第 42 話 気合の果てに
泥酔の 「酔」 の文字を 「睡」 と置き換えたくなる程の睡魔だった。
酒を飲んだわけでも、乗り物に酔ったわけでもないのに、吐き気がする。
眠気から来る吐き気なのか、 吐きたくなる程眠いのか。
考えようとすると、 瞼が自動的に下りてくる。
トオルの人生の中で、 ここまで強い眠気を感じたのは初めてで、
また人間寝不足を重ねると気持ちが悪くなるというのも、 初めて知った。
この三ヶ月、 まともに眠っていないのだから無理もない。
ジャンという偉大なリーダーを失ってからずっと、
休みとは無縁の生活を強いられてきた。
命がけでコートを奪回したまでは良かったが、 メンバーの不足からコートの見張り番に追われ、
合間を縫って学校とアルバイトをこなす日々。
最後にベッドで寝たのは、 いつかも覚えがない。
それが今週に入って徐々にメンバーが増え始め、 月に二回程度の当番で済むようになった。
しかも今日は学校が休みで、 珍しくアルバイトの予定もない。
つまり全てのノルマから完全に解放された 「休日」 が転がり込んできたのだ。
「今日は、 とことん寝てやる!」
気合を入れて誓うほどの事ではないが、 強い意思を持って行動しなければ、
夜中の見張り番を終えたばかりの体は動いてくれそうにない。
まずは玄関から風呂場へ直行してシャワーを浴び、 キッチンから飢え死にしない程度のささやかな
―― と言っても、 リンゴ三つにラグビーボール程の大きさはあるライ麦パン一塊と、 それらを無理やり流し込む
ミネラルウォーター2リットルで、 あくまでも育ち盛りの十四歳を基準にした量であるが ――
いわゆる非常食を確保してから、 残りわずかな力を振り絞り、 二階にある自室までの階段をよじ登った。
髪を乾かすとか、 パジャマを着るなどの余分な労力を一切省き、 ベッドから手の届く範囲に食料を配備すると、
下着だけの姿で中へ潜り込んだ。
もうこれで トイレ以外の用事で起き上がらなくても済む。
人生を生きる、 いや、 起きている事の意義は、 この眠りに落ちる瞬間の喜びを味わう為だけにあるように思えた。
「幸せだぁ……」
洗い立てのシーツに包まり夢までの招待状を遠慮なく受け取ろうとした時。
いきなり部屋のドアが開き、 当たり前のようにディナが押し入ってきた。
「トオル、 ビーが来ているわよ!」
多くの留学生が暮らすトオルの家では、 いくつか守らなければならないルールがあった。
一つは、 他人の部屋に入る時は必ずノックをすること。
二階の男子と三階の女子が、 互いの部屋を行き来してはならない。
用事がある場合は、 リビングまで降りて話をすること。
このルールを全て無視してディナは堂々と部屋に入ってきたのだが、 それはいつもの事で、
彼女を姉貴分と慕うトオルには、 さほど大きな問題ではなかった。
何より今は眠気の方が強い。
「ディナ、 頼む……出かけた事にしてくれ……」
すでに意識は現実から夢の中へと吸い込まれている。
「ダメ、 ダメ! 呼んで来るって言っちゃったもん」
「一生のお願いだから」
「それ、 結婚式の立会人をした時に使わなかった?」
「じゃあ、 超 ・ 一生のお願い!」
「いいから、 早く来なさい」
一生をかけたお願い事を素気無く断られたトオルは、 「泥睡」 状態の体を引きずってリビングまで降りた。
いっそのこと親友の訪問を無視して寝てしまおうかとも考えたが、 出来ない理由が一つだけあった。
ジェイクのことである。
名のある家柄に生まれながら、 父親がオーナーを務める老舗デパートの買収劇に巻き込まれ、
一夜にして転落の人生を経験した少年。
両親は未だ行方知れず、 唯一残された肉親である姉は結婚してオーストラリアへ住居を構えた為、
彼はたった一人で生きて行かなければならなくなった。
そんなジェイクを気にかけ仲間になるよう何度も誘っているのだが、 本人はストリートコートへは来るものの、
外から眺めるだけで決して中へ入ろうとはしない。
トオルに対する反抗心からなのか、 ヤンキーの仲間入りをしてまでテニスをやりたいと思わないのか。
彼はふらりとコートへやって来て、 黙々とプレーを観察しては去って行き、
この二ヶ月間、 毎日同じ事を繰り返している。
メンバーになりたいのなら、 そろそろ覚悟を決めないと 『ジャックストリート ・ コート』 の定員は五十人までと
