第 47 話 追想

ニューヨーク



トオルがファッション・ショーのアルバイトを始めてから、
数ヶ月が過ぎた或る日。
普段はマナーにうるさい親友のエリックが、 ノックもせずに
トオルの部屋に駆け込んできた。
「ビッグ・ニュースだよ、 トオル!
今度のショーはニューヨークだって!」
事務所から仕事の依頼を受けた直後だという事は、
手にしたままの受話器から察しがついた。
そして温厚な親友が、 珍しく興奮している事も。
政治、 経済、 芸術、 出版、金融、 コンピューター産業と、
あらゆる分野の中心地となるニューヨークは、 ジャーナリスト志望のエリックにとって、
まさに聖地とも言うべき憧れの街である。
そこへ仕事で ―― つまりは タダで行けるのだから、 興奮する気持ちも分からなくはない。
だが、 良く言えば自然派志向。 早い話が田舎者のトオルは、 あまり気乗りがしなかった。
高いビルとセットになった人混みを想像するだけで、 うんざりしてしまうのだ。
「悪いけど、 オレは行きたくねえなぁ。だいいち寒そうだ」
「そんな事ないって。 秋のニューヨークはベストシーズンだよ」
「ストリートコートを長い間留守にするわけにもいかないし」
「長いと言っても、 ウィークエンドを挟んで五日だけだから。
アメリカに二年以上も住んでいて、 一度もニューヨークへ行かずに帰国するなんて勿体無いよ。
ね、 一緒に行こう?」
真剣に説得してくれる親友には申し訳ないが、 この時すでにトオルの意識はニューヨークから逸れ、
まったく別の方向を向いていた。

十一月。
冬の訪れを間近に控えたこの季節は、 体だけでなく心までも冷たく感じる。
生涯の目標と定めた伝説のプレイヤー、 ジャン・ブレイザーの命日が近づいていたからだ。
いつもと変わらない日常の中で、 忽然と姿が消えて一年になる。
街を彩る木の葉のように、 何か予兆があったわけではない。
ある日突然、 目の前でふっと途絶えてしまった命。
一年経った今でも、 彼が丸太の陰からひょっこり現れるような、 残酷な錯覚を起こす事がある。
ジャンが愛用していた鉄製のラケットを見る度、 その死を自覚しようとするのだが、
理性が感情を説き伏せるまでには至らなかった。
頭で理解していても 「まだ生きている気がする」 のだから、 それを理詰めで押さえ込むこと自体、
無駄な行為である。
遺体と向き合い、 きちんとした形で葬儀に参加しなかったせいもあるだろうが、
結局彼の死を受け入れられないまま月日だけが過ぎていった。

トオルにはやり残した事がある。
ゲイルを通じて託されたジャンのラケット。
これを 『ノリコ・ハセガワ』 に渡す約束を、 まだ果たせずにいる。
プレイヤーとしての誇りを守る為に、 ラケットを武器に使用しない。
この誓いを守り通した結果、 ジャンは命を落とした。
彼の最後の願いは、 プロミスリングが結ばれたままのラケットを最愛の彼女に渡すこと。
これを実現させるべくシアトルまで訪ねてみたが、 残念ながら引っ越した後で会えなかった。
ジャンに 「今まで惚れた中で最高の女」 と言わせた女性は、 何も告げずに連絡を絶ったことになる。
二人の間に何があったかは分からないが、 せめて最後の願いだけは叶えたい。
そう思って、 トオルは鉄製のラケットを肌身離さず持ち歩いていた。
いつ、 どこで出会っても、 すぐ渡せるように。
十一月。 この時期は果たせなかった約束も含めて、 物思いにふける事が多かった。

