第 44 話 ジェイクとティント

朝日イメージ



「結局、 ギャラリーを一人増やしただけだったね?」
さらりと現実を語るレイのコメントが、 今のトオルにはひどく胸に堪えた。
メンバーになりたいと食下がるティントに温情をかけて、試合のチャンスを
与えたまでは良いが、 その結果は惨憺たるものだった。
そもそも 『最後の砦』 と言われ、 過去の自分の姿と重ねた事からして
間違っていたのだ。
冷静に考えて、 体育の授業で少しかじっただけの初心者が、
五十位とは言え、 テニスが好きで毎日練習を続けているメンバーに
勝てるはずがない。
トオルの秘かな願いも空しく、 ティントは五分と経たないうちに敗北し、
コートの外へ追い出されたのだった。
その悲惨な試合から一週間。
彼は毎日ストリートコートへやって来て、 恨めしそうな目で中の様子を眺めている。
レイが 「ギャラリーを増やした」 と言ったのは、 ジェイクに加えてティントまでもが
フェンスに張り付くようになった事を指している。

「負けたんだから、 仕方ないだろ」
強気で言い返したものの、 一番落胆したのはトオルである。
「黒人のくせに小さいから」 とイジメを受ける現状を変えようと、 決死の覚悟でやって来たティント。
何度もビーに振り払われては喰らいつく姿を見て、 多少の運動能力があるのではと期待した。
もしかしたら、 五十位のメンバーぐらいは倒せるかもしれないと。
ところが開始早々、 ティントはラケットを野球のバットのように構えて、 せっかくのサーブ権を全て場外ホームランとし、
続く第二ゲームではシングルスにもかかわらずダブルスコートへ返して失点し、
その無知ぶりはメンバー全員の度肝を抜くほど救い難いものだった。
まるで光陵学園に入った頃の自分を見せられているようで、
トオルは落胆に加え、 底知れぬ羞恥心と罪悪感を同時に味わった。
何よりマズいと思ったのは、 ティントには闘争心がない事である。
「強くなりたい」 という願望はあっても、 「勝ちたい」 という強い意志がない為に、
平気で相手にチャンスボールを与えてしまう。
要するに、 競技と名のつくものには向かない性格なのだ。

「一人ぐらい定員を増やして、 五十一人にしちゃえば?」
察しのいいレイが落胆振りを見兼ねて助言してくれるが、 トオルには受け入れられない理由があった。
「ダメだ。 それだけは出来ない」
「どうして? リーダー命令だって言えば、 誰も逆らう奴はいないでしょ?」
「そんな事したら、 今まで五十位を争って敗れた奴等を裏切ることになる。
五十人の定員は絶対に守らなきゃいけないルールなんだ」
「まったく、 無意味なところで義理立てするんだから。
だったら、 リーダーがなんとかしてよ。
毎日あの恨めしそうな顔見せられたら、 こっちのテンション下がりまくりなんだからね」
レイの言い分はもっともである。
小柄なティントは普通に接するだけでも視線が下から上へ向く為に、 物欲しそうな顔つきになる。
その彼にフェンスの外から食い入るように見つめられれば、 中にいるメンバーのやる気は
簡単に削り取られてしまう。
自分達がティントに対して仲間外れをしているような、 ジワジワと良心に訴えかける目を彼は持っているのだ。

仕方なくトオルは、 コートの中からティントに向かって帰るよう説得を始めた。
「ティント、 この前の試合で分かっただろう?
ここは、 テニスの為なら平気で人を殴れる連中が来るところなんだ。
オマエみたいに、 対戦相手に遠慮するような奴は向いていない。
諦めて帰れ」
「でもボクは強くなりたい。 君のように……強くなるって……」
早くもティントの目が潤み出したが、 構わず続けた。
「オマエが誰を目標にして、 どうやって強くなろうが勝手だ。
但し、 ここへ入るには条件がある。
それをクリアしない限りは、 どんな素晴らしいプレイヤーだったとしても、 オレには許可出来ない」
「素晴らしいプレイヤー」 というところで、 トオルはわざとジェイクを睨みつけた。
メンバーになりたくても、 実力が伴わなくて、 中に入れないティント。
それに反して、 実力は申し分ないはずなのに、 プライドの高さから中に入ろうとしないジェイク。
どちらの事情も把握しているリーダーとしては、 歯痒さが先立ってしまう。

