第 48 話 サービス ・ ファイト

ニューヨーク



ニューヨークでの滞在は、 当初トオルが想像していたよりも遥かに有意義で、
そして笑いの絶えない毎日だった。
気心知れた仲間との仕事に加え、 休憩時間にはノーラが話題の中心となり、
現場の雰囲気を盛り上げてくれた。
実は今回のショーにノーラが出演する予定はないのだが、
いつも彼女は 「関係者以外立ち入り禁止」 エリアに堂々と侵入し、
当たり前のようにモデル達の輪に溶け込んでは、
楽屋に置かれている差し入れを勝手に持ち出し頬張っている。
毎回警備員の監視を潜り抜けて入って来られるのは、
モデルの人脈を使ってか、 大らかな性格のなせる業かは分からない。
だが、 彼女が来てくれる理由については見当がついていた。

「それで頭にきたから、 そのスケベなイタリア人に
『私を口説く時は、 せめて日本の流行歌ぐらいは覚えてから来なさい』 って、 怒鳴ってやったの。
そうしたら彼、 何て言ったと思う?
『一晩かけて覚えるから、 君の好きな曲を教えてくれ』 って、 涙目でひざまずくのよ。
さすが駆け引き上手なイタリア人よね。
今度、 他の日本人を口説く時に使うのよ、 きっと!」
今日もノーラの弁舌は絶好調である。
トオルは休憩所のテーブルに置かれた差し入れの中から好みのジュースを選び出すと、
口に運ぶ直前で、 短く話の進行を促した。
「で、 教えたのか?」
「ええ、 仕方がないから教えてやったわ。 但し場所はホテルじゃなくて、 カラオケだったけど」
「最近、 どんな曲が流行っている?」
海外での生活が長くなればなる程、 現地の知識は増える代わりに、 日本の情報が失われていく。
この現象を少しでも食い止めようと思っての質問だったが、 間髪入れずに返された答えは、
トオルの予想を遥かに超えるものだった。
「六甲おろし」
「へ……? 『六甲おろし』 って、 あの野球の? 阪神タイガースの?」
「もちろん、 流行ってなんかいないわよ。
でも彼には日本で最もポピュラーで 『オー・ソレ・ミオ』 と同じくらい情熱的な恋の歌だって、 教えてやったわ!」
「いくらなんでも、 それはマズイだろう?」
「いいのよ。 あのイタリア人、 本当にムカついたんだもの。
それより想像してみて?
これから彼女を口説くって時に、 大声張り上げて 『六甲おろし』 を熱唱するのよ。
最高でしょ?」
ノーラに 「想像しろ」 と言われるまでもなく、 トオルは曲名を聞いた時点で珍場面が頭に浮かび、
口に含んだジュースごと噴き出してしまった。
日本の事をよく知らない人間が聞けば、 確かに情熱的な恋の歌に思うかもしれない。
『六甲おろし』 を 『オー・ソレ・ミオ』 と同じノリで歌いながら、 日本女性を口説こうとするイタリア人。
熱唱された側は、 どういうリアクションをするのだろうか。
万一相手がジャイアンツ・ファンならとんでもない事になる。

ノーラが持ち込む話題は、 いつもこんな感じだった。
わざわざ知らせに来る程のビッグ・ニュースではないが、 どんな緊迫した場面でも和ませてしまう。
この他愛もない笑い話を幾度となく聞かされるうちに、 トオルは何故ジャンが彼女を 「最高の女」 と称したのか、
分かるようになった。
一見、 無頓着に振舞っている彼女だが、 他人が背負う心の傷を敏感に見て取れる。
その傷を知っていながら特別な言葉をかけるでもなく、 笑いによって癒そうとしている。
数日前、 ジャンを死に追いやった事実を告白し、 一年ぶりに涙を流せた少年に対し、
彼女なりに 「前を向け」 と励ましているに違いない。
たくさん泣いた後は、 少しずつ笑って忘れろと。
大切な人を亡くしたという点では二人とも変わりがないというのに、 ノーラはトオルの為だけに
毎日職場でもない舞台裏まで押しかけて来るのだ。
他愛もない笑い話を引っ提げて。
そんな彼女のタフな優しさが、 伝説のプレイヤーを惹きつけた原因だと思った。
時おり赤面するジョークを聞きながら、 やはり彼女に会えたのは偶然ではないような気がした。
きっとジャンが引き合わせてくれたのだと。