決められている。
あと十数名しか枠がない。
トオルが休みを取るにあたり、 レイとビーには 「ジェイクが仲間になると言ってきたら、 すぐに知らせてくれ」 と
伝えてあった。
ビーが直接訪ねてきたという事は、 やはりジェイクのことだと思った。
しかし――
「トオル、 レディの前なんだからシャツぐらい着ろよな」
開口一番ビーの口から飛び出したのは、 やけに違和感のある台詞だった。
「えっ……ああ、 そうだな」 と返事をしたものの、 どこかおかしい。
確かに発言の内容は間違っていない。
寝ようとしたところを無理やり起こされ降りてきた為に、 トオルが身につけているのはトランクスだけである。
もしも父親がリビングで同じ格好をしていたなら、 自分だって注意するはずだ。
では、 この違和感は何だろう。
少しずつ目覚め始めた意識の中から、 言われた相手がピンク髪に袴姿の外見を全く気にしない人間で、
間違っても 「レディ」 などと口にしないビーである事を思い出した。
しかもリビングにいるのは、 姉貴分のディナだけである。
どちらかと言えば 「レディ」 より 「野郎」 に近い存在の。
「ビー、 何かあったのか?」
遅ればせながら入れたツッコミに、 ビーの頬が髪と同じ色に変わった。
「いや……あの……」
「ビー?」
「あのさ……オマエの部屋で話していいか?」
いつもと様子が違う相棒の態度に、 トオルはすっかり目が覚めてしまった。
歯切れの悪い口調、 弱気な態度、 階段を上がる動作もやけに遅い。
「で、 何があった?」
自室に入るとすぐ、 トオルはスローになった親友に理由を尋ねた。
「ジェイクの姉貴の結婚式で、 会っただろう?」
「誰と?」
「彼女と……」
「彼女?」
「だから……その……ディナと」
またしてもビーの頬がピンクに染まった。
「もしかして、 まだディナのこと?」
リビングでの 「レディ」 発言も、 いきなりスローペースになったのも、 全てはこれが原因である。
一度フラレたにもかかわらず、 ビーはまだディナの事を諦め切れていなかったのだ。
「あれから、 ずっと? マジで?」
しつこく確かめたのには訳がある。
トオルが知る限り、 この親友は熱しやすくて冷めやすい性格の持ち主で、 ディナに告白した時も
前の失恋から三日と経っておらず、 あまりに惚れっぽい性格故に 「すぐ心変わりする男は嫌い」 だと
断られたのだから。
あれから一年半は経っている。
その間ずっと、 彼はディナに想いを寄せていたようだ。
人の事は言えないが、 これはかなりの重症である。
「本気なのか?」
「俺様が女に惚れる時、 いつも直感が働くんだ。 今度は違うぞって。
違うって思うから、 惚れるのかもしれないけど……
それがディナと出会って、 一度断られて、 この前……ジェイクの姉貴の結婚式で会った時、
本当に違うと思った。
上手く説明できないが、 ずっと気持ちが変わらない事に気がついた。
こんなの初めてだ……」
「今度は違う」 と言ったビーの言葉は本物だと思った。
日替わりで惚れる対象が変化する彼にとって、 一年半も同じ女性を好きでいること自体、 ギネスものの現象だ。
「なあ、 トオル? どうしたらいい?」
「どうしたらって言われてもなぁ」
「俺様一度フラレているし、 オマエしか相談できる奴がいないんだ。
彼女の性格から言って、 しつこい男は嫌いだろうし、 だけど諦め切れなくて。
朝起きるたびに、 最初に浮かぶのが彼女の顔で、 夜寝る時に会いたいと思うのも彼女で。
毎日、 実感するんだ。 ああ、 俺様はやっぱりディナのことが……」
ビーが最後の 「好きだッ!」 の部分を発したのと、 ディナがノックもせずに部屋に入って来たのは、 ほぼ同時だった。
「ご、 ごめん……アタシ、 トオルにバイトの話をしようと思って……」
珍しく歯切れの悪い口調から、 今の話を聞かれた事は間違いない。
「前に言っていたファッションショーの仕事……
月末だから……スケジュール空けておいて」
シドロモドロになりながら強引に話を進めるディナと、 秘めた想いを相談するはずが予期せぬ告白となり、
「好きだッ!」 と叫んだまま硬直するビー。
そして、 その二人の間に挟まれて、 どちらの話に焦点を合わせればいいのか分からず、
パンツ一枚でオロオロするトオル。
「えと、 スケジュールの相談? 結婚式のバイト?
