第 17 話 棄権

洗面所イメージ



会場の空気が明らかに変わった。
「どこにいてもテニスの練習は出来る」
そう教えてくれた村主 (すぐり) との対戦を前に、
トオルはコート全体が緊張で埋め尽くされていくのを肌で感じた。
彼が場内にいるだけで、 張り詰めた空気がじわじわと押し寄せてくるのだ。
海南陣営はもちろん、 味方である光陵サイドからも、
そして周りの観客からも。
他校の枠を超え、 直接教えを受けてきたトオルには、
誰よりも敵として迎えた時の怖さがよく分かる。
光陵と同じ土俵に立つ為に、 たった一面のコートから這い上がってきた不屈の精神の持ち主。
尊敬すべきプレイヤーであり、 恩ある先輩であり、 最も対峙したくない男。
その村主が今、 ネットを隔てた向こう側のベンチで静かに対決の時を待っていた。

「真嶋、 次は間違いなく接戦になる」
パートナーの唐沢からも、 同種の空気が押し寄せてくる。
「村主は伊達のスピードを活かして攻撃してくるはずだから、 くれぐれも振り回されるな。
こういう一点を争う試合では、 いかに自分達のペースを崩さず粘れるかが、 勝負の分かれ目だ。
だから深追いする必要はない。
どうしても決めなきゃ行けない時は、 俺が出る。 分かったな?」
「はい」
唐沢からの要点を押さえた助言には、 三年越しの対決を夢見るような浮ついた要素は欠片もなく、
華々しいデビューを飾った初戦とは対照的に、 「ひたすら防御に徹しろ」 という意味合いの指示が多分に
含まれていた。
やはり、 それ程の相手だと思うと気後れしそうになるが、 不思議なことに息の詰まるような緊張の中でも、
唐沢の言葉だけはすんなり頭に入ってきた。
恐らく初戦の杏美紗好 (アンビシャス) 学院との試合を通じて、 ペアとしての絆を確かなものにしたからだろう。
この先輩と共に戦う限り、 迷う必要はない。
たとえ相手が誰であっても、 彼の言葉を信じて真っすぐ進むのみ。
200%の信頼を誓ったのだから。

試合開始直後から、 その信頼はより強固なものとなった。
事前に受けた忠告どおり、 村主が伊達のスピードを活かした攻撃を仕掛けてきたのだ。
通常ならテンポの速い攻撃に喰らいつこうと、 考えなしにペースアップするところだが、
前後左右と振られながらも、 トオルは自分のポジションを頑なに守り通した。
目の前を通過するボールについラケットを伸ばしたくなるが、 仮に無理して返したとしても、
すぐ後ろに控える村主が必ず決めてくる。
無茶な返球がファインプレーとなる確率は限りなくゼロに近い。
少なくとも海南は、 そんな甘い相手ではない。
唐沢からの「深追いはするな」 の助言は、 無茶な返球が敵のチャンスボールに終わるだけでなく、
そこからペースを崩される危険性がある事まで読んだ上で、出されたものだった。
時に伊達のスピードに圧されながらも、 トオルは自分に与えられた課題だけに神経を集中させた。
「スピードに振り回されない。 拾うべきボールを確実に処理する……」
試合は1ミリの誤差を許さないシビアな展開となり、 強豪の名を死守しようとする唐沢と、
その背中を追いかける村主との間で、 中盤まで押されては戻しを繰り返すシーソーゲームが続けられた。