「『ジャックストリート・コート』 のリーダーが、 ここに紛れちゃいねエか?」
怒鳴り声がした方を振り返ると、 トオルの三倍はあろうかと思うほどの巨体が、
見覚えのあるメンバーを引き連れ入口に立っていた。
後ろで青い顔した警備員が中を覗き込んでいるという事は、 彼らはノーラよりも大胆な方法で侵入したらしい。
「リーダー、 コイツだ。 この間の生意気なガキは」
メンバーのうちの一人が、 リーダーと呼ばれる男の背後でこっちを睨みつけている。
「思い出した! アンタ達、 インチキ寿司屋の前で私達に絡んできたヤンキーでしょ?
自分からケンカを売ったくせに、 途中で投げ出した根性ナシの!」
ひらめいたとばかりに、 ノーラが叫び声を上げた。
彼女の指摘通り、 巨体の後ろにいるのは トオルが寿司屋の前で殴って追い払ったヤンキーである。
自分達では適わないと判断して、 ボスを連れて来たようだ。
「借りを返しに来たんなら、 表で聞いてやる。
他の連中を巻き込むな」
すぐにでも応戦できる構えを取って、 トオルが立ち上がった時だ。
リーダー格の男から、 予期せぬ台詞が飛び出した。
「うちのバカどもが迷惑かけて申し訳なかった。 この通り謝る」
言い終わらないうちに、 男は後ろのヤンキー達を殴りつけた。
「なんだよリーダー、 仕返ししてくれるんじゃなかったのかよ?」
「バカ野郎! そんなくだらない理由で、 わざわざ俺が出向くか!」

巨体の男は 「ラルフ」 と名乗り、 改めてトオルとノーラに自己紹介を始めた。
「俺はこの街の 『サウスストリート・コート』 のリーダーで、 東では最強だと恐れられている男だ。
うちのバカどもから、 西の最強と噂される 『ジャックストリート・コート』 のリーダーらしき人物が
この街に現れたと聞いて、 決闘を申し込みに来た。
赤いジャケットのオマエがそうだよな?」
彼の言う 「東」 とはアメリカ東海岸全域を指し、 同様に 「西」 は西海岸であるが、 最強かどうかは疑わしい。
何故ならトオル自身、 これまで 『ジャックストリート・コート』 が西で最強などと聞いた事がなく、
しかも東のリーダーに至っては、 自ら 「恐れられている男」 と豪語している。
胡散 (うさん) 臭いこと、 この上ない。
そもそも名乗りもしないのに、 どうして一目でトオルが 『ジャックストリート・コート』 のリーダーだと分かったのか。
相手の目的が見えない以上、 用心するに越した事はない。
「東の連中は気が短いと聞いたが、 初対面でいきなり決闘を申し込むほど短気なのか?
戦う理由もなく?」
まずはラルフという男の魂胆を探ろうとしたところへ、 今度は思いがけない名前が飛び出した。
「最強同士が優劣決めるのに理由は要らんだろう?
ジャンは、 いちいち理由なんか聞かなかったぜ」
「何だって? ジャンを、 ジャン・ブレイザーを知っているのか?」
「俺の質問が先だ。 やるのか、 やらないのか、 どっちだ?」
この男。 だてに最強の名を豪語しているわけではないと思った。
上からトオルを見据える視線と、 服を通してでも分かる鍛え抜かれた筋肉と、 それに全身から漂う気迫。
本物に出会った時だけ感じる上質の緊張が、 トオルの全身を駆け抜けた。
「分かった。 決闘の場所を教えてくれ。
仕事が終わり次第、 そっちへ行く」

