第 11 話 ポジショニング
久しぶりにコーチの日高が姿を見せた。
中高両方のテニス部の指導を任されている彼は、
地区大会を間近に控えた中等部の最終調整を優先し、
ここ数日、 高等部へは顔を出さなかった。
単に放って置いたとも言うが、 生徒の自主性を重んじる
彼のポリシーからすれば、 さほど珍しいことではない。
よってトオルがコートを追い出された事も、 その件に関して
部内で亀裂が生じた事も知らずに、 普段通りのふてぶてしさ
全開の顔で高等部のコートへやって来た。
ところが中へ入った途端、 異様な空気を察したらしく、
早々と千葉を呼びつけ問いただした。
「おい、 ケンタ。 俺の留守中に何かあったのか?」
「はい、 実は……」と、 千葉が事の次第を説明しようとした矢先、 意外な人物の名が挙げられた。
「部長の唐沢に?」
「えっ!?」
てっきり、 トオルの話だと思った千葉は、 耳を疑った。
ここにいるべき部員の不在理由、 或いは不満を訴える他の部員の様子がおかしいと言うならともかく、
唐沢の何処を見て変だと思うのか。
「いや、 部長はいつも通りッスよ。
部長だけが、 いつも通りなんです!」
千葉は敢えて 「だけが」 のところを強調してみせた。
トオルを追い出したのは、 唐沢である。
練習試合の敗因を探させる為に、 部長自ら 「出て行け」 と言い渡したのだ。
以来、 唐沢は ―― いや、 唐沢だけが平然とした態度で、 普段通りの練習を続けている。
いくら千葉が説得しようが、 泣きつこうが、頑として聞き入れず、 これにより周りはますます不満を募らせていった。
「試合に負けたからと言って、 あの仕打ちはひど過ぎる」
「部長の横暴だ」
「明らかにイジメではないのか」
千葉のもとに届けられる文句は日を追うごとに増えていき、 今や副部長はクレーム処理係りの代名詞と化している。
この不穏な空気の原因は、 元をただせば唐沢にある。
それなのに、 日高はその唐沢の様子が変だと言う。
「コーチ、 ちゃんと空気読んでくださいよ。 大人なんだから」
中等部にかかり切りで放っておかれた恨みと、 部員から一方的に文句を言われる側にいた
鬱憤 (うっぷん) もあって、 千葉の口調はかなり非難めいたものになった。
しかし、 これを受けた日高はコート内をざっと見回した後で、 さらに信じられないような事を言ってきた。
「一応大人目線で見てみたが、 他の連中は何処もおかしくないだろ?」
「どうしてですか? メチャメチャおかしいッスよ。
コーチは、 このドス黒い空気を感じないんですか?」
「黒い空気がどうしたって?」
「何かこう、 不満を言いたくて仕方のない雰囲気があるでしょ?
もうすぐ爆発寸前の?」
性格的に大仰な表現を好まない千葉だが、 この時ばかりは無神経なコーチに事態を把握してもらおうと、
わざと両腕を大きく広げてコート全体を指し示した。
不穏な空気が嵐となって、 すぐ目の前まで迫ってきていると言わんばかりの演出である。
「あのな、 ケンタ。
文句を言う奴は、 何があっても文句を言う。 練習する奴は、 何があっても練習する。
俺には、 いつもと全く同じ空気に見えるが?」
「そこまでワイドにくくれば、 同じでしょうけど……」
大げさに開いてみせた両腕が、 コーチの一言で萎 (しぼ) んでいく。
「現に三年を中心としたレギュラー陣は、 いつも通り練習している。
シンゴ、 滝澤、 荒木、 二年の中西も」
「あの辺は何があってもマイペースっつうか、我関せずっつうか……」
「それより問題は、 唐沢だ。 珍しくアイツに迷いがあるな。
ケンタ、 一緒にいて気づかなかったのか?」
「迷い、 ですか?」
「ああ。 普段から唐沢は、 極端なまでに無駄を嫌う。
時間にしても、動きにしても、 合理的じゃないと気が済まない。
膨大な量の情報を処理する為に、 自然と身についた習慣だが、
その唐沢が用もないのにコートの入口を何度も確認している。
どういう事だ?」
唐沢は何も変わらない。
少なくとも千葉には、 そう見えた。
