第 10 話 指針
三年ぶりに訪れたストリートコートは、 何処もかしこも
変わらなかった。
公営の施設だけに変わりようがないと言えばそれまでだが、
簡素な外観を含め、 四面のコートから匂い立つ空気までもが
昔と同じである。
汗臭くて、 活気があって、 部活とは違う気楽さがある代わりに、
周りからライバル校の人間として敵視される事もある。
そんな解放感と緊張感の混ざった独特の雰囲気が、
階段を上がってすぐの、 敷地に入る随分手前から感じられた。
かつては自分もあの中にいたのかと思うと、
トオルは少し照れ臭かった。
中等部時代、 まだレギュラーどころかボールもまともに打たせてもらえず、
どこかプレーできる場所を探して辿り着いたのが、 このストリートコートだった。
試合のルールも知らずに勝負を挑んで、 海南の村主 (すぐり) を怒らせた事もある。
頂点に君臨するプレイヤーがどれ程強いか知りたくて、 明魁の京極に土下座までして挑戦した事もある。
当時を振り返ると恥ずかしい反面、 羨ましいとも思った。
何も背負う物がなく、 ただ前を向いて進んでいれば良かった、 あの頃。
レギュラーになれずとも、 テニスを存分に楽しんでいた日々が、 遠く輝いて見える。
階段から真っすぐ続く道に沿ってコートが四面。
基本的に、ここは来た順に好きな場所を使用して良い決まりだが、 暗黙のルールが一つだけ存在する。
夕方のある時刻を過ぎてから、 一番奥のコートへ入ってはならない。
何故なら、 そこは部活を終えた海南のテニス部員がこぞって集まり練習を開始する為に、
一般庶民 ――球拾いを中心に生活している戦力外の部員達―― では歯が立たず、
必然的に専用のコートと化すからである。
トオルが目指したのは、 その奥のコートだった。
「トオル……だよな?」
「伊達さん?」
昔と同じ場所で練習する海南メンバーの中で、 いち早く声をかけてきたのは二年の伊達だった。
「やっぱりそうか!
光陵のユニフォーム着て、 堂々とうちのコートに来る奴なんてオマエしかいないからな!」
「ご無沙汰しています。
帰国してからずっと挨拶に行こうと思っていたんですけど……」
「気にすんなって。 帰国早々レギュラーに抜擢されて、 忙しいんだろ?
色々噂は聞いているぜ」
「噂って?」
「光陵学園に転校して来たばかりの新人で、 いきなり日高ハルキを倒してレギュラー入りした天才がいるって。
この辺りじゃ、 オマエの噂で持ちきりだ。
中には、 唐沢さんがとんでもない秘密兵器をアメリカから呼んだって、 大騒ぎしている連中もいる」
「そんな秘密兵器だなんて。 どちらかと言えば、 今はお荷物で……」
「お荷物?」
「いえ、 何でもないです」
伊達からの追求を避けるようにして、 トオルは目を逸らした。
その唐沢からコートを追い出されたとは、 今さら言えるはずもない。
「えっと……村主さん、 いますか? 今日はお願いがあって来たんですけど」
光陵のレギュラーである以上は、 昔のように図々しく他校の練習に転がり込むわけにはいかない。
きちんと部長に話をつけてから見学させてもらうのが筋である。
もうすぐ始まる地区予選では、 この中の誰かと戦う可能性も大いにあり得るのだから。
程なくして、 村主が練習の区切りをつけて来てくれた。
「おう、 トオル! やっと戻ってきたか」
「はい。 戻ってきました、 やっと……」
久しぶりに再会した村主は、 熊を連想させる体格に拍車がかかったものの、
ストリートコートと同様、 何処もかしこも変わらなかった。
他校の後輩を快く迎えてくれる大らかな性格も、 体型にそぐわない人懐っこい笑顔も。
「これで、 三年前のオマエとの約束を果たせそうだな」
律儀な村主らしい歓迎の言葉だった。
その昔、 地区大会で出番が来る前にチームが敗れ、 引退を余儀なくされた村主を気の毒に思い、
咄嗟にトオルは 「高校生になったら、 同じ舞台で対決しよう」 と申し出た事がある。
相手の実力も考えずに発した素人の戯言だが、 彼はまだ覚えていてくれたのだ。
大切な約束として。
「今から考えると、 身の程知らずもいいとこですよね」
「何を気弱なことを言っている。 オマエらしくもない。
俺は楽しみに待っていたんだぞ。 どうだ、 一緒に打っていくか?」
「いえ、 今日は練習を見せていただきたくて。
いいですか?」
「それは構わないが、 見るだけでいいのか? 遠慮するなよ?」
「見せていただくだけで充分です」
「そうか? 打ちたくなったら、 いつでも声かけろよ」
歯切れの悪いトオルの口調から何かを察したらしく、 村主はそれ以上追及せずにコートへ戻っていった。
