第 24 話 コートチェンジ
トオルが唐沢の異変に気づいたのは、 村主 (すぐり) との一件が
あった何日も後のことだった。
言い換えれば、 それまでの間、 彼は周囲に少しの動揺も
見せなかったのである。
あれだけ激しく口論したにもかかわらず。
あの温厚な村主が、 体を震わせるほど心を乱したというのに。
事件後、 家を訪ねた時も、 唐沢は平然とした態度で出迎えた。
逆に 「何事か」 と驚かれ、 トオルの方が答えに詰まった程である。
翌日も、 そのまた翌日も、 彼は厳しい部長を演じ切り、
普段通りの生活をしてみせた。
唐沢は感情を隠し慣れている。
しかも、 悲しみという最も扱い辛い感情を。
一体、 どれ程の悲しみを押し殺していれば、 こんな芸当が出来るようになるのか。
自然と沸き起こる感情を封じ込めるたびに、 その報いは深い心の傷となって自身に降りかかる。
今、 先輩の傷は、 どこまで深く根ざしているのだろう。
彼が平静でいればいるほど胸をえぐられる思いをするが、 話を切り出そうにもキッカケさえ掴ませてもらえず、
トオルは己の小物ぶりを痛感し、 悶々とする日々を過ごしていた。
ところが、 このまま全てが日常に埋もれるのではと不安になり始めた頃、 ついに彼は片鱗を見せてくれた。
よほど注意していなければ気づかないミリ単位の狂いだが、 確かに今日の唐沢はおかしかった――
「何だよトオル、 たるんでるぞォ!」
放課後、 ダブルスの練習途中で、 陽一朗がネット際から文句をつけてきた。
「えっ? ああ、 すみません」
一応トオルが謝っておいたが、 今のは前衛にいる唐沢が拾うはずのボールだった。
普段の唐沢なら。
仕草も表情も、 いつもと変わらない。
パートナーであるトオルも一緒にコートに立つまで気づかなかったが、 ほんの少しだけ判断が鈍ると言うか、
彼にしてはコンマ何秒かの遅れを感じる。
ズレと言ってもいい。
一瞬、 意識がどこか違う場所へ飛んでいるような気がする。
それをボールが来てから慌てて呼び戻す為に、 判断が遅れて見えるのだ。
恐らく、 この異変に気づいているのはトオルだけだろう。
その証拠に、 合同練習している伊東兄弟にさえ、 今の返球はトオルのケアレス・ミスで、
唐沢の力量を熟知するが故のミスだとは思われていない。
問題は、 なぜ今になって異変として現れるのか。
ひょっとしたら、 他に原因があるのかもしれない。
次の予選に向けて練習もハードになってきている。
部員に悟られないようにしているだけで、 体調を崩したのかもしれない。
初めは様子を見ようとしたトオルだが、 不安が口をついて出てしまった。
「唐沢先輩、 もしかして具合悪いですか?」
「そう、 見えるか?」
「オレの勘違いかもしれませんけど、 熱でもあるのかなって」
さすがに部長を相手に、 普段より反応が鈍いとは言いにくい。
しかし意図する事は伝わったらしく、 唐沢はトオルの言葉を否定しなかった。
「今日、 迷惑かけているよな?」
「いえ迷惑じゃないですけど、 もし具合が悪いなら帰って休んだ方がいいですよ」
「具合が悪いか……」
そう言ったまま、 唐沢はしばらくぼんやりと考え込んでいた。
この切れ者と恐れられる部長に最も不釣合いな光景は、 前にも何度か見たことがある。
記憶を探るように視線をさ迷わせる仕草。
消え入りそうな眼差しも。
ただ練習中にこの顔をするのは珍しい事だった。 やはり今日の彼はおかしい。
体調ではなく、 精神的に何か引っかかるものがある。
「先輩、 オレに出来ることがあれば……」
途中まで言いかけた時、 唐沢の方から先に結論を出してきた。
「少し熱があるみたいだ」
「えっ?」
「悪い。 今日は先に帰らせてもらう」
「一人で大丈夫ですか?」
思わず子供にするような質問を、 二歳も上の先輩に投げかけてしまった。
だが、 そう聞き返したくなる程、 目の前の彼は危なっかしく見えたのだ。
「その……熱があるなら、 誰か家まで付き添った方が良いと思って」
再び、 ぼんやりとした間があった。
後輩の申し出を断るか否かで迷うのではなく、 どう取繕えば良いか考えあぐねている風だった。
「ありがとう。 気持ちだけ受け取っておく」
