第 9 話 ジャックストリート ・ コートの掟

ラビッシュキャッスル・イメージ



目的もなく歩き回るなど、 愚か者のすることだと思っていた。
しかし、 すぐに消え失せるはずの怒りは冷める気配もなく、
ゲイルは ダウンタウンの喧騒から抜けさせずにいた。
「あのガキ、 ナメたまねしやがって……」
ジャケットから煙草を取り出すと、せき立てられるように火をつけた。
コートを出るとき封を開けたパッケージの中身が、
もう残り数本もない。
勢いに任せて吸い続けたせいか、 やけに喉がいがらっぽい。
不快なことだらけだった。
安定剤代わりの煙草も、 気を紛らわせてくれるはずの人混みも。
今日に限って、 皆、 期待を裏切る。
「くそっ!」
いくら振り払っても、 あの忌々しいウエイトが頭から離れない。
突然コートに転がり込んできて、 一度でナンバー3まで登り詰めた少年のウエイトが。
そして、 それを言い当てたときのリーダーの横顔も。
ハッキリと言わなかったが、 ジャンは少年に秘められた本物の才能を見つけたのだろう。
あんな嬉しそうな顔は、 ここ数年見たことがない。

苛立ちの最大の原因は、 これだった。
いわゆる嫉妬である。
複雑な糸が絡み合う織物のような嫉妬心。
その材料はいくらでもあった。
十二歳にして危険区域に乗り込んできた少年の度胸。
たった半日で、 幹部達の心を掴んだ人好きのする性格。
秘めた才能とタフな精神力も。
中でもジャンが、 付き合いの長い自分よりも、 今日会ったばかりの人間に強く惹かれている。
この事実が核となった。
縦、 横、 斜めと交わり、 組み込まれていく紡糸たち。
こうして出来た精巧な織物は、 決して裂ける事がない上に、
一旦身につけてしまうと、 なかなか自分からは脱ぎ捨てられない。
「必ず追い出してやる……!」
空になった煙草のパッケージを握りつぶすと、 ゲイルは夜の闇へと消えていった――


「この店、 本当にメシ食わす気あるのか?」
歓迎会の名目でトオルが案内されたのは、 『ラビッシュ ・ キャッスル』 という奇妙な名前の酒場だった。
ラビッシュ (=RUBBISH) とはゴミ ・ がらくたという意味で、
それにキャッスルが続いているのだから、 直訳すると 「ゴミの城」 になる。
飲食店が掲げる名前にしては、 イメージが悪すぎる。
「 『ラビッシュ ・ キャッスル』 なんて……」
言いかけたトオルの口を、 慌ててビーが手でふさいだ。
「バカ! オーナーの前で、 キャッスルって言うな!」
イギリスびいきのオーナーは、 店の名前を 「キャッスル」 ではなく
「カースル」 と発音しなければ、 たちまち機嫌が悪くなるという。
「いいか、 カースルだ。 ラビッシュも、 あまり Rの音を強調するなよ」
ストリートコートでは暴れ放題のビーが、 イギリス流の発音を几帳面に指導してきた。

「一階はパブなんだけど、 二階に行けば、 一応食事の出来るレストランだから」
淡々と説明するレイに、 トオルは慌てて聞き返した。
「パ、 パブゥ?」
日本人の持つ怪しいイメージの店とは違い、 ここで言う 「パブ」 とは居酒屋のことだ。
「オーナーはアメリカ人だけど、 英国風家庭料理を売り物にしているんだ。
かなりマニアックなセンスらしいけど」
「らしいって?」
「俺は食べたことないから」
「なんで?」
「う〜ん、 見た目かな?」
「それって、 もしかして……?」
「あと、 匂いも」
「レイ……はっきりマズイって言ったらどうだ?」
「ジャンの行きつけの店だからね。
俺の口からは言えないよ」
イギリスびいきのアメリカ人が、 マズイ英国風料理を出す 「ゴミの城」。
偏屈な要素タップリのこの店が、 リーダーの行きつけと聞いて妙に納得した。
何しろジャンは、 トオルの年齢を知って笑い転げた挙句、 ナンバー3になれと言ってきた変わり者である。
「類は友を呼ぶ」 というのか、 偏屈なオーナーと変わり者のジャンは、 かなり親しい間柄に違いない。
それは、 オーナーを気遣うビーとレイの態度からも見て取れた。

