第 26 話 若葉マークの恋人たち

プルメリア・イメージ



「誕生日だから、 好きなだけワガママ言っていいぞ」
トオルの言葉を思い返すたびに、 奈緒は不信感を募らせていった。
駅前広場の時計台も、 携帯電話も、 アクセント代わりにつけてきた
腕時計も、 全て約束の一時をとうに過ぎている。
何度も文字盤を確かめては、 溜息をつく。
大人の女性がするような理性を抑える為の溜息ではなくて、
奈緒が漏らしたそれは、 日頃の不満が爆発する寸前の
予兆の役割を担うものだった。

「オマエの誕生日は部活休むから、 好きなところ連れて行ってやる。 どこがいい?」
普段はテニスの事しか頭にない彼が、 珍しく恋人らしい話題を提供してきたのが一週間前。
ちょうど奈緒の誕生日が週末にかかるという話の後だった。
「だったら映画がいいな」
「えっ? そんなんでいいのか?
誕生日なんだから、 好きなだけワガママ言っていいんだぞ。
ディズニーランドとか、 あと横浜の何だっけ? ほら、 でっかい水族館のある……」
「うん。 でも、 駅前の映画館でいいよ。
普通のデートがしてみたいから」
「遠慮するなよ?」
「してないよ」
それでもハードな練習が重なる彼の体を気遣って、 約束の時間を目一杯遅くした。
午前中はゆっくり休んでもらい、 午後から二人で過ごす初めての休日を存分に楽しむつもりだったのに。

この日の為に、 奈緒は一週間も前から着ていく服を吟味し、 それに合わせた口紅を何度も買い直し、
三日前から天気予報をチェックして、 今朝も早起きして身支度を整えた。
だが、 心待ちにしていたのは自分だけなのだろうか。
「トオル遅いなぁ」
今となっては、 「誕生日だから」 の台詞も恨めしく思えてしまう。
待ち合わせに現れては去っていくカップル達を横目に、 カバンから取り出した携帯電話をチェックする。
面倒臭がりの彼の性格上、 着信はもちろんメールも来ないと分かっていたが、
こうしていれば周囲からは連絡を取り合っているように見えるはず。
少なくとも一時間以上待ちぼうけを食らわされてもまだ待つ気でいる、 暇な人間だと思われずに済む。
いっそ自分から連絡を取ろうかとも考えたが、 そこまで図々しくなれなかった。
次の予選に向けて、 テニス部員は毎日過酷なトレーニングを続けている。
その事情を知るだけに、 万一疲れて寝ているのなら、 電話で起こすのは悪い気がしたのだ。
もう少しだけ、 待ってみよう。 お誕生日だけど、 あと少しだけ。

遠くから物凄いスピードで近づいてくる人影が見えた。
「悪りィ、 奈緒!」
小さな影が瞬く間に大きくなり、 慌しい叫び声と共に駅前の広場に飛び込んできた。
「ゴメンな、 奈緒。 お誕生日だってのに……オレの方が遅刻して……」
明らかに全力疾走してきたと分かる彼の姿に、 膨れかけた頬が一度は緩んだが――
「大丈夫。 私の方こそ、 無理させてゴメンね。
トオル、 疲れているんでしょ?」
「いや。 オレはバリバリ元気だぜ。
本当はもっと早く切り上げるつもりだったんだけど、 ストリートコートへ寄ったら、 海南の連中に捕まってさぁ」
「もしかして、 テニスしてきたの?」
「ああ。 午前中、 暇だったから」

全力疾走してきた彼が、 急に不義理な男に見えてきた。
言われてみればジャージこそ着ていないものの、 トオルはいつも部活で使用するTシャツにジーンズという、
どう見ても午後のデートよりも午前の予定を重視したラフな格好をしている。
いわゆる 「動き易い服装」 というヤツだ。
今日は誕生日を祝う為のデートであって、 学校のリクリエーションではない。
午前中をフリーにしたのだって、 忙しい体を思っての事である。
しかしながら、 彼にとって初めてのデートは学校行事と同レベルのイベントらしい。
ふつふつと湧き上がる怒りを鎮める間もなく、 今度は不義理な男が 「やべェ!」 と声を上げた。
「どうしたの?」
「忘れ物した! オマエは、ここで待っていろ。
ちょっと家まで取りに行ってくる」
「待って、 私も……」
来た時と同じ慌しさで戻る背中に、 奈緒のささやかな願いは届かない。
「お誕生日はずっと一緒にいよう」 って言ったのに。
小さくなった影を追いかけて、 奈緒も駆け出した。
全力疾走するには似つかわしくない 「動きにくい服装」 のままで。



