第 25 話 悲しみの手前で

ランタナ・イメージ



「海斗に 『もう泣いていい』 と、 伝えてくれ」
唐沢の兄・北斗からの伝言が、 頭から離れなかった。
五年前に亡くなった幼馴染の菜摘 (なづな) という少女。
今まで唐沢は、彼女の死と向き合う事なく過ごしてきたのだろう。
真実が明らかになるにつれ、 トオルの気持ちの中に迷いが
生じた。
どうにかして先輩を救いたい。
その一心でコーチと掛け合い、 北斗にも事情を問いただし、
唐沢がどんな悲しみを抱えているかも理解した。
理解したからこそ、 歯止めがかかったのかもしれない。
望まれているかどうかも確かめずに、 彼がひた隠しにする領域に踏み込んで良いのかと。
幾重にも折り重なった悲しみが傷となり、 闇となり、 足枷となって、 彼を苦しめている事は分かる。
早く助け出した方が本人の為である事も。
しかし、 唐沢自身がそれを望んでいるかどうかは分からない。
五年もの間、 悲しみを封じ込めてきた人間が、 今さら扉を開けたいと思うだろうか。
そして万一扉が開かれた時。 果たして、 自分はそこから溢れ出した感情を全て受け止める事が出来るだろうか。
もしも重みに耐えかねて崩れてしまい、 二人して傷口を広げるような結果になったとしたら。
そう考えるとトオルの足は重くなり、 唐沢の実家である寺の門を前にして完全に停止した。
他人の過去に介入するという事は、 それを共に背負う覚悟がなくてはならない。
ここ何日か、 行動を起こそうとする度に上手くはぐらかされた事もあって、
この時のトオルには、まだ決心がつかなった。

部活を途中で抜け出したとは言え、 北斗の大学を経由して来た為に、
唐沢家に到着した頃は、 すでに夕暮れ時のオレンジ色が闇夜に溶け出して、
星の瞬きの方が似合う時間になっていた。
ところが彼の自宅から灯りと呼べるものは認められず、
寺へと通じる正面玄関の光でかろうじて建物の輪郭が分かるものの、 人の気配が少しも感じられない。
唐沢が無事帰宅したかどうか、 それだけは確かめておきたい。
追い返されたらすぐ出て行くつもりで、 トオルは手入れの行き届いた庭を抜け、 寺とは別方向の勝手口へ回った。
例の鍵を使って中へ入ると、 見覚えのある靴とテーブルの上に投げ置かれた夕刊が目に入った。
無事かどうかは分からないが、 一応、帰っているらしい。
学校での危うげな姿を知るだけに、 在宅が分かっただけでも十分満足だった。
一瞬、 このまま立ち去ろうかとも考えた。
だが灯りもなければ物音もしない抜け殻のような空間が気にかかり、 トオルはさらに奥へと入っていった。
確か先輩の部屋は二階である。
台所を通り抜け、 階段の下まで来て、 また足が重くなった。
一段ずつ上るたびに、 迷いが生じてくる。
それでも前に進もうとするのは、 あの夜の出来事が後押ししていたからである。
ジャンの悪夢にうなされた夜。 誰とも分かち合えないと思われた途方もない闇の中で、
無意識のうちに求めていたものは、 人の温もりだった。
誰か傍にいて欲しくて。 命あるものに触れたくて。
ささやかでありながら、 常人では理解しがたい願いを叶えてくれたのが、 唐沢だった。
多くを語らずとも、 彼は必要とするものを与えてくれた。
あの時は深く考えなかったが、 トオルの気持ちを察して動けたのも、 同じ痛みを抱えていたからである。
だとしたら、彼も望んでいるかもしれない。
一人ではないと感じられる温もりと、 そして北斗から託された伝言 ―― 「もう泣いていい」 と、
伝えなければならない。
きっとこれが、 彼の必要とする言葉なのだ。
覚悟は決まった。
後先を考えていては、 今までの二の舞になる。
上手く出来なくても、 出来る範囲が狭くても、 やれる事から始めるしかない。
自分を暗闇の中から救い出してくれた先輩の為に。