時間をかけて考えた割には通り一遍の答えを返し、 唐沢は一人で早退した。
不気味なほど穏やかな笑みを残して。
言いようのない不安がトオルを襲った。
何か、 おかしい。 何かが、 おかしい。
漠然としているが、 今日の彼がおかしい事だけは確かである。
まるで一人だけ別次元にいるような。
そして、 そこに留まったまま二度と戻って来ないような、 底知れぬ危うさがある。
いや、 これが彼本来の姿なのかもしれない。
普段は上手く取り繕えているだけで、 心は常に別の空間にいるとしたら。
「今日、 迷惑かけているよな?」 と聞いたのも、 今日だから見せてしまった真実かもしれない。
この結論に達した時、 トオルは居ても立ってもいられなくなり、 真っ直ぐコーチの日高のもとへ走っていった。
「おっさん、 オレも早退する!」
「どうした、 血相変えて?」
「分かんねエけど、 唐沢先輩を一人にしちゃいけない気がする。
今日の先輩、 何か変だ」
「トオル、 まさか気づいたのか?」
「『気づいた』 って、 おっさん何か知ってんのか?」
「当たり前だ。 俺はコーチだぞ。
選手の調子の良し悪しぐらい、 素振りの段階で把握している」
「だったら教えてくれよ。 なんで今日に限って変なんだ?
つうか、 なんで今日だけ変な所が見えるんだ!?」
「オマエ……そこまで分かるのか?」
半開きになった日高の口元を見て、 トオルの漠然とした不安は確信に変わった。
部員の前では動揺を見せないコーチが絶句しかけているという事は、
今辿り着いた結論も限りなく正解に近いという事だ。
「ちゃんと説明してくれるよな? またオレだけ仲間外れじゃねエよな!?」
「まあ、 そう急かすな」
「なんで黙ってんだよ? おっさん、 理由知っているんだろ?
パートナーのオレにも言えない事なのかよ?
これじゃあ、 親父にアメリカへ転校させられた時と同じじゃんか!」
父の親友という気安さもあり、 トオルは自分だけが枠外に放り出されている不満を、
過去の恨み言ともに日高へぶつけた。
「分かったから、 あまり騒ぎ立てるな。
他の連中が動揺するだろ?」
「だけど……」
「早退は認めてやる。 どうせ唐沢の家に行くつもりなんだろ?
だったら、 その前に少し付き合え」
てっきり部室で話をすると思っていたら、 日高は副部長に 「後を頼む」 と言い残し、
職員用の駐車場へと向かった。
教師達が乗り付ける車の中でも、 一際目立つ赤のコルベット。 これが彼の愛車である。
中学の頃と違って、 トオルにもその車が一千万近くする高級車だと分かるようになった。
そして部室ではなく、 わざわざ駐車場へ連れて行かれた理由も。
車の前まで来て、 日高が助手席の扉を顎で指した。
「とにかく乗れ。 俺の知っている範囲で教えてやるから」
すぐにでも事情を問いただしたい衝動を抑え、 トオルは黙って助手席へ乗り込んだ。
彼が車を出すという事は、 誰にも聞かれたくない話か、 よほど深刻な場合に限られる。
「今から話すことは、 あくまでも俺の独り言だ。
コーチとしての発言じゃないからな」
ギロリと睨み付けるように念を押してから、 日高は静かに愛車を発進させた。
「唐沢に兄弟がいるのは知っているよな?」
唐沢には元部長の兄・北斗と、 他校に通う弟の疾斗 (はやと) がいる。
「ああ。 兄貴の方はよく知らないけど、 弟の疾斗はオレのダチだから」
「そうだった。 トオルは、 よほど唐沢家と縁があるらしいな」
慣れた道を走ると見えて、 運転席の日高はハンドルよりも会話の方に集中しているようだった。
「菜摘と言ったか。 あの三兄弟共通の幼馴染がいた」
「ナヅナ?」
初めて聞く名前である。
親友として付き合う疾斗からも、 パートナーの唐沢からも、 一度も聞かされた事はない。
「今日は彼女の誕生日だ。
年に一度、 この日だけは耐えられなくなるんだろう。
命日よりも、 彼女が生まれた日の方が」
「命日って、 その菜摘って人は?」
「ああ、 死んだ。 五年前、 唐沢が中学一年の時に」
何となく、 そんな気がしていた。
唐沢の瞳に映る暗闇が、 自分と同じに見えたから。
しかし五年経った今でも、 その死を引きずるというのは、 それほど彼にとって大切な存在だったのか。
