第 18 話 相棒
再びコートに現れたトオルの姿を見て、 安堵したのも束の間、
奈緒はその横顔に更なる不安を覚えた。
海南との試合の最中に対戦相手を負傷させ、
顔面蒼白で控え室へ走り去ったトオル。
なかなか戻らないので心配したのだが、
ハルキと共に普段通りふざけながら出てきたところを見ると、
特に問題はなかったと胸を撫で下ろした。 ところが――
確かに遠目から見れば、 いつもの彼と変わらない。
左肩にテニスバッグを担いだままでラケットを取り出す横着さも、
他の準備は何もせず、 バッグごとファスナー全開でコート脇へ放置するルーズさも。
ラケット、 タオル、 スポーツドリンクと、 試合に必要と思われる物を事前に揃え、
使う順番を考えてベンチの上に並べ置く 几帳面な唐沢とは対照的である。
しかしその唐沢と会話を交わす横顔を見た途端、 ただならぬ事態が起きていた事を察知した。
「真嶋先輩の顔、 真っ白だぞ? あんな状態で試合に出るのかよ?」
奈緒の傍で一緒に見ていた弟の和紀が、 咎めるような目つきで訴えかけてきた。
今日初めて会った弟が不調だと気付く程、 そして遠目からでも分かる程、 トオルの顔には血の気がまるでない。
あれは顔色が悪いなどというお気楽なものではなく、 一滴残らず血を抜き取ったかのような白さである。
「うん……そうみたい」
「うちのサッカー部も相当無茶やらせるけど、 テニス部はもっとヤベエな?」
「でも日高コーチがオーケーしたんだから、 きっと大丈夫なんだよ」
「それにしてもなぁ」
頼りない姉の意見では説得力がないらしく、 和紀は不服そうに唇を尖らせて、 トオルの動きをじっと観察している。
「なあ、 姉ちゃん?」
「なに?」
「そのさ……」
毒舌の弟が、 珍しく話をするのに躊躇した。
「よくあるんだろ? こういう事って」
「こういう事?」
「だからサッカーもそうだけど、 テニスだって、 さっきみたいな事故は珍しくないだろ?」
弟の言わんとする事が、 奈緒にも分かりかけてきた。
スポーツをしている限り、 どんな場面でもケガの事故は付き物である。
特に他人と競い合う機会が多ければ、その確率は高くなる。
それなのに、 何故トオルはあそこまで過敏に反応するのか。
弟はこの事を批判としてではなく、 一人のアスリートとして疑問に思ったのだろう。
単なる事故として割り切るしかないものを、 一目で吐いたと分かるほど自分を責める必要があるのかと。
誰かを傷つけたり、 傷つけられたり。
そこに己の過失が絡んでいなければ、 大抵は素通りするはずのアクシデントである。
しかし一度でも自責の念に捕まると、 他のどんなケースでも必要以上に責めてしまう。
再び同じ過ちを繰り返すのではないかという恐怖と共に。
最も近くにいて事情をよく知る奈緒でさえ、 頭で理解しても共感する事はできない。
恐怖の度合いを推し量れても、 実際に震える事まで出来はしない。
経験した者にしか理解し得ない痛み。
それを中二になったばかりの弟に説明するのは、 至難の業である。
話術だけでなく、 精神的にも。
弟の前だから平静を装っているが、 あの生気の失せた横顔を見た瞬間、 奈緒にも充分痛みが伝わった。
痛くて、 苦しくて、 応援する立場も忘れて泣きたくなる程に。
こんな精神状態で、 トオルの辛い過去を話せるはずもない。
すると、 そこへテニス部の先輩である滝澤が現れた。
「彼のお父さんも肩の故障が原因でテニスを止めたから、 他の人よりケガに対する恐怖心が強いんじゃないかしら?」
滝澤は中二の弟にも分かる範囲で説明を試みると、 奈緒に向かって軽くウィンクをしてみせた。
さすが 『軍師・唐沢の知恵袋』 と称される先輩である。