階段を上がり、 部屋の前で声をかけたが、 中から返事はなかった。
疲れて眠っているのだろうか。 或いは 、彼女のことを考えているのだろうか。
どういう状態でいるのか気にはなるが、 トオルは無理に入ろうとせず、
外から 「ここにいます」 と一言だけ伝え、 前の廊下で大人しく待つ事にした。
ひょっとしたら、 彼は出て来ないかもしれない。
それでも待とうと思った。 この扉が向こう側から開くまで。
どのくらい時間が経ったか。 二時間、 いや三時間。
灯りの点かない廊下では確認のしようがなかったが、 腹の空き具合からして、 夕食の時間はとうに過ぎている。
じっとするのが苦手な人間にとって、 待つという行為は多くの苦痛を強いられる。
立ったり座ったり、 時折寝転がったりもしながら、 更に数時間が過ぎた頃、 ようやく扉の開く音がした。
「トオル……どうして?」
来た時に声をかけたはずだが、 唐沢の耳には届かなかったようで、
彼は思わぬ後輩の出現に困惑の色を露にしている。

まさに困惑という表現がピッタリだった。
勝手に他人が自分の家に上がり込み、 退屈そうに部屋の前で寝転がっていたというのに、
唐沢は大して驚きもせず、 心を別の場所に置いたまま、 漠然とどうしたものかと見下ろしているのだ。
「えっと、 実は……」
ここに至るまでの経緯を全て話すつもりはなかった。
切れ者の彼の事だから、 大方の察しはついているはず。
それだけにトオルの口をついて出てきた答えは、 シンプルでありながら意図が伝わらなければ間抜けとも
取られかねない、 非常にリスクの伴うものだった。
「寒いかなって」
「えっ?」
「その、 今夜は一人じゃ寒いかと思って」
「寒い……?」
暗闇に長くいると人の温もりが欲しくなる。
この気持ちを言い当てたつもりだが、 どうやら見事に伝わらなかったらしく、唐沢はますます困惑の色を深めている。
今更 「先輩の心を温めに来ました」 などと気障な台詞を吐くわけにもいかず、
だからと言って、 単刀直入に 「寄り添わせてください」 と申し出るのも滑稽で。
トオルはごにょごにょと 「今のは忘れてください」 と返すのが精一杯だった。

何とも気恥ずかしい沈黙が漂い始めた。
とても訪問の目的を切り出せる雰囲気ではない。
「ずっと、 ここに?」
見兼ねた唐沢が、 場を取り繕うように質問を重ねた。
「いえ、 来たばかりです」
「そう?」
彼の視線が、 廊下と同じ筋目のついた頬に集中している事に気づき、 トオルは慌てて言い直した。
「あ、 いや……少し前かな?」
我ながら嘘をつくのが下手な人間だと反省した。 嘘だけでなく、 何もかも。
現に今も先輩のリードなしでは話を進められず、 再び苦しい沈黙を呼び込もうとしている。
何とかして会話を繋げなければ。 沈黙が本格的に居座る前に、 早く。
しかし話を続けようと唇を開きかけたところへ、 そのタイミングを見越したように謝罪の言葉が覆いかぶさった。
「ごめん。 せっかく来てくれたのに」
これは明らかに謝罪という名の拒絶あり、 要するに 「帰れ」 と言われているのである。
「一人で大丈夫ですか?」
「一人が、 いい」
「でも……」
「本当にごめん。 明日になれば、 大丈夫だから」
「分かりました。 じゃあ……帰ります。 だけどオレで良ければ、 いつでも呼んでくださいね。
夜中でも駆けつけますから」

