第 50 話 別離の前に

カーメル



出口を目指して突っ走っている時よりも、 いざ出ようとして
立ち止まった時の方が、 ひどく不安に駆られる事がある。
このまま先を進んで良いのだろうか。
何かやり残した事があるのではないか。
例え置いていくしかない思い出だと分かっていても、
後に残してきたものが手放してはいけない宝物のような気がして、
何度も足跡を振り返る。
光が示す方向とは反対の過去に向かって。
しかしながら、 この不安は後悔と同じ作用を及ぼすわけではない。
今まで走ってきた道筋を見つめ直す ―― それは羽ばたく直前で踏み切る土台の強度を確かめる作業にも似て、
次のステージへステップアップしようとする者には、 いつしか自信の裏づけへと変化するものだから。

「最後の仕事なのに、 何だか元気がないわね」
マニュアル通りしっかりと、 十時十分の位置でハンドルを握り締めるシェリー。
彼女はあまり車の運転が得意ではないと見えて、 助手席に座るトオルを気遣いながらも、
対向車のまばらな前方から目を離せずにいる。
「ああ、 悪い。 考え事していて……」
「どうせトオルの頭を悩ませる問題と言えば、 テニスの事でしょうけど。
その顔は、 ストリートコートで トラブルでもあった?」
「うん。 次のリーダーの事で、 ちょっと……」
サンフランシスコからカーメルへ向かう曲がりくねった海岸線をひた走る車は、
紺碧の海だけでなく、 時に豊かな緑を、 時に荒々しい岩場を、 一つの芸術品として魅せてくれる。
だが残念なことに、 トオルには風光明媚と称される景色に気を配る余裕がなかった。
昨日ジェイクから言われた一言が頭から離れない。

「裏切り者……」

「もう、 せっかくドライブを楽しめると思ったのに」
普段は大人の態度で接するシェリーが、 珍しく拗ねて見せた。
帰国を間近に控えたトオルの為に一つでも多く心に残る景色を見せようと、
滅多に乗らない車を出したにもかかわらず、 当の本人は道中ずっと小難しい顔で車窓を睨んでいるのだから
無理もない。
「ごめん……今は忘れる事にする。
シェリーとの最後の仕事だからな」
海から吹き上げられた風を深く吸い込むと、 トオルは一息で吐き出した。
ジェイクの事は気になるが、 別れをしなければならない相手は、 まだ他にもいる。
隣でハンドルと悪戦苦闘しているシェリーもその一人である。
今回の仕事は、 トオルの夢が叶うと聞いて、 彼女が滞在費の足しにと持って来てくれたものだった。
夏に販売されるボディローションのプロモーションで、 ポスターに使用する写真を撮影する為のロケである。
シーズン前に水着姿になるモデルと違って、 裏方は普段通りの仕事内容だと言うのに、
ロケと名が付くだけで高額の報酬がもらえる。
「夢を追いかける同志として、 トオルには頑張って欲しいから」
そう言ってくれる彼女だからこそ、 今は仕事に集中して、 きちんと役目を果たさなければならない。
それが礼儀であり、 自分なりの別れ方だと思った。

アメリカに来た当初は、 この国が嫌で仕方がなかった。
『自由の国』 とは名ばかりで、 実際には白人か権力のある者にしか自由は与えられず、
力のない者は差別を受け入れるしかない現実。
ここから脱出できたら、 どんなに幸せかと毎日のように願っていた。
ところが長く暮らしていくうちに、 多くの人達との出会いを通して、 考えが変わった。
今まで対象とされなかっただけで、 差別はどこにでも存在する。
アメリカでも、日本でも、 世界中至る所に転がっている。
この理不尽な現実を受け入れた上で、 圧力を跳ね返すだけの強さと信念を持てるかどうか。
力だけでは凶器となり、 信念だけでは単なる理想論で終わってしまう。
両方を手に入れる事の大切さと難しさ。 これを未熟なトオルに教えてくれたのも、 またアメリカだった。
今回帰国するにあたり、 驚くほど多くの人達と切ない別れを強いられ、 いかに恵まれた日常にいたかを
思い知らされた。
泣きながら去った光陵学園と比べ、 等価と呼べるぐらいに。
ここで出会った掛け替えのない仲間達。
夢を形にする為に、 一緒になって応援してくれたこのシェリーも。
そして今から向かうカーメルでのロケが、 彼女との最後の仕事になるのだ。

