第 14 話 不器用な男たち

昇降口イメージ



教室から昇降口へと向かう長い廊下が、 今日はやけに短く感じる。
いつもは呆れ返るほどの殺風景な景色も、 全く気にならない。
だぶんそれは部室へ行くための単なる通り道が、
大切な人と過ごせる特別な空間に変わったから。
「奈緒、 オマエのことが好きなんだ」
言葉を飾る余裕はなかった。
ただ二度と自分の気持ちに嘘をつきたくなくて、
一方的に想いの丈を放り出したような告白だった。
数日前、 あの学園祭の最中に、二人きりだと思っていた保健室で。
正直なところ、 トオルはまだ我が身に起きた幸せを、
現実のものとして捉えるまでに至らなかった。
こうして奈緒と肩を並べて歩ける事が不思議で仕方がない。
相手を想う時間の方が長過ぎて。
切ない痛みの方が分かり易くて。
幸せを感じて良いはずの場面でも、 時折ぎこちない一瞬を作ってしまう事もある。

放課後、 授業の早く終わった方が相手の教室まで迎えに行き、
二人で下駄箱へ続く廊下を一緒に歩いてから、 別々の部室へ。
クラスも部活も違う二人が共に過ごせるのは、 一日のうちでもこの時間だけで、
物足りなさを感じても、 今はどうする事も出来なかった。
「じゃ、 明日な」
「待って、 トオル。 今日、 一緒に帰れる?」
先に帰るものと思っていた彼女からの嬉しい申し出に、 柄にもなく トオルは躊躇した。
「えっ? ああ……でも遅くなるけど?」
「だいじょうぶ。 私も手芸部の片付けあるし。
テニス部が終わるの、 待っていてもいい?」
互いの都合を気にかけながら、 共有できる時間を探し出していく。
始まったばかりの二人の関係。
これから作り上げていく二人だけの約束。
「だったら、 手芸部の部室で待っていろよ。 終わったら迎えにいくから」
「あのね、 コートの出口の所で待ってちゃ駄目かな?」
「駄目じゃないけど、 いつ終わるか分かんねえぞ?」
「だから……」
「ん?」
誰にも聞こえないぐらいの小さな声で、 奈緒が呟いた。
「だから、 その方が早く トオルに会えるでしょ?」
「あ……そ、 そうか?」
自分と同じ分だけ相手からも想われている事に、 驚き、 戸惑い、 そして照れてしまう。
そうあって欲しいと願いながら、 慣れない現実に慌てた挙句、 通り一遍の返事しか返せない。
「練習の邪魔になる?」
「べ、 別に、 いいけど……」
「じゃあ、 あとでね」
「お、 おう!」
せめてここが学校でなければ、 彼女の目をまともに見て話せただろうか。
あと少しだけ大人だったら、 気の利いた台詞の一つも返せただろうか。
ろくな返事もせずに別れた事を悔やみもするが、 呼び止めたところで結果は同じである。

「ああ、 もうっ! しっかりしろ、 オレ!」
気合を入れ直したのは男としてではなく、 テニスプレイヤーとして。
コートに入る前は、 戦いに必要のない余計な感情は一切排除する。
恋愛と部活を両立させる為にも、 このケジメはきちんとつけなければならない。
フェンスをくぐったと同時に、 トオルが追いかけるものは彼女の笑顔ではなくボールに変わる。
欲するものは二人で過ごす時間ではなく、 勝利の二文字になる。
たとえ恋愛初心者ならではの戸惑いや疑問が山積みになっていたとしても、
頭の中をテニスプレイヤーに切り替えなければならない。
どちらも大切なものだから。
どちらも大切にすると決めたから。
「よし、 準備オッケーだ!」
気持ちの切替えを済ませると、 トオルは背筋を伸ばしてコートへ入った。

