第 19 話 閉ざされた友情
ブロック優勝に続き、 大会決勝でも勝利を収めた光陵は、
二枠しかない東京都予選のへの切符ばかりでなく、
地区最強の栄誉までも手に入れた。
この栄えある優勝の瞬間を見届けたトオルは、 多くの歓声が残る予選
会場を抜け出して、 村主 (すぐり) が搬送された病院へと向かった。
本来なら、 閉会式や控え室の後片付けや、 祝勝会にも参加
しなければならない立場だが、 レギュラーとしての最低限の
役割を果たした時点で居ても立ってもいられなくなり、
部長の唐沢に頼み込み一足早く帰らせてもらったのだ。
正直に言えば、 試合中でこそパートナーに迷惑かけまいとプレーに集中したものの、
それ以外の時間はずっと村主の事を考えていた。
単なるアクシデントと割り切るには、あまりにも関わりの深い相手。
トオルがまだ初心者の頃、 どこにいても練習は出来ると教えてくれた先輩であり、
レギュラーのプレッシャーに押し潰されそうになった時にはテニスの楽しさ思い出せてくれた恩人であり、
そしていつの日か、 対等に戦いたいと願っていた尊敬すべきプレイヤーでもある。
その村主にケガを負わせてしまった。
幸いコーチやチームメイトのおかげで吐く程の恐怖はもうないが、
選手生命に関わる傷になりはしないか、 後遺症が残るのではないかと、 最悪の事態ばかりを思い連ねていた。
病院へはバス停で数えて五つ程の距離で、 運行表を見ると十分後にはバスが来る予定だった。
しかしトオルはバスには乗らず、 試合後の疲れた体に鞭打って、 目的地まで走っていく事にした。
夕方の時間帯は道路が混んでいるのも理由の一つであるが、 バスをじっと待つ行為そのものが、
どうにも我慢できなかったのだ。
荷物の詰まったテニスバックを担ぎ、 汗だくになりながら病院の待合室へ駆け込むと、
中では元・部長の成田が待っていた。
「真嶋、 おめでとう。 優勝したんだってな。
さっき海斗から連絡があった。
お疲れ様。 あの状態でよく頑張ったな」
「ありがとうございます。 それより村主さんは?」
挨拶もそこそこに容態を聞き出すトオルを見て、 成田が困惑気味に眉をひそめたが、
すぐに思い直したように会話を繋げた。
「とりあえず病室まで案内しよう。 詳しい話はそこで……」
「病室って、 どういう事ですか!?」
トオルは思わず、 前を歩く成田の肩を鷲掴みにした。
先輩の話を途中で遮る事はもちろん、 不意打ちで後ろから肩を掴むなど失礼極まりないと分かっているが、
そうせずにはいられなかった。
村主が病室にいるという事は、 即ち入院を意味する。
「そんなに……そんなに悪いんですか?」
声が震え、 脚が震え、 前に伸ばした腕まで震え出し、 そこで初めて感情の高ぶりを自覚したトオルは、
慌てて成田の肩から手を離した。
「すみません。 動揺して、 つい……」
「心配するな。 入院と言っても、 大したことはない」
恐らく唐沢を通して、 予選会場で何が起きたか知らされているのだろう。
成田は度重なる失礼な態度にも、 不自然な震えにも動じる事なく、 すたすたと前を歩いていった。
そして病室まで来ると、 さり気なく後ろへ回り、 「元気な顔を見た方が安心するから」 と言って、
まだ震えの残るトオルの両肩をそっと押した。
八つのベッドが並ぶ大部屋の入口近くに、 彼はいた。
「トオル。 嫌な思いをさせて、 すまなかったな」
傷を負わせたトオルよりも先に、 村主が謝罪の言葉を口にした。
「俺が無茶をしたせいで、 こんな事になって、本当に悪かったと思っている」
「な、 何を言ってるんですか!? オレがあんなコースに打たなければ……」
「それは違う!」