「どうすればボクは、 君みたいに強くなれるの?」
澄んだ瞳を涙で一杯にして、 ティントが訴えてきた。
以前、 同じ質問をした経験のあるトオルは答えに窮した。
まだリーダーを引き継いだばかりの頃、 日本から来た京極に酷い負け方をして、
藁 (わら) をもすがる思いで問いかけた事がある。
「どうすれば強くなれるのか」 と。
あの時京極は、 具体的に何かをしろと明確な指示を出さず、 ただありのままの現実を突きつけてきた。
「こうすれば強くなる」 ではなく、 「こうだから弱いのだ」 という事を。
恐らくは彼もまだ模索している途中で、 その答えは道を目指す者が個々に見つけるものだと知っていたのだろう。
トオルはティントに背を向けると、 なるべく潤んだ瞳を見ないようにして、 冷たく突き放した。
「オレは決して強くない。
ただオマエと違って、 泣くよりは練習する時間の方がはるかに多い。
邪魔だから、 もう帰れ」
この会話以降、 ティントはストリートコートに顔を出さなくなった――

気の迷いとしか言いようがないのだが、 ジェイクは前を歩く黒人の少年と話をしてみたくなった。
確か 「ティント」 と呼ばれていて、 トオルとは知り合いのようだったが、 たった今ストリートコートから追い払われ、
泣きながらメインストリートを蛇行している。
右にふらふら、 左にふらふらと、 まさに蛇のようにおぼつかない足取りで歩いているのだ。
好奇心もあるし、心配なのも少しはある。
しかし一番の理由は、 彼の中にあるはずの答えを直に確かめてみたくなったからだ。
「なあ、 オマエどうしてあそこのメンバーになりたいんだ?」
トオルに言われた事がよほどショックだったのか、 蛇行中の彼は三度目にしてようやくジェイクに気が付いた。
「えっ? ボ、 ボク?」
「オマエしかいないだろ?」
「うん……ごめんなさい。
学校以外で誰かに話しかけられる事なんて、 今までになかったから」
「そうなのか?」
「あ……嘘です。 ごめんなさい。
学校では話しかけられるって言うより、 いつも怒鳴られていて……その、 ボク……」
涙で濡れた黒い瞳が、 忙しなくジェイクの頭から爪先を行き来した。
品定め。 と言っても、 金持ちか否かではなく、 相手が自分を傷つける目的で近づいたかどうかを
判断しているようだった。

「安心しろ。 俺はオマエがメンバーになりたい理由を知りたいだけだ」
この説明に納得したのか、 ティントは堰 (せき) を切ったように話し始めた。
「ボクも、 トオルみたいに強くなりたいから。 あのね、 トオルって強いんだよ。
すっごく大きい上級生もやっつけちゃって、 皆から何か言われても堂々としていて、
ボクも彼みたいに強くなりたいから」
「アイツと同じ学校なのか?」
「うん、 クラスメートだよ」
「だったら同い年だろ? メンバーになったら、 アイツに使われる事になるんだぞ。
オマエ平気なのか?」
「だって彼は強いもの。 リーダーになるのは当然だよ」
ジェイクにとって同じ歳の人間に命令されるのは屈辱的だが、
ティントは強い奴に従うのは当然だと思っているらしい。
話が噛み合わないと悟り、 質問の角度を変えてみた。
「あんな所へ出入りすれば、 学校の友達から変な目で見られるだろ?
家族だって、 きっと……」
「そんなのは、 いつもの事だよ。 ボクを一番変な目で見ているのは、 家族だから」
「何だって?」
「ボクだけなんだ。 家族の中で背が低いのは。 だから、 だいじょうぶ。
あそこのメンバーになれば、 少なくともボクは……ボクだけは自分自身を嫌いになる事はなくなると思うんだ」
「俺には、 傷を舐め合っているようにしか見えないんだけど?」
「ボクはそうは思わないよ。 だって彼らは皆、 堂々としているじゃない?」
「ガラが悪いだけだろ?」
「カッコイイよ」
「分かった、 もういい。 お互い価値観が違うようだ」