元から表情豊かな先輩ではないし、 淡々と練習に打ち込む姿を見る限り、 特に変化はない。
だがそれは本人が意図的に見せているのであって、 一箇所だけいつもと明らかに違う動きがあった。
彼の視線である。
日高に指摘されるまで気付かなかったが、 確かに長い前髪の隙間から見える視線は、
コートの中と入口との間を幾度となく往復している。
なかなか答えを持ち帰らない後輩の姿を求めて。
ラリーが中断した時とか、 サーブに集中する直前とか、 ちょっとした動作と動作の合間を縫って、
分刻みで探し歩いている。
まだ帰らないのか。 いつになったら帰るのかと。
あれが唐沢の本心だ。
「すみません、 コーチ。 俺、 副部長失格ですね。
本当は、 部長の事を誰よりも信頼して支えなきゃいけない立場なのに、 何も分かっていませんでした」
この中で、 最もトオルの身を案じているのは唐沢だ。
コートから追い出す指示を出したのも、 本人の為を思っての事である。
例えテニス部全員を敵に回そうとも、 そうする必要があったから。
「今後、 何があっても信用しろ」 と言われていたのに。
全てはインターハイへ行く為に。
「気にするな。 唐沢の心の内を読むなんて芸当は、 そう簡単にできる事じゃない。
あの成田ですら100%とはいかなかった」
「そうだったんですか?
俺には、 お互い知り尽くしているように見えましたけど?」
「唐沢は、 本音を人に見せるのが苦手な……まあ、 これだけ長くなれば性格と呼んでもいいかもしれないが、
敢えて拒んでいる節がある。
だから、 その点では成田も手を焼いていた。
副部長の扱いが一番頭を使うと言ってな」
「俺、 全然知りませんでした」
「だろうな。 成田がぼやくのは、 家に来た時だけだから」
「まさか愚痴こぼす為に、 わざわざコーチの家へ行ったとか?」
「近いものはある。
歴代の部長の中には、 部員と苦労を共有する事で上手くチームをまとめる奴もいたが、
成田や唐沢は一人で背負うタイプだから。
滅多な事で本音は言わない。
そんな奴をサポートするのは大変だと思うが、 信じてやってくれ。
アイツの信じるものを一緒になって信じてやる事が、 一番の支えになるはずだ」
「正直あんまり自信ないですけど、 一応出来るだけの事はやってみます」
千葉が心もとない返事をした直後、 唐沢の動きがピタリと止まり、
何度も行き来した視線が一点に集中した。
テニスコートの入り口付近。
ボールが外へ出ないよう、 部活の最中は閉められているはずの扉が開いた。
「唐沢先輩! 宿題の答え、 分かりました!
中に入っていいッスか?」
そこには、 この一週間待ちわびた後輩の姿があった。
「早速、 答えを聞かせてもらおうか?」
意気揚々と飛び込んできたトオルを見て、 一瞬穏やかになったものの、 すぐに唐沢は険しい表情に戻った。
いや、 彼の心の内を知った今なら、 「意図的に戻した」 と言うべきだろう。
千葉は変化の乏しい表情を目で追い続けた。
「えと……聞かせるって言うより、 見てもらいたんですけど?
出来れば最強ペアを相手に、 前と同じ1セット・マッチで!」
勢いのあるトオルの言葉を聞くたびに、 口元が緩みそうになるのを堪えて、 また締め直す。
考える振りをして俯 (うつむ) く仕草も、 前髪で甘くなりがちな表情を見せないようにする為の
工夫なのかもしれない。
少し間を空けてから、 唐沢が落ち着き払った声で聞き返した。
「リベンジ……というわけか?」
「はい。 せっかく転んだのに、 手ぶらで起き上がるの勿体無いでしょ?
ついでに最強ペアをぶっ倒してから起き上がろうかと思って。
だから、 もう一度オレとペア組んでくれませんか?
今度は絶対に振り回されません。 オレにダブルスをやらせてください!」
「いいだろう、 中に入れ」
唐沢の指示のもと、 再び伊東兄弟との試合が始まった。
トオルの復帰を賭けた試合を見守りながら、 千葉は鍵となる答えを聞き出そうとした。
「コーチ、 結局トオルが追い出された理由って何だったんですか?」
「トオルの奴、 唐沢に追い出されたのか?」
「げっ……本当に知らなかったんですか?
