第 3 話 VS ハルキ 再び (後編)

闘争心を剥き出しにしたライバルを正面に見据え、
トオルはふと懐かしさを覚えた。
相変わらず、 ハルキはいい目をしている。
初めて校内試合で対峙した時と少しも変らない。
中途半端な覚悟では近寄ることさえ許されない、
そんな気高さを含む目。
追い込まれるほど研ぎ澄まされていく鋭い視線は、
プライドの高さを象徴すると共に、これ以上ポイントを
取らせないとの確固たる意思表示でもある。
「このゲームで何か仕掛けてくるはず」
今までの経験から、 トオルはそう判断した。
ゲームカウント 「3−3」 と引き分け、 後半戦に入る第7ゲーム。
ここを制すれば、 試合の流れが大きく傾く。
仕掛けてくるとすれば今しかない。
前半と同じやり方で、 トオルはハルキからドロップショットを誘った。
新しい決め球が何かは知らないが、 現時点でやれる事はただ一つ。
己を信じて進むのみ。
ネット際で落ちるショットを捉え、 ドロップボレーで切り返した瞬間、
前に詰めてきたハルキの手元から、 鋭く回転のかかったボレーが繰り出された。
まるで再現フィルムを見せられているようだった。
目の前を駆け抜けるボールは一瞬にしてコートに突き刺さり、 同じく一瞬にして走り去っていった。
この矢で射抜かれた感じのボレーは、 どこかで見覚えがある。
「『スラッシュボレー』 だ」
ハルキが満足げな笑みを浮かべて、 無言の問いに答えた。
「まさか、 部長の……?」
彼が切り札として使ったのは、 成田の決め球でもある 『スラッシュボレー』 だった。
通常のアングルボレーよりも更に強い回転を施したこのボレーは、 球の鋭さ故に 『スラッシュボレー』 と呼ばれている。
中等部時代に一度だけ、 成田が大会で使ったのを見た事がある。
ボレーの天才と謳われた京極でさえ返せなかった難易度の高い技である。
ハルキはそれを習得することで、 『タップ・ドロップ』 とのコンボを完成させていたのだ。
万が一、 ネット際で落ちる 『タップ・ドロップ』 を破られた場合でも、
そこから前へ出て相手の逆サイドを突く 『スラッシュボレー』 を叩き込めば、 完全に敵の動きを封じることが出来る。
過去の決め球に満足せず、 破られた後の新たな切り札まで用意しているとは。
しかも、 それを連続攻撃の一つとして利用するとは。
ある程度覚悟はしていたが、 やはりハルキは一筋縄ではいかない相手である。
こちらのサービスゲームにもかかわらず、 試合の主導権は向こうの手に渡った。
じわじわと開く点差。
このゲームを落とせば不利になると分かっているが、 『スラッシュボレー』 を攻略しない限り、 反撃は難しい。
トオルの唯一の切り札である 『ドリルスピンショット』 は、ベースラインからの打ち合いでこそ威力を発揮するのであって、
ネット前の攻防戦では役に立たない。
後ろからの 『タップ・ドロップ』 と、 前からの 『スラッシュボレー』 と。
オールラウンダーならではの強力コンボの前に打つ手はなく、 ついにトオルは第7ゲームのブレイクを許してしまった。
片手で軽くガッツポーズを取り、 イメージ通りとばかりに何度も頷くハルキ。
強気な姿勢は三年前と変わらず、 ますます自信が加わったように見える。
やはり変わらないのか。 変われないのか。
二人の間に存在し続けた実力差は、 どんなに努力しても埋められないのか。
要となるゲームを奪われ、 トオルの中で固く信じた勝利の二文字が揺らぎ始めた。
目の前に整然と並ぶ12面のコートが、 不自然なほど広く感じる。
汚らしいペイントもなければ、 丸太もない。 一面のコートを争う愚かな者もいない。