「いいよな〜、 真嶋は……」
「いいよな〜、 『ウ吉』 は……」
「いいよな〜、 トオルは……」
中へ入った途端、 健気な覚悟を台無しにするような溜め息が押し寄せてきた。
順に三年の慎悟、 二年の陽一朗、そして副部長の千葉である。
「あの、 先輩? 三人でエコー付きでボヤくの、 止めてもらえませんか?」
「練習がきつい」 などの不満ならともかく、 今から気合を入れて頑張ろうという時に、
溜め息を聞かされる程テンションの下がるものはない。
「いいよな〜、 理解のある彼女がいて……」
「いいよな〜、 相思相愛になっちゃって……」
「いいよな〜、 告白できて……」
これも、 先程と同じ順番である。
「先輩たち、 一体どうしたんですか?
もうすぐ予選なんですから、 もっと集中してくださいよ」
部長の唐沢がまだ来ないのを確認してから、 トオルはエコーの元へ歩み寄った。
ところが近づいた途端、 最大級の溜め息を吐きかけられた。
過去の経験から、 これは 「俺の話を聞け」 という意味の先輩命令である。

「わっ、 わかりましたよ……順番に聞きますから。
まずシンゴ先輩、 どうしたんですか?」
「実はさ、 今付き合っている彼女に 『私とテニスとどっちが大事なの!?』 って、 聞かれたんだけどさ。
こういう場合、 どっちも大事としか言えないだろ? 言えないよな?」
「ええ、 まあ……」
トオルと奈緒が付き合う前は、 この慎悟がテニス部内で唯一の 「彼女持ち」 だった。
インターハイ優勝を狙うテニス部員にとって、 部活と恋愛の両立はまさに茨の道であり、
たまに浮いた話があったとしても、 数ヶ月後には破局というのがお決まりのパターンである。
よって現在彼も 「彼女持ち」 ではあるが、 中等部から数えると片手では足りない数の失恋を経験しており、
本人の意図した事ではないにせよ、 憧れの 『寅さん』 と同じく、 非常に短い恋愛周期を渡り歩いている。
「女って、 大事なものにも優劣つけたがるだろ?
『どっちかハッキリして』 って何度も聞くから、 地区予選の前だし 『今は、 テニスの方が大事だ』 って、
答えたらさ……」
「シンゴ先輩、 まさか彼女に言っちゃったんですか?」
「俺だって最後まで 『どっちも大事』 で通そうとしたんだぜ。
だけどイン・ハイ終わるまで休みなんてないし、 彼女の為に部活サボれる立場じゃねえし。
どう考えたって、 テニス部優先の生活になるだろ?」
成田、 唐沢が抜けた今、 彼はシングルスのエースとして光陵を支える立場にある。
「それで彼女は何て?」
「『最低!』 って泣かれた」
「でしょうね」
「ああ、 俺も真嶋の彼女みたいに、 体育会系に理解のある女と付き合えば良かった……」

うなだれる慎悟の隣で、 陽一朗が頬を膨らませた。
「シンゴ先輩は、 彼女がいるだけマシじゃないですか!
俺ッチなんか、 たった今撃沈したところなんですよ」
「陽一先輩、 撃沈って?」
「テニス部より、 サッカー部の方がいいんだってさ。
なあ、 『ウ吉』 どう思う? 普通、 爽やかさで言えば、 サッカー部よりテニス部だろ?
それなのに、 うちのテニス部は胡散臭いって。 何か納得いかないんだよね」
「いや、 オレは充分納得できますけど」
「あっ! その言い方、 すっげぇ嫌な感じ。
自分が絶好調だからって、 俺ッチのこと馬鹿にしているだろ?」
「そ、 そんな事ないですよ!」
「いいや、 最近 『ウ吉』 は調子に乗り過ぎだ。
そういうの、 『慢心』 って言うんだぞ」
「そういうの、 『言いがかり』っ て言うんですよ」
単に陽一朗は自分の恋愛が上手くいかない為に、 幸せ一杯の後輩に八つ当たりしたかっただけのようだ。
こんな子供染みた先輩にいちいち付き合っていては身が持たない。
トオルは早々に切り上げるつもりで、 質問する相手を千葉に変えた。
「で、 ケンタ先輩は?」
「俺は……いや、 いいんだ……」
「先輩?」
何かを言いかけて急に黙りこくった千葉を不思議に思い、 トオルが問いただそうとした矢先、
いきなりマネージャーの樹里が会話に割り込んできた。
「ねえ、 ケンタ? 唐沢部長、 まだ来ていないの?」
「ああ……と、 確かコーチと打ち合わせがあるから三十分ぐらい遅れるって」
「ふうん。 じゃあ、 ケンタでいいわ」
「『ケンタで』 って何だよ?」
「だって副部長でしょ。 対戦相手の資料まとめておいたから、 後で部長に渡しておいて」
「自分で渡せよ。 俺はパシリじゃねえ」
「何よ! ケンタのケチ!」
親分肌の千葉にしては、 マネージャーに対する態度が妙に冷たい。
普段は自分から面倒事を引き受ける性分なのに、 どうした事だろう。