「今回のカメラマンは典型的な芸術家肌だから、 色々無茶を言われると思うけど気にしないでね」
シェリーが事前にアドバイスをくれた。
春先のまだ肌寒い時期に水着の撮影をすること自体、 トオルにはムチャクチャに思えるのだが、
それに輪をかけて無茶を言うカメラマンが、 今回の撮影隊の指揮官らしい。
「だいじょうぶ。 オレはいつも通り精一杯やるだけだから」
「ありがとう。 トオルはそう言ってくれると思っていたわ」
助手席からは横顔しか見えなかったが、 シェリーが今の答えに安堵して、
プロのモデルの顔つきに戻ったのが分かった。
報酬をもらう限りは、 いかなる理由があろうとも最高の仕事を追い求める。
彼女の流儀にならって、 トオルもロケに意識を集中させた。

「到着したわよ」
長時間の運転を終えたシェリーは、 目的地のホテルに着くと同時にチェックインを済ませ、
さっさと部屋へ入っていった。
一緒に仕事をして半年も経てば、 いちいち言われなくてもパートナーの行動は理解できる。
プロ意識の高い彼女は、 明日の撮影までに体調を整えておきたいのだろう。
ゆっくりと休息を取って欲しいとの気遣いから、 トオルは一人で街中を散策する事にした。
今回のロケの拠点となるカーメルは、 まるで絵本の中から飛び出してきたような色彩豊かな街だった。
至る所に花と緑が溢れ、 芸術の街と言われるだけあって、 無機質なものが一つもない。
街の景観を損なうとの理由で看板すら規制されているのだから、
初めて訪れた者は、 現実へ引き戻される事なく童話の世界へワープしてしまう。
近代化に成功し、 更なる発展を遂げようとする国の中に、 こうした伝統的な美を主張する街が混在している。
異なるもの同士、 引き合う力が対等であれば存在する事を認められる。
これもアメリカという国の魅力の一つだと思った。

どこか懐かしい感じがする街並みは、 コンクリート漬けのリーダーの心を難なく解放した。
それと同時に、 忘れる事にしたはずのジェイクの言葉が再び頭に甦る。
「裏切り者……トオルが リーダーだったから、 仲間になったのに」
きつく唇を噛み締め、 真っすぐ自分を睨みつけるジェイクは、 トオルが渡米すると知った時のハルキとよく似ていた。
オマエと一緒に全国へいくつもりだったのに ―― そう言って、 ハルキは友に裏切られた悲しみをぶつけてきた。
ジェイクも同じ気持ちだったに違いない。
いつかは別れが来ると分かっていても、 孤独を知ったばかりの彼は、 その中で出会った仲間の旅立ちを
受け入れる余裕がなかった。
他のメンバーが リーダーの帰国を喜んでも、 彼だけは表情を硬くしたままだった。
「トオルが抜けるなら、 俺がここにいる意味はない」
こんな捨て台詞を残して、 トオルが帰国の意思を伝えた直後に、 ジェイクは 『ジャックストリート・コート』 を
去っていった。
本当は彼に次のリーダーを任せるつもりでいた。
現在幹部役を務めるビーとレイは、 トオルを 「あるべき場所」 へ帰す為に残っているようなものである。
となると、 実力からしてジェイクが引き継ぐのが、 最も自然で安心できる体制だと考えていた。
だがそれは トオルの勝手な思い込みで、 本人はまだ現リーダーの卒業すら認めようとしてくれない。
新リーダーの重責もあるだろう。 かつての自分と同じように。
トオルは、 あえて彼がコートを去るのを止めなかった。
三年前の教訓があったから。