強豪校のテニス部員として過ごした三年間は、 ヤンキーとは比べ物にならないほど有意義な時間だったはず。
コーチから 「成田の代わり」 と請われ戻ってきたものの、 本当は場違いなのかもしれない。
予想以上に強くなったライバルと相対してみて、 どうしようもなく自分がちっぽけな存在に思えた、 その時。
あの男の言葉が胸に甦った。
「オマエには行く場所がなくても、 帰りたい場所はあるんじゃないのか?」
聞こえるはずのない声が、 胸の奥を揺さぶった。
遠く離れてもなお、 語りかけてくる。
丸太はなくても感じられる。
偉大なる男の声が、 ここでも確かなものとして聞こえてくる。
トオルは静かに目を閉じた。
今ここで戦う理由。 誰の為に、 何の為に戦っているのか。
この三年間、 ひたすら念じ続けたシンプルな理由が、 消えかけた闘争心に再び火をつけた。
目を閉じたままで、 トオルは意識を奥深くへと集中させた。
もう二度と見ることは出来ない懐かしい映像を、 埋もれた記憶から取り出すために。
ドロップショットでおびき寄せ 『スラッシュボレー』 で仕留めるハルキの強力コンボは、
ドロップボレーをもってしても崩しようがない。
この窮地を脱するには、 ドロップショットから 『スラッシュボレー』 へ繋がる前に、 こちらから打って出るしかない。
成田の決め球の上を行く、 鋭いボレーで。
頭の中が白い霧に包まれている。
コート上であの姿を思い出す時は、 決まって霧の中から手探りで捜すことになる。
赤い皮のジャケットを羽織り、 精悍な顔立ちに顎鬚 (あごひげ) を蓄えたアメリカ人。
たしか彼はグリップを柔らかく持ちながら、 ラケットを立てて構えていたはず。
過去の記憶と今の映像とが、 完全に目の前で一致した。
ハルキの仕掛けたドロップショットが、 再びネット際で落下するのが見えた。
ここで、 一気に点差を広げるつもりらしい。
不思議なくらいボールがゆっくりと落ちていく。
意識が一点に集中した時の特有の現象である。
あらゆる動きがスローモーションとなって映り始めた。
「この感触なら、 いける!」
そう確信して、 記憶通りにラケットを立てて構えた。
「頼む、 一度だけ力を貸してくれ……」
ネット前、 『スラッシュボレー』 の構えで突進してきたハルキの脇を、 一筋の光が差したような気がした。
直感と言うべきか。
但し自分の勘というよりは、 上の方から指し示されたような。
「ここを狙え」 と導かれた感覚だ。
トオルは迷わずそこに狙いをつけると、 ラケットを通じてボールの感触を探った。
父親が与えてくれたラケットは、 あらゆる球の状態をグリップから伝えてくれる。
衝撃になる程の強い振動ではなく、 必要最低限の情報を拾い上げ教えてくれるのだ。
腕から伝わる感触に呼吸を合わせ、 トオルは一筋の光に向ってラケットを滑らせた。
手元から離れたボールは、 強烈なサイドスピンと共にハルキの脇を駆け抜けていく。
一瞬、 霧の中から彼が姿を現した。
「それでいい」 と、 笑いかけているようだった。
この笑顔は確かに、 トオルが心から信頼し尊敬する男。
超えたくて、 超えたくて、 超えられなかった伝説の男、 ジャン・ブレイザーである。
「ありがとう、 ジャン。 おかげで助かった」
心の中で恩人に短く礼を言い終えると、 トオルは再び倒すべき敵に目を向けた。
勢いに乗って勝負を決めようとしたハルキは、 思わぬ反撃に呆然としている。
三年の月日をかけ苦労して習得したボレーを、 トオルもまた身につけている。
その事実を受け入れられない様子だった。
「今のボレーは、 一体……?」
混乱の最中にいるライバルに向って、 トオルは務めて平静を装った。