どうやら見当違いだと思った。
ジェイクが期待した答えが返ってこないばかりか、 このティントという少年と会話を重ねる度に苛々してきて、
冷静さを保てない。
無理やり話を終わらせて立ち去ろうとすると、 今度はティントの方から質問をしてきた。
「君はどうして毎日来ているの?」
「さあな」
「君もメンバーになりたいの?」
「いや……」
否定するつもりで用意した言葉が、 途中で喉につっかえて、 中途半端な形で終わってしまった。
ティントと話していると、 何故か調子が狂う。
「ねえ、 ジェイク。 もしかして、 君もボクと同じじゃないの?」
「どこがだよ!?」
声を荒げる行為そのものが自分らしくないと分かっているが 、胸につかえた苛立ちをどうする事も出来なくて、
ジェイクは強い口調でティントを責め立てていった。
「ティントって言ったよな?
アイツの肩を持つわけじゃないけど、 オマエ、テニスに向いていないよ」
「ど、 どうして?」
「本気で誰かを倒そうとか、 思ったことないだろ?」
「君はそう思ってテニスをしていたの?」
「ああ、 それが快感だった。
自分は誰よりも強いと証明されるのが、 何よりも楽しくて仕方がなかった」
「じゃあ、 今は楽しくないの?」
「えっ?」
「だってテニスしていないから……」
ティントの意図した事ではないだろうが、 ジェイクにとって、この一言は大きな衝撃となった。

目の前の壁が、 ボロボロと崩れ落ちる感覚。
意味不明な苛立ちは、 ティントのせいではない。 調子が狂うと感じる事も。
テニスをしていないから。
やりたくても出来ない状況に置かれているからだ。
トオルが案じた通り、 テニスに対する渇望がジェイクを襲い始めていたのだ。
それは経験した者のみぞ知る、 飢えや渇きに似た苦しみだった。
やりたくても出来ない。 出来ないと言い聞かせても、 繰り返し訴えかけてくる欲求 ―― 
打ちたい、 走りたい、 プレイがしたい。
ラケットを握りたい、 ボールに触りたい、 どんな形でもいいからコートに立ちたい。
苦しさに耐えかねて忘れようとすれば、 頭の中はテニスの事で一杯になり、 無意識のうちに体が反応してしまう。
ストロークのフォームに崩れはないか、 サーブの打点に狂いはないか、 ステップのスピードは落ちていないか。
今までの努力を無駄にさせまいと、 ラケットもボールもないところで体が勝手に動き出す。
けれど日を追うごとにその反応は鈍くなり、 今度は確認せずにはいられなくなる。
自分の肉体がどこまで衰えたのかを。
積み重ねてきた練習の痕跡が次々と消えていく恐怖にも似た絶望感と、 その過程を受け入れるしかない屈辱。
そろそろジェイクは、 この苦しみに観念する時期に差し掛かっていた。
本音を言うなら先程の 「メンバーになりたいか」 の問いかけはイエスであり、
「ボクと同じじゃないのか」 と聞かれれば、 これもイエスに他ならない。
どこにも自分の居場所を見つけられず、 苦しみもがいているという点では、 二人は同類なのだから。
本当はティントに話しかける前から分かっていた。
ただ、 誰かの口を借りて確認したかっただけなのだ。 いくら封じ込めても膨らむこの想いを。
「ティント、 俺と一緒にテニスを始めないか?」
「教えてくれるの? でも、 ボクはテニスに向いていないって……」
「それなら、 だいじょうぶだ」
「本当?」
「ああ、 簡単に治せるさ。 テニスを好きになればいいだけだから。
誰にも負けたくないと思えるぐらいにな」

その夜トオルは、 改めて赤いジャケットの重みを実感した。
五十位のメンバーと試合をさせた事。 冷たく追い返した事。
どちらもティントの為に良かれと思ってやった事だが、 果たしてそうだろうか。
自分の中に、 初心者を引き受ける覚悟がなかったからではないのか。
丸太の上から見下ろす夜景が、 今夜は氷の欠片のように冷たく感じる。
いつもはもっと華やかに見えるはずなのに。
「ダーリン、 またその曲!」
気がつけば、 クリスが睨みを利かせながら、 頂上までよじ登ってくるところだった。
「その曲」 というのはジャンの好きだった 『アメージング ・ グレイス』 である。
先程からトオルは一度も間違わずにハーモニカを演奏しているのだが、
さすがに百回目を越えると周りはうんざりするらしく、 丸太の上に集まる視線は刺々しいものだった。
「悪りィ、 つい……」
慌ててハーモニカをしまう様子を見て、 クリスの吊り上った目元も同じ速さで和らいだ。
「その曲は嫌いじゃないの。
だけど、 それを吹いているときのダーリンは、 あんまり好きじゃない」
「オレ、 そんなに下手か?」
「そうじゃなくて。 何だか悲しそうに見えるから」
彼女の言わんとしている事は、 よく分かる。
確かに 『アメージング ・ グレイス』 は、 トオルが自分の不甲斐なさを悔み、
ジャンならどうするかと思い悩んだ時に演奏することが多い。