臨機応変な対応とさり気ない気配りは、 女の奈緒が見習いたいと思うほど細やかだ。
「ふうん、 そうなんだ」
頼りになりそうな先輩から 「もっともらしい説明」 を受けた弟は、 ケガの具合を想像するかのように自分の肩を押さえ、
それから妙に大人びた口調で付け加えた。
「真嶋先輩、 ああ見えて色々修羅場くぐってんだな」
姉には生意気盛りの弟が背伸びした恥ずかしい台詞に聞こえたが、 滝澤はこれに失笑することなく、
「見かけ通りの男なんて、 つまらないでしょ」 と言って軽く受け流した。
そして今度は弟に見えないよう人差し指を口にあて、 そっと首を横に振った。
「これ以上、 彼に余計な話を聞かせる必要はない」 と、 言いたいのだろう。
大人の配慮に会釈を返した奈緒は、 皆と一緒にコートの中へ視線を戻した。
正直、 あまり見たくないと言うのが本音である。
青白い顔をしたトオルもさることながら、 これから対戦する相手を思うと気が滅入る。
次のダブルスの相手は、 トオルの親友であり唐沢の弟でもある、 松林高校の唐沢疾斗 (はやと) なのだから。
中等部時代、 不良グループの仲間と暴れ回っていた疾斗を、 テニスの世界に引き戻したのはトオルである。
以来、 疾斗は恩返しのつもりなのか、 何かにつけて奈緒の事まで面倒見てくれる。
トオルが渡米する際、 空港まで連れて行ってくれたのも彼なら、
アメリカでの様子を小まめに知らせてくれたのも彼である。
真っすぐであるが故に壁にぶつかり易く、 純粋であるが故に傷つき易い。
疾斗とトオルはよく似ている。
ただ一つだけ違うとすれば、 疾斗の方が兄二人の確執を見て育ったせいか、
より現実的に物事を捉えるよう仕込まれている。
要するに、 割り切りが良いのだ。
それは対戦前に交わされた挨拶からも、 感じ取ることが出来た。
「トオル?前の試合でアクシデントがあったらしいが、 俺は容赦しねエからな」
青白い顔の親友に対し、 最初に疾斗がかけた言葉はこれだった。
その宣言どおり同情どころか戸惑いすら見せず、 彼は得意げにラケットのグリップをクルクルと回しながら、
なおも続けた。
「親友だろうが兄弟だろうが、 敵は敵として全力で叩き潰す。
お互いブロック優勝がかかっているんだし、 それが礼儀ってもんだよな、 海斗?」
二人の兄を持つ疾斗は、 長男の北斗を 「兄貴」 と呼び、
次男の一つしか違わない兄の方を 「海斗」 と呼び捨てにする。
年下でありながら、 切れ者の部長と恐れられる唐沢と対等に話ができるのは、 弟にのみ許される特権なのだろうが、
その恵まれた立場を差し引いても余りある、 強者を蹴散らす 「勢い」 のようなものが、 今の疾斗からは感じられる。
そして彼とダブルスを組む、 もう一人の選手からも。
ちょうど疾斗が途中入部した頃と時を同じくして、 松林高校テニス部は新しく腕の良いコーチを招き入れ、
本格的に強豪校に名を連ねる体制を整えたところだった。
「勝つテニス」 を目標に掲げる新コーチのもと、 第一期生として育てられた彼等は、
今大会で自チームがその成果を発揮するにつれ、 ますます自信を強めていった。
まさに破竹の勢いでブロック優勝を狙う松林の二人に反して、 光陵ペアは試合前から意気消沈している。
かろうじて 「ご自由に」 と一言、 唐沢が返したが、 心なしか態度がぎこちなく見える。
さすがに実弟を敵に回すとなると、 いくら百戦錬磨の部長でも心穏やかなはずがない。
まして不調のパートナーと共に乗り切らなければならないのだから、最も窮地に立たされているのは唐沢かもしれない。
この試合、光陵学園にとって最悪の結果になるのでは――
