第 15 話 狙われた司令塔
冷たい。 手首から先の感覚がまるでない。
こんな調子では、 ラケットを握る事さえままならない。
何とかして、 いつもの状態に戻さなくては。
トオルは指先を中心に何度も息を吐きかけてみた。
しかし持ち主の願いとは裏腹に、 緊張で固まった指先は
じっとりと嫌な湿り方をするだけで、 少しも言う事を
聞いてくれそうにない。
おまけに動きの鈍い両手に反して、 脚の方は膝を中心に
ガタガタと小刻みに震え出している。
初めて一人で 『ジャックストリート・コート』 へ乗り込んだ時も、
ここまでの緊張はなかったように思う。
団体戦とは、 チームの命運を背負って戦うとは、 こんなにも重圧を感じるものなのか。
もう予選会場まで来ているというのに。
目の前に散らばる色とりどりのジャージ姿の選手達が、 揃って強そうに見える。
黙々とストレッチを続ける者、 音楽を聴いてリラックスする者、 頭からタオルをかぶって集中する者。
いずれも堂々として、 試合慣れしていて、 会場に到着してから焦る者など一人もいない。
落ち着け、 落ち着け、 とにかく落ち着け。
緊張に深入りし過ぎて身動きできなくなる前に、 トオルは自分のペースを取り戻そうと、
無理矢理ウォーミングアップを開始した。
「真嶋、 もしかして緊張しているのか?」
トオルのぎこちないストレッチを覗き込むようにして、 唐沢が声をかけてきた。
部長である唐沢は朝一番で会場に入り、 部員のコンディションを来た順に確認しながら、
それぞれの対戦相手に合わせた細かな指示を出した後で、 ようやく今、
自身のスタンバイに入ろうとしているところである。
「い、 いや……あっ、 はい。 実はそうみたいです。 すみません」
これ以上世話をかけまいと強がるつもりが、 結局余裕がなくて取り繕えなかった。
「別に謝ることじゃない。 俺には正直に話せと言ってあるだろ?」
「だけど、 自分でも情けなくて。
ここへは前にも来ているのに、 初めての大会で緊張してんのかな。
やっぱ応援するのと、 実際出場するのとでは、 全然違いますね」
「真嶋……今、 何て……?」
突如として、 唐沢の動きがこっちを指差した状態で停止した。
唇の形が最後の台詞を言い終えたまま半開きになっている。
絶句しているようにも見えるが、 これと言って思い当たる節がない。
真相を解明する為には、指示通り会話を再現するしか方法はなさそうだ。
「えっと、 この会場へは前にも来ているって……」
「その次だ」
「初めての大会で緊張する?」
「それだ! まさかオマエ、 こういう試合に出た事ないのか?
つまり、 その……大会経験ゼロなのか?」
「はい。 アメリカにいた時は出場する前にテニス部追い出されたし、
試合と呼べるものはストリートコートでしか経験ないです」
「真嶋。 俺の基準から言えば、 それは試合経験と呼ぶにも無理がある」
「は、 はあ……」
トオルはひどく後ろめたい気分になった。
大会の出場経験がないと、 どうして問題になるかは分からないが、
その問題の発生源と深刻さの度合いは、先輩の態度から判断できる。
軍師の異名を持つ切れ者が、 こっちを向いたまま押し黙っているのだから。
百戦錬磨のハルキを打ち負かした程の選手が、 まさか一度も経験がないとは思いも寄らなかったのだろう。
しかもその事実が、 当日会場に来て初めて発覚するとは。
これまでを振り返るに、 アメリカでの出来事を大まかには伝えたが、 いつテニス部を追い出されたとか、
追い出された後どんな練習をしていたとか、 具体的な事まで話をした覚えはない。
悪気がなかったとは言え、 切れ者の先輩を絶句させた罪は重い。
「すみません、 先輩。 別に隠していたわけじゃないんですけど、 そんなに重要なことだと思わなくて……」
ついでに言えば、 試合前からパートナーに懺悔するとも思っていなかった。
「やっぱり、 ストリートコートの試合とは全然違いますよね?