まるで他者からの謝罪は一切受け付けないと言わんばかりの勢いで、 村主の怒鳴り声が返ってきた。
「あれは完全に俺の判断ミスだ。 オマエのスマッシュを甘く見ていた俺の……
だからもう、 この事で自分を責めないでくれ。
俺のせいでオマエを煩わせたくない」
傷つけた人間が思い悩むことで、 傷つけられた人間が苦しむこともある。
後悔に満ちた村主の顔は、 その苦悩を表していた。
何か彼を楽にしてあげられるような返事をしなければ。
これ以上、 被害者である彼を苦しめてはいけない。
思いはすれど、 頭に浮かぶのは後悔と謝罪ばかりで、 慰めになりそうな言葉が見つからない。
本当は 「もう気にしていませんから」 と、 一言だけでも返した方が良いのだろうが、
面と向かって恩人に嘘を吐けるほど大人ではなかった。
気心知れた二人の間に、 よそよそしい沈黙が漂い始めた。
「靭帯損傷だ。 骨に異常はないし、 さっきも言った通り入院する程のケガじゃない」
二人の様子を見かねた成田が、 病室に充満しかけた沈黙を取り払ってくれた。
「ここは日高コーチの知り合いで、 スポーツ選手を専門に診てくれるスポーツ・ドクターが常駐する病院だ。
リハビリ科の設備も充実しているし、 ドクターがケガの治療から再発防止のケアの仕方まで、
しっかり教えてくれるらしい。
だから完全に復帰できるまで、 入院しようという事になったんだ」
「それじゃあ、 またテニスできるんですか?」
「当然だ。 この村主がそんな簡単にテニスを止めると思うか?
一面のコートで練習を重ねて、 俺達に勝負を挑んできた執念の男だぞ?」
成田が場を和ませようと、 柄にもなく飛ばした冗談を、 村主が笑顔で受け取った。
「予選は逃したが、 コートが消えてなくなるわけじゃない。
オマエ達とも、 いつか必ず決着をつけてやるさ」
「村主さん……」
確かにコートが消えることはない。
その気になれば、いつでも試合は出来る。
だが逃した物の重みを考えると、 トオルはどうしても二人のように笑い飛ばすことは出来なかった。
「打倒・光陵」を掲げて、 一面のコートから六年の歳月をかけて這い上がってきた村主。
彼と同じ夢を持ち、 共に進んだ部員達。
彼等の夢が砕けてしまったと思うと、 砕いた側の人間からは何も言えなかった。
病室を出てからも、 トオルは一言も口をきかなかった。
村主の前では饒舌だった成田もまた、 話しかけてこなかった。
二人して押し黙ったまま長い廊下を歩き、 気が付けば人気のない待合室まで戻っていた。
大勢の患者で混雑するはずの待合室が静かな理由は、 今日が休日だからである。
日高の人脈のおかげで特別に受診させてもらえたが、 本当は一般の患者が出入り出来ない曜日だったのだ。
現に受付にも会計にも病院のスタッフは一人もおらず、 閉店後の商店街にいるような居心地の悪さを感じる。
違和感の原因は他にもある。
消毒薬の匂いのする空間に差し込むオレンジ色の夕日。
その光を受けて金色に輝く車椅子や、 搬送用のストレッチャーも。
明るくあってはならないとは言わないが、 暗いイメージの物にキラキラと輝かれると困ってしまう。
素直に綺麗だと感じて良いのか、 悲しいと受け取るべきなのか。
ぼんやりと立ち止まるトオルの脇を素通りして、 成田が玄関横にある自動販売機の前まで来て振り返った。
「真嶋はコーヒーより、 紅茶だったよな?」
「いいですよ、部長。オレ、自分で買いますから……」
慌ててポケットから小銭を出そうとするトオルを、 成田が止めた。
「これから祝勝会だろ? 行く前に、 ここで一息ついていけばいい。
高等部の祝勝会は、 試合よりキツイから」
「そうなんですか?」
「真嶋は初めてだよな?