駅前からトオルの家までは徒歩で二十分、 走れば十分程度で到着する距離ではあるが、
服装が災いしたのか、 奈緒の全力疾走は歩いた時と同じ時間を要した。
無論、 俊足の彼はすでに家の中である。
心臓がバクバクした。 全力疾走以外の理由で。
建物の前までなら何度か来た事はあるが、 実際、 彼の家に入るのは今日が初めてだったのだ。
緊張しつつも開けっ放しの玄関から中を覗くと、 二階からかなりの音量の独り言が聞こえてきた。
よほど慌てているらしい。
「えっと、 昨日の夜帰ってきて……確か机の上に置いたと思ったんだけどな。
おっかしいなぁ、 やべェよなぁ」
「トオル、 入るよ?」
念のため声をかけてみたが、 返事の代わりに更に大きな独り言が返ってきた。
「そうだ、 大事な物だと思って机の中に入れたんだ!
あれ? 違った! ああ、 もう! 昨日のオレ、 何処へやったんだよ!?」
あまりの混乱振りに心配になって二階へ上がってみると、 奥の部屋で頭を抱えてうずくまる丸い背中が見えた。
「トオル、 どうしたの?」
「すっげェ大事な物、 失くした……う〜んと、 えっと……」
「一緒に探そうか?」
「ダメ! それだけは絶対ダメ!」
ここまでハッキリ拒否されれば、 出る幕はない。
ドタバタと駆け回る足音を聞きながら、 奈緒は彼の寝室と思われる部屋の片隅で、
探し物が見つかるまで待つ事にした。
「あっ、 そうだ! 忘れないようにと思って、 今朝リビングのテーブルへ移動させたんだ!」
一人で納得したトオルが目の前を通り過ぎ、 何の説明もなく階段を駆け下りていく。
駅前に続き、 本日二度目の置いてきぼりである。
きっと彼は奈緒の存在など忘れているに違いない。
あるいは必ず付いてくるものと思っているのか。
元々デリカシーとは無縁のタイプだが、 それを承知で付き合っているのだが、
せめて視界に入れてくれても良いのではないか。

追い討ちをかけるかのように、 ますます不信感、 いや疎外感といった方が良いかもしれない。
一人残された奈緒を、 更に深く落ち込ませる物が目に入った。
彼の机の上の、 どの場所からでも良く見える場所に置かれたフォトフレーム。
通常は一番大事な人の写真を飾るはずの特等席を占領していたのは、
自分ではなくテニス部の先輩である唐沢だった。
恐らく地区予選で優勝した時の写真だろう。
試合用のユニフォームを着たトオルと唐沢が、 仲良く肩を並べて写っている。
悲しい事に、 その中で笑みを浮かべる彼は、 自分と写った時よりも生き生きとして見えるのだ。
ヤンチャ坊主丸出しのいかにも彼らしい笑顔が、 唐沢との親密さを表しているようで、
大好きな表情の一つであるにもかかわらず、 無性に腹立たしく思えた。
今まで二人で撮った写真は一枚だけ。
しかも周りに冷やかされたせいで、 奈緒は俯き、 トオルはそっぽを向くという、
酷く距離のあるツーショットである。
確かにあれよりは優勝の記念写真を飾る方が様になるかもしれないが、 奈緒の机の上には飾られている。
その酷く距離のあるツーショット写真が。
いつでも、 いつまでも見られるように。
帰ってすぐに会える特別な場所だと思うから。