トオルはエリックと他のスタッフに断りを入れてから、 ラルフがリーダーを務めるストリートコートへ向かった。
本当は一人で決着をつけようとしたのだが、 ジャンの名前に反応して、
ついて行くと言って聞かない人間が同行している。 ノーラである。
危険だというだけでは彼女を納得させる理由には至らず、 結局、 根負けする形で連れてきてしまった。
ざっと見渡した限りでは、 メンバーの数も雰囲気も 『ジャックストリート・コート』 と変わらなかった。
丸太こそないが、 貧乏臭い一面だけのコートも、 汚らしいペイントも、 物騒なところまで同じである。
中へ入ると、 ラルフが 「待ちくたびれた」 と言わんばかりに大きく伸びをして、
勿体ぶるようなスローペースで近づいてきた。
待ちわびたわりには彼の動作は遅く、 明らかに不機嫌さを訴えている。
「小僧、 この俺を待たせるとは大した度胸だな?
俺に呼びつけられた奴は、 大抵すっ飛んで来るんだが……?」
「『仕事が終わり次第』 と言ったはずだ。
それにオレは小僧じゃない。 トオルという名前がある」
「減らず口は西のリーダーの特技か?
ジャンの奴も口だけは達者だったからな」
「アンタ一体、 ジャンとはどういう……」
トオルの言葉を遮るようにラルフが決闘の内容を言い渡した。
「勝負はサービス・ファイトで決める」

「サービス・ファイト?」
それはトオルが初めて聞く決闘のやり方だった。
「早い話が、 サービス一本勝負。
お互い交代で一本ずつサーブを打ち込んで、 先に相手からサービスエースを奪った方が勝ちだ。
無論、 フォルトも リターンがアウトした場合も負けになる。
ラリーのないサービスとリターンだけの勝負だ。 シンプルだろ?」
「条件は?」
「負けた奴は、 次の決闘まで 『下手クソ』 と呼ばれ続ける」
「はぁ?」
「聞こえなかったのか? 小僧が負ければ、 今度俺に勝つまで 『下手クソ』 と呼ばれる」
トオルが聞き返したのは、 決して耳が遠くなったからではない。
あまりに幼稚な条件を真顔で説明された為に、 正気かどうか確認したくなったのだ。
しかし、よくよく考えてみれば 、いかにもジャンが好みそうな条件である。
自分のプレイに誇りを持ち、馬鹿にされる事が大嫌いで、 く だらない勝負でも熱くなる。
それが 『ジャン・ブレイザー』 という男である。

トオルは心の中で溜め息をついた。
正直、 馬鹿馬鹿しいとも思った。
『ブレイザー・サーブ』 を習得した今なら、 最初の一本目で片が付く。
おまけにアメリカ大陸の東と西、 両端に分かれた距離では、
万一負けて 『下手クソ』 と呼ばれても、どうという事はない。
「最初のサーブ権はどっちにある?
挑戦者か、 それともトスで決めるのか?」
自ら発した質問の返事を待たずして、 トオルはベースライン付近にポジションを置いた。
このやる気の無い行動が癇に障ったらしく、 返って来たのは聞きもしない問いの答えだった。
「前回の決闘で、 アイツは俺に負けている」
「なんだって? まさか、 あのジャンが?」
サーブには絶対的な自信を持っていたジャンが負けた。
信じられない話だが、 もしこれが事実なら 「サービス・ファイト」 は思った以上にレベルの高い勝負という事になる。
そして 「東の最強」 と豪語するリーダーの実力も。
「前リーダーの汚名を返上してやりたいと思わないか、 小僧?」
堀の深いラルフの顔から表情を読み取ることは出来ない。
しかし奥に潜んだ瞳に光が差したのは、 トオルの位置からも窺 (うかが) えた。
楽屋で感じた緊張が甦り、 全身に訴えかけてきた。 やはり彼は本物だと。

トオルはもう一度深く溜め息をついた。
だが今度は覚悟を決める為のものだった。
どうやら本気でこの勝負に挑まなければならないようだ。
尊敬するジャンが汚名を着せられたままでいる。
しかも、 負けっぱなしで終わらせた責任の一端は自分にあるのだから。
溜め息を吐き終えると同時に、 小さな種火が燃え出した。
闘争心という名の炎である。
背中から鉄製のラケットを引き抜くと、 トオルはラルフに向って突きつけた。
「オレは 『下手クソ』 と呼ばれるよりも、 『小僧』 と呼ばれるのが何より腹が立つ。
おっさん、 オレが勝ったら 『小僧』 は止めろよな?」
「ああ、 約束してやる。 ただし俺が勝ったら 『下手クソな小僧』 と呼んでやる」
「一発で決めるから覚悟しな」
「ほう……上等だ」
東と西のリーダー対決が始まった。