男女合わせて一面のコートしか使えない海南部員は、 練習不足を補うために、
学校で基礎トレーニングを終えた後、 ここへ来て実践に沿ったトレーニングを開始する。
彼等の練習は、 主にダブルス中心で行われるのが特徴だ。
これは一面のコートを有効活用する為でもあるが、 どのメンバーとでも即座にペアを組めるよう訓練する事で、
海南の弱点である選手層の薄さもカバー出来るという、 村主なりの工夫でもあった。
ちょうどトオルが見始めて十分程したところで、 ゲーム形式のパターン練習が開始された。
1ゲーム毎に手前側の前衛・後衛、反対側の前衛・後衛と、 それぞれのポジションをローテーションして回っている。
つまり一回りすれば、 二種類のペアと二パターンのポジションを経験する事になる。
トオルはじっと村主の動きに注目した。
彼は、 あの唐沢が一目置くほどの選手である。
必ず何か手がかりを見つけ出せるはず。
自分も練習に参加したつもりで、 トオルはコートの中に意識を集中させた。
村主の動きに無駄がないのは言うまでもないが、
彼の場合、 全て予測に沿って行動しているように見えた。
相手がボールを打ってから慌てて反応するトオルと違って、
事前に何処を攻められるか分かった上で動いているのだ。
一対一のシングルスならともかく、 四人も同時に動くダブルスで、 何故このような対処が出来るのか。
経験だけでは片付けられない、 何かコツがあるに違いない。
現時点で分かるのは、 まず彼はパートナーの行動範囲を計算に入れてボールを操作しているという事だ。
足の速い伊達と組めば守りを固める方に徹し、 ディフェンスが得意な石丸と組む時には、
積極的にネットについて攻撃している。
パートナーの力量に合わせ、 柔軟に自分の対応を変える。
これによってペアとしての実力を最大限に引き出すことが可能になり、
おのずと二人の間で最も有効な対処法を導き出せる。
部員一人ひとりの個性を熟知する村主ならではのプレーである。
一人ひとり、 パートナーに合わせて。
「そうか……」
不意に伊東兄弟との悪夢の試合が、 頭の中で再現された。
あの時、 トオルは敵の動きしか見ていなかった。
唐沢の足を引っ張らないようにと、 パートナーの動きも見ずに一人で突っ走った結果、
相手の思い通りに振り回されて自滅したのだ。
ダブルスの選手層が薄い光陵内部なら勝てるだろうが、 他所でこんなやり方が通用するはずがない。
現にダブルス慣れした伊東兄弟に、 そこを見抜かれ攻撃されたのだ。
「そうだったんだ……」
一つ一つ難解な謎が解けていくような感覚だった。
迷路の中から一旦飛び出して、 外から客観的に見直すことで、
何処でどう迷ったのか、 その全体像をしかりと把握できる。
二対二で戦うダブルスでは、 動きに注意するのは敵の二人だけではない。
常にパートナーの動きを視野に入れて、 プレーしなければならない。
あの試合でトオルは先輩のお荷物にならないようにと、 際どいボールは全て自分が処理するつもりで動きまくった。
唐沢が拾えるボールは任せればいい。
むしろ彼の実力を考えれば、 限界を超えるまで出しゃばる必要はなかったのだ。
自分の実力とパートナーの力量を頭に入れて、 最も効率的な戦い方を考える。
それには決められた行動範囲を守らなければ、 パートナーと連携してプレーする事は不可能である。
攻守共に、 二人がどう動くかの位置決め。
これをダブルスでは、 ポジショニングという。
試合中、 あえて唐沢が最低限の動きしか見せなかったのも、 トオルにこの事を気づかせようとしたからだ。
そしてコートから追い出したのも、 今の光陵ダブルスのレベルでは答えを見つけられないと判断したからである。
先輩から渡されたダブルスの解説書にも、 最重要項目として一番初めに書かれていたではないか。
当たり前の事だと読み流した結果、 窮地に立たされると敵の動きばかり気にかかり、 基本中の基本を忘れていた。
基本は最も重要だからこそ、 基本とされるのに。
解説書に記された多くのフォーメーションは、 あくまでもポジショニングを踏まえた上での最終的な形式に過ぎない。
ポジショニングを無視して、 いくら敵のフォーメーションに対応しようとしても無駄である。
あの試合の敗因は、 パートナーの動きを無視したトオル自身のプレーにあった。
答えを見つけた途端、 体がうずき出した。
この五日間コートから離れていたストレスもあって、 今まで抑えていた欲求が沸々と湧き上がってくる。
「村主さん、 オレも混ぜてもらっていいッスか?」
「もちろんだ。 やっとオマエらしくなったな」
「えっ? そんなに、 らしくなかったですか?