フレームにつられて壁に目をやると、 もっと見てはいけないものが強引に視界に飛び込んできた。
外国人に囲まれたトオルの写真が、 壁一面に何十枚と貼られているのだ。
二人が付き合い始めた時、 奈緒は一つだけ心に決めた事がある。
決して自分から彼の過去を詮索しないこと。
アメリカでの話をする時の痛々しい表情を見れば、
その三年間が彼の心に大きな傷跡を残した事ぐらい察しがつく。
だからこそ、 余計な詮索をして傷をほじくり返すような真似はしないと決めたのだ。
しかし、 こうして目の前に過去をぶら下げられると、 つい見入ってしまう。
彼が向こうでどんな生活をしていたのか。

見知らぬ景色の中で、 外国人達と共に微笑むトオルは、 机の上の写真とは違い、 どれも大人びて見える。
皮のジャケットを着ているせいもあるだろうが、 笑っていても何処か警戒しているような、
無邪気さとは対極にある笑みに胸が痛くなった。
半分は彼の経験してきた過去を思って。 そしてもう半分は罪悪感からである。
詮索しないと決めたくせに、 やはり視線は一人の女性を探し続けている。
一度だけ付き合った事があるというトオルの元・彼女の写真を。
派手な服装の男達に紛れて写るストリートコートの仲間らしき女性や、 雑誌に出てくるようなモデル並の美人もいる。
一目で姉御肌と分かる女性は、 トオルを頭から抱え込み、 兄弟のように仲むつまじく写っている。
共通して言えるのは、 いずれも奈緒から見れば大人の女性だという事である。
化粧の仕方も、 写真の写り方も心得ていて、 口紅を買うのに何度も失敗するようなお子様は一人もいない。
さっきの罪悪感とは異なる、 つんとした痛みが胸から喉元を通り抜けた。
こんな洗練された彼女の後で、 自分と付き合うトオルは、 物足りなさを感じているのではないだろうか。
恋人のように扱われないのも、 もしかして――

「なんだ奈緒、 ここにいたのか?」
ずっといたにもかかわらず、 今初めて発見したような口ぶりで、 トオルが話しかけてきた。
「映画の時間なくなるぞ。 急ごう!」
「う、 うん……」
どうやら探し物を見つけたらしく、 上機嫌で階下へ降りていく彼とは対照的に、 奈緒の足取りは重かった。
写真の中の洗練された女性達と、 大人びたトオルの顔が頭から離れない。
すぐ目の前に本人がいるというのに、 写真の彼の方が本物に見えてくる。
彼の本心が、 ここには無いような気がして。
奈緒の不安をよそに、 トオルはさっさと戸締りを済ませると、 家の鍵をカチャカチャと鳴らしながら、
いつものヤンチャ臭い笑みを見せた。
「やっぱ、 あったほうが便利だよな?」
「えっ、 何が?」
「合鍵」
あまりに唐突な申し出に、 思わず奈緒は息を呑んだ。
一人暮らしをする男の家の合鍵を渡されるという事は、 とても重要な意味を持つ。
いつでも来ていいという事で、 誰にも邪魔されずに会えるという事で、 その先も考えられるという事である。
「だってさ、 奈緒が合鍵持っていれば、 待ち合わせ場所も家に出来るし。
今日みたいに慌てなくて済むし……」
合鍵と聞いただけで、 奈緒は耳まで赤くなったというのに、 トオルは平気な顔で話を続けた。
「オマエの分も作るか?」
「うん」 と言いかけて、 一箇所だけ引っかかりを感じだ。
「私の分……も?」
「そう、 奈緒の分も」
「他にも持っている人、 いるの?」
「ああ、 コーチと唐沢先輩。 緊急用にな」

聞き返さなければ良かったと、 後悔した。
男に嫉妬しても仕方ないと思っても、 こうも立て続けに恋人の立場を奪われては、 恨み言の一つも言いたくなる。
一体トオルの中で自分は、 どのポジションに位置づけられているのか。
テニスよりも下で、 部活の先輩達よりも下で、 きっと恋人などではなく、 友達よりは仲がいい程度かもしれない。
テニス>先輩>恋人>奈緒>友達と、こんなところだろうか。
先輩と恋人の間にも、 もっと他に大切な人が大勢いるかもしれない。
「ねえ、 トオル?」
彼の気持ちを確かめたくなった。
お子様と笑われたとしても、 問いたださずにはいられない。
彼がどれほど想ってくれているのか。
ところが続きを聞く前に、 トオルがまた慌て出した。
「時間ないぞ、 奈緒! 走れ!」
「なに?」
「オマエの見たいって映画、 もう始まっている。 急げ!」