己の力量を思い知らされた。
邪魔にならない程度に寄り添うには、 自分はまだ役不足なのだ。
昔ジャンのジャケット中で感じた安らぎや、 唐沢が隣にいてくれた時の穏やかな温もりや。
一人でいるようで、 二人でいる。
そんな上質な空間は、 彼等だからこそ与える事が出来たのだ。
呼ばれもしないのに勝手に他人の家に上がり込み、 必要な言葉どころか、
支離滅裂な発言で自滅するような愚か者が、 間違っても頼りにされるはずがない。
来た時と別の意味で足取り重く、 トオルが階段を下りようとした時である。
「もう遅いし……」
いつものようにバタバタと足音を立てて帰っていたら、 聞き取れない程のか細い声だった。
「奥の客間が空いている。 もし泊まっていくなら使っていいよ」
長い前髪の隙間から、 たどたどしい視線がトオルと奥の部屋を行き来した。
それは手のかかる後輩に対する同情と取れなくもないが、
他人を近づける事を許した自分自身に戸惑っているようにも見えた。

唐沢の部屋と客間の間には弟・疾斗 (はやと) の部屋があり、 廊下にいるよりも中の様子が探りにくい。
それでもトオルは、 やっとの思いで与えられた居場所でもう一度待つことにした。
今度こそ、 何か役に立つ事があるかもしれない。
いつ呼ばれても良いよう灯りもつけず。
今も一人で暗闇の中にいる先輩の為に、 暗がりに慣れておこうと思った。
静か過ぎる時間が流れた。 流れる音が聞こえそうな程の静寂が。
「痛ッ!」
激しい衝撃音と共に、 頭に強烈な痛みを感じたトオルは、 慌てて体を起こした。
「あれ? オレ、 何やっているんだっけ?」
一人暮らしが長いと、 自分では気づかないうちに独り言を発してしまう。
だが周りの景色からして、 今は一人ではない。
丹念に磨かれた木目の廊下と、 そこに整然と並ぶ四つの部屋の扉が、 何処にいるかを思い出させてくれた。
「泊まっていけ」 と言われて客間に入った後、 やはり先輩のことが気にかかり、
どうせ待つなら部屋の前で待機しようと、 懲りずに廊下へ出てきたのだ。
本当は寝るつもりなどなかったが、 あまりに静か過ぎて、ついうたた寝をしたらしい。
つまりは最初に家を訪れた時と変わらず、 唐沢の部屋の前で座り込むという進歩の無い状況にある。

「トオル、 いるのか?」
物音に気づいた唐沢から声がかかった。
必要とされるまで大人しく待つ予定だったのに、 これでは待機どころか邪魔になっている。
「すみません。 ちょっと、 眠れなくて……」
たった今寝入って頭をぶつけたばかりの人間は、 この台詞を吐かない方が良い。
顔を見ずとも、 寝ぼけ声で悟られるからだ。
「実は、 俺もなんだ」
丸分かりの嘘に合わせて、 部屋の扉が半分だけ開かれた。
「トオルの言う通り、 今夜は一人じゃ寒いのかな?」
躊躇いがちに開かれた扉の隙間から、 暗闇と同化しそうな弱々しい影が浮かび上がった。
「中に入っても?」
答えを聞く前に、 トオルは半開きの隙間へ腕を捻じ込んだ。
そうしなければ、 彼が消えてしまいそうで。
直感的に、 この一瞬だけは逃してはならないと思った。
ほんの少し、 驚きと戸惑いを見せた後で、 入り口にいた唐沢が部屋の奥へと戻っていった。
背を向けているものの拒否ではない。
今までの彼なら困惑した顔を見せるなり、 「ごめん」 と追い返すなり、 何らかの意思を示すはずである。
彼の領域に立ち入ろうとする時は、 特に。
この段階で何も言われなかったという事は、 中に入ることを許されたのだ。