命日ではなく誕生日に気持ちが揺らいでしまう心理も、 この時のトオルにはまだ充分理解できなかった。
「唐沢は、 何も知らされなかったんだ。
彼女が生まれながらにして死に向かっている事実も、 そして死んだことも」
「それって、 どういう?」
「北斗の話では、 徐々に筋肉が衰えていく病気だと言っていたな。
明るくて活発で、 そうは見えなかったが」
「兄貴は知っていたのか?」
「ああ。 当時、 北斗は中三だったから、 親もきちんと話をしたんだろう。
だが中一になったばかりの唐沢と、 小学生の弟には教えなかった。
話して分かる年齢でもないし、 何より彼女自身が知らない事だったから」
「だけど、 死んだ後まで教えなかったって、 どうして?」
死が間近に迫っていることを彼女に悟られないよう考慮したとして、 亡くなった事まで隠す必要はない。
「関東大会当日の朝だった。 彼女が死んだのは」
「まさか、 試合の為に?」
「北斗が俺に土下座して頼んできた。
あのプライドの高い男が 『黙って海斗を大会に出場させてくれ』 と、 俺に頭を下げて。
当時、 成田と唐沢は光陵ダブルスの要だったから、 奴は部長としての選択をしたんだと思う」
「チームを勝たせる為に、 彼女が死んだことを知らせなかったのか?
いくら部長だからって、 そんなメチャクチャな……だって兄貴だろ!?」
昔から唐沢は、 兄の話になると露骨に嫌悪感を示した。
ポーカーフェイスを得意とする彼が珍しいと思っていたが、 その原因はここにあった。
第三者のトオルでさえ、 話を聞いてパニックを起こしそうな程の怒りを感じるのだ。
当人にとって、 耐え難いものであったに違いない。
一瞬、 頭の中で菜摘という少女が奈緒の姿と重なった。
もしも彼女が単なる幼馴染ではなく、 掛け替えのない存在だったとしたら。
仮定とは言え、 少し考えただけで恐ろしくなった。
トオルにとって、 奈緒は何にも替え難い存在である。
その彼女の命が限られたものである事も、 死んだ事も知らされず、
実の兄から 「試合に行け」 と言われたら、 どんな気持ちになるのだろうか。
奈緒がいなくなると仮定した時点で、 トオルにはその先が考えられなかったし、 考えたくもなかった。
だがこれは実際唐沢の身に起こった出来事で、 考えたくもない悲劇が現実となって、
中学一年の彼に降りかかったのだ。
でなければ、 あのような暗闇が生まれるはずがない。
巧みにハンドルを滑らせながら、 日高が普段より幾らかトーンダウンした声で続けた。
「今でも、 あの日の選択が正しかったのかどうか、 俺にも分からない。
ただ唐沢は間際で気が付いて、 試合に現れなかった。
そして、 その事が成田と唐沢の間に、 深い溝を作ったのは確かだ」
以前、 成田から 「俺は待つべきじゃなかった」 と打ち明けられたことがある。
あれは、 この時の話だろう。
全てを知った唐沢は、 大会に出場せずに彼女のもとへ走った。
親友との絆を信じた成田は、 ひたすら唐沢を待ち続けた。
どちらも当然の選択をしたはずなのに、 唐沢は親友を裏切った罪の意識を背負い、
成田は親友を追い込んだ自分の軽率さを責めている。
「なんで、 こんな事に……」
最初のボタンをかけ違えた為に、 次々と狂いが生じている。
罪を犯さずとも、 そこに巻き込まれた者は、 各々が望んだ方向と違う関係を築かされていったのだ。
修復する方法は、ただ一つ。 一旦全ての絆を切り離し、 最初からやり直すしか道はない。
但し、 全員の記憶が都合良くリセットされればの話だが。
日高がある建物の前で車を止めた。
「北斗が通う大学だ。 この時間ならテニスコートにいるはずだ。
アイツと話をしてくるか?」
聞きたい事は山ほどあった。
どう考えても、 北斗の選択は間違っている。 最初にボタンをかけ違えたのは、 彼だと思った。
そのせいで、 どれだけ多くの人間が苦しんでいるか。
成田や唐沢だけでなく、 かつての疾斗も、 兄達の確執のせいで道を踏み外したことがある。
しかし、 この怒りを溜めた状態で北斗に会えば、 話だけでは済まない気がする。
膝の上で自然に出来た拳を、 反対の手で押さえ込んだ。