途中から見る映画ほど、 興ざめするものはない。
特に奈緒のような始まる前の予告からワクワクしたい人間にとって、
経過を省いてストーリーの核心を突きつけられても、 前半部が気になって盛り上がるどころか冷めてしまう。
出来れば次の回から見たいとの願いも空しく、 二人が息を切らして映画館へ飛び込んだと同時に、
タイミング悪くお人好しの係員と出くわしたが為に、 異例にも上映中の館内へ誘導されるという
非常に不本意な親切を受ける羽目になったのだ。
暗がりで映画に陶酔する恋人達の脇を通り、 小さくなりながら席に着くと、
予想通りスクリーン上では告白タイムが始まっていた。
奈緒が最初から見たいと願った理由は、 それが恋愛物だからというのもある。
ミステリーならある程度の予測もつくが、 恋愛物でいきなり 「I LOVE YOU」 を連発されても、
その告白は軽薄なものとしか映らない。
相手のどこに魅力を感じ、 何をキッカケにして 「愛している」 に至ったか。
きちんと経緯を把握してから、 肝となるシーンに突入したかったのだが、
残念ながら主役達はすでに互いを熱っぽく見つめ合っている。
スクリーンいっぱいに、 主演の二人による濃厚なキスシーンが数分に渡って映し出された。
本来なら感動するはずの名場面が、 妙にいやらしく感じる。
そもそも肝心な時に目をつぶるのを忘れ、 一生に一度のファースト・キスを三秒以下で終わらせた
恋愛初心者には、 外国人が繰り広げるキスの上にキスを重ねる連続技は、 過激としか言いようがなく、
目のやり場にも理性のやり場にも困ってしまう。

ふいに映画の中の俳優達と、 自分達の姿が重なった。
あの後、 一瞬で終わったファーストキスの後、 トオルからもらったメールには、 こう綴られていた。
【次のデートの時は、 絶対目つぶってくれよな!】
あれは今日の、 このデートの事ではないか。
顔をスクリーンに向けたままで、 奈緒は視線だけをそっと隣へ向けた。
トオルは今、 どんな顔をしてこの濃厚なキスシーンを見ているのか。
海外で生活をしていただけに、 後で彼もこんな恥ずかしいキスをするつもりなのか。
こっそり様子をうかがってみると、 白いシャツの胸元が規則正しく上下するのが見えた。
あろう事か、 この過激なキスシーンをものともせずに、 彼は夢の中にいるではないか。
最初から恋愛物に興味がないのは分かっていた。
そう思って午前中はゆっくり体を休めてもらい、 午後の映画では寝ないよう計画を立てたのに。
本日三度目の置いてきぼり。 物理的ではなく、 精神的な。
二人でいるのに寂しさを感じる。
奈緒の興味のあるものにトオルは全く関心を示さず、 彼の夢中になる世界に自分はついていけない。
アメリカと日本で離れていた時よりも、 今のほうが距離を感じるなんて。

「……No,no……I told you,MAULOA……not、IPOLANI……」
規則正しい寝息に沿って、 熟睡の証とも言える意味不明な寝言が聞こえてきた。
字幕を追うだけの奈緒にはBGMにしか聞こえないが、 アメリカに住んでいたトオルには
俳優達の会話が理解できるらしく、 無意識のうちに頭の中が英語に切り替わったようだ。
寝言とは言え、 彼の話す英語は流暢なもので、 それだけに一度も日本から出た事のない奈緒には、
何を喋っているのか見当もつかない。
「……no,way……couldn't be IPOLA……あっ?
あれ、 ここ何処だ?」
居場所を忘れるほど深く寝入っていた彼は、 明るくなった館内と、
映画を堪能して出て行く客の冷たい視線の中で、 ようやく目を開けた。
「やべ、 オレ寝てた?」
「うん」
「何か、 喋ってたか?」
「でも、 よく分からなかった」
「そっか! ああ、 良かった」
「何がいいの!?」