ある程度覚悟はしていたが、 そこは本当に真っ暗な空間だった。
照明を落としている事もあるだろうが、 中の家具が全て黒で統一されており、
無駄を嫌う彼の性格を反映するかのように装飾の類は一切ない。 まさしく寝に帰る為の部屋だった。
それだけに、 机の上の白い写真立てと出窓に置かれた鉢植えが、 やけに異質な存在として浮かび上がってくる。
おそらく菜摘という少女の写真だろう。
陶器製の天使が施されたフレームの中には、 正面を向いて写ろうとする唐沢の隣で、
一人の少女がおどけ顔で寄りかかっていた。
明らかに趣味の異なる写真立ては、 彼女からのプレゼントかもしれない。
となると、 出窓にある鉢植えも――
「それは預かり物なんだ」
トオルの視線を追って、 唐沢が答えた。
「ランタナと言って、 幼馴染みの……菜摘の好きな花で、 退院するまで預かると約束した」
花の知識の無い人間には成長前の紫陽花 (アジサイ) にしか見えないが、 ちゃんとした正式名称があるらしい。
一見ピンクの手毬を思わせるその花は、 暗い部屋の中に置かれているせいか、 そこだけ闇とは異なる彩を放ち、
中央の白や黄色の花弁と相まって、 陽だまりの生まれ変わりのような印象を受けた。
会った事はないが、 写真の中の彼女が好みそうな花である。

先に部屋に入った唐沢が、 ベッドに腰を下ろすと同時に、 虚ろに漂う目の焦点をしっかりとランタナに当てた。
「分かっている。 もう返すことはないと。
だけど、 いつか彼女が帰ってくるような気がして。
こうして部屋の中に一人でいる時とか、 学校からの帰り道なんかは、 特に。
次の角を曲がったら会えるんじゃないかと思って、 次々と曲がっていくうちに、 どんどん家から遠ざかって、
何度回り道をしたか分からない。
知らない角をいくつも曲がって、 結局会えなくて。 自分でもおかしいと思う。
でも止められない。 時間が無くても確かめたくなる。
バカだと思いながら曲がって、 やっぱりバカだったと分かって後悔して。
いつもその繰り返し」
普段は要点だけを的確に話す先輩が、 あやふやな言葉を繋ぎ合わすように語るのは、
心の底に沈められた声が溢れ出す前兆に思えた。
その瞬間を邪魔しないように、 トオルは黙って隣に座った。
「夢の中だけでも会えればいいって、 子供みたいに。
だけど会ってしまったら、 いつもの自分に戻れない気がして……怖くて、 眠れなくなる」
夢の中でしか会えない人。
しかし一度でも会ってしまったら、 二度と元に戻れない事も彼は知っている。
虚空の中でも故人の幻影といる方が、 現実と向き合うより救われるから。

「子供の頃から、 菜摘とはいつも一緒だった。
そこにいるだけで周りも笑顔にするような明るい性格で、 大人しかった俺とは正反対なのに、
どういうわけか気が合ったというか、 一緒にいる事の方が自然に思えた。
それなのに、 俺は肝心な時に……彼女が病気で苦しんでいる時に、 テニスの事ばかり考えて……」
「でも彼女の病気のこと、 知らされていなかったんですよね?」
ここで初めてトオルは口を挟んだ。
放っておけば、 彼はどこまでも自身を追い詰めて、 ボロボロになるまで壊してしまう。
むしろ、 それを望んでいるかに見えた。
だがこの問いかけも、 無意味に終わった。
「ちゃんと気にかけていれば、 分かった事なんだ。
でも、 あの頃の俺はテニスの方へ気持ちが集中していて……あり得ない事だけど、 毎日楽しかった。
コートに立つのが楽しくて、 面白くて仕方がなかった。
成田という恵まれたパートナーにも出会えて、 浮かれていたんだ。
アイツと組めば負ける気がしなかったし、 怖いものなんて存在しないと、 本気でそう思っていた」