三日後、 トオルはニューヨークにいた。
エリックに泣きつかれたのもあるが、 ジャンの命日に 『ジャックストリート・コート』 にいたくなかったというのが
本音である。
これが元のメンバーだけで過ごせるなら違っていたかもしれないが、
今のメンバーでジャンを知る者はほとんどいない。
事情を知らない彼等の前で湿っぽい顔も出来ず、 だからと言って何事もなかったかのように過ごせる自信もなく。
相変わらずの中途半端な気持ちを持て余した結果、 トオルはニューヨークへやって来たのだ。
「二人とも、 今夜は日本食を食べに行くわよ!」
ショーの打ち合わせを終えたシェリーが、 トオルとエリックに上機嫌で話しかけてきた。
珍しい事もあるものだ。
最高の舞台にこだわる彼女は、 ショーが終わるまで感情をセーブしているところがあるのだが、
今夜はやけに陽気で、 それを隠そうともしない。
恐らく隠し切れないほどの嬉しい事があったのだろう。
「シェリー、 何か特別な事でもあったのか?」
「ウフフ……分かる? トオルには適わないわね。
なるべく見せないようにしているのだけど」
「でも、 嬉しい事なんだろ?」
「ええ、 とっても!」
サファイア・ブルーの瞳が、 スポットライトを浴びる前から輝き出した。
「アナタ達に、 私の大親友を紹介したいの。
さあ、 早く出かけましょう」

最近分かった事だが、 シェリーが トオルとエリックをショーに同行させるのは、
単に仕事のやり易さだけではない。
彼女自身、 トップモデルになるという夢を追いかけているせいか、
同じように夢を持って進んでいる人間を見ると応援したくなるらしい。
現に彼女の口利きで仕事を紹介してもらったスタッフが、 他にも多数同行しており、
ちょっとした劇団まがいのチームが出来上がっている。
その中でも、 トオルとエリックは年齢が低いとあって、 特に可愛がられている。
毎日のように裏切りがあり、 「落された」 「捨てられた」 の会話が飛び交うファッション業界。
そこで必要とされるのは心から信頼できる仲間であり、 業界と無縁な少年達だからこそ、
彼女の信頼を得たのかもしれない。

シェリーに案内されて入った店は、 看板上は 「すし屋」 と名乗るレストランで、
トオル達三人はそこのカウンターに席を取った。
和食レストランを探すのに、 ニューヨークで困ることはない。
ただ本物となると、 話は別である。
『ジャパニーズ・レストラン』 とのたまう店の多くは、 従業員が全員中国人だったり、 タイ料理がメインだったりと、
日本人から見れば和食と呼べない料理を平気で出している。
「トウキョウ巻」 「サッポロ巻」 「ヨコハマ巻」 と不可解なメニューが並ぶ中、 トオルは 「キョウト巻」 を頼んでみた。
栄養士の母のおかげで、 料理が出来なくても舌はそれなりに肥えており、
食材の知識も中学生にしてはある方だ。
京都と聞いて時期的に秋サバを期待したトオルだったが、 目の前に出されたのは、
アボガドとチーズを酢メシで巻いてあるだけのお粗末な代物だった。
これの何処が 「キョウト巻」 なのか、 日本人でありながら理解に苦しむネーミングである。
「ま、 こんなもんだよな」
酢メシ以外はとても寿司とは呼べない 「キョウト巻」 を、 観念して口に運んだ時だった。

「この店、 日本人から見れば、 ほんとインチキよね!」
流暢な日本語で文句をつけながら、 店内をキョロキョロと見回す女性がいた。
店長は元より全ての従業員が中国人という 「自称・すし屋」 で、
おそらく彼女が放った悪口を正確に聞き取れたのは トオルだけだろう。
スラリと背の高いその女性は、 カウンターに座るシェリーに向かって、 今度は流暢な英語で声をかけてきた。
「ハイ、 シェリー! ひさしぶり」
「ノーラ!」
全身で嬉しさを表現するシェリーの態度から、 「ノーラ」 と呼ばれた女性が例の大親友である事は
すぐに分かった。
「彼らがアナタのお気に入りのボーイズ?」
意味深な笑みを浮かべながら、 ノーラはエリックとトオルを交互に観察し始めた。
と言っても、 観察される側に不快な感情を与えることなく、 彼女はハリウッド・スターを見るような目つきで
少年二人をしげしげと眺めている。
その瞳は歓迎の意を示しており、 大らかに開いた口元から見える白い歯もまた、
親友が大切に思う仲間に会えた喜びを現していた。
「ノーラは同じモデル仲間で、 一番の親友なのよ。
だからアナタ達にも、 一度紹介しておきたくて」
心許せる友との再会とあって、 シェリーの口調が次第に速くなり、 それに合わせて女性二人の会話も
仲間内ならではの内容へと移っていった。
「それで、 シェリー? どっちと、 どこまで、 どうなったの?」
「相変わらずね、 ノーラ。 彼らは、 私の信頼すべきパートナーよ」
「あら、 もったいない。 こんなにクールなボーイズなのに」
「夢を追いかける同志だから」
「夢ならベッドの中でも追いかけられるでしょ?」
上品なシェリーとは対照的に、 ノーラは俗っぽい話が好きらしい。
全く正反対の二人である。