自分でも驚くほどの強い口調だった。
奈緒の知らない世界がいくつもあるトオル。 その彼から 「オマエは知らなくていい」 と拒まれたようで。
静まり返った映画館の中に、 気まずい空気が流れた。
「ごめんな。 寝ちまって……」
滅多に聞く事のない口調に驚いたのか、 トオルがすぐに謝ってきた。
しかし、 寝た事を怒っているのではなかった。
最初はそうだったが、 今は違う。
彼の事をもっと知りたいと願う自分と、 知らなくていいと言うトオル。
毎日、朝から晩まで彼の事を考えている自分と、 テニスの事しか頭にないトオル。
二人のギャップを見つけるたびに不安が重なり、 不安が不満となって、 遂にここへ来て爆発したのだ。
せっかく素直に謝ってくれているのに、 返す言葉が見つからない。
いま口を開けば、 写真や合鍵の事まで責めてしまいそうで、 奈緒は丹念に塗り直した唇をギュッと結んだ。

「あのさ……腹、 減ってないか?」
気まずい沈黙から抜け出そうと、 トオルがまったく別の話題を差し向けた。
「うん、 少し」
本当は少しも空腹など感じなかったが、 重苦しい沈黙と周囲の視線に耐えかねて、
奈緒は渋々ながら彼の提案を受け入れた。
トオルが前を行き、 奈緒はその後について歩く。
二人の間に会話がない時は ――主に彼がテニスの事を考えている時であるが―― 決まってこうだった。
振り返る事なく先を進む彼に置いていかれないように、 必死になって距離を縮める自分。
すると突然、 トオルの足が駅前のカフェの入り口付近でピタリと止まった。
中等部時代、 学園祭の買出しの為に二人で訪れた懐かしい店の前で。
いつもなら迷わず 「覚えている?」 と話しかけるところだが、
奈緒は敢えて彼の記憶を確かめるような事はしなかった。
三年も前の思い出にもならない出来事を、 いつまでも覚えているはずがない。
立ち止まった彼が 「ここで」 と言ったのも、 恐らく 「ここで何か食べよう」 と言おうとしたのだと思う。
途中まで言いかけて、 彼はすぐにばつの悪そうに目を逸らし、 ふいっと背を向け中へ入っていった。
閉じかけた扉の隙間から、 店員に向かって指を二本立てているのが見える。
一瞬、 当たり前のように付いてくるものと思い込む彼を困らせたくて、 一人で帰ってしまおうかとも考えたが、
誕生日だからと思い直し、 奈緒も後に続いて店の扉を開けた。

中に入ると、 トオルはすでに奥のカウンター席に腰を下ろし、
オーダーを取りに来た店員と親しげに談笑中だった。
彼はよくこの店に出入りするのだろうか。
通い慣れている感じがする。
それに店員達の態度も二人の事情を知っている風だった。
入れ替わり立ち代り、 わざとらしくカウンターの後ろを通り過ぎては、 奈緒ににっこりと微笑みかけてくる。
決して冷やかし目的ではなく、 「おめでとう」 と言いたげに。
そんな彼らを顎で追い払うと、 トオルは急に真面目な顔で向き直った。
「えと、 まずは……お誕生日おめでとう」
そう言って無造作にジーンズのポケットから差し出されたのは、 小さな封筒のような形をした包み紙である。
リボンも何もなくて気づかなかったが、 まさしくこれは今日の為に用意されたプレゼントで、
さっき彼が慌てて家に取りに帰ったものだった。
「開けないのか?」
プレゼントを握り締めたまま動かない奈緒を、 トオルが訝しげな顔をして眺めている。
怒ったような、 困ったような。 きっと予想外の彼女の反応に戸惑っているのだろう。
奈緒が嬉しさのあまり次の動作に移れないでいる事を、 彼は知らない。
「あ、 うん……開けてみるね」
少しずつ二人の距離が埋まるのを感じながら、 慎重に袋を開けてみると、
中から細いチェーンが滑り落ちてきた。
「これ?」
上品なピンクがかったゴールドのチェーンは、 前から欲しいと思っていたハワイアンジュエリーのペンダントだった。
「どうして?」
「前に聞いた事があったから」
「私、 そんなこと話した?」
「覚えてねエのかよ?」
「ごめん……」
以前から奈緒はハワイアンジュエリーに興味があった。
特に南国の花をモチーフにしたデザインに魅かれて、 手芸部の作品にも取り入れるほど凝った時期もある。
しかし、 その事を誰かに話した記憶はない。
「合宿の話をした時……っつても、 三年も前じゃ覚えねエか」
尖った唇に紅茶のカップを押し付けると、 トオルがそれまで向き合っていた体をカウンターの正面に戻した。