今、 なすべき事は何なのか。
成田から託された願い。 村主の想い。
こうして自分が前を向いていられるのは、 誰のおかげなのか。
怒りで硬くなる左拳と、 それを押さえつける右手と。
がっちりと組み合う両手の始末がつけられず迷っていると、 日高のごつごつとした大きな手が覆いかぶさった。
「コートチェンジだ」
「えっ?」
「唐沢に会う前に、 北斗の言い分も聞いてやれ」
テニスの試合では公平さを保つために、 奇数のゲームごとに双方の選手が場所を入れ替わるよう
「コートチェンジ」 が義務付けられている。
日高は北斗と話をする事で、 偏ることなく真実を見極めて来いと言いたいのだろう。
「分かった。 オレ、 行ってくる」
「あのな、 トオル? 最初に断っておくが、 北斗は悪い奴じゃない」
ふてぶてしい日高の顔が、 困ったような崩れ方をした。
「心配しなくても、 大学生相手に喧嘩なんかしねエよ」
「いや、 そうじゃない。
その……会えば分かると思うが、 似ているから」
「誰に?」
「くれぐれも感情的になるんじゃないぞ」
「なんだ、 それ?」
日高の言葉を理解するのに、 あまり時間はかからなかった。
横柄で、 傲慢で、 自己中心的な発想しかできない上に、 口の悪さだけは尊敬に値する人間。
つまり唐沢の兄・北斗は、 トオルが最も毛嫌いする父・龍之介にそっくりだった。
「なんで俺が弟の為に、 時間を割かなきゃならない?」
第一声、 挨拶も終わらぬうちに返ってきた言葉がこれである。
「だってアンタ、 兄貴だろ?」
「ふん、 頼んで兄貴をやっている訳じゃない」
昔、 同じ台詞をこの男から聞いたことがある。
まだ疾斗が更生する前の話だが、 ストリートコートの乱闘に巻き込まれた弟を強引に連れ去る北斗に対し、
「理由ぐらい聞いてやれ」 とトオルが抗議したところ、 こう言われたのだ。
悪びれる様子のない言い方も、 あの頃と変わらない。
日高の 「くれぐれも感情的になるな」 の助言で、 かろうじて歯止めがかかったものの、
すでにトオルの左手は硬く握られている。
「それなら 『元・部長として』 と言えば、 話をしてくれるのか?」
「してやってもいいが、 オマエはどうなんだ?
テニス部員として、 ここへ来たのか?」
「だったら、 どうした?」
「テニス部員という事は、 俺はオマエの大先輩に当たるわけだ。
その態度は、 どうなんだ? とても大先輩にお願いしているようには見えないなぁ。
あ〜あ、 喋り過ぎて、 喉が渇いた」
「くそっ! 人の弱みに付け込みやがって!」
「腹も減ったかな?」
「て、 てめエ……」
この、 目下の者はからかって遊ぶ対象としか思わない、 性質の悪い権力志向も龍之介とそっくりである。
怒りで赤くなるトオルの顔を覗き込んでは、 北斗が追い討ちをかけてくる。
「まずは敬語な、 敬語。 それと、 うちの後輩は俺のことを 『北斗先輩』 と呼んでいる。
だからオマエの場合は 『北斗大先輩』 と呼べ。 いいな?」
「アンタ、 ぶっ飛ばされたいのか!?」
「ぶっ飛ばしてもいいが、 それでジ・エンドだぞ?
真実は永久に闇の中。 それでいいのか、 真嶋透君?」
「な、 何でオレの名前を?」
「弟達から、 よく聞く名だ。
話を聞く限りでは、 てめエのケツも拭けないくせに、 お節介だけは一人前って奴を想像したからな。
それ、 オマエのことだろ?」
「この……!」
考えるより先に、 拳を出していた。
父の姿と重なったことも影響したかもしれない。
しかし殴り倒す直前で、 その拳は捕らえられてしまった。
腕っ節には自信のあるトオルだが、 過去に二人だけ止められた経験がある。
一人は父親で、 もう一人はジャンだった。 この北斗で三人目になる。
「ふ〜ん。 利き腕じゃない割には、 いいパンチしてるな。
右手はテニスの為にしか使わないって事か?」
「アンタは、 利き腕で殴る価値もなさそうだからな!」
拳を捕らえられた状態で精一杯の強がりを言ってみせたが、 この時点で勝敗が決した事は、 トオルにも分かった。
断じて認めたくはないが、 押しても引いても動かない左腕が、 どちらに分があるかを証明している。
「度胸の良さは父親譲りか?