そんな奈緒の漠然とした不安が、 第4ゲーム開始直後にはスコア上にも表れていた。
互いにサービス・ゲームをキープする形で迎えた第4ゲームは、 光陵側にサーブ権があった。
しかし、 いつも正確に入るはずのトオルのサーブが、 まったく決まらない。
『ブレイザー・サーブ』 を完成させる為に一日千本以上のサーブ練習をこなし、
どのポジションからでもピンポイントで打ち込めると豪語するトオルが、 まさかの失態である。
彼のサーブは高度な技術を要するだけに、 ほんのわずかな心の乱れが大きな狂いに転じやすい。
手元の1ミリの誤差がネットを越える頃にはラインを割り 、その結果、フォルトに続くダブル・フォルトの失点を招いた。
相次ぐミスに場内には白けたムードが漂い、 それが新たな重圧となってサーバーに圧し掛かる。
嫌なムードを断ち切ろうと、 トオルは上を向いて首を振ったり、 深呼吸してみたり、 肩を回して緊張を解いたりと、
躍起になって調子を戻そうとしているのだが、 やればやる程その行為が悪あがきに見えてくる。
サーブを入れない限りパートナーの唐沢にも対処のしようがなく、
ポイントを失う度に黙って左右のポジションを行き来している。
初心者の域を脱し切れない奈緒でさえ、 こんなに 「フォルト」 のコールを連続して聞いたのは初めてかもしれない。
結局、 第4ゲームはボールが一度もコート上を往復しないまま、
光陵は大事なサービス・ゲームをブレイクされてしまった。
ゲームカウント 「1−3」。
形式上はブレイクと言うのだろうが、 実際にはトオルのサーブ・ミスによる自滅である。
常に結果だけを重視する唐沢も、 今回ばかりはミスを責める事もせず、 慰める側に回っている。
「すみません、 唐沢先輩」
「謝ることはない」
「でも、 こんなミスを連発するなんて。
まったく、 何やってんだ!オレ……」
「気にするな。 反撃のチャンスはいくらでもある」
前半から苦戦する二人の様子を見て、 最初に矛盾を口にしたのは弟の和紀である。
「なんか、 おかしいよな?」
「トオルの事?」
「いいや、 もう一人の先輩の方。 あの唐沢って人、 何もしねエじゃん。
普通パートナーの調子が悪かったら、 その分フォローとかするだろ?」
サッカー部に在籍し、 チームワークの大切さを嫌と言うほど叩き込まれた弟ならではの指摘である。
「でもサーブ入れないと、 どうしようもないから」
「違げえよ。俺が言いたいのは、 他のゲーム!
真嶋先輩が絶不調だって分かっているのに、 なんであの先輩、 フォローに回らないんだよ?」
「だって、 あんなドロップショット打たれたら動けないよ」
自滅した第4ゲームを除き、 光陵が苦戦する原因は、 疾斗から放たれるドロップショットあるように見えた。
ちょうど後衛の正面にあたるネット際で急降下するドロップショットは、
前衛、 後衛、 どちらからも遠い位置で落とされる為に、 拾いに行くには相応の瞬発力がいる。
それを松林は巧みに利用して、 得点を重ねていた。
ところが奈緒の拙い分析に、 滝澤が補足の形で口を挟んだ。
「ドロップショットのせいだけじゃないわ。
確かにあのドロップショットは厄介だけど、 海斗なら問題なく拾えるはずよ」
「じゃあなんで、 アイツは拾わないんですか?」
フォローのない腹立たしさから、 和紀は唐沢のことを 「アイツ」 と呼び始めた。
「海斗が拾いに行けば、 後ろにせよ左右にせよ、 コート半面ががら空きになるでしょ?
だからと言って、 今の坊やじゃ機転を利かせてカバーに回る余裕はない。
つまり拾っても、 拾わなくても、 結果は同じなのよ」
「でも、 アイツさっき二対一で戦ってたじゃん!