一年にとって、 あれは祝勝会っていうより拷問……いや、 試練かな」
失言とばかりに 「拷問」 を 「試練」 と言い直す先輩を、 トオルは訝しげな目で見つめたが、
その視線を避けるようにして、 彼は自動販売機のボタンを押していった。
レモンティーに続いて、 ココアの缶が一つ。
甘い物好きの成田らしい選択である。
好みの飲み物を手にした二人は、 どちらからともなくオレンジ色に染まった待合室の椅子に腰を掛けた。
奢ってくれた先輩へ一礼し、 トオルが缶の蓋を開けた時である。
おもむろに成田が悪夢の試合について語り始めた。
「確かに村主は運が悪かったと思う。 だけど、 今回の事故はそれだけじゃない。
アイツは勝機を見誤った。 あの事故の原因は、 奴の甘さにある」
初めトオルは聞き間違いではないかと、 耳を疑った。
事故の現場に居合わせ、 ケガをした村主に付き添い、 彼の苦悩も目の当たりにした人間が、
こうもあからさまに被害者を非難できるものなのか。
疑念を露に凝視する後輩を気にも留めず、 成田は淡々と話を続けた。
「試合のレベルが高くなればなる程、 ちょっとした運の良し悪しが勝敗に左右する。
自分の実力と関係ないところで、 運の悪さに翻弄される事もあるだろうし、
この先泣かされる事もあるかもしれない。
だけど真嶋。そのちょっとした運の良し悪しを自分の方へ引き込めるかどうかも、 本人の実力次第なんだ」
「村主さんは、 その実力がなかったと言うんですか?」
「実力と言うよりも、 アンテナがなかった」
「アンテナ?」
「あの試合は実質、 頂上決戦だった。
考えてもみろ。 光陵と海南のリーダー同士の直接対決だ。
だからこそ、 どちらも絶対に勝ち急いではいけなかった。
対戦相手を観察し、 試合の流れを読んで、 勝つために必要な戦略をたてる。
どこを削って、 何を死守しなければならないのか。
戦況というのは常に変化するものだから、 素早く察知するアンテナが必要になる。
村主は勝負に熱くなり過ぎて、 自分のすべき事を見失った」
確かに試合前、 唐沢からは 「守りに徹しろ」 との指示を受けた。
それ程までにあの試合は、 一瞬の判断ミスが命取りなる高度な内容だったのだ。
唐沢と村主の違いが、 成田の言うところのアンテナを持つ者と持たない者の差であって、
その結果が今回の事故に繋がった。
話を聞きながら、 トオルは改めて成田の大きさを実感した。
この冷静な判断力が、 海外のプロの養成所から誘いがかかる理由であり、
光陵を強豪と呼ばれる地位まで率いてきた男の強さでもある。
ほんの少しココアに口をつけてから、 成田がまた続けた。
「あの時点で村主は、 オマエのスマッシュを無理して拾う必要はなかった。
たとえ失点したとしても、 引き分けになる。 後半の可能性を考えれば、
あそこは削っても良いポイントだったと思う。
オマエの村主に対する感情はともかく、 これだけは事実として頭に入れておけ。
ここから先は実力の他にも、 正確に機能するアンテナを持っていなければ進めない。
どんな些細な状況の変化も、 勝つか負けるかで判断しろ。
勝利に結びつくなら迷わず手にしろ。 敗北に繋がる危険があるなら、 遠慮なく切り捨てろ。
これが俺からの最後のアドバイスだ。 いいか 、真嶋? 自分の立ち位置を見誤るな」
それは決してトオルを慰める為に向けられたものではない。
悪夢の試合に対する厳しい批評は、 さらに高みへ挑もうとする後輩へのアドバイス。
今回の地区予選を最後に、 成田は渡米する事になっている。
つまり、 本当に最後のアドバイスなのだ。
「部長? オレ部長と一緒にイン・ハイへ行きたかったです」