「ただのアングルボレーだ」
「ただの……?」
「そうだ。 オマエの 『スラッシュボレー』 と同じ、 ただのアングルボレーだ」
ハルキの顔が見る見るうちに険しくなった。
眉をひそめ、 唇を噛み、 ラケットを強く握り締める。
思い通りにプレーができない時に見せる独特の仕草である。
『タップ・ドロップ』 を破られ、 同じやり方でポイントを取られた上に、
「ただのアングルボレー」 と見下されたのだ。
不機嫌さを前面に押し出した顔には、 先程の気高さはなく、
急速に赤みを増す頬が憤りの過程を克明に伝えた。
三年前、 「バカはテニスに向いていない」 と侮辱された時のトオルのように。
まだ何か言いたげなハルキに背を向け、 トオルはベースラインへ戻った。
集中力が途切れないうちに、 このゲームだけは押えておかなければならない。
たった一度きりのアングルボレーだが、 プレッシャーを与えるには効果的だったようで、 ハルキの球筋が乱れ始めた。
良くも悪くも、 互いを知り尽くした相手である。
この機を逃さず、 トオルは第8ゲームをものにした。
「あと2ゲーム……」
ようやく目指すべき終点が見えてきた。
光陵学園へ帰る ―― それだけの為に、 三年を費やした。
長い旅路が、 あと2ゲームで終わろうとしている。
悔しさは散々握り締めた。 次に手にするのは勝利の二文字と決めてきた。
誰の為でもない、 自分の為に。
「あるべき場所」 へ帰るために。
相手が揺らいでいる今こそ、 畳み掛ける絶好チャンスである。
ボールを三回バウンドさせると、 トオルは前にトスを上げた。
今までコーナーを狙い続けていたサーブを、 センターへと集中させた――
「なるほど、 そういう事か……」
途中から後輩の戦いぶりを静かに見守っていた唐沢が、 ここで再び口を開いた。
「そういう事って、 どういう事ですか?」
目の前で起きた現象を理解できない千葉は、 隣にいる先輩に説明を求めた。
前のゲームまで、 ハルキは 『ブレイザー・サーブ』 のタイミングを掴み、的確に返していた。
ところが第9ゲームに入った途端、 再び手も足も出ない状態に陥っているのだ。
周りで見る限りでは、 球種が変わったとは思えない。
一体コート上で何が起こっているのか。
その理由を一刻も早く知りたかった。
「真嶋のトスをよく見てみろ。 今までより前に上げているだろ?
最初に奴が言った 『小細工抜きでやる』 のセリフに、 俺達全員、騙されていたらしい」
「ひょっとして、 あれが本来の 『ブレイザー・サーブ』?」
「たぶん……第1ゲームの口ぶりで、 俺達は真嶋が全力を出していると思い込まされた。
だけど、 実際は今のサーブが本来の姿だ。
恐らくあのサーブはトスを前へ上げる事によって、 ボールを加速させるだけでなく、
コースを見せ難くする利点があるはずだ」
「簡単に言えば、 サーブがパワーアップしたって事ですか?」
「そうだ。 だからハルキは返せなくなった。
ようやく慣れたと思ったサーブが、 スピードが増した上に、 コースも読めない。
しかもコーナーより距離の短いセンターを狙って打ち込まれている。
この終盤でやられれば、 俺でも手が出せないかもしれない」
第1ゲームに時間が逆戻りしたかのように、 ハルキが淡々と打ち込まれるサーブに苦戦している。
対するトオルは、 やはり第1ゲームと同様、 冷静さを取り戻したようである。
対照的な二人の様子を見比べ、 唐沢がジャージのポケットを探りながら呟いた。
次の予定に意識が向いた時、 彼は携帯電話で時間を確認する癖がある。
「この勝負、 真嶋の方が一枚上手だったようだな」
「だけど、 次のゲームはハルキのサービスゲームですよ?
