを探したが、 姿がない。
仕方なく中庭をうろついていると、 数人の学生に取り囲まれ、 困惑するエリックが目に入った。
続いて、 分厚い辞書が噴水の中に放り込まれるのも。
エリックにとって大事な物なのだろうか。
いつも冷静沈着な彼が、 ドイツ語でわめきながら辞書を拾おうとするが、
他の連中に押さえられて身動きが取れないでいる。
「昼休みの遊びにしちゃ、 趣味が悪いな」
トオルは連中の一人の衿首を掴むと、 エリックから引き剥がし、 素早く人数を確認した。
相手は五人。 全員が自分より大きいアメリカ人だった。
「今度は、 落ちこぼれの登場か?」
アメリカ人の一人がこっちを見て、 せせら笑った。
「どういうことだ?」
「オマエ、 厳しい練習に耐えられなくなって、 テニス部辞めたんだって?」
どうやら相手は、 トオルがテニス部を退部したことを、 どこかから聞いたらしい。
しかも事実が曲がっているところを見ると、 コーチのアップルガースの仕業に違いない。
「事情知っているなら、 話は早い。 なあ、 コイツと遊ぶより、 オレの相手してくれない?
部活やめたら体なまちゃってさ……」
「やめた方がいい、 トオル。 僕なら、 もうだいじょうぶだから」
大人と子供ほどある身長差を見て、 エリックが慌てて止めに入った。
「エリック。 ヨーロッパじゃどうか知らねエが……
日本じゃ売られたケンカは、 買うのが常識なんだ」
それはトオルの常識であって、 日本国民の価値観からは大きく外れるのだが、
本人に訂正する気は全くなかった。

「このチビ、 俺ら相手に一人でやる気かよ?」
薄ら笑いを浮かべながら、 いちばん背の高いアメリカ人が、 トオルの胸倉を掴もうと手を伸ばした。
そのわずかな隙を捉えて横へ回ったトオルは、 相手の脇腹目がけて一蹴りすると、
倒れてきた顔面に自分の拳を直撃させた。
ほんの一瞬の出来事に驚く間もなく、 数秒後には、 五人ともが噴水の中に叩き込まれていた。
「悪りィな。 オレ練習嫌いだから、 いきなり本気でやっちまった」
「コ、 コイツ……」
唖然とする連中の前に立ちはだかると、 トオルは間髪いれずに怒鳴りつけた。
「ここから出たけりゃ、 エリックの辞書拾って来い。
キッチリ片つくまで、 上がって来られると思うなよ!」
辞書が投げ込まれた噴水は、 広くはないが深さがあるため苔も多く、 五人で探し出すのに三十分を要した。
その間、 他の生徒達の視線を集めはしたが 、誰一人として教師を呼んで来ないところを見ると、
この連中の所業はよほど皆の迷惑になっていたらしい。
結局、 本体は取り戻せたものの、 一度濡れてインクが滲んだページは、 復活しそうもない。
同じ物を弁償しろと責め立てるトオルを、 エリックが制した。
「トオル、 もう止めて。 たぶん、 この街で同じ物は売っていないから。
これ以上、 彼らを傷つけないで」
「なに言ってるんだ、 エリック。
傷つけられたのは、 オマエの方だぞ?」
「うん、 でも……お願い、 トオル」
「……ったく、 わかったよ」
「やられたら、 やり返す」 を鉄則とするトオルも、 彼の澄んだ青い目で懇願されると、 拳を解くしかなかった。