審判だっているし、 ちゃんとプログラムも配られるし」
返事が戻らないところをみると、 そんなレベルの話でもなさそうだ。
「一応、 トーナメントの経験はあるんですよ。
何て言うか、 負けたらコートから追い出されるみたいな?」
どうにかして解決の糸口を探そうと粘ってみたものの、 彼が必要とする事実と明らかに違う事は、
未熟なりにも気がついた。
「あの……本当にすみません」
後はもう、 謝罪以外にない。
謝って解決するものでもないだろうが、 無言の先輩とどう接していいのか分からず、
トオルはうなだれるように頭を下げた。
長い沈黙の後、 唐沢が急に笑い始めた。 彼にしては珍しく、 声を立てて。
「唐沢先輩?」
「今日はここにいる他校の連中全員の度肝を抜いてやろうと思って来たんだが、
俺が最初に驚かされるとは予想外だった。
真嶋、 オマエ本当に面白い奴だな」
まるでアクシデントを楽しんでいるかのような発言に、 ますます不安が募ってくる。
「あのう、 オレみたいな初心者が、 先輩と一緒に試合に出てもいいんでしょうか?」
「初心者だからと言って出場させなければ、 オマエは永遠に初心者のままだぞ。 いいのか?」
「でも……」
「不安か?」
「はい、 かなり」
正直に答えるしかなかった。
試合当日に論議する事ではないのだろうが、 経験の浅い自分がこんな大きな舞台に立っていいのか。
チームの命運を背負っていいのか。
唐沢のパートナーとしてダブルス戦に出場していいのか。
何もかも不安になって、 更にこのタイミングで緊張まで抱える自分が情けなかった。
トオルの言葉にならない訴えを察してくれたらしく、 唐沢は一旦咳払いをして笑いを取り除くと、
普段よりペースダウンした口調で語りかけてきた。
「真嶋、 俺のこと信用しているか?」
「は、 はい」
「どのくらいだ?」
「どのくらいって……100%。 いや、 先輩なら200%信じられます」
「だったら、 これから言う事をよく聞け。
いいか。 適度な緊張感は、 人間の能力を最大限に発揮させる効果がある。
いつもより過敏に感じること。 それは、 いつもより素早く反応できる証拠だ。
プレーに集中しさえすれば、 緊張はオマエにとって強い味方になる。
緊張を拒まずに、 味方につけるんだ」
さすが中等部からの六年間、 光陵のエース格として走り続けてきただけの事はある。
彼の言葉には、 実践で培われた確かな裏づけが感じられる。
「真嶋が俺を信じてくれるなら、 その俺に選ばれた自分も信じられるはずだ。
オマエがここにいるのは偶然じゃない。
自分を信じろ。 オマエ自身の力を信じろ。 今までの練習を信じるんだ」
真っすぐにトオルを見つめる真剣な眼差しが、 その言葉が嘘ではないと伝えている。
戦いに挑む勇気も、 全力を出す覚悟も。
全ては信じることから始まる。 ここに来るまでの長い道のりが、 間違いではなかったと信じること。
悶々と渦巻いていた不安が徐々に消え去り、 これから始まる試合に意識が向いた。
「唐沢先輩……何だか、 やれそうな気がしてきました。
今だけでも、 オレ自身を信じてみます」
「それでいい。 勝ちに行くぞ、 いいな?」
「はい!」
シード校である光陵は、 一回戦で勝ち上がって来る相手を待つ格好になる。
トオル達が一通り準備をし終え皆と合流しようとした矢先、
マネージャーから杏美紗好 (アンビシャス) 学院が大差で勝ったと連絡が入った。
予想通りの展開である。
二回戦の会場となるコートへの移動中、 唐沢からトオルへ細かい注意事項が言い渡された。
まず敵の勢いに飲まれないこと。
試合には体力や技術だけでなく、 選手の気勢も勝因となる場合がある。
シードの落とし穴。 そう彼は呼んでいたが、 一見シード校の方が体力的に有利だと思っても、
必ずしもそうとは限らない。
自分達よりも先に試合を始め、 気分よく勝った直後の相手と対戦した時、
勢いづいた敵のペースに飲まれてしまう事もあるのだと。
話を聞きながら、 トオルは先程なぜ唐沢が大会経験の有無を問題視したのか、 理解していった。
経験の浅い選手では、 こういう付加的要素を先読み出来ないからである。