あれ、 何だっけ……そうだ、 シャツ! オレ、 シャツ着ないと。
レ、 レディの前だからな」
場を繕うには程遠い独り言を撒き散らしながら、 トオルは必死で最善の策を考えようとした。
だが、 自室のクローゼットの場所さえ見失うほど冷静さを欠いた人間に、 この場を治めるだけの技量はない。
無意味に慌てふためく親友を見兼ねて、 ビーが事態を収拾しようと切り出した。
「ディナ、 話がある」
その真剣な眼差しから覚悟を察したトオルは、 ようやく辿り着いたクローゼットからシャツを掴み取ると、
転がるようにして部屋から出て行った。
「オレ、 エリックにバイトの話伝えてくるから 、二人とも、 ご、 ごゆっくり!」
ビーとディナを二人きりにする口実を見つけたトオルは、 言葉通りすぐ隣のエリックの部屋へと向かった。
プライバシーという言葉は知っているが、 親友と姉貴分の恋の行方を気にするなと言う方が無理である。
隣の部屋へ移るのにわざわざキッチンを経由し、 ガラスのコップを持参してから中へ入った。
よく漫画などで使われる壁にコップを当てて会話を盗み聞きするという、
何とも古典的な方法を実践するつもりで。
ところが隣の部屋で待っていたのは親友のエリックではなく、 トオルが一瞬にして不機嫌になる相手だった。
「アンタ……ここで何やっているんだ、 親父?」
目を覆いたくなるような光景とは、 一般的に残酷なシーンを指すのだろうが、
恥ずかしさで覆いたくなる場合もあるらしい。
今、 トオルが目にしている光景。 それは、父が商売道具の一つである聴診器を使い、
真顔で息子の部屋の会話を盗み聞きしている姿。
しかも間髪いれずに返ってきた答えには、 罪の意識と言うものがまるでない。
「見りゃ分かるだろ。 盗聴だ」
「あのさ、 それって堂々と答えていいのかよ?」
「聞かれたから答えたまでだ」
「アンタ最低だな」
「だったら、 テメエの手にしているグラスは何なんだ?」
「いや、 これは……」
父の聴診器に比べれば息子のコップは可愛いものだが、 人の会話を盗み聞きするという点では、
罪の重さに変わりはない。
「第一そんなグラス使ったって、 この石造りの家じゃ、 爆発音だって聞こえやしない」
「そうなのか?」
「そんな事も分からないのか? オマエ、 ここの家の息子だろ?」
日頃の扱いを考えれば、 こういう時だけ息子として責められるのは、 酷く理不尽な気がする。
「親父、 いつもこんな事やってんのか?」
「一応、 ホストファミリーだからな。
娘の監視は怠っちゃいけない」
「アンタから、 ホストファミリーなんて言葉を聞くとは思わなかったぜ」
あくまでも龍之介はディナの身を案じての行動だと主張したいらしいが、 普段の姿をよく知る息子には、
エロ親父が若い娘の恋愛話に首を突っ込みたくて盗み聞きしているとしか思えない。
そして、 不幸にも自分もその血を受け継いでいる。
手の中にあるコップが、 妙に汚らわしいものに見えてきた。
「オレ、 リビングいるから、 あの二人の話が終わったら教えてくれよ」
早々に立ち去ろうとする トオルを、 龍之介が引きとめた。
「なんだ、 聞いていかないのか?」
「いいよ。 親父のおかげで目が覚めた」
「そうか。 今いいとこ……おおっ! ディナ、 そうくるか?」
「な、 何だよ、 親父?」
良識を復活させたはずの息子は、 聴診器片手に興奮する父親によって、
再び共犯の道へ呼び戻されてしまった。
「なるほどね……」
「だから、 どうしたんだって?」
「これだから女ってヤツは……ま、 しょうがねえか」
「親父ッ! 一人で納得していないで、 オレにも教えろよ!」
「んじゃ、 10ドル」
「は?」
勝ち誇った笑顔と、 当たり前のように差し出された右手と。
この瞬間、 まんまと父の作戦にハメられたと悟った。
「親父、 まさか?」
「聴診器のレンタル料だ」
「レンタル料!?」
「世の中、 何をするにも金がかかると教えたはずだ。