弟達と気が合うはずだ」
これを聞いて、 トオルは腕の力を緩めた。
彼は品定めをしている。
最初からトオルの素性を知った上で、 どんな反応を示すのか観察していたのだ。
腹を割って話せる人間か否かを。
トオルが力を緩めたと同時に、 北斗が真顔になった。
「どうやらバカでもなさそうだ。
いいだろう、 話してやる。 ついて来い」
北斗に連れられて向かったのは、 大学の敷地内にあるオープンカフェのような場所だった。
学食と呼んでは申し訳ないほど、 そこだけはセンスのいい空間が広がっている。
その一角に腰を下ろすと、 北斗はさっさと自分だけアイスコーヒーを注文した。
「で、 何から聞きたい?」
「五年前の事です。
どうして彼女が亡くなったのに、 唐沢先輩に教えなかったんですか?」
「関東大会で勝つ為だ。 それ以外に理由はない」
「だけど唐沢先輩にとって、 大切な人だったんですよね?」
「ああ、 そうだ。 きちんと付き合ったわけじゃないが、
俺達三人の中でも、 海斗と菜摘は一番仲が良かった。
年も同じだったし」
「だったら、 どうして?
逆の立場なら、 教えて欲しいと思うでしょ?」
「いいや、 思わないね。
基本的に、 俺は死んだ人間の為にしてやれる事はないと思っている。
死んだら終わりなんだよ、 何もかも」
「そんな……」
「これが現実だ。 幸か不幸かうちは寺だから、 ガキの頃から人の死を見聞きしている。
その中で一つだけ分かった事がある。
何百万円もする立派な墓を作っても、 自分が壊れるまで泣いたとしても、 死んだ奴には伝わらない。
だから今現在生きている奴は、 生きている間にやりたい事をやるしかない」
淡々と語っているが、 北斗の言葉には重みがあった。
彼の主張を全面的に受け入れるつもりはないが、 自分よりも遥かに多くの人の死に直面し、
その経験から出た言葉だという事は理解できた。
「それでも、 オレは教えて欲しかったと思います。
声が届かなくても、 きちんと遺体と向き合って、 別れの言葉を言わないと……
もう会えないなんて、 いなくなってから知らされても……そんなの認められるわけないじゃないッスか!」
唐沢の為だけではなかった。
乗り越えたとは言え、 トオルの中にも同じ悲しみがあったからこその叫びだった。
カフェの中にいた数人が、 その声の大きさと話題の異様さに振り返ったが、 北斗は気にも留めず話を続けた。
「俺だって言えるものなら、 とっくに話していたさ。
だけど海斗と菜摘は、 当時まだ十二歳だった。 どちらも死なんて考えられる年齢じゃない。
生きる意味だって分かっていないのに。
ましてそのうちの一人は、 生まれながらにして、 そっちに向かっているんだ。
話せという方が酷だろ?」
「せめて亡くなる直前にでも、 唐沢先輩に教えられなかったんですか?」
具体的な理由を明かされるにつれ、 トオルの口調も落ち着きを取り戻していった。
「最期の一週間は、 素人の俺でさえ、 もう長くないと分かったよ。
だけど彼女の両親の気持ちを考えたら、 『そろそろ死にそうだから、 弟達に話します』 とは言えなかった」
運ばれてきたアイスコーヒーで一旦喉を湿らせてから、 北斗が再び口を開いた。
「菜摘は気づいていたと思う。 自分の体だし。
だから俺に頼んできた。 もし大会の最中に自分が死んでも、 海斗に知らせないでくれと。
ボールを追いかけていれば、 きっと寂しくないからと言って。
まだ十二歳だったけど、 ガキなりに考えたんだろう。
自分がいなくなった後、 海斗が悲しまないように、 精一杯想像力を働かせてさ」
会ったこともない菜摘という少女。
北斗の話から、 いかに唐沢のことを大切に思っていたかが、 よく分かる。
彼女が一番辛かったはずなのに。
それでも、いなくなった後のことを必死に考えて、 北斗に唐沢のことを頼んだのだ。
その気持ちを考えると、 やり切れなかった。
「元々海斗は大人しい性格だったし、 本当は中学行ってテニス部に入るつもりはなかったんだろうけど、
菜摘が強く薦めたんだ。
自分の代わりにコートで走ってくれと言って。
兄貴としては、 アイツにテニスを続けて欲しくなかったんだけどな」
「どうしてですか?」
「当ったり前だ。 弟の方が上手いなんて、 兄貴の面目丸つぶれだろ?」
「面目って、 兄弟の間で見栄張ってどうするんですか?」
「あっ! どうせオマエ、 一人っ子か末っ子だろ?