三年前。 ハルキに転校すると告げた時、 二人とも幼くて傷つける事しか出来なかった。
互いに感情をぶつけ合い、 詰 (なじ) り合い、 どちらかが耐えられなくなって場を離れるまで
怒鳴り合いは続いた。
結局その愚かな行為から得られたのは虚しさだけで、 解決とは程遠いところで
ただ呆然とライバルの涙を見つめた記憶がある。
しかし今は違う。
親愛なる友に、 自分が旅立つ理由を説明し、 納得してもらうだけの術はある。
精神的にも、 時間的にも。
余裕とまでは言えないが、 父親の転勤に振り回され慌てて旅立った三年前から比べれば、
人と向き合う事の大切さを知っているつもりだ。
不本意ながら放り込まれたアメリカで、 トオルは強さや信念だけでなく、
「互いを認め合う」 という大事な姿勢を身につけた。
自分の感情をぶつけるのではなく、 感情を見せずに拒絶するのでもなく。
まずは心を開いて、 分かり合う。
百パーセント理解出来なくてもいいから、 相手の事を知ろうとする。
百パーセント理解されなくてもいいから、 自分の事を知ってもらう努力をする。
この努力が、 異なる人間同士が生きていく上で非常に重要な事だと学んだ。
ロケが終わったら、 ジェイクときちんと話し合おう。
大切な仲間だと思うから。 大切な仲間達を、彼なら託せると思うから。
固い決意を胸にしまうと、 トオルも体を休める為にホテルへ戻った。

翌朝、 すっきりと晴れ渡った青空の下、 人気のない海岸でロケは行われた。
ポスターの撮影は、 こんなに時間のかかるものなのか。
たった一枚写真を写すだけの事なのに、 スタッフ一同、早朝からずっとスタンバイさせられたまま
半日が過ぎようとしている。
トオル達裏方は服を着ているからまだマシだが、 モデルのシェリーは
水着の上に薄手のガウン一枚で待機させられているのだ。
諦めムードの漂うスタッフの態度から、 待たされている理由は何となく察しがついた。
例のカメラマンである。
恐らく人の手ではどうにもならない、 例えば 「気分が乗らない」 とか 「何となくイメージと違う」 等の、
凡人には理解不能な抽象的な原因によるものに違いない。
「シェリー、 これ良かったら使ってくれ」
トオルは着ているジャケットを渡そうとした。
少しでも寒さを防げればと差し出した物だが、 彼女よりも先に手を伸ばした人物がいた。
「それ、 いいね……」
撮影時間を延ばしている張本人である。
「見せて……」
必要最小限の断りを入れてからジャケットを奪い取ると、 カメラマンは皮の光沢を確認している。
「これと、 素肌と、 サンセットと……」
隣のコーディネーターにしか聞こえないぐらいの小声は、 どうやら撮影の指示らしい。
「なあ、 シェリー? あのおっさん、 芸術家肌って言うよりも、 病気なんじゃねえの?」
朝からの行動を観察した上での、 トオルの結論だった。

初めは典型的な芸術家肌と言うから、 もっと奇抜な格好をしているかと思っていた。
派手なスーツに髭でも生やしてオーバーアクションを取りまくるというのが、
トオルの想像した 「芸術家肌のカメラマン」 である。
ところが実際に現れたのは、 どう見ても 「ただのおっさん」 で、
カメラの傍にいなければ裏方と間違えてしまうぐらい地味なオヤジだった。
しかし、 その平凡な外見とは対照的に、 行動は奇妙の一言に尽きる。
まず、 彼は喋らない。
率先して指示を出す立場にありながら、 ほとんど話をしない。
話すとしても、 面倒臭そうにボソボソと小声で呟くだけで、 会話に使うエネルギーを節約しているようにも見える。
よって半日近く待機させられているにもかかわらず、 誰も理由を知る者はなく、
ただ 「カメラマン待ち」 と言う以外謎のままだ。
しかも当の本人はぼんやりと空を見ているか、 カメラをいじるかのどちらかで、
その行動が トオルに 「病気ではないか」 と言わせた原因である。
そして、 この後カメラマンから飛び出した指示は、 更にそう確信させるものだった。