サーブの順番を決めるため、 ラルフがラケットを回した。
裏か表か。 倒れたラケット面を言い当てる事によりサーブ権を得る 「トス」 という方法である。
「悪いな、 小僧。 俺の先攻だ」
「悪いな」 と言いつつ悪びれる様子もなく、 ラルフが不敵な笑みを携えサーブの体勢に入った。
サービス・ファイト ―― 文字通り、 ラリーのないサービスだけの勝負。
コートで構えてみて、 初めてこの決闘の難しさを実感した。
現時点で分かっているのは、 縦が約6m、 横4mの限られたスペースの中に、
相手からのサーブが打ち込まれるという事実だけ。
例えそれがどんな球種であろうとも、 確実に返さなければならない。
ラリーで相手の力量を測る機会もなければ、 癖や弱点を探る暇もない。
瞬時に判断して返さなければ、 ミスした時点で敗者となるのだ。
いつものサービスエリアが、 やたらと広く感じる。
待った無しの一本勝負。
それは瞬発力や技術もさる事ながら、 最も度胸を試される勝負だった。

巨体のラルフから、 滑らかな軌道を描くサーブが放たれた。
てっきり長身を活かした高速サーブと思っていたが、 彼から繰り出されたのは、
外側に大きく反れるスライスサーブである。
持ち前の反射神経を駆使して追いついたものの、 不意を突かれた格好での返球は、
とてもリターンとは呼べない甘い球だった。
通常の試合なら間違いなくチャンスボールとして叩き込まれている。
だが、 返した事には変わりはない。 次はトオルの番である。
「度肝抜くんじゃねエぞ、 おっさん!」
相手にプレッシャーを与えてみるが、 百戦錬磨のリーダーには通用しないらくしく、
憎らしいほど平然と構えている。
それに反して、 トオルはサーブに集中するだけで精一杯だった。
まずはボールを三回バウンドさせる。
単なる癖だが、 三回バウンドさせた後が一番タイミング良くボールを上げられるような気がして、
大事な場面では必ず行う儀式として定着したものだ。
この儀式を行ってから、 前方へトスを上げ、 それと同時にラケットを勢いよく振り下ろした。
全ていつも通りの手順を踏んで、 寸部の狂いもない ―― つまりベストな状態で 『ブレイザー・サーブ』 を
送り込んだはずなのに、 振り切った直後には、 トオルの背後でボールのバウンドする音が聞こえた。
「オレのサーブを、 一発で返しただと?」
トオルのリターン同様甘いボールではあるが、 ラルフは決め球となるサーブを一度で返してきた。
「こんなサーブでいちいち肝抜かしていたら、 ここのリーダーは務まらない」
驚きを隠す風でもなく、 堀の深い顔立ちのせいでもなく、 全く表情を崩さずラルフは言ってのけた。
何事も無かったかのように。 いや、 彼の基準では何事も無かったのだ。
渾身の一撃を返され、 トオルは言いようのない焦りを感じた。
「『ブレイザー・サーブ』 が通用しないなんて……」
自らを 「最強」 と豪語する東のリーダー。
ジャンを負かしたと言うのは、 嘘ではないらしい。

選択肢の少ない勝負ほど、 緊張が高まる場合がある。
いく通りもの攻撃パターンが生まれる長い試合より、 単純に一度のサーブで決まる勝負の方が、
わずかなミスも許されないだけ緊張する。
人よりは度胸があると自覚していたトオルだが、 初めて経験する一本勝負のプレッシャーに押され、
背中がじっとりと汗ばんできた。
ラルフがスタンバイに入った。
あの長身から繰り出されるスライスサーブは、 見た目以上にキレがある。
更なる回転を予想してサイドに寄ろうとした直後に、 何かがおかしいと感じて、 かろうじて思い留まった。
「違う……あれは、 ボディに来る!」
これまで多くのトリッキープレイを見てきた経験と、 後はストリートコートで培われた勝負に対する勘が働いたのだ。
案の定、 スライスサーブと見せかけてラルフが放ったボールは、 フラットサーブだった。
まさに危機一髪のところでラケットを合わせ返したものの、 これによって崖っぷちへ追い詰められてしまった。
一発勝負と言われて、 トオルは初めから最も威力のある球種を選んで、 この決闘に挑んだ。
それに対してラルフはスライス、 フラットと徐々にサーブの強度を高めることで、
攻撃パターンの選択肢を広げていったのだ。
二種類のサーブを見せられた事により、 受ける側には様々な憶測が生まれる。
次はもっと強烈な高速サーブが来るかもしれない。
或いは、 意表を突くスピン系のサーブかと。
サービス・ファイト経験者ならではの思慮深さである。
最初から切り札を出したトオルには、 もう選択の余地がない。
今更緩いスライスサーブを放ったとしても、 向こうのサーブ権を増やすだけで、 何の意味もなさないからだ。
この勝負を制する為に残された方法はただ一つ。
相手の目がスピードに慣れる前に、 最も完成度の高い 『ブレイザー・サーブ』 で決着をつけるしかない。
次のサーブが、 この勝負の一番の山場となるはずだ。