まともな食事が出来るとは思えないが、 二人のおごりと言うので、
トオルは仕方なく 「ゴミの城」 の二階へ上がった。
昼から通しで試合を続けたせいで、 さすがに空腹の度合いも尋常ではない。
レイの言うとおり美味い料理はなかったが、 ラッキーなことに視覚や味覚よりも食欲の方が上だった。
人間、 死にそうになれば何でも食べられるというのは、 嘘ではないらしい。
それを強く実感したのは、 この店の名物 『キドニーパイ』 が出てきた時だ。
牛の腎臓を煮込んでパイで包んだイリギス料理で、 腐った肉を無理やりソースで誤魔化したような匂いがした。
本来なら真っ先に敬遠するはずの料理だが、 息を止めると味覚も落ちるらしく、
思ったよりも簡単に胃袋に収まってくれた。

食事をしながら、 三人の話題はリーダーの経歴に及んだ。
元 ・ プロの噂は本当だった。
ジャンは、 学生時代に類まれな才能を認められて、 プロチームへスカウトされたのだが、
デビュー戦のすぐ後で引退したそうだ。
よって、 プロとしての 「ジャン ・ ブレイザー」 を知る人間は、 ほとんどいないという。
「どうして、 引退したんだ?」
トオルの素朴な疑問に、 レイが肩をすくめた。
「チーム内のトラブルさ。
コーチから、 対戦相手を勝たせるよう指示を受けたのに、 わざと無視したんだって」
「それって八百長だよな?
プロの世界でもあるのか?」
徐々に怒りがこみ上げるトオルに反し、 よくある事と言いたげに、 レイは落ち着いている。
「プロの世界の方が多いんじゃないの?
よほど大きいスポンサーが付いているならともかく、 この辺りの弱小クラブが抱えるチームは、
そうでもしないと維持できないんだよ。 生活かかっているしね」
「 『非運の覇者』 って呼ばれているのは、 そのせいか?」
「いや、 クラブ側が事実を隠すために、 ジャンの引退は肘の故障が原因だと発表したんだ。
デビュー戦で優勝した直後だったから、 地元の人間が引退を惜しんで名づけたんだって」
話を聞いていくうちに、 トオルはジャンが金を賭けたがらない訳を理解していった。
実力がありながら、 チームの為に、 つまりは金の為に八百長を強いられた屈辱。
権力に屈せず勝ち抜いた結果、 認められるどころか、 引退に追いやられる羽目になった。
少ない経験でしか測ることはできないが、 テニス部を辞めただけでも自分を見失うほど悔しかったのだ。
プロになる道のりを考えれば、 その辛さは何倍もあっただろう。
『非運の覇者』 の伝説は、 本来なら 「悲運」 として語り継がれなければならなかった。

暗くなったテーブルに、 レイが新しい話題を提供した。
「ここで俺達、 よくゲイルの悪口で盛り上がるんだよな、 ビー?」
それを受けて、 ビーがゲイルの口真似をした。
「 『ナンバー3のオマエが逆らう理由はない』 って、 あの陰険野郎!
マジ、 ムカつくぜ!」
ピンク髪のビーが、 影のあるゲイルを真似るのが滑稽で、 トオルは思わず吹き出してしまった。
「トオルも、 そう思うだろ?
俺様、 こう見えても芸達者なんだぜ」
調子に乗ったビーの物真似大会が始まった。
「俺はここの連中を、 仲間だと思ったことは一度もない。 単なるフィルターだよ」
「貴様、 俺をコケにしやがって!」
「次はそのふざけたウエイト外して来い!」
さっきは心底ムカついた台詞も、 ビーの演技を通して聞くと、 飛びっきりのジョークになる。
今までもこの二人は、 ナンバー2の理不尽な言動を、 こうやって洗い流していたのだろう。
ビーの才能に感心しながら、 トオルは久しぶりに腹の底から笑った。