三年前と言われて、 遠い昔の川原での会話が甦った。
「あっ、 あの時のこと?」
三年前、 彼の転校が決まる直前に、 テニス部の合宿の話をした事があった。
確か行き先の話題になって 「ハワイならついて行きたい」 と冗談めかして言った記憶がある。
その時にハワイアンジュエリーに興味があると、 一言ぐらいは喋ったかもしれないが、
そんな些細な事を彼は覚えていたのだろうか。
本人も忘れるぐらいの話を、 ずっと記憶に留めていたというのか。
「ディナって……アメリカにいる友達で、 そういうの詳しい奴がいてさ。
知り合いに頼んで、 作ってくれるって言うから」
「でも高かったでしょ?」
ハワイアンジュエリーは、 高校生が簡単に手の出せる代物ではない。
ペンダントとなると、 尚更だ。
「だから、 ここでバイトしてた」
「バイトって、 部活の後に?そんな、体壊しちゃうよ?」
「三年分だから」
「えっ?」
「オレが向こうにいる間、 ずっと誕生日プレゼント渡せなかっただろ? だから……」
ぶっきら棒な口調で話し続ける横顔を見て、 ようやく奈緒はトオルがカウンター席を選んだ理由を理解した。
勘がいいのはコートにいる時だけで、 度胸がいいのは敵と向き合う時だけで、
普段の彼は思っている事の半分も言えない歯痒いほど不器用な人間である。
誰よりもよく分かっていたはずなのに。
なかなか会えない不安から、 本来の彼を、 彼の心の在りかを見失うところだった。

もらったプレゼントに視線を戻すと、 チェーンの先に細長いペンダント・トップがついていた。
表にはプルメリアの透かし模様が施され、 裏を返すと 「MAULOA T to N」 と刻まれている。
「T to N」 は 「トオルから奈緒へ」 の意味だと思うが、 「MAULOA」 が分からない。
そう言えば、 映画館でもトオルがこんな発音をしていた。
聞き取れない英単語だと思ったのは、 これだったかもしれない。
奈緒はジュエリーに刻まれた文字の意味を聞いてみた。
「『マウロア』 って、 何?」
「し、 知らない……」
「嘘! さっき寝言で言ってたもん」
「えっ!? やっぱ喋ってたんだ。 最悪」
そっぽを向いてクシャクシャと髪を掻きあげる仕草も、 今では彼特有の照れ隠しだと気づいてあげられる。
「ねえ教えて?」
「ハワイ語だ」
「意味を聞いてるの」
「知らないって。 後でネットか何かで調べろよ。
もう出るぞ!」

乱暴に伝票を掴むと、 トオルが飲みかけの紅茶を置いて席を立った。
彼が一人で先を歩くのは、 考え事をする以外にもう一つ。 その理由を悟った奈緒も、 ごく自然に席を立った。
ところが店を出ようとしたところを、 一人の男性が声をかけてきた。
「お誕生日おめでとうございます。 思い出の店は楽しんでいただけましたか?」
聞き覚えのない声に振り返ると、 店長らしき男性がエプロン姿で立っている。
「彼、 財布の中にいつも貴女の写真を持ち歩いているので、 すぐに分かりました。
素敵な誕生日になると良いですね」
落ち着いた店内同様、 温厚そうな店長から掛けられた一言は、
誕生日プレゼントに匹敵する程の嬉しい内容だった。
トオルもこの店を覚えていてくれた。 二人の思い出の店として。
そして写真も、 飾る場所こそ違うが特等席に置いてくれている。
机の上よりももっと近い、 いつでも会える財布の中に。
その事実が嬉しくて、 奈緒が何か返事をしようとした時だった。
温厚な店長に噛み付かんばかりの勢いで、 トオルが会話に割り込んできた。
「店長、 余計なこと言わないでくださいよ!」
「アハハ、 ごめん、 ごめん。
真嶋君が気の毒なぐらい緊張しているから、 つい応援したくなってね」
「それが余計だって言うんです! 恥ずかしいから止めてくださいよ」
「お邪魔だったかい?」
「だから、 そういう言い方しないでくださいって!」
「照れない、 照れない」
「ああ、 もう! ご馳走様でした。 帰るぞ、 奈緒!」