実は他の先輩にも 『らしくない』 って言われたんですけど……?」
千葉からも同じ事を言われたせいか、 「らしくない」 の言葉に思わず過敏に反応してしまう。
「まあ、 そうだろうな」
「オレ、 変わりましたか?」
トオルの問いかけに答えることなく、 村主は伊達と副部長の石丸を呼びつけ、 打ち合わせを始めた。
どうやら海南の主力メンバーを相手に、 練習試合をさせてくれるらしい。
懐かしい面々とプレーできる興奮と、 ストリートコートの空気が相まって、 胸が激しく高鳴るのを感じた。
久しぶりの躍動感だった。
勝敗よりも、 今は試してみたい。
自分で掴んだ答えが何処まで通用するのか、 ただ試してみたかった。
ところが逸る気持ちを急速冷凍させるような条件を、 村主が突きつけてきた。
「トオル、 オマエは脱げ」
「はあ……?」
「石丸とも相談したんだが、 地区予選を前に光陵のユニフォームを着ている奴と試合するのは、
さすがにマズイだろ?
うちは良くても、 唐沢達に迷惑をかけるのは俺達の本意じゃない。
俺も一緒に脱いでやるから、 オマエも脱げ」
意地悪や挑発などではなく、 村主は本気でそう思っているらしく、 さっさと着ているジャージを脱ぎ捨てた。
「あの……脱ぐって、 どこまで?」
トオルがこんな乙女のような質問をしたのには、 訳がある。
目の前に放り出されたウエアは、ジャージの上下に留まらず、 中のシャツまでも 「脱げ」 の対象だったのだ。
現在、 村主は白のショートパンツ一枚である。
短パン一枚。 どこかの暑苦しい部活のようで恥ずかしい。
しかも二人。 熱血するには、 あまりに寂しい人数だ。
真夏でもなければ、 どしゃ降りのグラウンドでもなく、
春うららかなテニスコートでこんな姿になる必要が何処にあるのか。
躊躇うトオルをよそに、 村主は着々と試合の準備を進めている。
「ペアはバランスを考えて、 オマエと俺、伊達と石丸の組み合わせでいいよな?」
「それは構いませんけど……」
「本格的に3セット・マッチでどうだ?」
「それも構いませんけど……」
「他に何か問題あるか?」
「格好が……短パン一枚で試合は、 ちょっとキツイかなぁ、 なんて……」
この時すでに海南コートの周りには、 続々とギャラリーが集まっていた。
いくら端のコートでも、 春先に短パン一枚でプレーすれば目立つに決まっている。
「そうか。 だったら、 止めるか?
こんな美味しい組み合わせは、 もう二度とないと思うんだがな」
ギャラリーには目もくれず、 村主の視線は真っすぐトオルだけを捉えた。
トオルが出す答え以外、 何も関心が無いと言いたげに。
大いに嫌な予感がした。 あれこれ考え始める自分に対して。
確かに村主をパートナーとしてダブルスを組む事は、 光陵にいる限り経験できる事ではない。
その上、 副部長の石丸と伊達を相手に試合をするなど、 こんなチャンスは滅多にないだろう。
目の前にぶら下がるチャンスに比べれば、 村主から出された条件など些細なこと。
昔は裸足でコートに入った事もあれば、 アメリカにいた頃は、 テニスをするのに服装などお構いなしだった。
何を今更迷う事がある。
自分でも気付いているはずだ。
恥ずかしさよりも、 ここで美味しい対戦を逃す方がよっぽど問題なのだと。
嫌な予感が確信に変わり、 試合に不要な雑念が取り払われていく。
「了解です。 試合させてください」
潔くジャージもシャツも脱ぎ捨てたトオルを見て、 村主がニヤリと笑った。
「本気で行くぞ、 トオル。 ついて来られるか?」
「望むところッスよ」
「部長の俺に恥かかせるなよ?」
「もう充分かいてますって!」
短パン一枚の恥ずかしいコンビと海南の選抜ペアの試合は、 二時間に渡って続けられた。
俊足の伊達と鉄壁の石丸コンビは、 まさに伊東兄弟と同じタイプの組み合わせだった。
息のあったコンビに苦戦しながらも、 トオルは村主と呼吸を合わせることに専念した。
短パン姿を嘲笑するギャラリーはもちろん、 村主との実力差も気にならなかった。
彼の能力を上手く活用して、 いかに有利に試合を進めるか。
それだけを考えてボールを追いかけた。