第6ゲームで、 悪夢は起こった。
カウント 「3−2」 と海南に1ゲームをリードされ、 巻き返しを図るべく、
トオルが高い打点からのジャンピング・スマッシュを放った直後のことである。
これが決まれば 「3−3」 の引き分になるはずだった。
ところがそれを阻止しようと、 村主が勢いのついたボール目がけて突っ込んできたのだ。
「危ない!」
おそらくロブで返せるギリギリの範囲と判断しての事だろうが、
運動能力に秀でた慎悟をモデルに完成させたスマッシュは、 見た目よりも何倍もの威力があった。
跳躍の反動から背筋を使って繰り出されたボールは、 バウンド直後で叩かなければ、
目で追うことすら出来ない程のスピードで跳ね上がる。
他の打点での処理は、 まず不可能だ。
無理な体勢からの返球がコンマ何秒かの遅れを生み、 凶器となって村主の顔面に直撃しようとしていた。
無論、 空中でラケットを振り下ろしたばかりのトオルに、 事態を回避する術はない。
全ては一瞬の出来事だった。
トオルの放ったスマッシュがバウントと同時に勢いよく跳ね上がり、 村主のラケットをすり抜けた。
「村主さん!」
すんでのところで直撃は免れたようだが、 不安定な姿勢でボールをかわした村主は、
その代償として左足を抱えている。
どんな苦境も豪快に笑い飛ばす男の顔が、 苦痛に耐えかね歪んでいた。

「村主!」
海南の部員よりも早く、 唐沢がネットを飛び越え村主に駆け寄った。
「どこだ? アキレス腱か?」
「いや……くるぶしの脇の……」
「救護室より、 タクシーを呼んで専門医の手当てを受けたほうが良さそうだな」
「すまない。 俺が勝負を決めようとして、 深追いし過ぎた」
「自分を責めるな、 村主。
ケガ人のオマエが責任を感じる必要はない」
「だがトオルが……」
「いいから、今は自分の体の事だけ考えろ」

すぐ近くにいるはずの二人の会話が遠くに聞こえた。
目の前で村主がうずくまっているというのに、 どういう訳か足がすくんで現場に近づけない。
思うように手足が動かない。 体の震えが止まらない。
「オレのボールが……」
頭では単なる事故だと理解しているのに、 全身が拒否反応を示してくる。
「オレのせいで……」
「真嶋、 これはアクシデントだ!」
唐沢の怒鳴り声で、 ようやくトオルは我に返った。
「あの……村主さんは?」
「靭帯を切っているかもしれない。 試合続行は無理だろう。
いま日高コーチが知り合いの病院を手配してくれている」
「オレも一緒に行きます」
「何を言っている? まだ試合が残っているだろ?」
「でも……」
「落ち着け、 真嶋!
オマエが村主だったら、 同情で付き添われて嬉しいか?」

先輩の言いたい事は分かっている。
仮に自分が付き添ったとしても、 村主に負い目を感じさせるだけで、 何の解決にもならない。
今なすべき事は、 棄権した彼の為にも次の試合に集中するしかないことも。
全て理解している。
しかし、 あの時スマッシュを放たなければという後悔は、 いくら拭っても拭いきれない。
せめて際どいコースではなく、 違うコースを狙っていれば、 この事態は避けられたはず。
動かない体に反して、 頭の中は猛スピードで起きてしまった事故の責任を追及し続けた。
「オレがあんなコースに打たなければ……」
スマッシュを決めた瞬間の映像が繰り返し再現され、 それに紛れて、 他の 「違う何か」 が目の前をチラついている。
その昔、 悪夢の瞬間をもたらした何か赤いものが。
「……あんなに楽しみにしていたのに……村主さん……三年も……」
「とにかく落ち着くんだ、 真嶋。 海南のメンバーに余裕がないのは分かっている。
うちから誰か付き添わせるから、 安心しろ」
唐沢の説得する声が、 さっきよりずっと遠くで聞こえる。

「海斗、 俺が行こう」
ふいに唐沢とは別の方向から声がした。
「成田、 いいのか?」
声の主は元・部長の成田のようだ。
責任感の強い彼の事だから、 地区予選の様子を秘かに見に来ていたのだろう。
だが、 その声も何枚も壁を隔てたかのように聞こえる。
「俺がオマエ達にしてやれる事は、 これぐらいしかないだろ?」
「すまない。 助かる」
成田と話を進めているのは、 唐沢なのか。
聞き慣れた声なのに、 誰だか分からなくなってきた。
「村主より、 真嶋の方が重症かもしれない」
「ああ。 だからコーチも俺も、 ここから離れるわけには……」
「病院の方は任せておけ。 何か分かったら連絡する。
海斗は、 真嶋を頼む」
二人とも、 何故さっきから負傷した村主ではなく、 自分のことを気遣っているのか。
この時のトオルには理解出来なかった。