毎回、 同じ事を言わせるな」
最近になって、 世の中には自由や平等よりも、 理屈に合わない不公平な事の方が遥かに多いと分かった。
その典型的な例が、 目の前にいる龍之介である。
そもそも奴が親でいる事自体、 人の道から外れている気がする。
仕事で使う聴診器を盗聴に利用し、 尚且つそれを息子に貸し出して、 レンタル料を請求しようとする父親が
どこの世界にいるというのか。
もしも心優しい神様がいて、 人生の中でたった一つだけ願いを叶えてくれるなら、
迷わず父親を変えて欲しいと望むだろう。
それが無理なら、 せめて龍之介から受け継いだDNAだけでも、 残らず抹殺して欲しい。
「やっぱオレ、 リビングで待っているから」
急激に襲ってきた自己嫌悪に耐えられず、 トオルは部屋を後にした。
ところが追うようにして、 龍之介も廊下へ出てきた。
「親父、 もういいのか?」
熱心に盗聴していたわりには、 呆気ない退却である。
「ありゃダメだ。 気合ってモンが足りない」
「気合?」
「女を口説くには、 気合が必要だ」
「いくら気合があっても、 相手の気持ち次第だろ?
向こうだって、 好みもあるだろうし」
トオルは無意識のうちに奈緒の顔を浮かべていた。
テニスや武道の試合と違って、 どんなに気合を込めたとしても、 どうにもならない事もある。
「そんなこと考えているうちは、 まだ青いな」
「どういう意味だよ?」
ムキになって抗議する息子に反して、 龍之介は涼しい顔で聴診器をしまうと、
そのケースごとトオルの左胸に突きつけてきた。
「女は男の 『ここ』 に惚れる」
「『ここ』 って、 まさかその顔でハートとか言うなよな?」
「ハートだと? そりゃ、 あくまでもオプションだ」
「オプション?」
「本体じゃねえってこと。
ま、 テメエみたいに本体で勝負できないガキは、 オプション付けて売り込むしかないだろうがな」
「だから、 本体って何だよ!?」
龍之介に 『ここ』 の正体を問いただそうとした時である。
隣の部屋の扉が開き、 中からビーが飛び出してきた。
「ごめん、 ディナ。 俺様、 これだけは譲れない」
「ビー?」
一瞬トオルは、 自分の部屋から出てきた人物が別人でないかと疑った。
そんな錯覚を起こしてしまう程、 この時のビーは普段とはかけ離れた表情をしていた。
惚れた、 腫れたと浮かれる彼でも、 奇抜な発想で皆を驚かせる彼でもなく。
いつもは上手く隠せる影の部分を誤魔化す余裕がなくて、 慌てて部屋から飛び出した。
中の会話を聞いていないが、 青ざめた表情から直感的にそう判断した。
奥ではディナが肩を落とし、 泣いているようにも見える。
一体何があったのか。
父親から聴診器を借りなかったことを、 今頃になって後悔した。
「悪いな、 トオル」
長い付き合いの中で、 ビーが何を望んでいるかは、 この一言で理解できた。
「自分はフォロー出来ないが、 後を頼む」 ということだ。
正直なところ女性の涙は苦手だが、 ディナを慰められる人間は自分しかいない。
状況を把握しているはずの龍之介はいつの間にか消えてしまい、 泣かせたビーは去った後である。
残されたトオルは部屋に入ると、 まずは黙ってディナの隣に座った。
何の役に立たなくても、 近くに人の温もりがあるだけで、 少しは気が楽になるかもしれない。
誰かが傍にいると伝える事で、 落ち込む度合いが減るかもしれない。
一人で膝を抱えるよりは、 きっと。
お互いの体温が接する片腕だけ薄っすらと熱を感じ始めた頃、 ようやくディナが口を開いた。
ビーに 「付き合ってくれ」 と告白されたこと。
最初は驚いたが、 混じり気のないストレートな告白に心を動かされたこと。
そして、 彼女も 「OK」 と返事をしたことも。
「だったらどうして?」
「髪……」
「えっ?」
「ピンクの髪は嫌なの。
彼の髪、 せっかく綺麗なアッシュグレイなのに」
「あ、 それは……」
理由を言いかけて、 トオルは口ごもった。