食事の最中もノーラは先程文句をつけた 「インチキ寿司」 を注文する傍らで、
少年達が赤面するような話題を平然と差し向け、 その合間に日本酒を銘柄別に飲み比べている。
「ねえ、 エリックはドイツ人でしょ?
私、 ドイツ人って未体験ゾーンなのよね。 色々教えてくれる?」
「あの……色々って?」
律儀なエリックが、 聞き流していいはずの質問を拾い上げた。
これでは自らノーラの得意分野に飛び込むようなものである。
「例えば、 アメリカ人と比べてドイツ人は几帳面だって言われるでしょ?
だから、 彼女の下着とか丁寧に畳んじゃうわけ? あの最中でも?」
決して女性に対しての褒め言葉にはならないが、 ノーラには 「豪快」 という表現がぴったり当てはまる。
飲みっぷりと言い、 食いっぷりと言い、 歯に衣を着せぬ話しっぷりと言い、
いわゆる 「気風 (きっぷ) の良い姐さん」 タイプである。
とりわけ話しっぷりに関しては豪快、 且つ大胆で、 一時間後にはカウンター席が彼女の独演会と化していた。
ノーラは自分の理想とする夜の過ごし方を出会いからベッド・インまで述べた後で、
その「行為」の前後に行われるキスとトークの割合の多さが女性側から見て重要だと主張し、
「これからの男は、 状況に応じてキスを使い分けられなきゃ駄目だ」 と力説した挙句、
実際にトオルを使って説明しようとしたところを保護者役のシェリーによって店から連れ出された為に、
やっとの事で大人しくなったのだった。
始終赤面し通しの夕食だったが、 トオル達は充分満足して店を出た。
これが彼女なりの歓迎の仕方だと気付いていたからである。

エリックの言う通り、 十一月のニューヨークはベストシーズンだった。
街を彩る木々のせいもあるが、 ここはトオルが住んでいる西海岸より原色が多いように感じる。
重厚な建物とアーティスティックな建造物が共存し、 それぞれが上手い具合にバランスを保っている。
所々で顔を出す色鮮やかな看板や標識もスパイス的な役割を果たしており、
人混みはあまり好まないトオルが歩くだけで楽しいと思うほど、 刺激的な通りがいくつもあった。
ただベストシーズンと言えど、 さすがに夜になると冷え込みが厳しい。
体を冷やさないよう、 トオルが手にしたジャケットを羽織った時である。
ノーラの顔が瞬時に強張った。
「よう、 姉ちゃん達。 これから俺等と付き合わないか?」
いかにも柄の悪そうな連中が、 シェリーとノーラを取り囲んでいる。
明らかに油断した。
いくら 『ジャックストリート・コート』 から遠く離れても、 ここはアメリカの中でも治安が悪いとされるニューヨークである。
しかもモデル二人が揃って夜の街を歩いているのだから、 性質の悪い連中の標的にされても当然だ。
観光客気分で歩いているところを、 地元のヤンキー達に目を付けられたのだろう。
相手は五人に対し、 こっちは四人。 うち二人は女性で、 もう一人の戦力は期待できない。
皆を危険な目に遭わせたくはないが、 連中を追い払うには売られた喧嘩を買うしかない。
トオルはテニスボールが入ったカバンをエリックに渡し、 「襲われたらカバンごと振り回せ」 と指示を出してから、
鉄製のラケットを担いで間に割って入った。
「悪いけど、 このお姉さん達はアンタ等に付き合う暇はないんだって」
「ガキがヒーロー気取りか? ケガしたくないなら、 すっこんでいろ!」
「その台詞、 自分に向けて言ってるわけ?」
「口で言っても分からないようだな」
「ああ、 あいにく聞き分けの悪いガキなもんで……」
「だったら体に教えてやるよ!」
トオルが言い終わるのを待たずして、 連中の一人が殴りかかってきた。