「チバケンも辛いところだよな」
二人の様子を見ていた陽一朗が眉をひそめた。
「辛いって、 何がですか?」
「だからさ、 樹里と部長の間に挟まれちゃってさ」
「挟まれると、 どうして辛いんですか?」
「もしかして 『ウ吉』 、 何も気づいてない?」
「えっ、 何が?」
陽一朗がひそめた眉を、 飛びっきり高い位置まで引き上げた。
「ホント、 おめでたい奴だなぁ。 あのね、 チバケンは樹里に惚れてんの!」
「そ、 そうなんッスか?」
「ついでに言っておくけど、 テニス部全員知っている事だから」
「マジっすか?」
「中等部から、 ずっとだからね。 気付かない奴の方が、 どうかしているって。
ま、 『ウ吉』 は途中からいなくなったから仕方ないけどさ」
言われてみれば、 確かに思い当たる節がある。
樹里の話題になると、 急に落ち着きを失くしたり、 やたらと慌てたり。
つまりは周りにも分かるほど意識していたという事だ。
「じゃあ、 もしかして樹里先輩は?」
「これも有名な話だけど、 樹里が好きなのは唐沢部長」
「で、 その唐沢先輩は?」
「今はイン・ハイの事しか頭にないっしょ?
元々感情とか表に出す人じゃないから、 本当のところは分からないけど。
『ウ吉』 何か知らないの?」
「そういう話はしないですね。 オレの場合、 話より説教の方が断然多いし」
「ダブルス組んだよしみで、 チラッとさり気なく部長に聞いてみ?」
「嫌ですよ! オレは 『さり気なく』 が一番苦手なんです。
第一、 聞きづらいって言うか、 聞いちゃいけない分野のような気もするし」
「だよねぇ。 だから誰も触れた事ないんだよね」

話をしている傍から、 唐沢本人がコートに現れた。
「地区予選の対戦表だ」
この一言で、 溜め息まみれだった先輩達の顔つきが変わった。
対戦表を手にした部長のもとへ誰からともなく集まり始め、
その輪に向かってマネージャー達が手際よくコピーを回している。
バサバサと紙の配られる音と、 参加校を確認し合う先輩達の話し声で少しの間ざわついたが、
唐沢が口を開いた途端、 静まり返った。
「今年もうちはシードだから正確には二回戦からの出場になるが、
こちらの読みが正しければ、 俺達が最初に対戦するのはアンビだ」
「アンビって、 あの杏美紗好 (アンビシャス) 学院ッスか?」
皆が納得して頷く中、 トオルだけが素っ頓狂な声を上げて聞き返してしまった。
確か中等部の頃の記憶では、 あそこは光陵と優勝争いをするほどの強豪だったはず。
それがシードにも入っていないばかりか、 自分達の初戦の相手になるとは、 どういう事なのか。
「真嶋が驚くのも無理はないが、 この三年間で参加校の力関係が随分変わった。
アンビはすでに強豪じゃない」
「でもダブルスの宮本さんとか、 キザ野郎……えっと名前なんだっけ?」
「エースの季崎か? 二人とも健在だ。
断っておくが、 アンビが弱くなったわけじゃない。 他が強くなっただけだ」
唐沢は当たり前のように話しているが、 彼の発言はこの地区全体のレベルが高くなった事を示しており、
即ちシードを与えられた光陵も決して油断できない状況にある事を物語っている。