以前、 ビーに 「何故ピンク髪にしているのか」 と尋ねた事がある。
その時の答えが頭をよぎったからだ。
アイツが嫌いな色だから ―― ビーの答えは簡潔だった。
アイツとは無論、 母親である。
父親の顔も知らず、 唯一の身内である母親から虐待を受けて育ったビーは、
彼女とそっくりなアッシュグレイの髪が嫌で仕方がなかった。
見るたびに思い出すぐらいなら、 いっそ染めてしまおうと思いつき、 最終的に選んだ色がピンクだった。
「ピンクは幸せの匂いがするから嫌い」
彼の母親は、 常にそう話していた。
他人の幸せを嫉み、 その苛立ちを息子にぶつける事でしか、 自分の不幸を受け入れられなかった悲しい女性。
その悲しい女性を親に持つビー。
母親に対する嫌がらせなどと言う、 単純な動機ではない。
彼は、 彼女の嫌う色に髪を染めることで、 かろうじて自身を保っていたのだ。
無意識のうちに、 存在を否定された母に息子の居場所を知らせようとしたのかもしれない。
ビーにとって 「オマエはここにいていい」 と言って欲しかった相手は、 ジャンではなく母親だったから。
これが他人であれば忘却という手段で憎む以上の復讐が出来たものを、
肉親ゆえに忘れる事も、 許す事も叶わない。
あの奇抜なピンク髪は、 まだ整理のつかない心の葛藤を象徴した色だった。
事情を知るトオルは、 ディナに話そうとして思い止まった。
必要があるのなら、 とっくに話しているはずで、 ビーがそれをしなかったという事は、
他に大事な理由があったからだ。
恐らく彼の気持ちの中で、 ディナに自分の過去を背負わせたくないと思ったに違いない。
ストリートコートのメンバーなら、 心にせよ体にせよ傷を抱えているのは当たり前の話だが、
メークアップアーティストを夢見て専門学校に通う彼女には、 重過ぎる過去である。
同じ重さの錘 (おもり) を持たない人間に話をした場合、 分かり合える確率よりも、
背負わせる結果になる方が断然多い。
傷だらけの親友は、 誰よりもその事を熟知している。
だからこそ、 この場でディナに話すのを躊躇ったのだ。
「ディナは何色が好き?」
トオルは話題を変えた。
「アタシは自然の色が好き。 空なら青で、 森なら緑で。
いつも人工的な色ばかり目にしているから余計そう思うのかもしれないけど、 自然の色が一番素敵に見えるの」
「オレもそう思う。
だけど自然でいられるのって、 人によっては、 すごく勇気のいる事なんだと思う」
「自然でいるのが難しいの?」
「うん、 そう。 難しいって言うより、 怖いんだと思う。
子供の頃に……自然でいられるはずの時期に、 大切なものを失ったり、 奪われたりした人間にはね。
だから、 もしビーのことが好きなら、 待っていて欲しい。
ディナならきっと、 ビーが失ったものを埋めてくれると思うから」
「何だか立場が逆転したみたいね。
アタシがトオルの相談に乗ってあげようと思っていたのに……」
口を尖らせ拗ねた口調で照れ隠しをするディナは、 年上にもかかわらず、 やけに可愛らしく見えた。
恋をすると女性は変わるものなのだろうか。
この機に便乗して、 トオルは父とのやり取りで解決できなかった疑問を、 恋愛の先輩にぶつけてみた。
「なあ、 ディナ? 女は男の気合に惚れるって本当か?」
「気合?」
「たぶん、 気合。 『女を口説くには、 気合が必要だ』 って、 言っていた」
「気合ねぇ……」
なかなか返事が戻って来ないという事は、 女性側から見ての真理ではないらしい。
或いは自分が間違った解釈をしたのか。
「それって、 リュウが言ったんでしょ?」
「どうして、 それを?」
「だって、 前にママとの経緯 (いきさつ) を教えてくれた事があったから」
「親父が?」
「そうよ」
両親の昔話なのに、 息子よりも他人の方が詳しいというのも不思議な気がしたが、
そもそも家にいる時間が圧倒的に少ない上に、 父親とは他人以上に距離を取っているのだから、