もっと先の話だと思っていた先輩の旅立ちが間近に迫っていると知らされて、
トオルはつい本音を漏らしてしまった。
「あっ、 いや……無理なことはよく分かっているんですけど、 もっと部長に色々教わりたかったなって……」
成田の渡米は変えようのない現実で、 本人も苦渋の選択をした末の結論なのに。
彼の穴を埋める為に、 自分がアメリカから呼ばれたというのに。
いざとなると名残惜しさが出てしまう。
「す、 すいません、 部長。 つまらないこと言って」
己の未熟さを実感して素直に頭を下げるトオルに対し、 成田からはまったく別の返事が戻ってきた。
「真嶋、 そろそろ俺のことを 『部長』 と呼ぶのは止めてくれないか。
第一、 海斗に悪いだろ?」
「あっ、 すみません。 唐沢先輩に 『部長』 って呼ぶなって言われたから、
つい部長のイメージが成田……えっと、 成田先輩だと思ってしまって」
「海斗が?」
「はい。 試合中は一人のプレイヤーとして集中したいから、 『部長』 と呼ぶなって言われました」
八十人からなるテニス部の中で、 唐沢とペアを組むトオルだけは、 現・部長の事を 『唐沢先輩』 と呼んでいる。
事情を知らない人間は不思議に思うだろうが、 これは本人からのリクエストだった。
「そうか……」
呟きと共に、 成田が淡い笑みをこちらに向けた。
見慣れないので断定できないが、 たぶん笑っているのだと思う。
常に厳格の印象がつきまとう先輩の笑みは、 病院の待合室にオレンジ色の夕日が差し込むよりもミスマッチで、
甘ったるいココアを飲みながら悪夢の試合の酷評をすることよりも不釣合いな光景だった。
実は前に一度だけ、 彼が笑うところを見たことがある。
三年前、 都大会の前日に偶然会った甘味処で、 彼は部員の前では決して出さない素顔を見せた。
あそこで過ごす時間が、 部長の役を演じる彼に唯一許される 「幕間」 だと漏らしていた。
しかし今の消えそうな笑みは、 あの頃の屈託のない笑顔とは少し違う。
本当は辛いのに無理して笑っているような ――下がっているのか曲がっているのか分からない眉や、
少ししか緩んでいない口元や、 力なく傾げる首筋も―― 悲しいとも嬉しいとも、 どちらとも取れるだけに、
良くない方向へ捉えてしまう。
これが寂しさの入り混じった笑みだと理解したのは、 この直後である。
「少し……妬けるかな」
「えっ?」
「さっき海斗が真嶋のことを名前で呼んでいた。
『トオルがそっちへ行くから、 よろしく頼む』 って」
「はぁ」
「俺が海斗に名前で呼ばれることは、 もう二度とないから」
そう言って、 成田はまた同じ笑みを浮かべた。
トオルは答えに詰まった。
二度ということは、 過去にはあったという事だ。 成田を名前で呼んでいた時期が。
二歳年上の兄・北斗がいる為に、 唐沢は同級生から 「海斗」 と呼ばれている。
それはハルキが父親の日高と区別されるのと同じ理屈である。
しかし唐沢本人が他の人間を名前で呼ぶのは、 ほとんど聞いた事がない。
特に成田に関しては、 最も信頼を寄せる人間であるにもかかわらず、 不自然なまでに苗字で通している。
二人の間に何があったのか。
この疑問に踏み込んで良いのか悪いのか、 判断がつかず黙っていたのだが、
トオルの迷いを察したらしく、 聞き返す間もなく、 成田の方から過去の経緯を話し出した。
「海斗はよほど信頼を寄せた人間でない限り、 必要もないのに名前で呼ぶことはない。
たぶん……真嶋が初めてじゃないかな。 アイツの心を開かせたのは」
「心を開かせるなんて、 そんな大それたことしてないッスよ」
「いや、 大それたことだ。
俺が五年かけてやろうとして出来なかったことだから」