自分とパートナーの力が融合し、 二倍、 三倍と強さが増していく充実感。
次々と変わる状況にどう対応するか。
最も効率的なポジションをはじき出し、 それがパートナーの動きと一致した時の達成感。
この二つの感覚に、 いつの間にかトオルはのめり込んで行った。
「村主さん、 ダブルスって面白いッスね!」
「当たり前だ。 テニスだからな」
「そうでした。 面白いんですよね、 テニスって!」
「ああ、 テニスだからな」
しばらくの間忘れていた当たり前の事実。
懐かしい常識を取り戻したトオルは、 終盤ずっと同じ言葉を噛み締めながら走り続けた。
だからテニスは面白い。 テニスだから面白い。
結果は 「2−1」 で トオル達が逃げ切り、 どうにか部長ペアの面目を保てた形で終了した。
今となっては、 シャツなど着ても着なくても同じだった。
これだけの長丁場になれば、 着ていたとしても途中で気持ち悪くなって、 さっさと脱いでいたに違いない。
辺りはすっかり日が暮れて、 コートを囲むギャラリーも数えられる程度に減っていた。
風通しの良くなったフェンスから吹き込む風が、 汗を拭ったばかりの体を軽やかに撫でていく。
春特有の生温かな風なのだろうが、 火照った身体には、 ひんやりと心地よい。
同じことを感じたらしく、 村主も素肌をさらしたままである。
「どうだ、 トオル。 ここのコート、 広く感じたか?」
「いえ、 いつもと同じでした」
「アメリカはどうだった?
やっぱりアメリカン・サイズで、 デカいのか?」
「いいえ、 そんなわけないじゃないですか」
初めは村主が冗談で話をしているものと思っていた。
海南ではよくある事で、 トオルがアメリカへ旅立つ際にも、 向こうの犬は英語を喋るなどと、
見送りついでに散々からかわれた記憶がある。
「なあ、 トオル? テニスコートの大きさは、 世界中どこに行っても変わらない。
アメリカも、 日本も。 ストリートコートも、 地区予選でプレーする立派なコートも。
そうだろ?」
ここでいったん区切ると、 村主は試合で使ったボールをトオルに手渡した。
「どこのコートも大きさが変わらないように、 どんな格好をしていても、
中身のオマエがテニスプレイヤーである事に変わりはない。
このたった一つのボールを追いかける意味も」
昔から、 村主は同じスタンスで トオルと接してくれている。
テニスコートが変わらないように。 テニスボールが変わらないように。
昔も今も、 テニスプレイヤーであること。 それ以外に必要な事は、 何もないから。
「村主さん……それでわざわざ短パンに?
オレにその事を伝える為に?」
「まあな。 光陵のレギュラージャージが重そうに見えたんでな。
俺が子供の頃は、 よくこんな格好で遊んでいたんだが……少し熱くなり過ぎたか?」
自分でも照れ臭くなったのか、 村主はそそくさとシャツを着始めた。
「いえ、 村主さんらしいッスよ」
「ああ、 オマエもな。
そうやってラケットを握って楽しそうにプレーしている姿が、 一番オマエらしい」
「はい」
「それと、 さっきの話だが……」
改めて 村主が先程の中途半端になっていた答えを返してくれた。
「安心しろ。 人間変わろうと思っても、 そう簡単に変われるもんじゃない。
良くも悪くも、 だけどな。
ルールも知らずに俺に試合を申し込んできたあの頃と、 オマエは少しも変わっちゃいない。
環境が変わって戸惑う事も多いだろうが、 何が自分にとって一番大切か。
それさえ忘れなければ、 だいじょうぶだ」
「はい……村主さん、 ありがとうございました」
「地区予選で、 光陵と戦えるのを楽しみにしている」
「ええ、 オレも」
唐沢から出された宿題の答え。
それはポジショニングだった。
だが トオルがストリートコートで見つけたのは、 これだけではない。
大切な忘れ物をも気づかせてくれた。
明日はこの忘れ物を持って、 光陵テニス部のコートに戻ろう。
きっと唐沢は待っているはず。
パートナーが答えを見つけて戻ってくることを。
ストリートコートを去る前に、 トオルは村主ともう一度約束を交わした。
「村主さん。 今度の地区予選で必ずぶっ倒しますから、 覚悟してくださいよ!」