三人で散々笑って、 文字通りゲイルを 「コケにした」 後で、 ビーが真顔でトオルに忠告してきた。
「トオル。 ゲイルには気をつけろよ」
「ラフプレーの事か?」
「いや、 ジャンが 『本気で』 と言ったんだ。 もう、 ラフプレーはしないと思う。
だからこそ、 本気になったゲイルは手強いはずだ」
トオルにも、 言われた意味は分かる。
頭の中で、 彼の強烈なリターンが浮かび上がった。
「俺様も、 よく知らないんだけどさ。
ジャンとは付き合いが十年以上になるって言っていたから、
ゲイルも学生時代に、 同じテニス部にいたんじゃないかと思う」
その推測は正しいと思った。
プレーを見れば、 きちんと基礎を習った人間かどうか判断できる。
ゲイルのフォームに無駄はない。
コントロールも、 テクニックも、 ラフプレーを除けば申し分ない。
「ま、 俺様は何があっても、 トオルを応援しているからな!
それだけは覚えておけよ」
ピンクの髪を揺らしながら、 ビーは人懐っこい笑顔をトオルに向けた。

「へ〜え……可愛いじゃん」
さっきから静かだと思ったら、 レイが写真を手にしている。
財布にしまったはずの奈緒の写真だ。
「な、 なんでオマエがそれ持っているんだよッ!?」
「ビーがくれた」
悪びれた様子もなく、 レイがビーに写真を渡した。
「だろ? やっぱ日本女性ってのは、 神秘的でいいな」
同じくビーにも罪悪感はないらしく、 奈緒の姿を熱心に眺めている。
「だから、 なんでオレの写真がそこに……」
「だいじょうぶだって」
「何が、 だいじょうぶなんだよッ!?」
「俺様、 こう見えて日本びいきだから」
「意味分かんねえよ!」
「これが、 その証だ。 最高にクールだろ?」
ビーが自慢げに見せびらかしたのは、 「富士魂」 のタトゥーだった。
「クールって言うか、 それ……」
さすがに面と向かって 「日本語として間違っている」 とは言えなかった。
ペイントと違って、 タトゥーは消しようがない。
訂正したところで、 本人が落ち込むだけである。
答えに詰まるトオルの元へ、 財布ごと写真が戻ってきた。
「勝手に盗って悪かった。 実は昔、 レイと二人でスリのコンビ組んでいたんだ。
トオルみたいに無防備な奴見ると、 つい手が動いちまう」
「どうりで……全然気づかなかった」
「試合の後、 オマエの事ぶん殴るの忘れてた。
だから、 これでチャラって事でいいよな?」
「なんか、 うまく丸め込まれた気がするんだけど?」
「細かいこと気にすんなって!」

財布を盗られたのだから、 普通ならもっと怒るべきだろうが、
トオルは軽く睨んだだけで、 特に責めるような事はしなかった。
今は三人でいる心地良い空間を壊したくなかったのだ。
ビーとレイに共通して言えることだが、 彼等はトオルの過去について、 一切聞いてこない。
東京では、 仲良くなる為の儀式のように、 以前どんな生活をしていたか質問攻めにあった。
アメリカに来てからは、 個人主義が徹底しているのか質問はなかったが、
それでも苗字を名乗った段階で、 父親の話題が押し寄せてきた。
ところが、 この二人は過去や素性に関心を示さない。
恐らく、 お互いにロクな話にならないと知っているのだろう。
この程良いスタンスが、 居心地のいい空間を作リ出していた。
一ヵ月先のゲイルとの試合が終った後でも、 彼らとはずっと付き合っていける。
人種や立場に関係なく、 本音だけを見せ合える仲間として。
少しぐらいの悪戯は、 笑って許してやろう。
本気でそう考えていた。 翌日の午後までは。