その 『他人がどう思おうと関係ない』 的な傲慢な態度は?
世の中の人間が、 全員自分の味方だと思っているだろ?」
「誰もそんなこと思っていませんよ。 てか、 どっちが傲慢なんッスか!?」
「弟のいる奴なら、 理解できるはずだ。
兄貴は弟に負けちゃいけない。 どんな状況においても、 敗北は許されない。
何故なら、 兄弟間には世代交代がないからだ」
さっきまでのシリアスな話題から一変して、 北斗がやけに子供染みて見える。
菜摘の話をしている時は、 現実を直視できる大人の部分を感じたのに、
兄弟の話になると、 ひどく自己中心的な態度に変わる。
そう言えば疾斗からも、 似たような話を聞いた事がある。
北斗は唐沢に 「オマエに俺は越えられない」 と呪文のように言い続けていると。
「ああ、 それはマインドコントロールってヤツだ。
海斗の頭の中に 『兄貴は強い』 と刷り込んでおけば、 何かと有利に働くからな。
おかげで俺は光陵学園にいる間ずっと、 部長と兄貴の立場を守り通せた」
「アンタ、 最低だな」
「何とでも言え。 俺には時間がないんだ」
「時間がないって、 まさか!?」
「慌てるな。 俺は病気でも何でもない。
ただ俺の自由ってヤツは期限付きだ」
「期限付きの自由?」
「これでも一応長男だから。
生まれながらに、 親父の跡を継いで坊主になると決められている。
まったく、 最初に出てきたってだけで、 無理やり人の死に付き合わされる運命だ。
だから大学卒業するまで、 俺は好き勝手やると決めたし、 実際その通りやってきた」
話を聞いていくうちに、 トオルは龍之介と北斗が似ている理由は、 性格だけはないと思った。
二人に共通する冷淡なまでに現実を直視する姿勢。
普通の人間からすれば、 身も蓋もないような言い方も。
不本意な運命を背負った者だからこそ、 見える現実がある。
そうしなければ、 限られた自由の中で自分らしく生き抜くことは難しい。
龍之介で言えば、 故障した肩を抱えた人生であり、 北斗で言えば、親に定められた将来。
彼等はそれを背負っているからこそ、 確かな現実を見ようとするのだろう。
あやふやな夢や希望ではなく、 いま現在、 手にすることの出来る時間や能力の使い方を、
正確に知ろうとするのだ。
「なあ、 真嶋? 俺達だって、 菜摘と同じなんだ。
時間の長さが違うだけで、 生まれた瞬間に死に向かっている。
だから立ち止まっている暇はない。 俺も、 オマエも、 海斗も」
アイスコーヒーを飲み終えた北斗が、 席を立つと同時に鍵を投げてよこした。
「うちの鍵だ。 今夜は、 親父は自治会の集会で朝まで帰らないし、 そういう日はお袋も寺の方で寝泊りする。
疾斗と俺は適当にやるから、 海斗と二人きりで話すなら使えばいい。
選択権はオマエにある」
「いいんですか?」
「勘違いするなよ。 俺は、 五年前の判断が間違っていたとは思わない。
さっき死んだ人間にしてやれる事はないと言ったが、 あの時の約束は生きていた時の彼女と交わしたもので、
これから生き続ける海斗の為に頼まれた事だから。
第一、 アイツがどんな人生を歩もうが俺の知ったこっちゃないし、 今さら機嫌を取る気もない。
だけど、 もしも真嶋がてめエのケツも拭けないくせに、 お節介だけは一人前で、
性懲りもなくまだ他人の世話を焼くつもりなら……」
あくまでも命令口調を崩さずに。
横柄で、 傲慢で、 自己中心的な発想しかできない龍之介とそっくりな彼は、
最後に一つだけ 「らしからぬ」 伝言を託して去っていった。
「海斗に 『もう泣いていい』 と、 伝えてくれ」
コートチェンジをして初めて見える景色がある。
日差しの眩しさとか、 風の強さとか。
そこに立たされなければ、 分からないことがある。
テーブルの上に残された鍵と、 北斗からの伝言を握り締めて、 トオルは暮れかかる大学を後にした。