暗闇に目が慣れてきたらしく、 入った時よりも部屋に置かれている物が少しずつ見え始めた。
寝に帰るだけと思われた空間に、 シューズ、 ボール、 グリップテープなどのテニス用品と、
同じくテニスに関する本やDVD、 雑誌などで埋め尽くされた棚が二つも置かれている。
しかも、 それぞれの棚の一番下の段には、 過去に使ったラケットが、
几帳面にもガットを外した状態できちんと並べられている。
唐沢の視線が、 そこに注がれると同時に、 途切れがちだった口調が加速した。
「俺の記憶には、 彼女の笑う顔しかない。どういう意味か分かる?
アイツは、 菜摘は一度も俺の前で弱みを見せなかった。
病状が悪化して入院する時も 『ちょっとメインテナンスに行ってくるね』 と笑って。
もう死ぬかもしれないって時に、 アイツは俺の前で笑っていたんだ。
そんな彼女の演技を俺は鵜呑みにして、 俺は……自分が憎かった。
菜摘よりテニスに夢中になった自分を憎んだ。
自己嫌悪なんてものじゃない。 存在そのものを消したかった。
事実を隠して俺を試合に出そうとした兄貴より、 大切な人を見失うほどテニスに没頭した自分を」
これが、 唐沢がテニスと向き合えない理由だと思った。
あの成田が 「俺より強い」 と認める程の才がありながら。
村主が五年の歳月を投じて追い続ける程の実力を持ちながら。
唐沢はテニスに気持ちが傾く自分を、 必死になって遠ざけていたのだ。

「テニスを続けたかったのは、 彼女の方なんだ。
俺の場合は、 子供の頃に練習相手がいないからって、 兄貴に無理矢理ラケットを握らされたのがキッカケで、
テニス部も菜摘に言われて入っただけだから。
俺が代わりに病気になれば良かったと思った。 代わりに死ねば良かったと、 何度も思った。
繰り返し思っているうちに、 本当に実行したら彼女が戻ってくるような気がして」
話の中の唐沢と、 いつかの自分が重なった。
自責の念に捕らわれ、 死者と入れ替わることを願ってしまう。
理屈では割り切れない感情を持て余し、 自身を傷つける事でしか存在価値を認められなくなる、 少し前の自分と。
「死のうと思って、 毎日いろんな奴にケンカふっかけて。 でも誰も殺してくれなくてさ。
散々暴れまわった挙句、 自分で死ぬしかないと思って、 色んなもの持って川原へ行った。
ナイフとか、 ロープとか、 薬とか……だけど反射的に、 手首を切るのはマズいと思った。
テニスが出来なくなるって……バカだよな?
死ぬつもりの人間が、 手首の心配をするなんて、 自分でも呆れた。
きっと死ぬって事がどういう事か、 分かっていなかったんだ。
今でも分かっていないのかもしれないけど、 あの頃はもっとガキだったから……
だから、 教えてもらえなかったんだ。 大切な人が死ぬって時に……誰も……」
後悔、 怒り、 憎しみ。 唐沢から様々な感情が溢れ出している。
相変わらず表情の変化は乏しいが、 トオルはもうすぐだと思った。
もう少しで辿り着く、 きっと。

自分に対する恨み言を連ねていた唐沢が、 今度は薄っすらと笑みを浮かべた。
「死のうと決めたら、 やけに気が楽になったのを覚えている。
この世で一番おぞましい人間を消せると思ったら、 妙に幸せな気分になって、
しばらくぼんやり川を眺めていた。
そうしたら菜摘の母親が通りかかって……ずっと気にかけてくれていたみたいで、
ナイフ持っている俺の所へ泣きながら駆け寄ってきた」
トオルには閉ざされた扉が開く音が聞こえた。
加速し続けた口調が弱まっていく。
「菜摘と同じ目をした母親が、 涙浮かべて 『生きてくれ』 って何度も俺に頭を下げて。
菜摘を泣かせているみたいで、 結局、 死ねなかった。
その後家に戻ったら、 うちの母親も泣いていて……
菜摘の件で俺と兄貴は衝突していたし、 それを見て育った疾斗も荒れ出して、 家の中がメチャメチャだった。
俺が皆を泣かせていると思ったら、 いつもの自分に戻るしかなかった。
全て乗り越えた振りをして、 忘れたような顔して、何も起こらなかったと思い込ませて……事実を消そうとした……」
この時から唐沢の仮面は作られていったに違いない。
悲しむ時間を与えられず、 泣く事さえ許されず、 大切な人の死を受け入れる前に丸ごと闇へ葬ったのだ。