シードの例のように、 一見有利に思えた要因が予期せぬ形で落とし穴となったり、
逆にどう見ても不利な状況が逆転を生むケースもある。
大会という緊迫した状況ならではの 「どんでん返し」 が、 この会場のあちらこちらに潜んでおり、
こればかりは幾度も経験を積んだ者でなければ、 事前に察知するのは難しい。
経験不足を補うための情報をあらかた把握できた頃に、 トオル達はちょうどコートへ到着した。
すると反対側からも、 まさにエンジン全開の杏美紗好学院の選手が中に入ってきた。
司令塔の宮本を先頭に、 エースの季崎が後に続いている。
ここまで唐沢の読みが当たるとは思わなかったが、
ダブルスの対戦相手は、 最悪の場合と想定した二人である。
トオルを見るなり、 季崎がいかにも期待外れという顔で文句をつけてきた。
「なぁんだ、 宮本の言うとおりだ。
ダブルスの相手は海斗が目をかけている一年生って聞いたから、 僕はてっきり日高君だと思ったのに……」
当日、 会場で配られるプログラムには、 試合の順番はもとより対戦校と選手名まで記載されている。
季崎はそれを知った上で、 わざとトオルの前で落胆して見せた。
「光陵の新しい司令塔役の海斗と、 期待のルーキー日高ハルキを、 まとめて潰せるチャンスを逃しちゃった。
残念だなぁ。 でも……だったら一人倒せば充分ってことだよね? 楽勝、 楽勝。
ああ、 そう言えば奈緒ちゃん元気? まだ僕のこと覚えてくれているかな?」
よほど一回戦目の勝ち方が良かったのか、 季崎は上機嫌でペラペラと喋り続けている。
トオルは無性に腹立たしくなってきた。
三年の時を隔てたとは言え、 人の印象はそう変わるものではない。
特に一度嫌悪感を抱いた相手に対しては、 「やっぱりムカつく野郎だ」 という結論を、
そこに至るまでの経緯付きで思い出せる。
その昔、 季崎が奈緒にしつこく言い寄ったこと、 軽薄な態度が気に入らなかったこと、
臭いのきつい香水を振りまいていたこと、 そして試合中、 彼がこむら返りを起こした為に
二人の勝負の決着がまだ付いていなかったこと。
「おい、 キザ野郎! 『ハルキを潰す』 なんて戯言は、 俺に勝ってからにしろよな」
「もしかして君、 日高君より強いって言いたいの? それこそ戯言じゃなくて?」
「戯言かどうか、 てめエの目で確かめたらどうだ?
今度はこむら返り起こす前に、 キッチリ決着つけてやる」
試合前の唐沢の助言はまったく無駄に終わった。
勢いに飲まれるどころか、 過去の火種が発火して、 試合前からトオルの方もエンジン全開である。
さっきまで緊張で震え上がっていた人間と、 とても同一人物とは思えない。
ネットを挟んで盛り上がる二人を横目に、 唐沢が残るもう一人に笑いかけた。
「お互い程よく暖まったようだし、 そろそろ始めようか……ね、 宮本君?」
試合開始の合図と共に、 トオルがボールを持ってサーブの位置で構えると、
どよどよと周りから不快な音が響き渡った。
それは大会に付きものの現象で、 無視するしかない事も分かっているが、
この試合がデビュー戦となる初心者にとっては、 非常に耳障りな雑音として入ってくる。
しかも身内ばかりの校内試合と違い、 そのほとんどが自分達を快く思っていない連中からの、
いわゆる中傷の類である。
「おい、 見ろよ。 唐沢が前衛のバック・サイドに入っているぜ。
『ドリルスピンショット』 はフォアからの方が有利だって聞いたのに、 あんな一年に任せていいのかよ?」
「噂どおり、 光陵のダブルスは捨て駒だろ。
アンビの司令塔とエース相手じゃ、 無理もないけど」
「所詮 『シングルス頼みの光陵』 だからな」
ランダムに流れる話し声が、 敵の勝利を確信しているかのように聞こえてしまう。
実際、 そう思われているのかもしれない。
成田と並んで光陵のシングルスの要を務めた唐沢が、 新人と共にダブルスに降りてきた。
この事実は様々な憶測と共に場内に知れ渡り、 多くの観客を呼び寄せている。
成田が抜けた光陵に勝ち目はないと笑う者。
唐沢が目をつけた新人を値踏みしに来ている者。