すっげえ強いくせに、 力の出し惜しみしている気がする」
初戦の杏美紗好 (アンビシャス) 学院との試合から見ていた弟は、 まだ納得し切れない様子である。
唐沢の実力を持ってすれば、 一人で戦っても充分勝算があるという理屈だ。
話を聞いているうちに、 奈緒にも弟と同じ矛盾を感じるようになった。
部長を引き継ぐ前は軍師と謳われた彼が、 何の策も講じないというのは確かに妙である。
「なかなか頭のいいボクね……」
「ボ、 ボク?」
トオルを応援したいという和紀の気持ちを酌 (く) んでくれたらしく、
滝澤は先輩への失礼な言葉遣いを咎めずに、 にこやかに説明を続けた。
「ドロップショットもそうだけど、 海斗が動けない理由はもう一つ。
松林が 『ドリルスピンショット』 を警戒して、 フラットで返球しているからなのよ。
回転がなければ、 トップスピンの返し技を使うことは不可能でしょ?」
「それって、 真嶋先輩が初戦で出した決め球のことだよな?」
「そうよ。 フラットで返される限り 『ドリルスピンショット』 は封じられたのも同じ。
二人の切り札を出せないようにしておいて、 調子の悪い方を重点的にドロップショットで攻めているってわけ」
「なんか他に作戦ないのかよ?」
「海斗一人が拾いに行っても、 体力を削られるのがオチでしょうね」
「そんなぁ……」
応援する先輩の絶望的な状況を知り、 和紀が丸い目を潤ませた。
種類は違えど、 同じスポーツを極める者として、 窮地に立たされた選手を思いやる気持ちは、 人一倍強いようだ。
涙目になる弟に対し、 滝澤が再びウィンクをして見せた。
「でも心配しないで。 ボクの言う通り、 うちの部長は 『すっげえ強い』 から」
「やっぱ作戦あるのか?」
「見てらっしゃい。 彼は待っているはずよ」
「何を?」
「もう一人の 『すっげえ強い』 パートナーの復活を……」
唐沢のサービス・ゲーム以外、 全て向こうの手に渡るという最悪の状態で、 第8ゲームが始まろうとしていた。
カウントは 「2−5」。
ここで点を取らなければ光陵の勝利はないという段になって、 またしてもトオルにサーブが回ってきた。
もう同じ失態を繰り返すわけにはいかない。
トオルは強い決意をこめて、 唐沢に宣言した。
「先輩、 同じ失敗は二度としません。 今度こそ必ず決めてみせますから」
「分かっているって。 気にすんな」
「先輩、 あの……?」
先程から薄々感じていた事だが、 どうも唐沢の様子がおかしい。
調子の悪いトオルにも、 数々の矛盾点が違和感として伝わってくる。
試合前に 「覚悟がないなら戻ってくるな」 と厳しい伝言を託したにもかかわらず、
大事な場面でのフォルトの連発に怒る事もない。
「俺に頑張りましたは通用しない」 と明言するほど結果にこだわる先輩が、 何故ここへきて寛大になったのか。
まるで勝負を捨てたかのように、 飄々 (ひょうひょう) とした態度で自分に接している。
不甲斐ない後輩を叱ることもなく、 励ますわけでもなく、 良くも悪くも感情が伝わってこない。
今にして思えば第4ゲームで慰められた言葉にも、 気持ちが込められていなかったように思う。
淡々とポイントが奪われていく様を見過ごす唐沢。
彼は諦めてしまったのだろうか。
ダブルスは捨てて、 残りのシングルス二戦に望みを託しているのだろうか。
手元で狂いが生じるサーブと同様、 トオルと唐沢との間にも1ミリの誤差があるように感じた。
「唐沢先輩? もしかして……」
「もう勝負を諦めたんですか?」 と聞こうとして、 トオルは続きが聞けなかった。
仮にそうだとしても、 責める資格はない。
その原因を作ったのは、 他でもない自分自身である。
質問を飲み込もうと、 トオルはグッと唇を噛み締めた。
肝心なところで踏ん張れない。 自分に対する情けなさと怒りが、 同時に押し寄せてきた。
出来ることなら先輩と共に戦い続けたい。 200%の信頼を保ったままで。
それなのに、 今の自分にはそれを望む資格もないのだろうか。
もう、 次のゲームが始まる。
すでに唐沢は先にコートに入り、 ネット前でスタンバイしている。
本当は、 こんなみっともない試合は早く終わらせたいと思っているのかもしれない。
単なる事故で集中力を失くし、 ダブル・フォルトを連発する後輩とは、
恥ずかしくてダブルスを組むのも嫌だと思われているのかもしれない。
光陵の白いユニフォームを着た先輩の背中が、 やけに遠く感じる。
それでもと、 トオルは思い直した。
例えこれが最後のゲームになったとしても、 サーブだけは入れておきたい。
海南の敗北を背負うと覚悟を決めた自分に課せられた最低限の使命。