「俺が他人のちょっとした仕草で考えが分かるのは、 それだけ人の顔色を気にしているからだ。
自分の考えを周りに気づかれないよう、 いつもいつも注意しているから。
これでも彼女の命日は、 何とか普通に過ごせるようになったんだ。
命日に沈んでいたら、 また皆を不安にさせるから。
だけど誕生日だけは……彼女が生まれたこの日だけは、 どうしても耐えられなくて……
本当なら一番嬉しいはずの……生まれてきてくれて 『ありがとう』 って、 言いたかったのに。
菜摘に伝える事、 たくさんあったのに……」
それまで言葉の力を借りてしか感情を出せなかった彼の目も、 頬も、 唇も。
次第に意思を持って動き出した。
五年も溜め続けた涙を開放するのに、 もう時間も言葉も必要ない。

トオルは最後に北斗からの伝言を残して、 部屋を立ち去ろうとした。
隣に座る唐沢が、 少しずつ背を向け始めたからである。
恐らく泣き顔だけは、 誰にも見せたくないのだろう。
ベッドの上でうずくまり顔を背ける後ろ姿が、 いつもより分かり易く、 そして健気に見える。
「北斗先輩が 『もう泣いていい』 って。
オレもそう思います。
今夜は家の人もいないし、 誰にも心配かけないから、 好きなだけ……泣いて……いいって」
トオルが部屋を出て行こうとした理由は、 もう一つあった。
「なんで、 オマエが泣くんだよ?」
例え背を向けていても、 五年前の悲しみに浸る直前であろうとも、 切れ者の部長は声のトーンで察知したらしい。
救いに来たはずの後輩が、 救いを求める人間より先に涙したという恥ずかしい現状を。

「すみません……みんなキツかったんだと思ったら、泣けてきちゃって」
北斗と唐沢。 双方の立場から聞かされた五年前の出来事は、 いずれも真実に違いなく、
だからこそ、 それぞれが抱えてきた苦悩も我が事のように感じられた。
特に唐沢の痛みはよく分かる。
思えば、 トオルがアメリカへ転校すると言ってテニス部を退部した日。
いや、 もっと前から、 彼はこんな重い荷物を背負い続けていたのだ。
高等部のFコートで対決を申し込んだ時も、 「必ず帰って来い」 と言って送り出されたあの時も。
トオルがジャンの死に直面する前から、 ずっと。
その事を考えると、 自然と涙が溢れてきた。
当時の彼の気持ちを推し測っては泣き、 自分にかけられた言葉の数々を振り返っては、 また泣いて。
傷を負っているからこそ、 かけられる優しさがある。
「まったく、 何しに来たんだよ? 人の家まで押しかけて来て」
「オレだって泣きたくないんですけど……涙が勝手に……」
「今夜は、 面倒見ないからな」
「す、 すみません……すぐ消えますから」
せめて邪魔にならないようにと出て行きかけたその腕を、 ぐいっと引き戻される感触があった。
振り返ると、 背を向けたままの格好で、 唐沢がトオルの袖口を後ろ手に握り締めている。
「……消えたら、 もっと……面倒見切れないだろ?」
拗ねているような、 怒っているような涙声は、 五年ぶりに彼が他人に見せた本心だった。