店を出てからしばらくの間、 映画館とは違う別の沈黙が続いた。
気まずいというよりも、 どこから会話を繋げればいいのか、 タイミングを測りかねての沈黙である。
ペンダントの意味は、 もう聞かない方がいい。
あの照れ方は尋常ではなかったし、 他にも確かめておきたい事があったから。
いつも以上に足早に歩くトオルについて行くうちに、 気が付けば家の近くの公園を通り過ぎていた。
もうすぐ初めてのデートが終わってしまう。
彼の口から何も聞き出せないままで。
「お誕生日は……」
奈緒は、 思い切って前を歩く腕を掴んでみた。
「お誕生日は、 好きなだけワガママ言っていんだよね?」
「あ、 ああ……他にどこか行きたいとこあったか?」
「ペンダントかけて欲しい……トオルに……」
「いいけど?」
「やり方わかる?」
「たぶん。 でもここじゃ暗いから、 よく見えない。
公園に自販機があったよな? あそこの前なら見えるかも」

すでに陽が落ちた通りから外れて、 二人は公園内の自動販売機の明かりを目指した。
「えっと……これを開けて、 こう引っかければいいんだな?
よし、 後ろ向いて」
アクセサリーの類とは無縁の彼が、 慣れない手つきでペンダントと格闘する様は、
後ろ向きの体勢でもチェーンの揺れ具合で感じ取れた。
なかなか止め具が噛み合わないらしく、 何度か首を絞められそうになった後、
ようやくサラサラという軽やかな響きと共に、 プルメリアのペンダント・トップが奈緒の胸元に届けられた。
「永遠……」
「えっ?」
「MAULOAは、 永遠って意味だから」
「そうなの?」
振り向きかけた奈緒の肩を、 トオルがやんわりと押し戻した。
背後の自動販売機から照らし出された二人の影が、 一つになって地面に落ちている。
彼が真後ろにいる事だけは確かだが、 それ以外の事は分からない。
どんな顔で、 どんな仕草で話しているのか。
「本当はIPOLANIがいいって、 友達に薦められたんだけど……」
怒っているような、 困っているような。
カフェにいた時と同じたどたどしい口調が、 背後から流れてくる。
「あっ、 『イポラニ』 は最愛の人とかって意味で、 よく彼女のプレゼントに使うって。
さっき映画館で、 その夢を見ていた。 友達がふざけて、 無理やりIPOLANIにした夢。
奈緒にプレゼントの事がバレたかと思って、 それで 『良かった』 って、 つい……」
「最愛の人じゃなくて、 永遠?」
「最愛の方が良かったか?」
「分かんないよ。 理由を言ってくれなきゃ、 分からない」
「そんなの言えるかよ」
「だったら、 分からない。 トオルは何も言ってくれないから、 分からない!」

IPOLANI と MAULOA。 意味の違いは、どうでも良かった。
ただ彼にとって、 自分が最愛かどうかを知りたかった。
誰よりも好きでいてくれるかを。
トオルが再び困ったような顔を見せている。
気がつけば、 奈緒は彼の制止を振り切って、 向き合うように立っていた。
「話してくれなきゃ、 分からないよ。
トオルが何も言ってくれないから、 勝手に不安になって誤解して、 後から気付いて自己嫌悪になって、
いつもいつも大変なんだよ?」
一度言い出したら止まらなかった。
今まで抑えていた想いが、 饒舌ではないにしろ次々と口をついて出てしまう。
「本当は私の事そんなに好きじゃないのかなとか、 もっと他の事に興味があるのかなとか、 あれこれ考えて。
でも嫌われたくなくて、 背伸びして……だから、 ちゃんと言って?」
「な、 何を?」
「私のこと好き?」
「バ、 バカ! そんなこと言えるかよ」
「だってお誕生日だもん。 ワガママ言っていいんだよね?」
ずっと知りたかったのは、 これだった。
誰よりも自分の事を好きだと思ってくれているのかどうか。
テニスよりも、 部活の先輩よりも、 元・彼女よりも好きで、 トオルにとって最愛の人なのか。