「シェリー、 ノーラ! エリックの後ろに回れ、 早く!」
トオルは女性二人の安全を確保するのと同時進行で、 相手からの攻撃をかわし、
挨拶代わりに自分の拳を腹部目掛けてぶち込んだ。
「体冷えちまうから、 さっさと片付けようぜ、お兄さん!」
「調子に乗るなよ、 クソガキ!」
挑発に乗せられた連中が、 次々と襲いかかってきた。
複数の人間を一人で相手にする時。 向こうから攻撃させる方が、 こちらの対処がし易くなる。
男達の動きをラケットで食い止めると、 自由が利く脚を使って蹴り上げていく。
日頃、 剣道四段の父親と生々しい親子喧嘩を繰り広げている息子にとって、 人質さえ取られなければ、
ヤンキー五人を片付けるのは朝飯前である。
一人、 二人、 三人目が倒れたところで、 残りの二人が仲間を連れて逃げ出した。
三分と経たない間に仲間の半数を倒され、 勝ち目はないと判断したのだろう。
「ケガないよな?」
念の為、 三人の無事を確認するトオルに、 シェリーとエリックが笑顔で答えた。
しかしノーラだけは青い顔をしたまま、 ただ一点を見つめていた。
「トオル、 そのジャケット……ジャンの……?」


漆黒の闇に浮かぶキャンドル色の白い月が、 とても印象的な夜だった。
場所を変えた方がいいと言うシェリーの助言もあって、 トオルはノーラと二人でホテルへ戻る事にした。
最初は部屋で話をするつもりだったが、 ノーラがどうしても外にいたいと主張した為に、
二人は中庭にあるプールサイドへ向かった。
リゾート型のホテルではないので、 中庭と言っても月を映す程度の小さなプールが一つ。
周りにベンチがいくつか並んでいるだけの簡素な庭である。
トオルはその一つに腰を下ろすと、 隣の空いたスペースをノーラにも勧めた。

何から話せばいいのか。 何処から始めればいいのか。
いずれにせよ順序良く話すのは不可能だと分かり、 まずは今の心境から切り出すことにした。
「驚いた。 ノーラが 『ノリコ・ハセガワ』 だったなんて」
「それが私の本名よ。
アメリカ人にはノリコという名前は発音しづらいから、 仕事の時はノーラの愛称で通しているの」
「ずっと探していた。 注意しているつもりだったんだけど……ゴメンな。
もっと早くに気付くべきだった」
「仕方がないわ、 お互い様よ。 あのインチキ寿司屋の中では、 ジャケット……脱いでいたし……」
ジャケットと言った途端、 ジャンの影がちらついたのか、 ノーラの唇が震えた。
恐らく トオルが事実を告げなくても、 彼女はすでに知っているに違いない。
ジャン・ブレイザーが、 もうこの世にはいないという事を。
それでも話さなければならなかった。
彼の死に直面した人間しか知らない真実を伝える責任があったから。

「オレのせいで、 ジャンは死んだ。
ちょうど去年の今頃、 オレの不注意で……オレをかばって……」
心の中に淀む言葉を押し出すような作業だった。
胸でつっかえ、 喉でつっかえ、 そして唇でもまた。
「前々から 『ジャックストリート・コート』 を狙っている奴がいて……そいつが雇った奴に刺されたんだ。
オレが気を抜いたりしなければ、 こんな事にはならなかった」
ひどく痛くかった。 何処もかしこも。
だが続きを言わなければならない。 まだ彼女に一番大事な事実を伝えていない。
「ジャンは、 ノーラとの誓いを最後まで守った。
死ぬ間際に、 これを 『ノリコ・ハセガワ』 に渡して欲しいって頼まれて」
トオルはそう言って、 プロミスリングが結ばれているラケットを差し出した。
「このリング……短くなっているけど、 これは全部オレのせいなんだ。
オレにラケットで人を傷つけないと約束させる為に、 ジャンが切り分けてくれた。
それから、 こっちの結び目はコートを取り返す時にオレが誓いを破った。
ジャンは一度も破っていないから」
短くなったプロミスリングも、 二つになった結び目も、 全て未熟な自分のせいだった。
今こうして彼女にジャンの遺品を渡す原因を作ったのも。