いきなり襲い来る不快感。
背筋の寒気と同時に、 腹の底が覆るような吐き気を覚えたトオルは、 すぐさま控え室脇のトイレに駆け込んだ。
先程から目の前をチラつく赤い何か。
悪夢の映像が、 徐々に形を成してくる。
ジャケットを羽織ったジャンの姿と、 痛みのない刺された感触。
赤い何かは、 ジャケットの色なのか、 それとも――
あの時の不吉な体験が胸元で再現された。
吐きたい。 吐き出したい。
赤い皮のジャケットが砕け散り、 再びスマッシュの軌道を思い出した瞬間、
村主の苦痛に歪んだ顔が父の顔とすり替わった。
「なぜ、 こんな時に?」

心の底に根を張る恐怖が、 次々と目の前を通り過ぎた。
ジャンを死に追いやった二年前の悪夢。
肩の故障から、 止む無くラケットを置いた父の過去。
恩人である村主を父と同じ目に遭わせたかもしれないという、 否定し切れない事実も。
それはテニスを続けている限り、 また起こるかもしれない。
自分がその悪夢を生み出す原因になるかもしれない。
無意識のうちに、 体がこれらの恐怖心を嘔吐と共に葬り去ろうとしているらしい。
背中の震えが止まらない。
全身が凍るように冷たい。
体の中を巡る血まで、 拒否反応を示しているかのように感じる。
吐きたい。 吐き出したい。 搾り出してでも。
絶え間なく続く嘔吐。
もしかして必死になって吐き出そうとしているのは、 恐怖心ではなく、 自分自身かもしれない。
暗く冷たいトイレの中で、 不可解な嘔吐の答えを知った。
この嘔吐は、 自分自身に対する拒絶から来ているものだ。
村主のケガをきっかけに、 今まで抑えていた自分への嫌悪が一気に噴出したのだ。
ジャンを死に追いやったのは誰なのか。
村主を父と同じ目に遭わせようとしたのは誰なのか。
繰り返し吐く度に、 連鎖的に涙がこぼれる。
昼間の食べ物は全て吐き出したというのに、 それでもまだ足りないのか、
わずかに染み出た胃液までその対象となっている。
喉がえぐられるように痛い。
唯一、 体温を感じるものと言えば、 嘔吐の連鎖反応で溢れ出てきた涙だけ。
何の感情も持たない涙が頬をつたい、 その温かさで自身の体の冷たさを実感した。
「……誰か……止めて……くれ」
今までどんな辛い練習でも弱音を吐いた事のない人間が、 苦しさのあまり助けを求めていた。
本当に頼りにしたい誰かではなく、 誰か他の人に。

「全部吐いてからでいい。 一度出て来い」
トイレのドア越しに、 低い声がした。 コーチの日高だと思う。
まだ少し吐き気は残っていたが、 どうしても人の声を聞きたくて、 トオルは出口に向かった。
正確には 「生きている人間」 の肉声を聞きたかったのだ。
そうでもしなければ、 永遠に頭の中を駆け巡る悪夢の映像から抜け出せないような気がして。
手を洗い、 口をゆすいだ後で、 鏡を覗いて驚いた。
ろう人形のように真っ白な顔をした人間が、 すぐ前に立っている。
トオル自身、 映った場所が鏡でなければ、 死人と見間違えたほど生気がない。
先程から皆に気遣われていた原因が、 ようやく分かった。
負傷した村主よりも、 トオルの方が気を失いそうな顔をしていたからである。