「あのう、 オレよく意味が分からないんですけど……?」
「うん、 真嶋にはきちんと話をしておいた方が良さそうだな」
その言葉と同時に、 淡い笑みが跡形もなく消えた。
五年前、 当時中学一年の成田と唐沢は、 光陵テニス部始まって以来の期待のルーキーとして、
周囲からの注目を集めていた。
実力の高さは勿論のこと、 一年生からレギュラーに抜擢された事が最大の理由だった。
昔の光陵は今のようなバリュエーションのシステムはなく、 レギュラーは三年生から選ぶのが
慣例となっていたのだが、 それを当時の部長を務める唐沢の兄・北斗が壊したのだ。
全てはチームを強くして、 関東大会へ出場する為に。
成田の目から見ても北斗と唐沢はごく普通の兄弟で、 特別仲が良くも悪くもなかったが、
たった一つ、 テニスに関しては互いにその実力を認め合うライバルのような関係だった。
ところが 「ある事件」 をきっかけに、 二人の兄弟は確執を抱えたまま、 歩み寄る事がなくなったという。
「それって、 兄弟喧嘩か何かですか?」
「いや、 事情は分からないけど、 兄弟喧嘩なんて生易しいトラブルじゃなかった事だけは確かだ。
何度か問いただしてみたんだが、 海斗は 『俺たち兄弟の問題だから』 と言って教えてくれなかった。
ただ事件が起きたのが関東大会の当日で……」
暗くなり始めたロビーに成田の話し声が静かに響いた。
関東大会出場を目標に、 実力重視で一年生からレギュラーを抜擢し、
当時としては異例の内部改革を行ったテニス部の夢が、 ようやく実現しようという日の朝。
成田と初戦のダブルスを任された唐沢は、 試合会場に現れなかった。
携帯電話へかけても繋がらず、 兄の北斗に理由を聞いても答えてくれず、
事情を呑み込めないまま成田は一方的にパートナーの変更を言い渡された。
しかし前日に 「オマエと一緒に戦う限り、 負ける気がしない」 と話していた親友の言葉を信じ、
成田は頑なに変更を拒否し続けた。
唐沢は必ず来る。
心から信頼を寄せるパートナーが、 自分に何も言わず試合を放棄するはずがない。
裏切るはずはないと信じて。
コーチを始め他の先輩からも説得されたが、 頑として聞き入れず、 成田は待つと主張した。
実際、 当時の光陵は戦力になる部員も少なく、 急きょパートナーを変えたところで棄権負けするのと変わらない。
成田の頭の中では、 唐沢が欠けた時点でチームの勝敗も見えていた。
結局、 試合が始まる時間になっても親友は現れず、 初戦のダブルスは棄権負けとなり、
すっかり戦意を喪失した光陵は、 一回戦敗退という最悪の結果と共に夢の舞台を去ったのだ。
「俺はあの時、 海斗を待つべきではなかったんだ」
恐らく、 何度も後悔したのだろう。
成田のかすれた声が、 心の奥に秘めた苦悩を搾り出しているかのように聞こえた。
「でもオレが成田先輩の立場だったら、 きっと同じ事をしたと思います」
トオルは成田と唐沢の関係を、 自分とハルキに重ね合わせた。
ハルキとは親友と呼ぶほどの仲ではないが、 テニスに関しては絶対に裏切らないという確信のようなものがある。
ダブルスを組んだ事もなく、 顔を合わせればケンカばかりしているが、
村主との対戦後、 散々吐いたあとの控え室で、 黙って手を差し伸べてくれたハルキ。
あの手の温もりの中に、 信頼という絆が出来たように思う。
例え一方的な信頼であっても、 トオルが同じ立場なら、 迷わずハルキを待つだろう。
「アイツに限って、 裏切るはずはない」 と言って。
成田がつっと席を立った。
躊躇いもなく 「同じ事をした」 と断言する後輩の、 何処までも真っ直ぐな主張から逃れるようにして。