対戦表から目を離さずに、 唐沢が更に続けた。
「過去の成績と手元のデータを考慮して、 俺達がマークすべき相手は初戦のアンビ、 それから海南、
そして恐らく決勝戦で当たる……松林高校……」
全員の視線が同ブロックの反対側に位置する一校に集中した。
「松林って、 もしかして疾斗 (はやと) の?」
トオルの記憶では、 松林高校のテニス部はほとんど無名に近い存在だった。
偶然にも唐沢の弟・疾斗が通っているから、 その名が頭に残っていただけである。
だが唐沢の言う通り、 この三年で大きく変わったらしい。
いまや松林のテニス部は、 優勝候補の一角を背負う強豪に成長したようだ。
季崎のいる杏美紗好学院、 村主 (すぐり) 率いる海南高校、 そして疾斗が通う松林高校と、
いずれもトオルにとって因縁深い相手との対決になる。
「覚悟しろ」 と言いたげに、 唐沢はトオルに一度頷いてみせてから、 改めて全部員に向き直った。
「最初に伝えたことだが、 もう一度言っておく。
俺に 『がんばりました』 は通用しない。
万一、 俺の目から見て結果に結びつかない奴がいれば、 いつでもレギュラーから降ろすつもりだ。
各自、 心して練習にかかれ。 以上だ」

唐沢の予想が外れたことはない。
膨大な情報量から的確な分析をして割り出す結果は、 寸分の狂いもなく的中する。
初戦の相手は、 十中八九、 杏美紗好学院と見て間違いない。
あの陣型崩しの天才と呼ばれる宮本と、 唐沢を生涯のライバルとして追い続けているエース季崎。
彼等がどう攻めてくるのか。
かつてのライバル校の名前を聞いて、 今回団体戦には出ないはずの陽一朗が俄然やる気になった。
「『ウ吉』、 俺ッチの代わりに宮本達をやっつけちゃってよね」
シングルス中心の光陵とは対照的に、 向こうはダブルスを得意とする学校である。
特にその中核を担う宮本には、 昔から意表をつく作戦で何度も煮え湯を飲まされている。
いまだ陽一朗が敵視するのも無理はない。
そして今年はこの厄介なダブルス戦に、 トオルと唐沢の新生ペアで挑むのだ。
打ち合わせの時から少しずつ感じていた緊張が、 一気に高まった。
練習から緊張しても仕方ないと分かっていても、 思うように体が動かない。
するとそこへダブルスの最終調整の為に、 唐沢が伊東兄弟とトオルを呼び寄せた。
「アンビの司令塔は宮本だ。
奴のことだから、 得意のダブルスで勝負してくる可能性が高い。
最悪の場合、 宮本がエースの季崎とペアを組んで出場するかもしれない。
ダブルス一戦、 シングルス二戦のうち、 一戦目を制した方が精神的にも有利になるからな。
今日から本番までは、 予選を想定した実践形式で練習を進める。
いいか、 俺がダブルスに復帰した限りは、 他校の連中に 『シングルス頼みの光陵』 と言わせるなよ」

昔、 千葉から聞いた話だが、 唐沢は元・部長の成田とペアを組み 『光陵最強』 の名を知らしめた程の
実力の持ち主で、 ダブルスの要と称される伊東兄弟をここまで育て上げたのも彼の功績である。
「俺がダブルスに復帰した限りは」 と強気な発言が出来るのも、 こうした実績の裏づけがあっての事だろう。
しかし、 そのダブルスを担う四人の選手の中で、 一人だけ経験も実績もない人間がいる。
「『ウ吉』、 何か顔色悪くないか?」
トオルの緊張に、 いち早く陽一朗が勘付いた。
「えっ!? そ、 そうッスか?」
「部長、 少し休憩を入れませんか?」
続いて太一朗がフォローにあたる。
「よし、 十分間やる。 真嶋、 顔でも洗って来い」
「は、 はい……」
まさか自分がこんな場面で緊張するとは思っていなかった。
どちらかと言えば度胸のある方だという自負もあった。 それなのに――