これだけは、 何としても果たさなければならない。
そう決心してコートに入ろうとした矢先、 前を向いた状態で唐沢が口を開いた。
「真嶋……この予選が始まる前に聞いたこと、 覚えているか?」
遠くにあるはずの背中が、近くに感じる。
顔を見ずに声だけを聞いたから、 そう思えるのか。
普段通りの落ち着いた声にほんの少し安堵を抱きつつ、 トオルは質問に素直に答えた。
「『俺のこと、 信用しているか』 って聞かれました」
「で、 オマエは何て答えた?」
「200%信じると、 答えました」
「覚えているなら、 大丈夫だな?」
目の前で、 白いユニフォームがふわりと揺れた。
振り向くと同時に、 トオルへ投げられた真っすぐな視線。
ココア色した前髪の隙間から見えた眼差しは、 お世辞にも温かなものとは言えないが、
だからこそ偽りのない真実がそこにあった。
「俺もだ、 真嶋。
俺もオマエを信じている。 200%だ」
「唐沢先輩……」
今まで、 この先輩の何を見てきたのだろう。
ダブルスのペアを組んだ時に、 最初に言われたではないか。
「これから俺達は運命共同体だ。 オマエが潰れれば、 俺も潰れることになる」
その言葉通り、 唐沢はトオルと運命を共にしようとしているのだ。
飄々として見えたのは、 すでに彼の中では覚悟があったから。
だからこそ、 叱る事も励ます事もせずに、 淡々と自分の運命をパートナーに委ねた。
200%の信頼は一人だけのものではなく、 トオルがその言葉を口にした時点で、 彼も誓ってくれていたのだ。
何処までも信用していると。
見るべきものが見えてきた。
今本当に目を向けなければならないのは、 恐怖でもなければ、 悔いを残した過去でもない。
ひたすらトオルの復活を信じて待つ白い背中。
そしてネットの向こうの真剣勝負を挑んできた対戦相手の二人。
この三人さえ視界に入れば充分である。
ようやく戦う準備が整った。
互いに寄せ合う200%の信頼が、 トオルの心を落ち着かせてくれた。
頭の中が、 水を打ったように静かになった。
心地よい緊張感が注ぎ込まれる感覚。 いつもの感覚が甦ってきた。
一つ、 二つ、 三つ。 サーブ前の三回のバウンドが、 自らの復活を告げる。
背中を通して、 唐沢の微笑む顔が目に浮かんだ。
乱れのないトスが上がり、 狙い通りのサーブが相手コートを走り抜け、 周囲のフェンスを激しく揺らした。
ノータッチエースを知らせる審判コールが響くと同時に、 トオルは前の背中に向かって話しかけた。
「唐沢先輩? さっき 『容赦しないのが礼儀』 って言われたと思うんですけど、 こんな感じでいいッスか?」
「ああ、 そうだな。 でも、 もう少し加減した方がいいかもな。
あと5ゲーム持たせないと」
予想通り、 振り向いた唐沢は笑みを浮かべていた。
いつもの賭けに勝利した時の、 あの不敵な笑みを。
彼の 「5ゲームあるから」 の発言は、 「2−5」 のカウントから 「7−5」 までの大逆転を意味している。
ここから反撃開始するつもりなのだ。
唐沢との間に誤差はない。
何故なら、 トオルも同じ事を考えていたのだから。
『ブレイザー・サーブ』 の完全復活により、 「3−5」 と2ゲーム差に近づいたスコアを見届けてから、
唐沢が小声で指示を出した。
この試合に入って初めての指示、 それはダブル・バック ―― つまり二人ともが後方へ退き、
守りを固めるフォーメーションである。
二人が後ろへ下がるという事は、 必然的にネット前はがら空きになる。
本来、 ドロップショットに苦戦するペアが最も敬遠するフォーメーションで勝負すると聞かされても、
トオルは動じなかった。
「先輩。 オレ 、こういう強気な作戦、 嫌いじゃないッスよ」
「一応、 こっちも 『礼儀』 を通さなきゃいけないかと思ってさ」
「容赦なしの?」
「そ、 容赦なしの……売られたケンカは勝たなくちゃ」
「了解!」
ダブル・バックの陣型を取った光陵ペアに対し、 疾斗が勝負あったとばかりに得意になった。
「守りに入るようじゃ、終わりだな。
優勝は、 うちが貰ってやるぜ」
言った傍から、 ネット際に落ちるドロップショットが放たれた。
次の瞬間、 トオルは唐沢の 「守りじゃない。 罠だ」 と呟く声を背にして、 前方へ走り出た。
一見、 防戦一方に見えるダブル・バックだが、 これは敵のドロップショットを誘い出す為の作戦である。
本来ドロップショットは不意を突くから有効手段になるのであって、
最初から落とされると分かっていれば、 チャンスボールに他ならない。
特にトオルの俊足を持ってすれば、 相手のラケットからボールが離れたと同時にダッシュしても