「そこの二人は脱いで」
「は……?」
聞き違いでなければ、 カメラマンは 「二人」 と言った。
その指先はシェリーとトオルを差している。
すでに水着姿のシェリーに、 また裏方であるトオルにも 「脱げ」 とは、 どういう事なのか。
これには本人を始め、 周りにいたスタッフも唖然とした。
中でもシェリーの事務所のマネージャーは、 我慢の限界とばかりにカメラマンに食ってかかった。
「いい加減にしてくれ!
低俗番組の撮影ならまだしも、 うちの大事なモデルに裸になれと言うのか!?」
今回のロケは大手化粧品会社の依頼により、 事前に契約書を交わした上での撮影で、
当然モデルが脱ぐなど契約にはない。
事務所側から訴えられても仕方がない非常識な発言を、 このカメラマンはしている。
ところが彼はマネージャーの抗議など何処吹く風で、 淡々と段取りを説明し始めた。
「今日のサンセットは絶対に魂の色になる。
それを彼女にかける……このジャケットに反射させて……」
相変わらずボソボソと呟くような話し方だが、 トオルには彼が皆を説得しているように聞こえた。
特に 「魂の色」 と言った時の表情は、 何処かで見覚えがある。
「おっさんは、 夕日から出る魂の色ってのを撮りたいのか?」
無意識のうちに、 トオルはカメラマンの言葉を皆に分かるよう、 通訳する立場に回っていた。
「そう」
「二人とも脱いだ方がいいのか?」
「撮りたいのはモデルの背中とジャケットだけ……それにはモデルを抱える役で、 ジャケットを着た人間が必要。
君がそのジャケット、 一番似合っているから」
話し方も行動も妙だが、 彼はいたって正気らしい。
「脱いで」 の指示も、 トオルを裏方だと知った上でのリクエストのようだ。
「具体的に、 どうすればいい?」
「君はその白いシャツを脱いで、 ジャケットを羽織る。
モデルの素肌より白い物は、 絶対に身につけないで。
夕日を受けたジャケットの赤と、 サンセットの赤に挟まれた、 背中の白を撮る」
つまり彼が写そうとしているのは、 ジャケットを羽織ったトオルと上半身裸のシェリーが夕日の中で抱き合う瞬間だ。
それを彼女の背後から撮影しようとしている。
夕日に照らされたジャケットを背にする事で、 彼女の素肌がより美しく浮かび上がるという主張だ。
まさにボディローションのコマーシャルに打って付けのカットになる。

トオルとシェリーは共に見合った。
トオルは、 背中しか写らないとは言え裸になる彼女を気遣って。
シェリーは、 アルバイトで連れてきた少年にモデルまがいの大役をさせる罪悪感から。
しかし二人の頭の中には、 ある共通の想いがあった。
これが最後の仕事になる。
「シェリー、 魂の色を見せてくれるらしいぜ」
「この仕事、 アナタにモデル料も払うようマネージャーに交渉してみるわ」
「だったら、 なおさら気合入れなきゃな」
「最後の仕事に相応しいわね」
二人の意思が決定したところでスタッフが動き出し、 初めは渋っていたモデル事務所のマネージャーも、
背中だけの撮影という条件で了解した。
トオルは中に着ていた白いシャツを脱ぎ、 代わりにスタイリストから妙にツヤツヤした黒のインナーを借りて、
ジャケットを羽織った。
最近流行りのメタリック素材のシャツだと説明されたが、 自分では絶対に選ばないコーディネートに、
遅ればせながら気恥ずかしさが襲ってきた。
それでも覚悟を決めてカメラの前に立ったのは、 さっき言われたカメラマンの一言が支えとなったからである。
「君がそのジャケット、 一番似合っているから」
ジャンから引き継いだ時は大き過ぎて 「着ぐるみ」 だと笑われた事もある。
それが今では 「一番似合う」 と言われたのだ。
確かに体が出来てきたせいか、 前よりもずっと皮が馴染んでいるように思う。
「少しはジャンに近づけたかも……」
己の成長を実感し、 この時トオルは少しばかり舞い上がっていたかもしれない。