トイレから出て壁をつたうようにして歩いていくと、 光陵学園の控え室の扉が半開きにされ、
中では日高が腰を下ろして待っていた。
試合前に入室した時は、 机と椅子しかない殺風景な部屋だと思ったが、 今は何処よりも安全な場所に見えた。
わずかだが日も当たるし、 外からは歓声も聞こえる。
何より、 生きた人間がいる。
青白い顔のトオルを見ても驚きもせずに、 日高は無精ひげの生えた顎を軽くしゃくって、 隣に座るよう合図した。
それから「水分補給しておけ」 と言い、 レモン入りのサイダーを差し出した。
一瞬トオルは、 手を伸ばすのを躊躇った。
炭酸が苦手というのもあるが、 ここでサイダーを口にすれば、 また不快な嘔吐に襲われるのではないかと
心配になったからである。
「無理にとは言わないが、 吐いた後は案外こういう物の方が効くはずだ」
日高の助言が正確に聞き取れたわけではない。
ただ紙コップを出された時、 そのパチパチと音を立てて動く飲み物を体内に入れておきたいと思い、 手に取った。
一口、二口と含んでみると 、酸味の効いた炭酸が軽やかな刺激となって流れ落ち、 意外にも飲みやすいと感じた。
喉の痛みはまだあるが、 心配したような嘔吐もなく、 不快感が少しずつ薄れていく。

半分ほど飲んでから、 トオルは自分を襲った悪夢の映像をたどたどしく語り始めた。
「親父と……オレのせいで死んだ人の顔が、 交互に浮かんだ。
こんな時に……」
とても他人に理解してもらえるような説明ではなかったが、 たった今味わった恐怖を誰かに聞いてもらいたい。
相手が誰であろうと、 話してしまいたいと思った。
意図して日高に打ち明けたのではなく――
「龍は、 どんな顔をしていた?」
「分からない。 ただ辛そうに見えた……ように思う」
「そうか」
殺風景な部屋に日高の低い声が響いた。
「俺の場合は、 試合直後に肩を押さえて倒れた高校生の龍の姿だ」
「それって、 まさか?」
トオルはすぐ隣にいるコーチを凝視した。
今の発言と言い、 レモン入りのサイダーと言い、 彼も同じ体験をしてきたような口振りである。
いや、 そうに違いない。

間近で食い入るように見つめられているにも関わらず、 日高は淡々と話を進めた。
「最近では滅多にないが、 現役時代はしょっちゅうだった。
トーナメントで優勝するたびに吐き、 ランキングが上がるたびに吐き、
俺だけがテニスを続けていいのかと思うたびに吐いた。
誰に責められなくても、 ご立派な言い訳があっても、
こればかりは自分で自分を許さない限り、 どうする事もできないからな。
俺は今でも、 龍からテニスを奪ったのは、 自分の責任だと思っている」
「そんな……」
「そんな事はない」 と言いかけて、 その言葉が日高の前では役に立たないと気付き、
最後まで終わらないうちに伏せてしまった。
トオルが過去の過ちを許せないのと同じく、 日高もまた、 誰が何と言おうと高校時代の自分を許せずにいる。
自責の念というヤツは、他人の価値観で解放できるほど甘くない。
どんなに理論的に説得されようが、 自分から解かない限り永遠に責め続ける。
たとえ体中の血を失うほど吐いて、 過去の悪夢を消し去ろうとしても。
いつまでも、 事あるごとに追いかけてくる。
何度でも、 何処へでも、 そして、 どこまでも。