そして一歩、 いや半歩かもしれない。 トオルとの距離を取ってから、 振り向きざまに問いかけた。
「そのせいでアイツが自分を責め続けたとしても……?」
一瞬、 鈍器で胸を突かれたのかと思うほどの重苦しい痛みを感じ、 トオルは言葉を失った。
彼の凍りつくような暗く冷たい視線が、 出したばかりの答えを否定に変えた。
「海斗はずっと俺の信頼を裏切ったと自分を責めて、 その償いをする為にテニス部に残った。
本当なら退部になるところをコーチに土下座までして謝って、 事件の事で先輩達からしつこく嫌がらせを受けても
言い訳せずに、 ひたすら俺への償いの為だけにテニス部員であり続けた。
あれ以来、 俺達の間に存在した何かが変わった……たぶん、 信頼が義務に変わったんだと思う。
だから海斗は俺のことを名前で呼ばなくなった」
一旦そこで区切ってから、 成田は震える唇で辛い現実を口にした。
「俺達はもう対等じゃない。
俺の海斗を思いやる気持ちが、 ますますアイツを追い詰める。
どんなに望んでも、 俺達が元の関係に戻ることは二度とない」
トオルは病室にいる村主を思い返した。
加害者が罪を悔いることで、 被害者が苦しむこともある。
唐沢は過去に負い目を感じ、 その姿を見て成田もまた自分を責める。
二人の間に存在する罪が消えない限り、 断ち切れない悲しい連鎖。
それを彼等は五年も抱えて過ごしてきたのだ。 仲の良い部長、副部長の演技を続けながら。
想いを吐き出して落ち着いたのか、 成田の口調がいつもの冷静さを取り戻した。
「俺はずっと海斗と対等でいたかった。 親友として、 ライバルとして。
あの事件がなければ、 養成所の推薦を受けたのは海斗の方だ」
「えっ?」
「俺は校内ランクでトップの座をキープしてきたが、 もし海斗が本気を出したら、 アイツの方が強いと思っている。
現に事件の前までは、 海斗の方が上だった」
「『本気を出したら』 って、 唐沢先輩は本気を出して戦っていないってことですか?」
「手を抜いているというわけじゃないんだ。
ただあの事件以来、 テニスに対する情熱を自分で封印してしまったように思う。
まるでテニスが好きな自分を憎んでいるような」
「まさか、 そんな……」
「北斗先輩と何があったかは分からない。
でも意識的に本音の部分を閉じ込めて、 他人に見せなくなった。
だから今回、 海斗が真嶋のことを 『トオル』 と呼ぶのを聞いて 、嬉しい反面……羨ましい方が大きいかな?」
再び先程と同じ淡い笑みが浮かんだかと思えば、 突然トオルはその笑顔を見失った。
「ちょ、 ちょっと成田先輩! 止めてくださいよ」
トオルが今目にしている光景は、 後輩の前で深々と頭を下げる元・部長の姿である。
「先輩、 お願いですから頭を上げてください」
困惑するトオルに構わず、 成田は姿勢を崩さない。
「成田先輩?」
「真嶋、 海斗を頼む。 本来、 後輩のオマエに頼むことじゃないのは承知している。
だけど海斗の心を開けるのは、 もう真嶋しかいないから。
アイツにもう一度、 負い目からじゃなくテニスと向き合って欲しいから」
そこには純粋に友を想う一人の高校生が立っていた。
後輩を厳しく指導する厳格な部長ではなく。
誰もが羨む才能を持ちながら、 輝かしい将来を手にしながら、
それでもたった一人の親友に想いを残す普通の高校生の姿である。
「成田先輩? オレはまだ練習について行くのが精一杯で、 唐沢先輩の気持ちも汲み取れないし、
正直、 何を考えているかも分かりません。
でも一緒にプレーしていて、 テニスを好きなのは隠していないって言うか、 かなりよく分かるんですけど?」
「海斗が?」