当然と言えば当然の結果である。
「ディナ、 教えてくれ。 親父は、 どうやってお袋を口説いたんだ?」
『ここ』 の疑問を解決するには、 事実に即した手段を聞いた方が、 具体的で分かり易い。
何より、 人に合わせる事を知らない自分勝手な龍之介が、 本能のままに生きているとしか思えない
能天気な母を、 どうやって口説き落としたのか。
初めて明かされる両親の恋愛話に、 大きな期待を寄せたのだが――
ひと通りディナから経緯を聞いたトオルは、 落胆のあまり一時的なショック状態に陥った。
彼女の話によると、 龍之介は自分の兄の結婚式で母と知り合い、 その日のうちにプロポーズしたらしい。
すっかり忘れていたが、 龍之介の兄嫁はトオルの母親の姉である。
つまり兄と姉、 弟と妹で結婚しているのだ。
その兄の結婚式で、 新婦の親族側に座っていた母を龍之介が見初めて、
身内の披露宴の最中に口説いたという。
「付き合ってくれ」 と言う前に 「結婚してくれ」 と頼み込んだ父に対し、 母は即答でオーケーしたそうだ。
ディナはドラマティックだと称賛していたが、 仕事以外ではドアの開閉さえも嫌がるほど横着な
父の気性を知る息子から見れば、 これは単なる手抜きとしか思えない。
結婚を前提にお付き合いから始めるところを、 告白を含めて前提までの部分を丸々省いたのだ。
鳥の求愛じゃあるまいし、 出会ってすぐにプロポーズして、 相手も即答で受け入れるなど、
人間界で起こり得る事なのか。
しかも龍之介が突然プロポーズしたのには、 訳がある。
この結婚式の一ヵ月後に、 彼はロンドンの大学へ教授として渡英する事になっていたのだ。
海外の大学教授ともなれば、 夫婦同伴での交際も必要になってくる。
要するに、 仕事に必要だから結婚しようと決めたわけで、 ゆっくり付き合う時間がなかった為に、
慌てて口説いてモノにしたという事だ。
こうなると一目惚れの理由さえ、 怪しく思えてくる。
龍之介が 「女を口説くには、 気合が必要だ」 と言ったのは、 あくまでも自分の都合を押し進める過程で
必要になる気合であって、 トオルが期待したような、 情熱とか、 深い愛情とか、
心を動かされるような動機に基づいた代物ではなかった。
「結局オレは、 親父のワガママが生み出した産物ってことだよな……」
「いいじゃない。 ロンドン産なんだから」
ディナのフォローが虚しく聞こえる。
移り気なビーでさえ秘めた恋をしているというのに、 龍之介は予想通りというか、
自己中心的な態度は今も昔も変わらない。
「だけどリュウが言っていたよ。 恋愛って長さじゃないって」
「それは親父の言い訳だろ?」
「深さだって」
「深さ?」
「リュウは照れているだけで、 本当はママのこと凄く愛していると思うよ。
知り合った時間が短くても、 愛情は深いってこと。
でなきゃ、 十年以上も一緒にいられないって」
「深さねぇ」
これが本当なら、 いくらか救われる。
両親ではなく、 奈緒のことである。
光陵学園で彼女と共に過ごしたのは、 ほんの数ヶ月の短い期間だった。
それに反して、 離れて過ごてから一年半にもなる。
伝えられなかった想いを握り締めているうちに、 とてつもなく深いものになった。
もしも長さではなく深さによって結びつきが強くなるのなら、 まだ想い続けてもいいのかもしれない。
「トオル? アタシ、 もう少しビーのこと待ってみる。
あ、 でも負担になると嫌だから、 彼には言わないでね。
アタシが待ちたいから、 待つ。 それだけだから」
はにかみながら伝えてきたディナは、 女の顔をしていた。
色気と言うよりも、 しなやかな逞しさが垣間見える。
やはり恋をすると女性は変わると思った。
時に可愛く、 時に逞しく、 そして鋭く。
「ナオも、 アタシと同じ気持ちで待っていてくれるといいね」
礼のつもりなのか、 ディナは意味深なウィンクを悩める少年に残すと、
何事もなかったかのように部屋から出て行った。