「悪い、 ちょっとタイム……」
背中に流れる汗がどうにも気になって、 トオルはラルフに断りを入れてから、 一旦コートを離れた。
ジャケットを脱ぎ荷物の上に置こうとしたところへ、 入口付近で待機していたノーラが駆け寄ってきた。
「トオル? そのジャケット、 私に預からせて」
「えっ? いいのか?」
「遠慮しないで」
「遠慮じゃなくて……ノーラは、 だいじょうぶなのか?」
トオルが渡すのを躊躇ったのは、 遠慮などという他人行儀な理由ではなく、
同じ傷を持つ仲間としての配慮からだった。
実際にジャンが愛用していた思い出の品を手にする事で、 本人の意思とは関係なく、
また涙してしまうのではないだろうか。
数日前の夜、 ホテルの中庭での光景が頭をかすめた。
ところが、 そんな心配をよそに彼女は強制的にジャケットをもぎ取ると、 くるりと背を向け入り口の方へ戻っていく。
「緊張に勝てるのは、 闘争心だって……」
両腕にしっかりとジャケットを抱えたままで、 ノーラが日本語で喋り始めた。
背を向けているが、 日本語を話すという事は、 これは紛れもなく トオルへの助言である。
「アイツが言っていたわ。
『人は誰でも緊張するけど、 その緊張を生み出すのが自分自身だと、 気付く奴は少ない。
自らが生み出した緊張なら、 叩き潰すのは簡単なこと。
心を燃やせばいいだけだ』 って。
モデルに闘争心なんか必要ないと思って聞き流していたけど、 何かの役に立つかしら?」
そう言って振り返った彼女の目尻に、 薄っすらと光る物が見えた。
だが、 きつく結ばれた口の端はわずかに上がっている。
亡き恋人の汚名を返上しようと、 必死になって強敵に立ち向かうトオルに対し、
彼女は胸に仕舞いかけた記憶の中から、 最も相応しい言葉を取り出し聞かせてくれたのだ。
「ああ、 すっげエ役に立った。 サンキュー、 ノーラ。
おかげでオレも、 大事なことを思い出した」
トオルの口元も彼女と同様の形を見せた。
思い出が連れて来る切なさよりも、 偉大な男を語れる誇らしさの方が勝った時の笑みだった。
「今のオレは何をやってもジャンには適わないけど、 一つだけ……
負けず嫌いに関しては、 オレの方が上なんだ」

再びコートに戻ったトオルは、 ボールを三回バウンドさせた。
一球入魂 ―― この言葉は、 こういう場面で使うのだろう。
今目の前にあるボールに魂を込める。
己が生み出した緊張を打ち砕くほど強く燃やした魂を。
時間が止まった。 音が消えた。 余計なものが目に入らなくなった。
まず左手に全神経が集中し、 ボールがベストな状態で上がるのを確認しながら、
右腕は 「ここぞ」 という一瞬を待ち構えていた。
ラケットとボールが触れ合う瞬間。 それはまさに魂を叩き込んだ瞬間でもあった。
全てのタイミングを正確に捉えたサーブは、 トオルがラケットを振り切るのと同時進行で、
相手の足元をすり抜けていく。
サーブに集中し過ぎて、 初めは分からなかった。
自分の放ったボールがフェンスを激しく揺らす音。
周りのヤンキー達が、 驚きと共に漏らした溜め息。
「すげ……あのラルフが一歩も動けなかった……」
遮断されていた音や視覚が元に戻ることで、 ようやく理解した。
今の一球が、 リーダー対決の決着をつけるサービスエースになったのだと。