伊東兄弟に負けた理由を考えて来いって。 一週間も前の話ですけど?」
「ふうん……」
テニス部内を揺るがす大事件だったにもかかわらず、
一週間遅れで報告を受けた日高は、 取り立ててこの話題に関心を示さなかった。
と言うより、 別の方へ興味が向いたらしい。
コート内の伊東兄弟と反対側でプレーする二人の姿に。
なかなか口を開かない日高に業を煮やし、 千葉が再び答えをせっついた。
「コーチ、 そろそろ教えてくださいよ。
太一に聞いても分からないって。
一体、 何だったんですか?」
「そうだろうな。
あの兄弟は、 入部してからずっと同じコンビで仕込まれたから、 却って気付かないかもしれない。
理屈よりも体で覚えるに越した事はないからな」
「で、 答えは?」
「ポジショニングだ」
「ポジショニング?」
「簡単に言えば、 パートナーとの攻守の位置関係を意識すること。
伊東兄弟は異なるプレイスタイルであるが故に、 それぞれ攻守の役割分担がハッキリしている。
だから自然と互いが取るべきポジションが明確になる。
しかしトオルと唐沢は、 どちらもカウンターパンチャーだ。
二人とも同じプレイスタイルの場合、 最も怖いのは何だと思う?」
ダブルス経験のない千葉にも、 その答えは分かる。
「得意なプレーを封じられた時ですか?」
「そうだ。 あのペアの最大の弱点は、 一人の攻撃を封じられれば、 二人とも攻撃できなくなる事だ。
あまり考えたくはないが、 万一 『ドリルスピンショット』 が破られた場合……」
「『ドリルスピンショット』 が破られるなんて、 そんな事があるんですか?」
「絶対にないとは言い切れない。
むしろ先へ進めば進むほど、 可能性は大きくなる。
その際にポジショニングが身についていないと、 反撃の糸口を見出せないまま共倒れになる」
「部長はそのネックとなるポジショニングを、 トオルに教えたかったんですね?」
「ああ、 ポジショニングさえしっかり守っていれば、 ダメージを最低限に抑えて次の手を打つことも可能になる。
ただ残念なことに、 中等部からじっくり育てた伊東兄弟と違って、 トオルには時間がなかった。
限られた時間内にポジショニングを叩き込むには、 参考書や口伝えではなく、
身をもって体験させるしかないと判断したんだろう。
楽して覚えた事はすぐに忘れるが、 自分で苦労して見つけたものは、
どんな状況に陥ったとしても忘れることはない。
頭で忘れても、 体は覚えているからな」
「だから部長はあんな態度を?」
「たぶんな」
やはり最強ペアを倒すのは至難の業と見えて、 ゲームカウントは 「3−3」 と両者譲らず引き分けている。
しかし実際に苦戦しているのは、 トオル達ではなく伊東兄弟の方だった。
一週間前は容易く揺さぶることが出来たはずなのに、 答えを見つけて戻ったトオルは、
まるで別人のような動きで対等に勝負している。
状況に応じて然るべき場所を陣取り、
ダブルス初心者にありがちな、 パートナーとの間に生じる隙を一切作らせない。
二人にとって有利なポジションを考えながら動いているせいだろう。
トオルがポジショニングを意識することにより、 唐沢のプレーが格段に良くなったのは、
千葉の目から見ても明らかだった。
「あの二人、 昔からコンビ組んでいるみたいですね?」
「ああ、 そうだな。
テニスはポイントを奪われる一つ前のプレーに、 その原因が潜んでいることが多い。
特にダブルスの場合、 相手のポジショニングの崩れた時が、 仕掛けるチャンスになる。
逆に言えば、 自分達のポジショニングを崩さない限り、
カウンターパンチャーであるアイツ等の攻撃パターンは、 無限に広がっていく。
敵の攻撃全てが、 自分達のチャンスになるんだからな」
守るべき場所にパートナーがいてこそ、 初めて攻撃を仕掛けられる。
また攻めるべき時に攻撃できれば、 守る側は反撃に備えてガードに徹することも出来る。
二人の力を倍から二乗に引き出すには、 このコンビネーションが必要不可欠だ。
「トオルの奴、 何か吹っ切れた感じですね」
ポイントが決まるたびにガッツポーズをする後輩を見て、 千葉は彼が本来の自分をも取り戻したことを確信した。
「まずは第一段階クリアというところだな。
やれやれ、 おかげでまた騒がしくなりそうだ……」
うんざりした口調で語っているが、 日高のふてぶてしい顔がいつもより穏やかに見えた。
「くっそ〜! 出来立てホヤホヤ・コンビに、 俺ッチが負けるなんて!」
試合終了後、 陽一朗が口を尖らせトオルに食ってかかった。
「オレだって納得いきませんよ。
ラブゲームで勝とうと思ったのに、 6−4なんて!」
負けずにトオルも応戦している。
「ラブゲームだとぉ? 後輩のくせに 『ウ吉』 生意気だぞ!」
「勝負に、 先輩・後輩は関係ないッスよ。
それより、 その 『ウ吉』 って呼び方やめてくださいよ。
やっと先輩達に忘れてもらえたのに!」
「やだね! こうなったら 『ウ吉』 も復活させてやるもんね」
「大人気ないッスよ、 先輩!