「……好きとか……そういうのじゃない。 奈緒は、 そういうのとは違う」
「じゃあ、 どういうの?」
明らかに彼を困らせる行為だと分かっているが、 構わず問い詰めた。
もうこの機会を逃したら、 照れ屋の彼から本心を聞き出すチャンスなど一生来ないかもしれない。
「前にオマエに告った時、 思ったんだ。
一言で片付く気持ちなんて無いんじゃないかって。
だから奈緒の事も 『好き』 って薄っぺらな言葉じゃなくて、 もっと何て言うか、 色々あるから……」
「色々って?」
「色々は、 色々だ」
「全部言って」
「だから、 一緒にいたい思う奴だとか」
「それから?」
「オレが自分で守るって決めた奴だとか」
「あとは?」
「ま、 まだ言わなきゃ、 ダメなのか?」
「トオルが思っていること全部話してくれるまでダメ。 だってお誕生日だもん」
さすがにワガママ言い過ぎたのか、 トオルがムッとし始めた。
「ったく、 しょうがない奴だな……」
髪を掻き上げる手も、 やけに乱暴に見えた。
「だ・か・ら、 そろそろ目つぶってくれって思う奴!」

とうとう本気で怒らせてしまったと、 初めは思った。
ふて腐れた顔も、 怒鳴り声も。 何より、 自分を見つめる彼の瞳が、 あまり真剣だったから。
しかし 「目をつぶれ」 の一言が、 そうではないと教えてくれた。
言葉を交わす時間を、 そろそろ終わりにしてくれと言っているのだ。
気持ちの伝え方は、 一つではない。 黙った方が伝わる時もある。
乱暴に髪を掻き揚げていた手が離れ、 何か思案するように彼の口元を経由した後で、
ゆっくりと奈緒の両肩に回された。
あの時の、 初めて唇を重ねた時と同じ光景が目の前を覆う。
ほのかに石鹸の匂いのする白いシャツ以外、 何も見えない。
今度こそ、 目をつぶるのを忘れてはいけない。
頬からつたう胸の温もりを頼りに、 奈緒は静かに眼を閉じた。
何も見えないのに安心できる。
力強くて温かくて、 ここが最も素直になれる場所だと気付いたから。

真っ暗な視界の中で、 彼の声が聞こえてきた。
困ってなどいない、 しっかりとした口調で。
「オマエの事は何があっても、 ずっと好きだから……分かりきったこと何回も言わせるな」
「ずっと?」
「そう、 ずっと」
「だから永遠?」
「うん……IPOLANIは分かっているから、 MAULOAにした」
「ありがとう、 トオル。 大好き」
「オレも」
最初から、 こう言えば良かったのだ。
自分がどれだけ想っているかを、 先に相手に伝えればいいだけの事だった。
「あのね、 『好き』 って一言でも、 好きな人から言われれば特別になると思うの」
「ああ、 そうかもな」
「だから時々は言ってくれる?」
「もう、 黙って」

映画の主人公のようには出来なかったけれど、 二度目に交わした口づけは、
ファースト・キスよりは進歩したように思う。
そして二人の関係も。
別れ際にトオルがくれたもう一つの贈り物。
「さっき渡しそびれたんだけどさ。
その……緊急とかじゃなくて、 いつでも来ていいから。
断っておくけど、 オレが自分の金で作った合鍵は、 これが初めてだからな」
不器用で照れ屋の彼が素直に想いの丈を語ってくれたのは、 奈緒が目をつぶっていたほんの数秒で、
もう二度と聞ける事はないかもしれないが、 これからは二つの贈り物が囁いてくれるはず。
IPOLANI よりも MAULOA。 最愛の人だから、 永遠に――




バックアイコン前のお話にもどる  | エライアイコン輝・バックナンバーの目次に戻る  | ネクストアイコン次のお話へいく


バックナンバーを読んでくれてありがとう!
  輝・表紙に戻りたい人は、バックナンバー目次の"ホームズ"肉まんをクリックしてね!