「どうした、 トオル? 青い顔して、 腹でも壊したのか?」
トオルがコートを出たところで、 同じように休憩に入った千葉と出くわした。
「ケンタ先輩……実はオレ、 緊張してきたみたいで……」
「ああ、 俺も落ち着かない」
「えっ? ケンタ先輩でもですか?」
てっきり 「情けない」 と笑われると思っていたのに、 予想外の反応である。
「当ったり前だ。 特にこの時期はな。
始まっちまえば勢いに乗れるんだが、 この走り出す前の 『これから』 って時が一番キツい。
準備し忘れた事はないかとか、 やり残した事はないかとか考えて……あれ、 俺いま同じこと言ったよな?
ハハハ、 やっぱ緊張してやがる。
準備し忘れた事と、 やり残した事は一緒だっつうの!」
冗談交じりに千葉は笑い飛ばそうとしたが、 トオルには彼が咄嗟に言った 「やり残した事」 が別次元の話に聞こえた。

「あの、 ケンタ先輩? 余計なことかもしれないんですけど……」
最初に前置きをしてから、 トオルは先程の話の続きをしようとした。
千葉が途中で言いかけて止めたのはマネージャーの樹里に関する悩みに違いなく、
そうであれば気持ちを伝えるべきだと進言するつもりだった。
だが彼の方もこちらの考えを察したらしく、 続きを言う前に遮られてしまった。
「ああ、 余計なことだ。 何も言うな」
「でも……」
「言いたい事は分かっている。 だけど俺の場合は、 オマエ等とは違う」
「それでもオレは伝えるべきだと思うんです。 後悔しない為に」
「告ったって後悔するのは同じだろ」
「違うと思います。 行動を起こせば、 反省はしても後悔はしないッスよ。
気持ちを伝えられないまま過ごすのって、 本当に辛いから……」
これはトオルが身をもって体験している事である。
「そう……だよな。 そうなんだよな……」
一転して素直に後輩の進言を受け入る千葉を見て、 驚いた半面、 気の毒にもなった。
すでに、 それだけ辛い思いをしているのかもしれない。
「俺、 ちょっと話しつけてくる」
「今からですか? 練習中ですよ」
「予選まで時間ねえだろ。 さっさと言わせなきゃ」
「えっ? 言わせなきゃ……?」
先輩の変わり身の早さと、 謎の発言に追いつけないまま、 トオルは彼の次なる行動を見守ることにした。

千葉が向かった先はマネージャーの樹里のところだった。
まさかとは思うが、 彼は部活の最中に告白するつもりではないだろうか。
嫌な予感を抱きつつも、 今さら鼻息荒い先輩を止める手立てはない。
仕方なく トオルは落ちてもいない落とし物を探す振りをして、 二人の後をコソコソと歩き回った。
「樹里、 オマエさっさと唐沢部長に告れよ」
「はぁ!? 何よ、 急に?」
「言わなきゃ、 ずっと後悔するぞ。 イン・ハイ終わったら部長は引退だ。
もう二度とチャンスはなくなる」
「余計なお世話……」
「余計じゃない。 本当のことだ」
「ケンタに関係ないでしょッ!?」
どうやら千葉が悩んでいたのは、 樹里に気持ちを伝えるか否かではなく、
彼女が唐沢に告白せずにいる事を気にかけていたらしい。
自分も苦しい立場にありながら、 相手の事を先に考えてしまう。
決してスマートなやり方ではないが、 トオルは千葉のそういう心根の優しいところに同じ男として魅力を感じる。
「ケンタ先輩、 格好いいッスよ」
相変わらず落とし物を探す演技を続けながら、 心の中でせめてものエールを送った。
たとえ彼女に想いが伝わらなくても、 自分だけは先輩の男気をしっかり見届けよう。
こんな千葉に対する忠誠心から、 その場を離れずいたのだが――