シャンパン色の長い髪を撫で整えてから、 クリスが隣に腰を下ろした。
今夜は少し風が強かった。
「あの小さい坊やのこと、 まだ気にしているの?」
「ああ、 前のリーダーなら秘書だと言って、 メンバーに加えていたと思ってさ」
「でも自分で勝ち取らなくちゃ意味がないって、 ダーリンは考えたんでしょ?」
「最初はそう思って試合をやらせたけど、 よく考えればアイツが負けるのは当然なんだよな。
結局オレには、 ティントのような初心者を抱えるだけの度量がなかったんだと思う」
「私は前のリーダーを知らないけれど、 少なくとも坊やはダーリンを目指して来たはずよ」
クリスの髪が夜風を受けて、 レースのカーテンにも似た透け方でサラサラとなびいていった。
気まぐれな風が見せた演出は、 まるで宝石箱の上に砂金を振りまいたような華やかな一幕であったが、
カーテンが元の場所に収まると、 すぐにまた冷たい光がトオルの心に突き刺さってきた。
「そもそも、 オレを目指して来た事が間違いだ」
「それは違うわ。 現にここに集まった五十人のメンバーは、 貴方をリーダーだと認めているもの。
もっと自信を持っていいんじゃない?」
「自身を持て」 と言われれば、 ますます背中が丸くなる。
トオルが知る限り、 前リーダーのジャンはどんな時でも強かった。
仲間を慰める事はあっても、 慰められる事は一度もなく、 常に行くべき道を指し示してくれた。
それに引き換え自分はと考えると、 どうしても自己嫌悪に陥ってしまう。

「自信ってさ……」
これはトオルが最近特に思うことだった。
「持った後から、 いっつも後悔するんだよな。
正しい選択をしたと信じて進んだはずなのに、 後ろを振り返ってみれば間違いだらけでさ。
最悪なのは、 その間違いに気付くのは、大抵誰かを傷つけた後なんだ。
たぶんオレは、 色んな事を理解するのが人より遅いと思う。
本当は、 もっと思慮深い奴がリーダーをやるべきなんだ」
「でもそうやって自分で気がついた事って、 絶対に忘れないでしょ?
それに前のリーダーは凄い人だったかもしれないけど、 今の仲間を率いて行けるのはダーリンしかいないわ。
下をご覧なさい。 今夜はやけに残っているメンバーの数が多いと思わない?」
「あ、 そう言えば……」
「皆、 心配しているのよ。 リーダーの元気がないから。
あの気の弱そうな坊やが、 怯えながらストリートコートまでやって来たのは何故かしら?
きっとジェイクだって、 嫌いな人がいる場所へ毎日通ったりはしないわ。
今のリーダーを慕って後に続こうとしている人がいるのよ。
だから自信がなくても、 せめて自分を信じる事を忘れないで」

港の明かりが一つ、 また一つと消え始めた。
夜が明ける直前に、 ほんのわずかな時間だけ、 ずしりと暗くなる瞬間がある。
街を照らしていた月もネオンも途切れ、 朝日はまだ顔を出さない一瞬の闇が。
「ありがとう、 クリス。 なんか元気出てきた。
まだ自信はないけど、 オレを信じてくれる仲間は信じられると思う。
だからティントの事も待ってみる。
ここがアイツにとって本物の砦だったら、 必ず戻ってくるよな?」
「ええ、 そうね。 それならダーリン?」
「ん?」
「私の事も信じてくれるのよね?」
「ま、 まあ……そうかな?」
「ダーリンの事が心配で、 お店休んじゃったのよ? これって愛だと思うの」
「いや、 それは違うかと……」
朝日が昇り始めた。
さっきまで種火程度にチラついていた光は、 突如として爆発的なエネルギーを解き放ち、
港を、ストリートコートを順に照らし出した。
そして、 この清々しい光の中で、 慌しい影が二つ。
「ねえ、 ダーリン! あの坊やの事は心配するくせに、 どうして私の事は気にかけてくれないの?」
「充分気にかけているって!」
「だったら、 言葉か態度で現してよ」
「いや、 オレって慎み深い日本人だからさ」
「都合のいい時だけ日本人にならないで!
人種差別だわ」
「なんでだよ?」
「じゃあ、 パワー・ハラストメント」
「ンなわけあるか!」
転がるように丸太を駆け下りてきたトオルと、 それを追いかけるクリス。
見慣れた光景に安堵したメンバー達は、リーダーを助けるという発想もなく、 皆、 笑顔でコートを離れていった。