目の前に差し出されたラケットをしばらく眺めた後、 ノーラがゆっくりと押し戻した。
「これはアナタが持っているべきよ、 トオル」
「でも、 ジャンの遺言は……」
「『面白い奴が入って来た』 って、 アイツすごく嬉しそうに話していたわ」
トオルの言葉を遮るようにして、 ノーラが話を続けた。
「クリスマスホリデーにようやく会えたっていうのに、 ずっとコートに転がり込んで来た日本人の話ばかりしていたのよ」
「日本人って、 もしかしてオレのこと?」
「ええ、 そうよ。 失礼しちゃうでしょ?
こんな美人が隣にいるのに、 食事中でもベッドの中でも、 ずうっとアナタの話ばかりなの。
それも子供みたいに目を輝かせてね。
初めて私とベッド・インした時より楽しそうだったわ」
まるで昨日の出来事のように頻繁に唇を尖らせながら、 ノーラはその時のジャンの様子を教えてくれた。
「頭にきたから、 さっさと追い返してやったの。
ちょうど今の事務所との契約があったから、 彼を懲らしめるつもりで、 黙ってニューヨークに来たの。
相変わらず浮気性も直っていないみたいだし、 ちょっとお灸をすえようと思って。
でも、 まさかこんな事になるなんて……」
思い出話を送り出す時は忙しく尖っていた唇が、 現実に話が及ぶと同時に震え出し、
最後には曲がったまま動かなくなった。

トオルは慌てて視線をプールへ移した。
ノーラの顔を見てはいけないような気がしたのだ。
月を取り込む水面は、 季節外れのプールにしては透けるように綺麗だった。
たとえ客が入らない時期であっても、 常に水を入れ替え管理しているのだろう。
夏の思い出に浸りに来る客の為か。 或いは単に衛生面からか。
季節外れのプールが、 胸に抱える思い出と重なり、 やけに物悲しく見えた。
すでに過去の出来事になろうとしているのに、 毎日心の中で甦らせてしまう為に、
濁ることなく鮮明な形で存在し続ける。
幻想的な月を映し出す水面も、 きっと触れば酷く冷たいのだろう。
思い出の中のジャンは生きているのに、 誰かに触れられた途端、悲しい現実を知らされるように。

「ねえ、 トオル? 私、 思うのだけど……」
さっきより落ち着いた声で、 ノーラが再び口を開いた。
「ジャンがラケットを渡せと言ったのは、 私と引き合わせたかったのよ、きっと」
「オレとノーラを?」
「ええ。 彼の死でアナタが自分を見失うのを心配して、 私に監視させるつもりだったのね。
荒れている頃の彼にしたように、 もしもの時には立ち直らせて欲しかったのよ」
その話は前にも聞いたことがある。
ジャンがプロを辞めて暴れ回っていた頃、 酔っ払って乱闘になりそうになったところをノーラに止めてもらい、
それがキッカケで立ち直ること出来たと目を細めて話していた。
だがしかし、 死ぬ間際の人間がそこまでの配慮をするだろうか。
「オレの為に……自分が死ぬって時に、 ジャンはオレのことを考えていた……?」
ノーラの唇が、 また不自然な歪み方をした。
「ジャンは……そういう男じゃなかった?」
彼女の言う通りである。
まさしく、 ジャンとはそういう男だ。
自分が死にそうな時でも、 他人の事を先に考える。
「ああ、 そうだった……ジャンは、 そういう男だ……そういう男だった……」