しかし最も多いのは、 シングルスで負けなしの唐沢が、
ダブルスで苦戦する姿を一目見ようと待ち構えている者達。
新人をフォローしながら勝ち抜けるほど、 予選のダブルスは甘くない。
特に宮本を相手にするとなると、 どんなに息の合ったペアでも苦戦を強いられる。
強豪の名は他校に奪われたにせよ、 『陣型崩しの天才』 はいまだ健在である。
そのことを 『シングルス頼みの光陵』 のリーダーが思い知らされる瞬間を、
いまか今かと待ちうけているのだ。
トオルはグッと唇をかみ締めた。
次々と耳に入る無責任な話し声は、 よどんだ空気のように不快な音を立てて、
何重にも重なってコートに押し寄せてくる。
まるでスピーカーに囲まれた檻の中に入れられたような気分だった。
これも大会ならではの、 観客の多さが成せる業なのか。
事前に唐沢からの指示がなければ、 トオルはこの失礼な観客を黙らせるために
『ブレイザー・サーブ』 をぶち込むところである。
だがここは作戦通り、 通常のフラットサーブで我慢しなければならない。
実は、 試合前にトオルは 「シードの落とし穴」 の他にも注意を受けていた。
『ブレイザー・サーブ』 を使わない。
それと二人の決め球である 『ドリルスピンショット』 も、 唐沢から合図があるまで出さないこと。
つまりトオルは決め球を封印した状態で、 エンジン全開の敵と戦うことになる。
どう考えても無茶な話だが、 トオルに迷いはなかった。
パートナーである唐沢を 「200%信じる」 と誓ったのだから。
「ふぅん……こんなサーブで日高君より強いって言い切るの?」
トオルのサーブは、 季崎の軽口と共にすんなりと叩き返された。
エースの実力も健在のようだ。 中途半端なサーブが通用する相手ではない。
しかしトオルが本当に気をつけなければならない相手は、 もう一人の方だった。
陣型崩しの天才・宮本。
これに気づいたのは第三ゲームに入った頃からである。
向こうから返されるボールが、 全て一箇所に集中している。
唐沢が前衛にいる時はそれほど目立たなかったが、 後ろに下がってからも返される方向はただ一人。
『陣型崩しの天才』 がターゲットに選んだのは、 新人のトオルではなく、 唐沢だった。
ダブルスでは弱い選手を集中攻撃してポイントを奪うやり方がよく使われるが、
宮本は敢えて逆の方法を取ったのだ。
たとえ新人一人を狙って潰したとしても、 唐沢がいる限り勝敗が決した事にはならない。
一対二でも充分対抗できる実力の持ち主である。
ならば自分達の体力のあるうちに彼を狙って潰しておけば、 勝利は確実に転がり込んでくる。
用心深い宮本はそう踏んだのだ。
縦型雁行陣というフォーメーションがある。
前衛の前に前衛、 後衛の正面に後衛が立つ陣型で、 ちょうど台形をコート上に広げた格好になる。
その陣型を保ちながら、 敵二人が唐沢に集中攻撃を仕掛けてきた。
以前、 伊東兄弟が敵の前衛を潰すのに使った作戦だが、 この陣型は後衛同士がストレートで
打ち合わなければならず、 必然的にクロスよりも速いテンポのラリーが続けられる。
つまり後衛に位置する唐沢を崩すにも適したフォーメーションで、 これを破るには相手より速いスピードで
先手を取るしかないのだが、 今のトオルの実力ではとてもラリーに割って入れる技術はない。
無理にでも突破口を開く事も可能だが、 そうしなかった理由は、
厳しい練習の中で唐沢から教え込まれたポジショニングが頭に焼き付いていたからである。
恐らく先輩は今、 敵の攻撃を受けながら、 反撃のチャンスをうかがっているはず。
ここで自分が下手に動けば、 そのチャンスを無駄にする事になる。
「どんなに勢いのある川でも、 必ず流れを変えられるポイントがある。
そこを冷静に見極められるかが、 勝敗の分かれ道だ」
そう教えてくれた先輩が、 何も手立てを考えないわけがない。
トオルは合図を待った。
すぐ傍でパートナーである唐沢が集中攻撃を浴びているというのに。
司令塔を失う怖さを肌身で感じながら。
先輩の言葉を信じて、 ひたすら合図が出るのを待った。