「見事なサーブだ、 トオル。
アイツが乗り移ったようなフォームだった」
試合前と打って変わって、 目を細めて負けを認めるラルフの態度に、 トオルは戸惑った
「おっさん、 いや……ラルフは、 どういう関係なんだ?
敵なのか? それとも友達なのか?」
「両方であって、 どちらでもない。
ジャンとはプロ時代からのライバルだ」
「何だって!?」
二重の驚きが、 素っ頓狂な叫び声となって、 コート中に響き渡った。
会った時から只者ではないと思っていたが、 まさか決闘の相手が元・プロだったとは。
しかもジャンとライバル関係にあったという事は、 本人が言う通り正真正銘 「最強」 である。
「ライバルと言っても、 俺達は別に仲が良いとか悪いとか、 そういう次元の付き合いじゃなかった。
ただお互いにライバルである事を楽しむ関係だった」
「ライバルを楽しむ関係?」
「そうだ。 プロ時代は試合数で競い、 勝利数でも競い、 もちろんランキングや稼いだ賞金の額でも競ったし、
オフの時は酒量でも女の数でも、 何かにつけて競い合った。
アイツがいるから争う。 理由はそれだけだった。
だからジャンがプロを辞めたと聞いた時は、 迷わず俺も辞めた。
アイツを倒すことが生き甲斐だったから。 そう思っていたからな」

ごく自然に昔を振り返るラルフを、 トオルは凝視した。
プロになる道のりを考えただけでも大変な努力を要したはずなのに、
それをライバルが辞めたという理由で簡単に捨てられるものだろうか。
凡人にはおよそ想像のつかない独自の価値観について行けず、
表情の変化を追うしか話を理解する方法がなかったのだ。
「ストリートコートのリーダーになってからも、 俺達の勝負は続いた。
『サービス・ファイト』 もその一つだった」
ライバル、 勝負、 争う、 競う。 この類の言葉を口にする度、 ラルフの堀の深い顔がくしゃくしゃと崩れ、
子供染みた笑顔が現れる。
ジャンが夢を語る時に見せた笑顔に、 よく似ていた。
「一昨年のクリスマスホリデーにジャンが来た時、 俺は久しぶりに嬉しかった。
『下手クソ』 と呼ばれて悔しがる奴を見て、 最高の気分だった。
ところが去年アイツが死んだと聞かされて、 急に気分が悪くなった。
ジャンの敗北で終わった事が、 無性に腹立たしくてな。
そこで、 やっと気がついた。
俺は奴を倒す為に戦ってきたんじゃない。 奴と競い合うのが楽しくて、 戦っていたんだとな。
だからジャンには、 俺の先を歩いていて欲しかった。
永遠にいなくなるなら、 尚更……」

ラルフの視線がコートへ移った。
今しがた 『サービス・ファイト』で 戦ったコートを愛おしげに見つめた後、 今度はその視線をトオルに覆い被せた。
「トオル……オマエは昔のジャンにそっくりだ」
「オレが?」
「技術的には未熟な部分が目立つが、 度胸と言い、 勘の良さと言い、 奴と同じ強みを持っている。
特にすぐ熱くなる……それも他人の為に熱くなれるところがな」
「そんな事……あるか?」
否定しかけた言葉が、 汚名返上の為に戦った経緯を思い出し、 妙な疑問形として宙に浮いた。
「本当はオマエとは初対面じゃない。
初めて会ったのは一年前だ」
「一年前? どこで?」
「オマエは知らないはずだ。
ジャンがチャンフィーにやられたと聞いて、 俺は敵を討つつもりで 『ジャックストリート・コート』 へ向かったんだ。
場合によっては刺し違える覚悟で」
殺気を押さえたラルフの語気から、 それが冗談ではないと悟った。
「だけど駆けつけてみたら、 赤いジャケットを着たオマエが、 丸太の上で消火器を片手に暴れまわっていた。
俺とジャンはどっちが先に原石を見つけるかでも争っていたから、 一目見てすぐに分かった。
ああ、 コイツがジャンの自慢していた原石だってな」
恐らく トオルがビー達と共にコートを奪回しようと乗り込んだ時の話だろう。
騒ぎを聞きつけ集まった野次馬の中に、 ラルフも紛れていたらしい。