次の日、 トオルがストリートコートに到着すると、 ビーとレイがコートの中を掃除させられていた。
昨日の話では、 コート掃除イコール罰当番だと教わった。
一体何をやらかしたのか不思議に思っていると、 丸太の上からデッキブラシが降ってきた。
「おい、 小僧。 おまえもだ!」
ジャンがいかにも不機嫌な顔をして、 こっちを睨みつけている。
「なんで、 オレ?」
「昨日、 オマエら勝手に飲み食いしただろうが。
俺のツケで!」
「昨日って……?」
どうやら 『ラビッシュ ・ キャッスル』 での歓迎会の話らしい。
あの二人が言った 「おごり」 とは、 「ジャンのおごり」 だったのか。
しかも本人に了解なく、 勝手に飲食代をツケにして、 トオルまでジャンの怒りの標的にされている。
「ちょっと待ってくれよ。
オレはコイツらが 『おごりだ』 って言うから……」
「食ったのか、 食ってねえのか、 どっちなんだ?」
「食ったけど……」
「だったら同罪だッ! さっさと掃除しろ!」
この勢いでは、 いくら言い訳をしても、 罪が重くなるだけだ。
そう判断したトオルは、 口を尖らせたまま掃除を始めた。
隣で首謀者二人は、 鼻歌交じりで作業している。
明らかに常習犯だ。
昨夜のクソまずい 『キドニーパイ』 を思い出し、 トオルは彼らとは早めに縁を切ろうと、 心に決めたのだった。

コンクリートのコートを掃除するのは、 初めての経験だが、 それほど大変な作業ではない。
だが、 洗い流す物を考えれば楽しくもなかった。
しっかりと地面にこびりついた茶褐色の痕跡。
そこは、 昨日トオルがスピンボールを浴びて倒れた場所である。
自分で自分の血を洗い流すのは、 思ったよりも屈辱的な行為だった。
ゲイルのボールを避けきれなかった汚点であり、 不甲斐なさの象徴。
一度地面に染みこんで乾いた血痕は、 こするだけでは落ちてくれそうにない。
ブラシを握る手にも、 つい力が入ってしまう。
「くそっ! あのドロップショットさえ、 うまく処理できていれば……」
悔しさをぶつけながら掃除を続けるトオルに、 メンバーの一人が声をかけてきた。
「トオル ・ マジマって、 オマエのことか?」
その声に反応して、 次々とメンバーの視線が自分に向けられるのを感じた。
やはり、 ここでも龍之介の名を知る人間は少なくない。
それにしても、 何故 「マジマ」 の苗字がわかったのか。
不思議に思って声のする方を振り返ると、 入口に立つテニス部のキャプテン ・ ケニーの姿があった。

「トオル……やっぱり、 噂は本当だったんだ」
落胆の色を浮かべるケニーの表情から、 トオルを心配して来てくれた事は察しがついた。
「君がここに入って行くのを見かけた部員がいて……
どうして、 こんなところに?
ここは君がいるべき場所じゃないだろ?」
透き通るような目で訴える彼に、 この現状をどう説明すればいいのか分からなかった。
話したところで、 分かってくれるとも思えなかった。
「テニス部の皆も待っているんだ。
君が作ってくれたトレーニングメニューがね、 そろそろ物足りなくなったって……」
「悪いけど」
自分でも驚くほど冷たい口調だった。
「悪いけど、 帰ってくれ。 もう関係ない」
「分かっているよ、 トオル。 本当は戻りたいんだろ?
俺からもミスター ・ アップルガースに頼んでみるから、 一緒にテニス部へ帰ろう」

テニス部に未練などないと思っていたのに。
ケニーの顔を見るまでは。
「お互いテニス部を思っての事なんだから、 ポリシーの違いは、 後でコーチと話し合えばいいじゃないか」
「ポリシーが違うって?
あの野郎、 そう言ったのか?」
そして、 未練だけでない事も気づかされた。
甦る苦い思い出。

「君が退部した後、 コーチに聞いたんだ。
そうしたら、 クラブのポリシーに合わないから出て行ったと……違うのかい?」
薄々感じていたことだが、 あくまでもアップルガースは八百長の事実を隠し通すつもりだ。
「いや……その通りだ」
不本意ながら、 トオルはでたらめな理由を肯定した。
そうでもしないと、 ケニーに事実を悟られる事になる。
出来ることなら、 純粋な彼には知って欲しくない。
半分は友人を思ってのことだが、 もう半分は、 排除された惨めな自分を知られたくないという気持ちもあった。
「トオル。 もうすぐ地区大会がある。
君のレギュラーは俺が責任を持って交渉するから、 戻ってきてくれないか?
俺たち、 一緒にテニス部を……」
「言ったはずだ。 アンタとは、 もう一緒に出来ないって。
これ以上の話し合いは無意味だ。 帰ってくれ」
なるべく早く、 この苦痛に満ちた会話を終らせたかった。
心の底では戻りたいと、 まだ切望する自分を見破られないうちに。
「トオル、 こんな所にいてはいけない。
君は、 うちのテニス部に必要な選手なんだ。
一緒に帰ろう」
フェンス越しに叫び続けるケニーの声に背を向けると、
トオルは出来るだけ大きな音を立てて、 ブラッシングを再開した。