ゲームカウント 「4−4」 を迎えたところで、 徐々に唐沢の動きが鈍くなってきた。
トップクラスの選手二人を相手に、 8ゲーム持ち堪えただけでも奇跡に近い。
トオルの胸に不安がよぎった。
果たして自分の判断は正しかったのだろうか。
宮本は動きが鈍くなった頃合を見計らって、 一気にたたみ掛けてくるに違いない。
パートナーの季崎は、 すでに勝ち誇ったような顔をしている。
対する唐沢は体力的に限界が近いのか、 前衛のポジションへ移動するのも億劫に見えるほど、
足元がふらついている。
やはり待つべきではなかった。
ダブルスは二人で戦うものである。 自分だけが指示待ちと称して、 何もしなくて良いはずがない。
トオルが後悔し始めた次の瞬間、 前方でよろける唐沢の姿が目に飛び込んできた。
「先輩、 危ない!」
予想以上に過酷な戦いだったのだ。
経験浅い後輩をパートナーにして、 トッププレイヤー二人と勝負するのは、 いくら唐沢でも無理がある。
力なく倒れ掛かる先輩に駆け寄り、 トオルが抱きとめた、 その時。
「真嶋、 出番だ」
「へっ……? 唐沢先輩、 大丈夫なんですか?」
「ああ、 待たせたな。 せっかくのデビュー戦だ。
派手に暴れていいぞ」
いつもの唐沢が、 そこにいた。
俯き加減でもたれているが、 声には張りがあり、 汗もかかず、 息も上がらず、
よろけて見せた体は、 敵を欺くためのパフォーマンス。
先輩が倒れそうになるのを見て、 トオルが慌てて抱えに来ることも、 全て計算通り。
そこで例の合図を出す事も。
「先輩、 驚かさないでくださいよ。 オレ本当に駄目かと思ったじゃないですか!」
「へぇ、 オマエの200%の信頼は、 その程度なんだ?」
「あ……いや……」
「ま、 ちょっと引っ張りすぎたからな。 周りを見てみろよ。
俺の無様な敗北を楽しみにしている奴等が、 さっきの倍はいる」
確かに試合開始直後でも多いと思った観客が、 終盤に来て倍以上に膨れ上がっている。
「これだけ集まれば充分だ。
真嶋、 俺が選んだパートナーがどんな奴か。 しっかり見せ付けてやれ」
軽く片目をつぶってから、 唐沢は再びよろよろとした足取りで前衛のポジションに戻っていった。
いかにも限界というふらつき方が、 今となっては空々しく見えて、
その演技の片棒を担いでいるかと思うと罪悪感がなくもないが、 おかげで迷いは綺麗さっぱり消し飛んだ。
一回、 二回、 三回。 『ブレイザー・サーブ』 を打つ時は、 必ずボールを三回バウンドさせる。
一種の儀式のようなものである。
「それじゃ遠慮なく……」
少し前にトスを上げると、 トオルは一気にラケットを振り抜いた。
「15−0」
審判のコールが、 ノータッチエースを決めた快感を盛り上げた。
「フィフティーン、 ラブだって!
何かいいよなぁ、 人にジャッジしてもらうのって」
最初にエースを決めた事により、 トオルサーブの調子はますます上がっていった。
「30−0」 「40−0」 と続けてエースが決まる中、 いまだ演技を続ける唐沢の肩が震えている。
あれは 『ブレイザー・サーブ』 に翻弄される敵を目の当たりにして、 必死で笑いを堪えているからに違いない。
ネットの向こうにいる宮本と季崎の表情が、 トオルの位置からも見て取れる。
あのハルキをも苦しめたサーブを最終局面で突きつけられては、 唖然とするしかないだろう。
第9ゲームを4ポイントとも トオルのサービスエースで抑え、 ゲームカウント 「5−4」 になったところで、
唐沢から最後の指示が下された。
「俺は適当に動くから、 好きなように決めていいぞ」
『ドリルスピンショット』 解禁の合図である。
―― 試合前、 一回戦で快勝した季崎は、 ほんのわずかだが油断を見せてしまった。
「だったら一人倒せば充分ってことだよね?」
パートナーの宮本は、 この発言を快く思わなかった。
自分達の作戦を勘づかれるのではないかと、 ヒヤリとしたのだろう。
季崎が漏らした本音と同時に、 険しくなった宮本の表情。
そこから敵が自分に集中攻撃をかけてくる事を察知した唐沢は、
トオルと季崎が痴話喧嘩している合間に、 今の作戦を練り上げたのだ。