放課後、 部活のないトオルは、 昼間の件も気になってエリックと一緒に下校した。
彼の話によると、 前々からあの連中は、 エリックの優秀な成績をねたんで、 イジメを繰り返していたそうだ。
「なんで、 オレに言わなかったんだよ!?」
同じクラスにいながら信頼されていないようで、 トオルはムッとしながら問い詰めた。
「暴力を暴力で解決しても、 新らたな争いを生むだけだと思うんだ」
「だからって、 やられっ放しでいいのかよ?」
「今日は、 トオルのおかげで助かったと思っている。 ありがとう。
でも、 これは僕の信念なんだ」
静かな海のような瞳に、 強い光が差したように見えた。
「実は僕、 ジャーナリストを目指しているんだ。
だから権力や暴力を、 同じやり方で返したくない。
まだ見つかっていないけど、 でも……自分なりの解決策を探してみたいと思って」
「へ〜え……エリックはジャーナリストになるのが夢だったのか」
彼の夢の話に興味を持ったトオルは、 近くの公園へと誘った。

この街の公園は、 日本人がイメージするそれとは違い、 ひと言で現すなら庭園のようだった。
広大な敷地の中に、 森を思わせる豊かな木々。
たっぷりと横たわる柔らかな芝生は、 どこも手入れが行き届いている。
中に入った二人は、 さっそく刈りたての絨毯 (じゅうたん) に寝転んで、 互いに自分の夢を語り始めた。
エリックは、 権力に屈せず真実を追究するジャーナリストという職業に憧れて、
その勉強をする為にアメリカ留学を決めたという。
しかし、 安定した職業を好む父親の反対を受け、 今は姉からの仕送りを学費に当てて生活している。
彼がいつも本を読んでいたのは、 唯一自分を応援してくれる姉の為にも、
早く卒業して希望の職に就こうとしたからだ。
「でもね、 あんなに強く願っていたのに、 いざアメリカに来てみると心細くて……」
「心細い」 と聞いて、 トオルはハッとした。
最初に会ったとき、 年上と間違えるほど落ち着いて見えたエリックだが、
彼も自分と同じ感情を持ち、 同じように心細いと思う、 普通の少年だった。
その当たり前の事実に、 今ごろ気がついた。
「僕の夢を叶える為に留学したのに 、一人ぼっちだと思うと寂しくて……
そんな時、 同じ齢の男の子が家に来るって聞いて。
本当はトオルに会えるのを、 ずっと楽しみにしていたんだ」
胸が痛かった。
到着して以来、 何かと親切にしてくれたエリック。
彼が優しくしてくれたのは、 不思議でも何でもない。
ただ仲良くなりたかっただけだ。
普通に考えれば分かることなのに、 彼の気持ちを思いやる余裕がなかった。
「知ろうとすれば、 分かり合える」
奈緒から言われて救われた言葉。
しっかりと胸の奥に刻んだはずなのに、 いつの間にか忘れていた。
知ろうとすることを怠っていた。

「ごめんな、 エリック。
オレ前に友達から教えられたんだ。 『知ろうとすれば、 お互い分かり合える』 って。
それなのに、 自分の事しか考えていなくて……」
「それは違うよ。 僕だって、 自分の事で精一杯だ。
早く卒業するために、 図書室で勉強ばかりしていたし」
「オレも、 外でテニスばっかりしていたから」
性格だけでなく、 行動パターンまで百八十度違う二人だった。
「だけど、 なかなか思うように行かなくてね……あの辞書、 英独辞書なんだ。
よほど大きい街の書店に行かないと、 たぶん見つからない」
知ろうとする気持ちがあれば、 相手の言動によって、 一つ一つが見えてくる。
エリックにとってあの辞書は、 トオルにとってのラケットと同じ価値を持つ。
今なら、 どれだけ大事なものか理解できる。
そして 「なかなか思うように行かなくて」 の部分も。
夢を叶えられない苛立ちも、 親を頼れない辛さも。
異なる性格の二人が互い共感できるのは、 立場が似ているせいかもしれない。