プレイヤーとしてのプライドを守る為に、 封じ込めた本音をざっくりと掘り起こされた気分だった。
それはテニス部を辞めた直後よりも、 孤独な練習をひたすら続けた今の方が、より巨大な物と化している。
居場所のない不安。
相手のいないコートで、 返って来ないサーブを練習する虚しさ。
ボードを相手に打ち続ける孤独。
それらの感情がプライドを押し潰そうとする度に、 未練はないと必死で思い込もうとした。
黙ってブラッシングを続けるトオルに、 ケニーの説得が続けられた。
「一緒にテニス部を強くしようって誓ったじゃないか。
トオルとなら出来ると思ったのに。 みんな君のこと信じているのに。
どうして、 こんな所に……」
彼の放つ一言一言が、 体の芯まで響いてきた。
それでも聞こえないふりをするしかなかった。
自分の血で汚れたコートを洗いながら。

そこへ二人の様子を見かねたビーが、 ケニーの前に立ちはだかった。
「おい、 クソガキ!
さっきから黙って聞いてりゃ、 『こんな所』 って連発しやがって!」
「あ、 いや……そんなつもりじゃ……」
「あのな、 人にはそれぞれ似合いの場所ってのがあるんだよ。
トオルはもう、 俺様たちの仲間だ」
「まさか……嘘……だよね、 トオル?」
「俺様はガキと嘘が大嫌いなんだ!
ケガしたくなかったら、 とっとと帰れ! それとも、ぶっ飛ばされたいか!?」
決して誉められるやり方ではないが、 この時ばかりはビーに感謝した。
昨日のトオルの言動と、 今のケニーとの会話で、 彼は十二歳の少年が
何故ここを 「最後の砦」 と言わざるを得なかったのか、 大方見当がついたのだろう。
たぶんビーだけでなく、 リーダーも、 レイも、 周りにいたメンバーも。
現にケニーが去った後、 誰もトオルに話し掛けてこなかった。
彼らなりに距離を置くという方法で、 気遣ってくれている。
ただ一人を除いては――

「なるほどね。 真嶋教授の息子か……
どうりで小細工の利いたプレーをすると思ったぜ」
嫌味たっぷりの口調は、 顔を上げずともゲイルだと分かった。
「天才科学者のお坊ちゃまなら、 これからミスター ・ マジマって呼ばなきゃな。
それともジュニアの方が、 お気に召すか?」
しつこく絡むゲイルを、 トオルは完全に無視した。
昨日の試合で、 彼とは価値観が全く違う事を、 自分なりに悟ったからだ。
ところが、 その態度が更にゲイルを刺激した。
「貴様……俺を無視するとは、 いい度胸だ。
ナンバー2の話もろくに聞けない奴は、 コートから出て行け!」
「それはナンバー2としての指示か?」
「だったら、 どうした?」
険悪になりかけた雰囲気に、 またもビーが割り込んだ。
「まあ、 名前なんて分かればいいじゃん。
トオルはトオルで充分だし……」
そのビーをフォローしようと、 レイも続いた。
「そうそう、 ビーなんて本当はブライアンって言うんだぜ。
この顔でブライアンは、 笑っちゃうよな!」
「レイ! てめエ、 それは内緒だって、言っただろうがッ!」
「そうだっけ、 ブライアン?」
二人はわざとケンカになった振りをして、 場を和ませようと試みたが、 非情なゲイルに子供だましは通用しなかった。
「このガキの味方するなら、 貴様らも出て行け」