「トオル、 オマエは先を行け。
俺よりも、 ジャンよりも、 もっと先を進め。 いいな?」
最強と豪語する男からの言葉は、 命令でも、 説得でもなく、 悲しくも切なる願いに聞こえた。
プロとして戦いの中に身を投じてきたラルフ。
本当は彼が一番戦う理由を欲していたのかもしれない。
誰かの為に熱くなれるジャンと出会った事で、 賞金や、 ランキングや、 ステイタスの為ではなく、
己の信念によって戦うプレイヤーが、 最も強いと気付かされたのだろう。
彼が戦う理由はただ一つ。 そんなジャンを倒す事だった。
愛おしげに見つめるラルフの視線をふいと交わすと、 トオルは敢えて反抗的な態度を取った。
「余計なお世話だ。 アンタに言われなくても、 オレはいつかジャンを越えると決めてんだ。
それより自分の事を心配した方がいいぜ。
来年の夏には日本へ帰るつもりだから、 早めにリベンジしに来ないしないと、
永遠に 『下手クソ』 って呼ばれるぞ。 いいのか?」
「なにッ!?」
「だって、 そういう約束だろ?
負けたんだから、 今度はアンタが 『ジャックストリート・コート』 まで来いよな。
たっぷり歓迎してやるぜ、 『下手クソ』 なおっさん!」
見事な悪態ぶりに、 しばらく唖然としたラルフだったが、
それがジャンと同じく相手を気遣うための憎まれ口だと分かると、 急にいやらしい目つきに変わった。
「まったく性格の悪いところまで瓜二つか?
その調子じゃ、 女癖の悪さも相当なものだろ?」
ラルフの視線が入口へ向かったところを見ると、 彼はノーラが トオルの彼女だと勘違いしているらしい。

「ち、 違うって。 彼女はジャンの……」
慌てて否定しようとしたトオルよりも早く、 入口で待機していたはずのノーラが畳み掛けてきた。
「あら、 そんなにジャンって女癖悪かったの?」
「ああ、 悪いというより、 ありゃ病気だな。
ジャンがニューヨークへ来た時は、 いつも朝っぱらから5セットの試合をして、
その後夕方まで飲み比べて、 夜は一晩に何人の女を口説けるかで勝負した。
俺は飲んでいる最中にヘロヘロだったが、 アイツは夜になる程強かった。
奴の一晩で15人の記録は、 いまだ破られていないぜ」
自慢げに語るラルフの隣で、 トオルは 「最低のオヤジ達だ」 と思った。
無論 「達」 の中にはジャンも含まれているのだが、 ノーラの眉間に刻まれた皺を見て言うのを我慢した。
「それじゃあ、 ラルフ?
東西のリーダー対決も決着がついたことだし、 今度は私とお手合わせ願おうかしら?
アナタ達の武勇伝に、 とっても興味があるのだけど」
じりじりと詰め寄る彼女の態度から、 ようやくラルフはこの最悪の状況に気付いたらしい。
「おい、 トオル? もしかして、 彼女は……?」
最強と恐れられている東のリーダーも、 彼氏の浮気を知った恋人の剣幕には適わないのか、
巨体が縮み上がっている。
ライバルの、 しかも故人の浮気にもかかわらず、 気の毒なラルフはこれから元・恋人によって、
夜通し絞られるに違いない。
「どうぞ、 ごゆっくり。 ここから先は、 大人の時間って事で……」
二人を見送るトオルに向かって、 ノーラが一旦振り返り ウィンクをして見せた。
「まったく最低よね。 あんな男、 別れて正解だったわ!」
それから口の端を思いっきり上げて、 満面の笑みと共に付け足した。
「でも、 出会ったことも正解。
だって、 こんなにいい男達に巡り合えたんだもの」
ラルフを強制連行する逞しい後姿を目で追いながら、 トオルは 「最強」 の称号は
「最高の女」 にこそ相応しいと確信したのだった。




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