充分間に合う距離であり、 そこから反撃する事も可能である。
恐らく疾斗には、 トオルの返球が偶然の産物と映ったに違いない。
一度ネット上を滑るようにつたってから相手のコートに落ちるという、 いかにも際どいドロップ・ボレー。
初めて見せられた人間は、 たまたま向こう側に落ちたと思うはず。
まさか狙ってやったとは、 これがトオルの第二の決め球であるとは、 気付きもしないだろう。
その後何度か同じ手順でポイントを奪われ、 遂には自分達のサービス・ゲームをブレイクされるという
屈辱的な結果に陥るまでは。
ゲームカウント 「4−5」 まで追い上げた数字を、 唐沢が満足げに眺めている。
「そろそろ俺もエンジンかけるとするか……」
癖のない長い前髪を一度だけ掻きあげる。
一部の者しか知らないが、 サーブ前に集中し直す為の唐沢独自のポーズである。
新聞の斜め読みという変わったやり方ですでに集中力を高めている彼にとって、サーブ前の儀式はこれで充分だった。
そして彼のラケットから繰り出されたサーブは、 部長を引き継いで尚、 軍師の名が健在である事を
周囲の人間に思い起こさせるものだった。
「なんで……?」
足元をすり抜けてフェンス脇まで転がっていくボールを、 疾斗が信じられないという目つきで追っている。
サーブを受ける時の構えのままで、 目だけは通り過ぎていったボールを凝視する様は、
身に起きた現実をまだ理解し切れていないようである。
今の彼には 「ボールに細工があるのでは」 と疑うより他に、 自分を納得させる手段はないのだろう。
「全力で叩き潰す」 と息巻く弟を敵に回し、 調子の悪いパートナーを抱えながらの不利な状況の中で、
まさか兄の方は全力を出さずに、 六割の力だけで戦っていようとは誰も思わない。
ペアを組んでいるトオルでさえ、 あの言葉を聞くまで全力で戦っていると思っていた程である。
「俺もオマエを信じている。 200%だ」
唐沢は待っていたのだ。
1セット・6ゲーム中、 5ゲームを切り捨てでも信じて待っていた。
自分のパートナーがアクシデントを乗り越え、 完全復活を遂げるその時を。
恐らく彼には、 この試合が長期戦になる事も分かっていたに違いない。
そうなるように仕向けたと言うべきか。
だからこそ前半は六割の力で逃げ切り、 後半に力を集中させた。
10ゲームにも及ぶ長い試合では、 最初から全力を出していけば、 必ず相手の目が慣れてくる。
それが顕著に出るのが、 サーブである。
お互い手の内も分かり、 スピードにも慣れた頃に、 同じ球種のサーブを打ち込めばどうなるか。
最悪の場合、リターン・エースを取られ、 一気に形勢逆転される事もある。
試合経験豊富な唐沢はこの事態を避ける為に、 初めは六割の力でしかサーブを打たなかった。
そしてトオルが復活するのを見届けてから、 自分達の方へ勝機を呼び込もうと100%の力でサーブを放ったのだ。
このゲームでのサーブこそが、 彼の全力のスライスサーブである。
厄介なことにスライスサーブで力を調整された場合、 スピードのみならず、 回転数から軌道まで違ってくる。
疾斗が 「ボールに細工があるのでは」 と疑って掛かるのも無理からぬ事だった。
本気を出した唐沢のスライスサーブは、 まさにスライス (=切れる) の言葉がピッタリくる程の鋭さがあるのだから。
急激に鋭さを増したサーブに、 松林の二人は当てて返すのがやっとの状態だ。
バウンド直前に低く沈み込み、 着地と同時に脇へ逸れていくサーブをまともにフラットで返せるはずもなく、
甘くなった返球はトオルのボレーで叩き落とされ、 止む無くかけたスピンボールは
唐沢の 『ドリルスピンショット』 の餌食となった。
前半の苦戦が嘘のように光陵が次々とゲームを奪い取り、 最後はもう一度トオルの 『ブレイザー・サーブ』 の威力を
見せ付け、 12ゲームにも及ぶ長い試合の幕は閉じられた。
ゲームカウント 「7−5」。
ブロック優勝のかかった試合の初戦を制したのは、 分が悪いと思われた光陵ペアだった。
「完敗だ、 海斗。 トオルの復活を信じて体力温存していたのか?」
試合後、 潔く握手を求める弟に向かって、 唐沢が普段通りの涼しい顔で辛口のコメントを漏らした。
「別に温存していたわけじゃないよ、 唐沢君」
「か、 唐沢君!?」
「前半は必要がなかったから出さなかっただけ。
後半の逆転を狙うのに、 最初から全力で突っ走るバカはいない」
「じゃあ、 最初から長期戦になる事を読んでいたのか?」
「君は興奮すると、 ラケットのグリップをやたらと回す。
もう一人の彼も、 意味もなくリストバンドを触る変わった癖があるよね?