普段はふてぶてしく見える日高の顔が、 呆けたようになった。
彼もこの会場で戦った事があるのだろうか。
ゆっくりと控え室を眺め回す仕草は、 呆けた隙間に遠い昔の出来事を招き入れるかに見えた。
「ちょうど成田と唐沢のような関係だった。 俺が部長で、 龍が副部長で。
昔から龍は掴みどころがなくてな。
だけどアイツがいると、 いつの間にか色んな事が上手く運んでいた。
強引に進むことしか知らなかった俺には、 龍のようなサポートが必要だと思っていたんだが……」
そこで一旦区切ると、 日高はしばらく天井を眺め、 口調を変えてまた続けた。
まるで誰かを問い詰めるような、 そんな強い口調だった。
「サポートというのは一緒に進んでこそだろ?
一緒に進めなければ、 それは……犠牲になる。
龍は自分の肩を犠牲にして、 俺達をインターハイに行かせようとした。
俺は部長として、 止めることが出来なかった。
アイツが倒れる直前まで、 故障を抱えているとは気付きもしなかった」
日高の膝の上で、 固く作られた握り拳が行き場を失くして震えていた。
それは恐怖からではなく、 怒りからくる震えである。
自分自身に対しての怒り。
大切なものを守り切れなかった未熟な自分に対しての。
無意識のうちにトオルは、 その拳の上に自分の両手を重ねた。
ごつごつとした拳は、 父のものより大きくて、 思ったよりも温かい。
その温度差が自分の手の冷たさからくると気付き、 慌てて引っ込めようとしたのだが、
それを日高がやんわりと繋ぎ止めた。

「まだ、 こんなに小さい手なんだよな。
ハルキと同じ歳だ。 それなのに、 余計なもん背負いやがって……」
日高の声が擦れている。
トオルを包む大きな手は温かなものなのに。
控え室に響く低い声は、 ひどく悲しいものだった。
「これからオレは、 どうすればいい?」
常に自分で考え、 自分で答えを出すよう育てられているトオルも、
今回ばかりは日高に助言を求めるしか思い浮かばない。
「分からない。 俺もまだ答えを見つけられない。
ただ二度と起こって欲しくないと思う事が、 自分の中に恐怖心として存在する。
オマエの場合はケガに対する恐怖。 まずはそれを受け入れることだ。
残念ながらその先は、 自分で見つけていくしかない」
「おっさんも……まだ……?」
「俺の場合はひょっとしたら、 墓の中まで持っていくかもしれない。
だけどトオル。 オマエには仲間がいる」
「仲間?」
「吐こうが何しようが、 一緒に歩いてくれる仲間がいるだろ?
一人で背負えなきゃ、 頼ればいい。 俺も、 龍にそうして欲しかった」

日高がトオルの手を離し、 部屋の入口に目を向けた。
その視線を追っていくと、 扉の隙間からハルキが中を覗き込んでいた。
ずっと会話が途切れるのを待っていたらしく、 彼は父親と目が合うと同時に中に入り、
海南との試合結果を報告し始めた。
「コーチ。残りのシングルス戦も、 『6−2』 でうちが勝ちました。
副部長の石丸さんが 『後日、 改めてお礼に伺います』 と言っていました」
「そうか」
通常、人前でハルキが日高に話しかける時は、 父親としてではなく肩書きで呼んでいる。
部活では 「コーチ」、 スクールでは 「オーナー」 という風に。
今回もトオルを意識しての事だと思った。
ちらちらと探るような目つきで、 こちらを見やるのも。
「それから、 唐沢部長からも伝言が」
「なんだ?」
「いえ、 コーチじゃなくて、 あの……」
一段と落ち着きのない態度で、 ハルキがこちらの様子を伺っている。
「オレに?」
よほど話し辛い内容だったらしく、 彼は無言でトオルの問いかけに頷くと、
大きく息を吸い込み、 吐き出す時の勢いを借りて一息に言い切った。
「『海南の敗北を背負う覚悟があるなら戻って来い。
その覚悟がないなら戻ってくるな。 真嶋の代わりはいくらでもいる』 って……」