トオルは敢えて、 唐沢と背中合わせに座った。
泣き顔を見られずに温もりを感じられる空間を、 彼も望んでいると思うから。
二人分の嗚咽が、 交互だったり同時だったりしながら、 何度も繰り返された。
小刻みにぶつかり合う背中から感じる慌しい温もりは、 決してトオルが理想としたものではないけれど、
嗚咽に混じって漏れ聞こえる擦れ声が、 それでも良いと教えてくれた。
「ごめん、 菜摘……傍にいなくて、 ごめんね……」
五年前、 親しい人達を想うあまり、 自ら時を止めた少年が悲しみに向かって歩き出した。
もう泣いていい。
好きなだけ、 好きなように泣いていい。
故人に届くかなくても、 想いをぶつければいい。
不恰好でも、 情けなくても傍にいる。
今夜は、 ずっと後ろで支えるから――


黒一色の部屋の中に、 彩を伝える使者が飛び込んできた。
昨夜は気づかなかったが、 朝一番でこの部屋を訪れる眩い光はいつも、
出窓に置かれた鉢植えと最初に挨拶を交わしてから ベッドで眠る主のところへ立ち寄るらしく、
トオルが寝ぼけ眼で見上げた時は、 すでにランタナは頭から降り注がれる陽光に包まれて彩り豊かに輝いていた。
やはりランタナは、 陽だまりの生まれ変わりかもしれない。
暗闇よりも陽の当たる方が、 この花には似つかわしい。
「支える」と言いつつ寝入ってしまったトオル後ろで、
昨日と同様、 背中合わせにうずくまっていた唐沢がゆっくりと顔を上げた。
「トオル、 もう少しだけ付き合ってくれないか?」
そう言って彼は窓辺の鉢植えを抱えると、 部屋を出て裏庭へ回った。
「これ、 外に植え替えてやろうと思うんだ。
ここの方が日当たりもいいし、 何より自然だから」
「きっと喜ぶと思いますよ。 彼女も、 花も」
「うん」
朝の光の中で、 腕まくりをして土と格闘する先輩がやけに幼く見える。
だが、 その幼さは不自然なものではなく、 今の彼には必要なもののように思えた。
ようやく動き出したのだ。
悲しみの手前で立ち止まっていた彼の時間が。

「先輩、 今日は学校休んでいいッスよ。 担任とコーチには、 オレから言っておきますから」
単なる恩返しのつもりだった。
自分が受けた優しさを返す事で、 同じように喜んでもらえるものと思って。
ところが時間の無駄を誰よりも嫌う先輩は、 予想を上回るスピードで五年の歳月を取り戻したようで、
トオルがその台詞を口にする頃には、 完全復帰を遂げていた。
「タ〜コ! これ以上、 休んでいられるか。 リベンジ行くぞ!」
「へっ? リベンジって?」
「昨日、 伊東兄弟にやられっ放しだっただろ? 今日は倍にして返してやる。
だいたいオマエも俺が不調だからって、 ボヤっとするんじゃない!
そういう所が甘いんだよ」
「か、 唐沢先輩? あの……もう大丈夫なんッスか?」
この絶好調の説教を聞けば、 確かめなくても 「大丈夫」 なのは一目瞭然である。
「パートナーのフォローも出来ないようじゃ、 まだまだ一人前とは呼べないな。
でも……」
ランタナの植え替えを終えた唐沢が、 額の汗を拭うと同時に、 その素顔をこちらに向けた。
「ありがとう、 トオル。 おかげで生き返った。
本当はオマエがアングルボレーを完成させた時から、 覚悟はしていたんだ。
反吐が出るほど嫌いな自分でも、 そろそろ受け入れなきゃって。
やっぱり俺は、 テニスが好きなんだと思う。 何があったとしても。
だからコートへ戻ろう」
ギャンブルのカモを見つけた時とは異なる、 少年らしい屈託のない笑み。
これが等身大の彼だと思った。
「了解。 今日は、 倍返しッスね!」
百パーセント好きになれなくても、 テニスを好きな自分だけは認めてやろう。
たとえ道に迷い、 見失い、 進むべき方向の選択肢を間違えたとしても。
これだけは揺るがない自分の中の真実だから。
そこから始めれば良いのだから。
時間が惜しいとばかりに先を急ぐ先輩を追って、 トオルも走り出した。
いつかコートの中で彼を支えられる日が来ることを願って。




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