カメラマンの指示では、 シャッターチャンスは夕日が沈む直前のほんの数秒間。
それも今日のような晴天でないと、 澄んだ光が差し込まないという。
その瞬間を捉える為に、 スタッフ全員が待機した。
先程までの気だるい雰囲気は、 どこにもない。
皆が 「魂の色」 をカメラに収める為に、 自分の持ち場でスタンバイした。
日が傾くに従って、 徐々に緊張感が高まっていく。
一瞬を捉えるには、 小さなミスも許されない。
ファインダーを覗く指揮官の仕草から、 アシスタントが全員に合図を送った。

先程まで灼熱のエネルギーを容赦なくぶつけていた太陽が、 水平線に向って帰り支度を始めた。
巨大なエネルギーの塊が一日の最後にくれたのは、 茜色に燃え盛る炎の片鱗。
「これを使って、闇夜をしのげ」 とでも言いたげに、 赤々と燃え上がる炎がベール状に広がり、
海岸線から駆け抜けてきた。
説明の際にカメラマンが 「サンセットをかける」 という言い方をしていた。
それは、 夕陽から放たれる光線がベールをかけたように辺り一面を朱色に塗り替える様を言い表していたのだ。
夕陽からの贈り物を身にまとい、 シェリーがゆっくりと歩き出した。
ほとばしる血の色にも似たそのベールは、 トオルのジャケットを同じ魂の色に染め上げながらも、
彼女の白い素肌を塗り替える事はしない。
最も効果的なライティングと言うのか、 本来の肌の白さを透き通らせるに留まっている。
皮のジャケットには反射するが、 人間の肌には反射しない光。
この微妙なタイミングをカメラマンは待っていた。
光を知り尽くした芸術家は、 赤い皮のジャケットを見た時から、 ずっとこの瞬間を狙っていたのだ。

「シェリー、 安心して。 ちゃんと支えるから」
トオルは両手を広げて待ち構えた。
それに応えるようにコクリと頷くと、 躊躇いもなくシェリーがガウンを脱ぎ捨て駆け寄ってきた。
魂の色を捉える一瞬の為に。
ところが――
「トオル?」
茜色に染められたのは、 ジャケットだけではなかった。
約束どおり抱えるには抱えたが、 それと同時に、 トオルの顔面もサンセットをかけた状態になっている。
見ようによっては本物の魂の色と言うべきか。
人間の体内を巡り、 時に激しく突き動かす血潮と言われる熱きもの。 世間的には鼻血と呼ぶ。
どうやら成熟したシェリーの裸体を見て、興奮してしまったらしい。
メーク担当が慌ててティッシュを持ってきてくれたが、 すでに遅かった。
一旦は手で押さえたものの、 ほとばしる熱き血潮に覆われ、 顔面だけでなくジャケットにも
その分身が滴り落ちている。
まさに上から魂色のベールをかけた状態だ。
「わ、 悪りィ……」
これは純情な少年からの精一杯の謝罪である。
最高の仕事をするつもりだったのに、 よりによって最低の失態を、 最悪のタイミングで演じてしまった。
「脱いで」 と言われた時よりも唖然とするスタッフ一同と、 心配そうに見守るシェリーと、
その彼女に急いでガウンを着せて被害を最小限に食い止めようとするスタイリストと。
トオル本人とティッシュを持ったメーク担当は血みどろで、 契約云々と息巻いていたマネージャーは
予期せぬ結末に頭を抱えている。
こんな騒ぎの中、 カメラマンだけがファインダー越しに笑みを浮かべていた。
「君、 赤似合うね……」

人間、 成長したと思った時程、 落とし穴が待っているものである。
この三年で確かにトオルは成長した。
だが伝説のプレイヤーに近づく為には、 あらゆる分野で点在するハードルを乗り越えなければならない。
赤く染まったティッシュを握り締め、 トオルは己の未熟さを思い知った。
ひょっとしたら 「精進を怠るな」 という、 ジャンからの最後の説教かもしれない。
暗くなった夜空には、 星が輝き出している。
無論、 沈んだ太陽から再び贈り物が届けられる事はなく、 モデルとしてのギャラを交渉する勇気もなく、
トオルに多くの事を教えてくれたアメリカでの最後のアルバイトは終了した。




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