敵の罠にハマった振りをして、 攻撃をしのげるギリギリの限界と
トオルが最も派手に 『ブレイザー・サーブ』 をアピールできるタイミングを考慮して、
「どんでん返し」 の舞台を第9ゲームに絞った。
ゲームカウント 「4−4」 までは自分が囮 (おとり) となって同点まで引っ張り、
残り 2ゲームをトオルのサーブと 『ドリルスピンショット』 で一気に突き放す作戦である。
一見有利に思えた要素が、 予期せぬ形で落とし穴となる。
確かに 「シードの落とし穴」 が存在するのは事実だが、 勢いに乗り過ぎた選手に油断が生じるのも、 また事実。
かつてではなく、 今現在も強豪校のリーダーとして才を振るう唐沢が、
敵の油断がもたらすチャンスを見逃すはずはない。
本当に優れた司令塔は、 勝利を手中に収める瞬間まで、 敵に真の狙いを悟らせないようにするものである ――
最終ゲーム、 前衛に位置した唐沢がベースラインまで下がった。
『ドリルスピンショット』 を警戒した季崎が、 唐沢の正面に向かうのを見届けてから、 トオルは素早くラケットを引いた。
その寸分と狂わぬフォームを見せられても、 まだ季崎は新人から 『ドリルスピンショット』 が放たれるとは
気づいていない。
彼の注意は、 あくまでも唐沢に向いたままである。
充分にボールを引きつけた上で、 トオルは相手のど真ん中目がけてラケットを滑らせた。
季崎と宮本の間を見覚えのあるショットがすり抜けていく。
「まさか……!」
充分に回転を含んだボールは、 慌てて出した季崎のラケットを大きく弾き、 コートの外へと飛び出していった。
会場が俄 (にわ) かに騒がしくなった。
「あの一年、 唐沢と同じ 『ドリルスピンショット』 を使えるのか?」
「嘘だろ?」
捨て駒と見下していた新人が唐沢と同じ決め球を放ち、
宮本と季崎の二人をノータッチエースで沈めるほどの強力なサーブを操れる。
この事実に慌てふためく連中が、 さらに騒ぎを大きくした。
ずっと不快だと思っていたスピーカーの音が、 今は小気味よく聞こえてくる。
その群衆の中には、 見慣れた顔が何人か混じっていた。
海南の村主、 そして明魁の京極。
他にも数名、 光陵のライバル校と思われる選手達が、 鋭い視線をコート内に向けている。
唐沢の真の狙いも、 これだった。
最初から季崎や宮本を相手にしていたのでない。
自分達新生ペアが注目されるのを承知の上で、 いずれ戦うであろうライバル校の連中に、
トオルの実力を見せつけるのが今回の目的だった。
「心してかかって来い」 というメッセージを込めて。
成田が抜け、 シングルスが不安定な光陵は、 相手校のエースをダブルス戦に引きずり出し、
部長自らの手で裁いていくのが最善の策である。
このデビュー戦は、 いわば唐沢から他校に対しての挑戦状の役割も果たしていた。
わざと自分が潰れるようなパフォーマンスを見せたのも、 対戦相手を油断させる為だけでなく、
トオルが一人でも宮本達をねじ伏せる力がある事を、 周囲に知らしめる為のものだった。
ゲームセットを告げる審判のコールが心地よく響いた。
「唐沢先輩、 ありがとうございました。
一時はどうなる事かと思ったけど、 最高に気分いいッス!」
「タ〜コ! それは俺の台詞だ。
この試合がオマエのデビュー戦だと聞かされた時は、 成田への言い訳まで考えたんだぞ」
「アハハ! お騒がせしちゃって、 すみません」
「まあ、 いい。 それより真嶋? あそこにいる連中の顔、 よく覚えておけよ」
フェンス越しに、 明魁の京極を中心として数名の選手が集まっているのが見えた。
各々が トオルの噂を聞きつけて、 偵察にやって来た他校のテニス部員である。
「いずれ、 奴等とは戦うことになる。 必ず……」
じっとフェンスの外を見据える唐沢の眼差しは、 味方のトオルをも圧する程の迫力があった。
今の試合でも、 ここまでの気を感じなかったという事は、 この先で待つ敵のレベルの高さは
杏美紗好学院の比ではないということだ。
ただ一つの頂点を制する熾烈な戦いは、 いま始まったばかりである。