ジェイクがティントを連れて再びコートにやって来たのは、 それから一ヶ月後のことだった。
「ここは、 一度負けた奴でも挑戦出来るんだよな?」
以前と比べて、 二人とも逞しく見えるのは、 初夏の日差しのせいだけではない。
常にうつむき加減で怯えていたティントは、 背筋を伸ばす事を覚え、
相手の目をロクに見ようともしなかったジェイクもまた、 その視線を真っすぐトオルに向けていた。
どんな経緯でそうなったかは分からないが、 どうやら二人はここのメンバーになる為に、 練習を重ねてきたらしい。
「ああ、そうだ。 誰にでも挑戦権はある」
「分かった。 オマエから挑戦して来いよ、 ティント。
俺が見ていてやるから」
まるで専属コーチのような口ぶりで、 ジェイクがティントに指示を出し、
彼自身は本来審判が立つはずのネットポストの周りを陣取った。
丸太の上を除けば、 最も試合が良く見える場所である。
恐らく、 そこからティントへ指示を出すつもりなのだろう。

「サーブを打ったら前へ出ろ、 ティント」
ジェイクの指示を聞いて、 メンバー全員が驚いた。
正確には指示後のティントを見て驚いた。
ベースラインで準備をする彼が見せたのは、 明らかにアンダーサーブの構えだった。
通常サーブを打つ時はラケットを上から下に振り下ろすのだが、
彼はストロークを打つときと同様、横に構えて立っている。
確かにアンダーサーブは、 上手く回転をかければ相手の返球をさせ辛くする利点があるが、
初心者から放たれたサーブは、 何の回転も施さない緩いボールである。
早い話が、 単なる 「球出し」 だ。
サーブを打った後にダッシュをかけるには、 お粗末過ぎる代物だった。
「なんだよ、 脅かすなよ」
五十位のメンバーが胸をなでおろした瞬間、 素早くネットについたティントから、 ハイボレーが叩き込まれた。
「一体、 どうなっているんだ?」
誰もが信じられないという目でティントを見つめる中、 トオルだけはネットポストに視線を集中させた。
「ジェイクの奴……」

この一ヶ月の間、 ジェイクがティントに教えたのは、 ストロークとボレーの二種類だけである。
五十位のメンバーに勝つことを目標として、 つまり 「初級の人間に勝つ方法」 に的を絞り、
徹底的にその指導にあたったのだ。
時間のかかるサーブ練習を捨て、 ストロークでサーブとリターンをカバーし、 ボレーで一気に勝負を決める。
初級者同士の試合なら、 四本のうち一本入るかどうか分からない剛速球に力を注ぐより、
確実にサーブを入れてボレーで決める方が勝率は高くなる。
しかも緩いサーブが相手コートへ届く時間を利用して毎回ネットにつかれれば、
大抵のプレイヤーは大きなプレッシャーを感じてしまう。
初級者相手にしか通用しないサービスキープの仕方だが、 挑戦者に最初のサーブ権があるこの試合に限っては、
充分に有効な手段だった。

第一ゲームをティントが先取したのを見届けてから、 ジェイクが左手で拳を作り、
右手で軽く叩く真似をして見せた。
トオルには、 指示の内容が手に取るように理解できた。
「次は当てるだけでいい」 と言っているのだろう。
初心者に1ゲームを先取されて焦った五十位のメンバーは、 サーブで挽回しようと
精一杯のスピードサーブで勝負に出た。
ところが、 それが却って仇となった。
「当てるだけ」 で返したリターンは、 スピードがのっている分だけ、 同じ威力の返球となる。
壁打ちと同じ要領である。
緩いボールは緩く返され、 速いボールは速く戻る。
予想以上に速いリターンを返されて、 五十位のメンバーは対応し切れず、
自らが生み出したスピードに翻弄されている。
たった3ゲームという短い試合の中では、 先にゲームを取った方が断然有利な立場になり、
取られた方は焦って全力で巻き返しを計るはず。
その心理を利用した、 試合経験豊富なジェイクならではの作戦だった。
追い詰められたメンバーは、 シンプルな 「当てるだけ」 の返球にミスを重ね、 自滅の一途を辿っていった。