「愚痴っぽくなった」 と言いながら、 今度はエリックがトオルの夢を聞いてきた。
「オレの夢は、 まず日本に帰ることだ」
「えっ?」
「あっ……すぐにじゃないけど。
日本には倒したい奴がいるし、 目標にしている先輩と約束したから」
「帰る」 の言葉に反応し、 寂しげな目を向けるエリックを見て、 トオルは急いで補足した。
「まだ何年も先の話だって。
日本に帰って、 ライバルを倒すためには、 練習場所を確保しなくちゃいけないし。
それにはアルバイトして、 金も貯めないといけないし……」
「アルバイトを探しているの?
だったら、 僕の翻訳の仕事を手伝うかい?」
エリックの申し出はありがたいが、 母国語でも読み書きが下手なトオルが、 翻訳など出来るはずがない。
「それは無理! けど、 なんとかしないと。
働く気はあるんだけど、 十二歳の日本人じゃ雇ってくれる店がなくてさ……」
今度はトオルが愚痴をこぼした。

二人の前に広がる抜けるような青空は、 見ようによってはポッカリ穴の開いた空間そのもので、
特に視界を遮る物のない公園内で見上げれば、 宇宙の中に放り出されたような虚無感がある。
「なあ、 エリック。 オレたち、 宇宙の底に張り付けられている気がしないか?」
「そうだね。 僕は食べ残しのマッシュポテトになった気分だよ。
鍋の底で誰にも食べられないで、 張り付いているだけの……」
隣で同じ空を見上げる友人にも、 トオルの感覚が伝わったようだ。
「僕……こっちに来て、 自分の無力さを実感した。
今日だって、 大切な物なのに守れなくて。
本当に何も出来なくて……」
顔を見なくても、 エリックが悔し涙を浮かべている事は、 震える声から感じ取れた。
「何にも出来ないのって、 マジで辛いよな……」
目の前を悠々と通過する雲が、 やけに憎らしく映った。
どこまでも青い空はともかく、 それを背にした光るように白い雲が、 無性に腹立たしく思えてきた。
「なんか、 あの雲……ムカつく」
「えっ……? トオル、 何の話?」
「雲だよ、 雲! 真っ白な顔して、 オレらの上を平気で通るなっつうの!」
「白い雲が、 どうしたって……?」
「だってさ、 この国だって汚ねえことする奴、 いっぱいいるんだぜ。
それなのに、 知らん顔されているみたいな気がしねエか?
あの雲、 今すぐ引きずり下ろしてだな。 ギッタンギッタンに踏みつけて黒くして……」

どうやら二人が感覚を分かち合えたのは、 「自分達の無力さ」 までのようだ。
本気で雲を汚そうとするトオルについて行けず、 エリックはポカンと口を開けたままだった。
「だからさ、 あれを引っつかんでだな……」
説明しながら雲を掴もうとした右手が、 当然のことながら空を切った。
その様子を見て堪え切れなくなったのか、 エリックが噴き出した。
「トオル、 それこそ……無理……アハハッ!」
「な、 なんだよ。 オレだって、 届かない事ぐらい分かってるって」
「でも、 君らしい……フフッ……」
「オレのこと、 馬鹿にしてるだろ?」
「逆だよ。 君のその行動的なところが羨ましい。
僕は何かやる前に考え過ぎて、 いつも出来ないって結論を出してしまうから」
何も掴めず戻ってきた右手に二つの視線が重なり、 目が合った瞬間に、 今度はふたり一緒に笑い出した。

ひとしきり笑った後で、 エリックが右手のリストバンドに気づいた。
「ねえ、 トオル。 それ、 何て書いてあるの?」
「『トオルなら、 できるよ』 って。 さっき話した友達が、 日本を出発する時にくれたんだ」
「すごく素敵な友達がいるんだね」
「うん……」
空港で奈緒からリストバンドをもらって以来、 トオルはいつも肌身離さず右手につけている。
「トオルなら、 できるよ」
この文字を見るたびに、 諦めるなと言われているようで、 不思議と勇気が沸いてきた。
コートの中はもちろん、 どこにいても。
まだ自分に出来ることがある ―― バンドの紫の刺繍に、 ふと背中を押された気がした。
トオルは頭を起こすと、 エリックに向き直った。
「オレ達さ、 出来ないことの方が多いけどゼロじゃねエよ、 きっと」
「な、 なに……? どういうこと?」
「だから、 まだ無力じゃないってこと!」
首を傾げる友人の腕を掴むと、 トオルはダウンタウンに向かって走り出した。