「だからッ! もう告白してフラれたんだってば!」
「へっ……?」
「部長にはハッキリ、 キッパリ断られたの!
だからもう余計な事は言わないでッ!」
「そ、そうなのか? マジで?」
「しつこいッ!」
「ブッ! 樹里、 オマエ……部長にフラれたのか?」
いくら相手のことを親身になって考えたとしても、 人間には限界がある。
特に予期せぬ展開には、 本性というものが現れやすい。
叶わぬ恋だと諦めていた相手が、 すでに失恋して、 自分にも挑戦権が回ってきた。
棚ボタ式に転がり込んだ幸運に、 思わずほくそ笑んでしまうことだって、 未熟な高校生には十分起こり得る。
「あっ! ケンタ、 いま笑ったでしょ?」
「ち、 違げえよ! わ、 笑うわけ……わ、 笑……ぷっ!」
「ほら、 やっぱり笑った! 人の不幸を笑うなんて、 最低!」
「いや、 オマエの不幸を笑ったんじゃなくて、 俺の幸運を……」
「どうせアタシの不幸は、 アンタの幸運でしょうよ!」
「パンッ!」 と掴みかけた幸運の砕ける音がした。
千葉の態度を不謹慎だと解釈した樹里が、 気丈なことに平手打ちをかましたのだ。

「ケンタ先輩、 格好悪……」
先輩の失態に思わず目を覆ったトオルだが、 この時すでに自分にも不幸が訪れている事に気付かなかった。
「真嶋、 その様子なら充分リラックスできたようだな」
「げっ……! 唐沢先輩、 こ、 これはですね……」
「五分の遅刻だ。 俺が緊張を解すために与えた時間は、 確か十分のはずだが?」
千葉の告白騒動に巻き込まれ、 今が制限付きの休憩時間である事をすっかり忘れていた。
「唐沢先輩、 これは何て言うか……リラックスしようとしたら、 タイミングよく……じゃなくて、
タイミング悪く、 騒ぎが起きたと言うか……」
「他人の世話を焼く余裕が出てきたのは結構なことだが、 もう一度引き締め直した方が良さそうだな。
グランド20周でどうだ?」
「そんなぁ……」
「ケンタ、 オマエもだ。 副部長のくせして、 練習中に何をやっている」
「お、 俺も!?」
弱り目にたたり目とは、 この事である。
片想いの相手に誤解され、 平手打ちを食らった挙句、 最も見られてはいけない人物に現場を見られてしまったのだ。
「足りないなら、 滝澤に頼んで特別メニューも用意してやるか?」
「いえ、 充分です!」
弁解の余地が残されていないと悟った千葉は、 まだ不服そうなトオルを連れて、
猛スピードでグランドに向かって駆け出した。

互いに文句を言い合いながら走る二人を見て、 マネージャーの樹里が呆れたように肩をすくめた。
「ケンタったら、 ほんとバカなんだから……」
先日振られたばかりの相手に騒動の一部始終を目撃されたのだから、
この場合、 千葉への批判というよりも唐沢に対する照れ隠しの意味合いの方が強かった。
「ああ、 確かにケンタは筋金入りのバカだ。 だけど、 樹里?
俺が女だったら、 ああいうバカの方を選ぶと思う」
「えっ……?」
驚いて振り向いた樹里に対し、 唐沢は人差し指を口にあて意味ありげな笑みを浮かべた。
そして 「バカどものアイシングの準備を頼む」 と伝えると、 再び練習へ戻っていった。
いつの間に競争になったのか、 グランドでは二つの影が全速力で駆け回っている。
この騒動の原因がどちらにあるのか。 話の決着を、 脚力でつけようとしているらしい。
「まだ十五周も残っているのに。 ほんとバカ……」
やはり呆れ顔で呟いた彼女だが、 その頬に少しだけ赤みが差していた。




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