「オマエの勝ちだ。 よく頑張ったな、 ティント」
試合終了後、 これまで見た事もない緩やかな笑みで、 ジェイクがティントの勝利を称えた。
「ジェイクのおかげだよ、 ありがとう。 テニスって楽しんだね」
「そうだろう? 特に勝ったときは、 最高の気分だ」
「うん。 でも……あの五十位の人は、 どうなるの?」
気性の優しいティントは、 自分が負かした相手を思いやり、 素直に喜べない様子である。
「また挑戦しに来るだろ」
ジェイクの答えだけでは納得しないのか、 ティントはトオルにも相槌を求めてきた。
「ジェイクの言う通りだ、 ティント。
ここがアイツにとっての本物の砦なら、 練習して必ず戻ってくる。 今日のオマエみたいに」
「五十一位は作れないの?」
「それがここのルールだ。
差別される事がない代わりに、 弱い奴から順番に外されるのも変えられない。
残りたければ強くなる。 それ以外に方法はない」
黒い大きな瞳が、 またしても潤み出した。
「やっぱりボクは、 ここにいられない」
「どこへ行く、 ティント?」
出口に向かう小さな背中を、 トオルは呼び止めた。
「あの五十位だった人を呼び戻しに……
彼にとっても、 ここは最後の砦なんでしょう?」
「それはオマエの自由だが、 負けた相手にそんな事してもらっても、 アイツは喜ばないと思うぜ」
「どうして? 大切な居場所なのに?」
「誰かに譲られた場所を、 居場所と呼べるのか?
自分の手で勝ち取るからこそ価値がある。 ここにいる連中は、 皆そうやってメンバーになった。
それにティント、 オマエはまだやるべき事があるんじゃないのか?」
トオルはジェイクがメンバーに加わることを想定して、 話を進めた。

この後ジェイクが挑戦者として試合をすれば、 問題なく幹部クラスまで登り詰め、
そうなれば、 現在五十位であるティントが押し出される格好になる。
彼がメンバーに留まる為には、 もう一人倒さなければならなかった。
「いや、 その必要はない」
トオルの心配をよそに、 ジェイクが涼しい顔で断言した。
「俺はメンバーになるつもりはないから」
「ジェイク、 まだそんな意地張っているのか?」
「意地じゃない」
「だったら、 何だよ?
オレが リーダーでいるのが、 そんなに気に入らないのか!?」
「ああ、 そうだ。 気に入らないね。
気に入らないから、 俺が リーダーになってやろうと思って。
但し、 ティントが四十九位に上がった後でな」
「ジェイク、 まさか最初からそのつもりで……?」
ティントとトオルは同時に驚きの声を上げた。

初めからジェイクの目的は、ティントの願いを叶えてやる事だけだった。
さっきの試合は、 いわゆる奇襲攻撃のようなものである。
初心者をメンバーに入れるには、 意表を突いた作戦で一勝させるのが限界だと分かっていたのだろう。
二度は通用しないと承知の上で、 ティントをメンバーに押し込む方法を取ったのだ。
居場所がなくて苦しんでいる心優しき仲間の為に、 出来るだけのサポートをしてやり、
自分はもう少しテニスの出来ない苦しみに耐えようと決めたに違いない。
「ねえ、 リーダー?
やっぱり私を秘書にして、 ジェイクを入れてあげれば?」
ジェイクの意図をクリスも察して提案してくれたが、 トオルはそれを頑なに拒んだ。
「いや、 このままでいい」
「どうして?」
「さっきと同じ理由。 他人に譲られた居場所じゃ意味がない。
そうだろ、 ジェイク?」
その問いかけに答えることなく、 ジェイクはすたすたとコートから出て行った。
一見反抗的とも取れる態度だが、 去り際に彼が放った一言で、 トオルにはそれが照れ隠しだと分かった。
「本当に気に入らないのは、 同い年ってとこだけだから」
近いうちに頼もしい幹部がまた一人、 『ジャックストリート ・ コート』 に加わる予感がした。




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