これじゃあ冷静な判断が出来るはずもないし、 もちろんペース配分なんて考えられない。
わざわざ 『全力で叩き潰す』 と言われなくても、 最初から全力で来るって読めるでしょ?
おかげでゲームプランは立てやすかった。
全力で仕掛けた後には、 下り坂しか残っていないからね。
弱った敵を叩き潰すのは難しいことじゃない」
文字通り、 容赦ナシの厳しい指摘に、 さすがの疾斗も返す言葉がない。
ようやく同じ舞台に立てたと思い全力で挑んだ勝負だが、 兄の方が一枚も二枚も上手だった。
なかなか超えられない壁に、 弟が唇を噛んだ矢先。
「唐沢君、 もう君と対戦する事もないと思うから、 俺から一つアドバイス。
目立つ癖は早目に直した方がいい。
特に優勝候補として皆から注目される立場にある人間はね」
単に兄と弟の実力差だけでなく、 これが常勝を支えるリーダーと新米レギュラーとの格の差でもある。
六年間も強豪校のエースを担ってきた経験者の言葉には、 破竹の勢いをも退ける重みがあった。
「さすがだな、 海斗。 やっぱ、 スゲエや」
素直に兄の観察力に敬意を表した弟に、 唐沢は更に追い討ちをかけた。
「それからもう一つ。 礼儀を語るなら他校の先輩には 『さん』 付けすること。
『兄弟だろうが敵は敵』 と宣言したくせに、 考えが甘いと分かってしまう。
ついでに言わせて貰えば、 兄弟だろうが何であろうが、 敵として見なすのは当たり前。
俺はネットの向こう側に立った時点で、 誰であろうと容赦はしない」
「ブハハッ! 一本とられたな、 疾斗!」
それまで唐沢兄弟のやり取りを黙って聞いていたトオルだが、 とうとう堪えきれなくなって噴出した。
いつも唐沢から厳しい指摘を受けてばかりの者には、 他の人間が同じ目に遭っていると、 つい手放しで喜んでしまう。
だが、 その喜びも長くは続かなかった。
「断っておくが、 オマエもまだ甘い事に変わりないからな」
鋭い指摘の矛先が、 当然のようにトオルへと向けられた。
「えっ? でも、 さっき200%信頼してくれるって言ったじゃないッスか?」
「あれは鈍臭いオマエのエンジンをかける為に言った事であって、 本心じゃない」
「じゃ、 じゃあ本心は?」
「ま、 80%ってところだろうな。 全てにおいて甘いんだよ、 オマエは!
考えも甘いし、 戦略も甘いし、 詰めも甘い」
「マジっすか!? オレ本気で嬉しかったのになぁ。
あの言葉、 録音しておけば良かった……」
200%の信頼は試合終了と同時に崩れ去り、 未熟者の烙印だけが残された。
具体的な数字を出されると、 より一層未熟さを感じてしまう。
うなだれるトオルの肩を、 唐沢が軽く叩いた。
「まだシングルスが残っている。 さっさと出るぞ」
そして追い越す瞬間に、 相変わらずの抑揚のない声でこう付け加えた。
「改善点はまだまだあるが、 今日の試合は上出来だ。
よく頑張ったな、 トオル」
「へっ? 先輩、 いま何て……?」
時間の無駄を極度に嫌う先輩は、 すでに出口へ向かっていたが、 後輩の問いかけには一言だけ答えてくれた。
「相棒 (パートナー) の名前を、 呼び捨てにしちゃ悪いのか?」
白い背中が歩調を緩めることなく、 先へ先へと進んでいく。
「唐沢先輩、 待ってくださいよ!」
200%信じると言ってくれた先輩に、 置いて行かれないように。
二度とあの背中を見失わないようにと、 トオルも後について出て行った。
三十分後、 日高ハルキの活躍によりシングルス戦も制した光陵学園は、 見事ブロック優勝を果たし、
東京都予選への切符を手に入れた。