未完成な思い出が、 本来あるべき場所へと押し流されていく。
『ジャン・ブレイザー』 を最もよく知る彼女と語り合うことで、 心に溜め続けた思い出が過去形へと姿を変えた。
「ジャンはノーラのことを 『俺が今まで惚れた中で、 最高の女だ』 って言っていた。
女癖は悪かったけど、 本当はノーラをとても愛していたと思う」
わずかな月明かりの中でも、 彼女の瞳の揺れ具合で泣いているのが分かった。
「もう……外だったら泣かずに済むと思ったのに……」
ノーラが頑なに外で話そうとしたのは、 事実を知らされた後で涙を見せたくなかったからだ。
「トオル? そのジャケット、 少し貸してくれるかしら?」
「ああ……オレも随分世話になったんだ、 このジャケットには」
涙で濡れた彼女を抱き寄せながら、 トオルもまた、 頬に温かなものを感じた。
初めはその正体が分からなかった。
頬を流れる温かなもの。 一体それが何なのか、 漠然としか思い出せない。
いや、 正体は分かっている。 涙というヤツだ。
ただ久しぶりの事で戸惑ったのだ。
何故ならこの一年間、 一度も涙を流さなかったから。
自分でも気付かなかったが、 ジャンが死んで以来、 トオルはずっと泣かなかった。
恐らくこれが初めてだろう。
意識して堪えていたわけではない。
人の死を悼むという事は、 死の現実を受け入れる事でもある。
トオルには、 それを受け入れる覚悟がなかった。
一年の歳月をかけて、 ようやくジャンの死を事実として捉えられるようになったのだ。
この期間が長いのか、 短いのかは分からない。
だが一つだけハッキリ分かるのは、 泣かなくても毎日少しずつ悲しかった。
少しずつ、 ずっと悲しかった――

一旦溢れ出した涙は止まることなく、 トオルの頬を何度も濡らした。
涙に限りがないとう事も、 生まれたての涙が温かいという事も、 この時初めて知った。
そして人の死を理解するのに、 これほど時間がかかるという事も。
どんなに待っても、 一度死んだ人間は帰ってこない。
突然いなくなろうが、 徐々に消え去ろうが、この事実は変わらない。
ジャンの死後、 何度も丸太の上を見た。
彼の行きつけの店へ入るたびに、 周りをくまなく探した。
街中を歩いていても、 赤いジャケットを着た人間とすれ違えば、 わざわざ後を追いかけ確認した。
自分が彼のジャケットを引き継いだ事も忘れて。
「本当はオレ……ずっとジャンを探してた。 昔みたいに、 このジャケットの中で泣きたくて……
もういないって分かっているのに、 待っていた……ずっと……」
「ごめんなさい、 トオル。
私があんな約束させなければ……アナタにまで辛い思いをさせてしまって、 本当にごめんなさい」
「謝るのはオレの方だ。
ごめん、 ノーラ。 大切な人なのに……オレは……ごめん……」
この夜、 トオルは初めてジャンの死を受け入れた。
彼が愛し、 彼を愛した女性に、 真実を打ち明ける事によって。
一年分の涙を流すことによって。

どれくらいの間、 二人で悲しみを寄せ合っていただろうか。
体の冷え具合から察するに、 二、 三時間は経ったに違いない。
涙がかれたとは思えないが、 時間が経つごとに少しずつ落ち着いて話が出来るようになってきた。
ジャケットから体を離すと、 ノーラが穏やかな口調で語り始めた。
「ジャンはトオルのことを、 とても大切にしていたと思うの。
だから私に会わせようとしたんだわ、 きっと」
「うん……」
「だけど彼が思っている以上に、 アナタは強かったのね」
「オレが強い?」
たった今自分の弱さを自覚したトオルには、 何を指して強いと言われたのか分からなかった。
「ええ、 そうよ。 現にこうやって、 リーダーを引き継いで立ち直っているじゃないの」
「強くはないと思う。 だけど、ジャンの砦を守ろうとして必死だった」
これは本心である。
リーダーという大役を引き受けて、 仲間と砦を守るために無我夢中で走り続けた。
ひたすら走ることで、 悲しみに暮れる時間を軽減しようとしたのかもしれない。
「ねえ、 トオル? これからは自分の為に生きて欲しい。
自分のせいでジャンが死んだと思わないで、 ジャンのおかげで生きていると思って欲しいの」
「ノーラ……」
「ジャンはトオルに生きて欲しかったのよ。
『とんでもない原石を拾った』 って、 本当に嬉しそうに話していたもの」
「分かった……今すぐには無理だけど、 そう思えるよう努力してみる。
ジャンの為にも、 自分の為にも」
簡単に吹っ切れるものではないが、 ジャンの死も、それによって生かされた自分も、
二つの命を背負ってトオルは進もうと決意した。
十一月のニューヨーク。 キャンドル色の月が浮かぶ夜。
この夜を境に伝説のプレイヤーは過去の覇者となり、 彼が守り通した命によって新たな伝説が始まろうとしていた。




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