その無情とも言える内容に泣きそうになったのは、 伝言を受けた側のトオルではなく、 伝えた側のハルキの方だった。
そしてトオルが返事をする前に、 「本心じゃないから!」 と畳み掛けるように怒鳴りつけた。
いつもクールな彼がこんなに声を荒げたのは、 初めての事かもしれない。
「ハルキ?」
「本心じゃない……と思う。 本当はオマエのこと待っていると思う」
唐沢から 「余計なことを言うな」 とでも念を押されたのか、 言った後からハルキは、 ばつが悪そうに目を伏せた。
そして、もごもごと「俺も」と付け足した。
挫折とは無縁の人生を歩んできた彼には、 これが精一杯の励まし方なのだろう。
図太いと思っていたライバルの青白い顔を見せられた上に、 部長からはシビアな伝言を託され、
ハルキなりに戸惑い、 うろたえた結果、 最後の 「俺も」 に繋がったのだ。

「ハルキ?手を……貸してくれないか?」
トオルは、 まだ感覚の戻らない腕をハルキのもとへ伸ばしてみた。
ケガをしたわけでなく、 一人で立ち上がれない事もない。
しかし、 この時のトオルには助けが必要だった。
たぶんハルキにも。
いつもは嫌味の一つも返すはずのハルキが、 黙ってトオルのリクエストに応えてくれた。
偉大な父親に守られて育った彼の手は、 傷一つなく血管が透けて見えるほど白かった。
「あったかいな、 オマエの手……」
ほんの一瞬だけ、 ハルキは出した手を引っ込めようとした。
恐らくそれは予想外の冷たさに驚いて戻そうとしただけで、 すぐに前よりも強い力を込めて握り返してきた。
「ありがとう 、ハルキ」
「うん……」
ライバルに引っ張られるようにして、 トオルはゆっくりと立ち上がった。
体の震えは、 もうない。

「おっさん、 オレ……戻るわ」
「そうか」
「まだ答えは見つからないけど、 吐いても待っていてくれるなら、 吐いてでも進むしかねえだろ?」
「ああ、 そうだな」
「サイダー、 美味かった。 サンキュー」
「必要になったら、 いつでも作ってやる」
日高とのやり取りを聞いて、 ハルキがおずおずとトオルにテニスバッグを手渡した。
中には、 吐く前にコートに放り出してきた荷物が一式詰め込まれている。
トオルはつい習慣で、 受け取ると同時にバッグの中のラケットを確認した。
帰国前、 父・龍之介が餞別代わりにくれたラケット。
彼はどんな思いでこれを渡したのか。
途切れてしまった夢の続きを、 息子に託そうとしたのだろうか。
グリップを握ると、 トクトクと心臓が鳴り始め、 凍りついた手足に熱を呼び戻した。
徐々に体が熱くなっていく。
すると、 その様子を見ていたハルキが、 いきなり声を張上げた。
「勘違いするなよ!
このバッグ、 オマエを帰らせる為に持って来てやったんじゃないからな!」
彼には、 トオルが帰り支度しているように見えたらしい。
不安げにバッグを渡したのも、 トオルがどこへ戻るのか、 確信がなかったからである。

「バ〜カ! てめエがそんな親切な奴じゃない事ぐらい、 分かってるよ!
オレが戻ると言ったら、 コートしかねえだろうが」
「バッ……!」
待ち望んでいたライバルの憎まれ口の復活に、 ハルキの頬が急激に赤らんだ。
怒りと嬉しさの両方の感情が、 交互に白い頬に赤みを加えたようだ。
「次ぎは疾斗 (はやと) のいる松林高校だったよな?
だったら尚更、 オレがいなきゃ始まらないだろ?」
「バッカじゃないの!?」
ハルキがこの台詞を口にする時は、 本当に相手を馬鹿にしているか、
嬉しいくせに照れて素直に言えないかの、 どちらかである。
同じ台詞をもう一度。 二度 、三度。 合計四回の 「バッカじゃないの」 を連発してから、
真っ赤になったライバルは控え室から出て行った。
「そんなに怒るなよ。 一緒に行こうぜ、 ハルキ!」
手渡されたバッグを肩に担ぐと、 トオルは駆け出した。
共に進もうと手を差し伸べてくれたライバルを追いかけて。




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