ここのルールでは、 ランクが上の人間の指示に従わなければならない。
しかし、 指示に従えば三人ともコートで練習が出来なくなる。
二人の巻き添えを避けるため、 トオルは込み上げる怒りを押さえながら、 ゲイルに頭を下げた。
あくまでも、 つもりである。
「この二人は関係ない。 オレがコートから出て行けば、 アンタの気が済むんだろ?
これ以上、大人げないことするな」
本人は頼んだつもりでも、 舌の方が正直に動いてしまった。
「貴様……!」
一瞬にしてトオルは胸倉をつかまれ、 ゲイルの頭上まで持ち上げられた。
最後の 「大人げない」 の部分が、 完全にナンバー2の怒りを爆発させたのだ。
「試合の前に、 殺してやろうか?」
サングラス越しにもかかわらず、 殺気立つ彼の目が脅しではない事を物語っている。
喉元を締め上げる力が次第に強くなり、 途中で止めるつもりがないと気づいた頃には、
足は地面につかず宙吊りにされていた。

そこへ丸太の上から、も う一人の救世主が話しかけてきた。
「おい、 小僧。 オマエがクラブ辞めた時、 きっちりケジメつけてきたんだろうな?」
相変わらず騒ぎに動じないリーダーの態度に、 渋々ゲイルの手が緩められた。
ナンバー1の質問をナンバー2が邪魔するわけにはいかない。
これもルールである。
「ケジメをつけるって?」
「ここでケジメと言えば、 コレのことだ」
そう言ってジャンは拳を出して見せた。
その仕草から 「ケジメをつける」 というのは殴るの意味で、 期待に満ちた彼の表情から、
やり返したのかどうかを聞きたがっている事も分かった。
「いや……」
トオルは敢えて、 期待を裏切るような答えを返した。
「小僧、 まさか黙って辞めてきたんじゃないだろうな?」
「いや……殴ったんじゃない。
コーチの顔面を、 蹴り飛ばして辞めてきた」
「やっぱりオマエは愉快な奴だ!」
コート内にリーダーの豪快な笑い声がこだました。
不思議なことに、 ジャンといると辛い経験も笑い飛ばせるような気がしてくる。
これが人間の器の差というものなのだろうか。
いつまでも人種差別に腹を立てている自分が、 ちっぽけな存在に思えてきた。
ジャックストリート ・ コート ―― ここはリーダーを始めとして、 皆が似たような傷を抱えて集まった場所。
そして、 その傷に触れることなく、 笑い飛ばそうとする仲間たちがいる。

「おっさん、 あそこのバックヤード、 ちょっと改造してもいいか?」
「ああ、 壊さなきゃ何してもいい。
好きに使え」
リーダーの了解を得たトオルは、 早速中に入って、 使えそうな材料を探した。
ゲイルの指示に従うなら、 ここしか練習場所はない。
二枚の壁打ちボードがあるだけの、 コートの裏側にあるバックヤード。
その広いスペースには、 鉄パイプ、 砂袋、 ポールといった資材の他に、
セメントや、 ペンキが無造作に置かれている。
「これだけあれば、充分だ」
トオルは目を輝かせると、 早速作業に取り掛かった。
「どこにいてもテニスの練習は出来る」
前に他校の先輩から教えられたことだ。
まずは二枚の壁打ちボードのうち、 一枚にコンクリートの塊をぶつけ表面をデコボコにした。
続いて周りに生えている木の枝に砂袋を提げ、 上げ下げ出来るようにした。
他にも輪切りにした丸太を並べたり、 木の根元をくり抜いたり、
アスレチックさながらの空間を一人で作り上げていった。
はじめは数人が遠巻きに見守っていただけだが、 次第に見物人が増え出した。
後ろで見守るメンバーの一人が聞いてきた。
「おい、 バックヤードで何を作っているんだ?」
それは、 ハルキの家に下宿したとき使って以来、 自分も筋力トレーニングのために欲しいと思っていた物だ。
ここは人数が多いわりには、 コートが一面しかなく、 メンバーの待ち時間が多過ぎる。
ちょうど、 地面にラインを引き終えたトオルが顔を上げた。
「トレーニングジムだ……ここのメンバー全員のな!」
白いペンキと一緒に、 トオルの頬には満足げな笑みが浮かんでいた。



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