聞き返すのと同時に、 深々と下げられた頭が勢いよく上げられた。
成田の驚きが伝わってくるようである。
「だって今日の試合でも笑っていましたから。
背中向けていたけど、 後ろにいたオレにも分かるぐらい楽しそうでしたよ」
「あの海斗が?」
「はい。 松林との対戦なんて、 後半はエンジン全開って感じでしたよ。
オレの調子が悪かったって言うのもあるんですけど、 弟が相手なのに容赦なかったし」
「そうか、良かった。
本当に良かった。 ありがとう、 真嶋」
「いえ、 別にオレは何も……」
「でも、 ありがとう。 本当に……ありがとう」
何度か繰り返された 「ありがとう」 が次第に小さくなり、 それに合わせて成田がもう一度頭を下げた。
恐らくは下げたのではなく、 上げられなくなったのだろう。
先輩の肩が不規則に揺れているのを知りながら、 トオルは黙って場を離れた。
これがハルキなら、 慰めることも手を差し伸べることも出来たかもしれない。
しかし、 今の彼に必要なのは温もりではない。
少なくとも、 トオルからの ―― 友を友として、 同じ目線でいられる幸せを持つ者からの温もりでは、
役に立たないと思った。
親友と対等であり続けたいと願う成田と、 その成田に負い目を感じ、 敢えて距離を置こうとする唐沢。
二人から見れば、 何も考えずにハルキを呼び捨てにし、 対等な立場で戦える自分は恵まれていると映るだろう。
たった一度のすれ違いで、 接点を見失った先輩達の事を考えると、 胸が痛かった。
トオルがアメリカから帰国したあの日。
当たり前のように全力でぶつかり合うライバル同士の対決を、 どんな想いで見守っていたのか。
過ぎた時間を呼び戻す事は、 やはり叶わぬ夢なのか。
待合室から玄関を通って外へ出ると、 薄暗がりの中で見覚えのある影が待っていた。
どこにいても初めて来た場所のように、 キョロキョロと不安げに辺りを見回す危なっかしい人間は、
トオルの知る限り一人だけ。
だが今はその危なっかしい行動に、 ひどく安堵した。
「奈緒?」
トオルの姿を確認した彼女は、 数時間前、 一緒に昼食を取ったにもかかわらず、
小さくて丸い瞳を更に丸くして、 待ち人に会えた喜びを分かり易く表現してくれた。
「もしかして、 ずっとここで待っていたのか?」
「ううん、 さっき着いたばかりだから、 だいじょうぶだよ。
あのね、 唐沢先輩が 『祝勝会の場所教えてなかったから、 渡してくれて』 って。
これ、 預かってきたんだけど……」
彼女から手渡されたメモ紙の切れ端には、 いかにも面倒臭そうに描かれた地図が記されており、
よく見るとそこは、 いつもテニス部が行事のたびに使用する馴染みの店だった。
渡す必要のないメモを彼女に託したという事は、 理由はただ一つ。
「ありがとう、 奈緒。 せっかくだから、 家まで送ってく」
「えっ? でも祝勝会は?」
「オマエと寄り道してから来いって、 唐沢先輩からの伝言だ」
「そんなこと書いてあった?」
こちらを見つめる彼女の目には大きな疑問符が浮かんでいるが、 トオルは自信を持ってこう答えた。
「ああ、 書かれていなくてもオレには分かる。
なんつったって、 オレは唐沢先輩の相棒 (パートナー) だからな」
唐沢は全てを封印したわけではない。
テニスに対する情熱も、 他人を思いやる優しさも。
いくら閉じ込めても溢れてしまう感情を、 すでに本人も持て余している。
それが トオルだけでなく、 成田にも、 そして確執を抱えた兄・北斗にも、 素直に向けられる日が来るのではないか。
そうあって欲しい。
トオルは乱雑に描かれた地図を大切にポケットに仕舞うと、 奈緒と共に病院を後にした。