記憶を頼りにメインストリートまで行くと、 片っ端から本屋に飛び込んで、 英独辞書を探してまわった。
「無駄かもしれないけど、 諦めるよりはマシだから」
初めは躊躇していたエリックも、 トオルの言葉につられて徐々に積極的になり、
自分から先頭に立って歩くようになった。
通りの端から端まで一軒ずつ入って調べ、 それでも無くて、 今度は裏の通りまで足を延ばした。
どれくらい回ったか、 夜の九時近くになってから、 ようやく同じ英独辞書が見つかった。
ダメ元で入った古本屋に、 一冊だけ残っていたのだ。
前に留学生が置いていったと言いながら、 店の主人は50ドルを請求してきた。
「古本で50ドルは、 高すぎるだろ!?」
「嫌なら帰ってくれ」
トオルの文句を払いのけると、 店主はさっさと戸締りにかかった。
「どう見ても、 10ドルの代物じゃねエか?」
「どんなに下げても、 40ドルだ」
「20ドルにしてくれたら、 うちの学校でタップリ宣伝してやる」
「なら30ドルだ」
「よしッ、 買った!」
「宣伝つきだぞ?」
「わかっているって!」

予想通りの値段に満足したトオルだったが、 エリックの表情は暗かった。
「ごめん、 トオル。 せっかく交渉してくれたんだけど、 僕20ドルしか持ち合わせがない」
翻訳のバイトをしているとは言え、 彼もまた親からの援助がない立場だ。
「学生同士の金の貸し借りは、 ルール違反だったよな?
だったら、 これを借りた 1ドルと交換だ」
今朝換金したばかりの現金から、 トオルは10ドル札をエリックに渡した。
「ダメだよ、 トオル。 そんなこと……」
「この金くれたおっさんが 『オマエが困ったときに使え』 って言っていた」
「それなら、 なお更もらえない」
「だから使うんだ。 親友のピンチは、 オレのピンチだろ?
その代わり、 エリックから借りた 1ドルは、 オレがもらう。
これで貸し借りナシだ。 一緒に夢叶えようぜ!」
金額は違っても、 エリックの貸してくれた 1ドルは、 トオルにとって10ドルに値するものだった。
その事を伝えると、 エリックは半分申し訳なさそうに、 そしてもう半分は嬉しそうに笑ってみせた。
誰かを笑顔にしたいと思ったのは、 アメリカに来て初めての事だった。
新しい仲間が、 また一人増えた。 共に夢を叶えようとする親友として。

翌朝、 トオルの部屋のドアに一枚の紙切れが挟んであった。
それはインターネットからプリントアウトしたもので、 皿洗い募集の広告だった。
場所は、 前にケニーに連れて行ってもらった、 あの巨大なテニス・ショップ内のカフェだ。
皿洗いなら、 十二歳の日本人でも雇ってもらえる可能性が充分にある。
しかも読み書きの必要もない上に、 あそこならテニスに関する情報も聞き放題だ。
昨晩、 帰宅してから、 エリックが調べてくれたのだろう。
プリントの一番下に、 メッセージが書いてある。
「トオルの夢も、 早く叶いますように」
その紙を丁寧に折りたたむと、 トオルは面接に出かけた。
今度こそ、 夢に向かって踏み出すために。



バックアイコン前のお話にもどる  | エライアイコン輝・バックナンバーの目次に戻る  | ネクストアイコン次のお話へいく


バックナンバーを読んでくれてありがとう!
  輝・表紙に戻りたい人は、バックナンバー目次の"ホームズ"肉まんをクリックしてね!