いくら負けたからって……」
「あ、 今! 思いっきり俺ッチのこと、 馬鹿にしただろ?」
「オマエ達、 いい加減しにしないか! まだ練習中だぞ」
テニス部内にいつもの騒がしさが舞い戻ってきた。
子供染みた喧嘩を繰り広げるトオルと陽一朗と、 生真面目に仲裁に入る太一朗と。
その周りで黙々と練習を続ける三年の先輩たち。
いつも通りの光陵テニス部の練習風景だ。 ただ一人を除いては。
恐らく トオルが答えを見つけて戻るかどうかは、 唐沢にとっても大きな賭けだったのだろう。
少し離れた所で騒ぎを見つめる部長の表情が、 今だけはいつもと違った。
彼をよく知る人間なら、 ハッキリと分かる程度に。
満足げに細めた目と、 上向きに緩んだ口元。
賭けごとで勝利した時のお決まりの顔である。
自分の予想が的中したことに誇らしさを感じながらも、 嬉しさを抑えている時の。
千葉は久しぶりにあの顔を見たと思った。
「部長、 お疲れ様でした」
「ケンタ、 オマエもな」
「あの……今更なんですけど、 俺、 部長についていきますから。
イン・ハイまで、 ずっと」
「ああ。 頼りにしている」
「えっ? 部長、 今なんて?」
「俺には暇な副部長が必要だと、 言ったんだ。
何度も同じ事を言わせるな」
唐沢からの目一杯の褒め言葉だった。
「オマエが一番暇だから」 と押し付けられた副部長の役目。
それは決して言葉通りの意味ではない。
千葉のサポートが必要だからこその指名だった。
「ありがとうございます! 俺マジで部長についていきますから!」
「だったら、 あの騒ぎを何とかしろ。
まず真嶋には 『一週間分の遅れを取り戻させてやるから、 さっさとコートへ入れ』 と伝えろ。
それから負けた伊東兄弟には、 特別メニューを用意してやらなきゃならんな。
メニューは滝澤に組ませるとして、 後はこの一週間、 オマエの所へ文句だけ言って
練習をサボっていた奴の名前をリストアップしろ。
伊東兄弟と合わせて、 タップリしごいてやる」
「了解!」
唐沢がいつもの厳しい部長に戻るまでに、 一分とかからなかった。
ぎりぎりの大きな賭けに勝利した後でも、 余韻に酔いしれるのは、 わずかな時間である。
彼が目指している勝利は、 もっと大きくて、 もっと先にあるものだから。
騒ぎを鎮めに行こうとして、 千葉は途中で振り返った。
「部長、 絶対にイン・ハイ行きましょうね!」
「タ〜コ! 行くだけじゃない」
「分かっていますよ。 俺達の目標は、 イン・ハイ行って優勝すること……ですよね?」
ポジショニングを身につけたのは、 トオルだけではなかった。
パートナーを信頼し、 自分の成すべき事をする。
一緒になって騒ぎ立てる部員達を押しのけて、 千葉は勝利の鍵を握る後輩を捕まえに
輪の中心へと入っていった。
鬼のように厳しい部長による精一杯の 「お帰り」 を届けるために。