5−4ならまだ反撃の可能性があるんじゃ……?」
「いや。 真嶋には、 まだ隠し球があるはずだ。
あのラケットは、 たぶん……」
「ラケット?」
唐沢の視線を追って、 千葉はトオルのラケットに目を向けた。
真新しい物に見えるが、 特に変った所はない。
「あのラケットが何か?」
「あれはパワー重視の物じゃない。
回転系のストロークを得意とするプレイヤーの、 俺と同じスタイルの……」
途中まで言いかけて、 唐沢に笑みがこぼれた。
中盤で見せた不敵な笑みとは違う、 なにか誇らしいものを見るような笑顔。
その笑顔の先は、 ハルキからのトップスピンを真新しいラケットで吸い寄せるトオルの姿があった。
「まさか!?」
千葉は目を疑った。
隣にいる先輩と見間違えるほど酷似したフォーム。
そこから放たれたボールは、 ネットを越えた直後に急激に落下し、 相手コートの地面を滑るようにして出て行った。
ドリルの刃先を思わせる回転と言い、 激しく変化する軌道と言い、瓜二つである。
「まさか唐沢先輩の決め球を、 トオルが……?」
「あれなら合格だ。 『ドリルスピンショット』 と呼んでもいい」
走り去るボールの後を目で追う唐沢は、 自分の決め球を真似されたというのに、 やけに上機嫌だった。
可愛い教え子を見るような、 誇らしさと安堵が入り混じった顔をしている。
恐らく真似された事よりも、 正確に再現された事の方が嬉しいのだろう。
ギャンブル以外で、 副部長の満面の笑みを見るのは初めてだ。
ひょっとしたら試合前のウォーミングアップを終えた時点で、 彼には分かっていたのかもしれない。
同じカウンターパンチャーとして、 トオルが大きく成長して戻ってきたこと。
そしてこの試合の結末も。
全部員が驚きのあまり声も出せない状態でいる中、 唐沢がもう一度状況を分かり易く解説してくれた。
「ハルキは小柄な体型をカバーしようと、 昔からトップスピンに関しては人一倍努力を重ねてきた。
その分、 自信もあるだろう。
人間は苦しい状況になればなるほど、 得意分野にすがろうとする。
真嶋は、 それを逆手に取ったんだ」
「それじゃあ、 わざとハルキからトップスピンを出させた?」
「第8ゲームの後、 『ただのアングルボレー』 だと言ってハルキを怒らせたのは、
トップスピンを誘い出す為の挑発だ。
『ドリルスピンショット』は、 充分にトップスピンがかかっていないと出せない返し技だから」
「あのトオルが、 そこまで考えてプレーするなんて……」
「ライバルとして追い続けたからこその成果だろうな。
相手の気性も、 プレイスタイルも知り尽くした上での作戦だ」
「だけど唐沢先輩、 トオルはいつの間にあのショットを?」
「アイツが転校する前、 このFコートで勝負した事があった。
たぶん、 その時の記憶を頼りに向こうで練習したんだろう。
細かいところまで、 そっくりマスターしている。
あれなら文句なく合格だ」
『ドリルスピンショット』 の生みの親が言うのだから間違いないのだろうが、 千葉はまだ信じられなかった。
ラケットの握り方すら知らなかった初心者のトオルが、 ここまで大きく成長して戻ってきたこと。
校内試合で負けて八つ当たりしていた一年生が、 ハルキを欺くまでのプレイヤーとなって帰ってきたこと。
それはコート上のハルキにとっても、 信じ難い事実だった。
「今のは……まさか 『ドリルスピンショット』?」
ようやく口を開けるようになったハルキが、 千葉と同じ質問をトオルに投げかけた。
「ああ、 これがオレの三年間だ。
12面のコートに囲まれたオマエと違って、 決して褒められるような三年間じゃなかったけど。
でも感謝している。 今こうしてハッキリ断言できるから……甘いのはハルキ、 オマエの方だ」
「そのセリフは、 俺に勝ってからにしろ!」
あくまでも冷静なトオルに対し、 ハルキが我を忘れていることは、 千葉の目にも明らかだった。
ここまで来れば、 唐沢でなくても勝負は見えてしまう。
30−0, 40−0と点差が広がるにつれて、 他の部員もざわつき始めた。
彼等も、 まさかの結末を予測したようだ。
「一手違いだな……」
唐沢が評した直後に、 ハルキから放たれたボールがネットにかかった。
「ゲームセットだ。 ケンタ、 行くぞ」
たぶんそれは単なる 「集合」 の意味でかけられた言葉かもしれないが、 千葉にはそうは聞こえなかった。
興奮で湧き上がる部員達とは対照的に、 コートの中へ入る唐沢には何か重々しい覚悟のようなものが
見え隠れしている。
本来なら、 千葉も他の部員達に混じって奇跡の勝利を喜ぶ側にいるはずなのに、
そんな気楽なポジションにいてはいけない気がした。
「この試合が終われば、 いろいろなことが大きく変わる」
試合前に唐沢から言われたセリフを思い出し、 再び体に緊張が走った。
全部員が集合したのを確認してから、 コーチの日高が 「大きく変わる」 原因となる事実を、 部員の前で発表した。
「成田が退部することになった。
プロの養成所からのオファーで、 六月には日本を離れて渡米する」
いきなりの爆弾発言に、 周りの部員達は互いに見合わせ騒ぎ立てたが、 千葉だけは押し黙っていた。
ある程度の予想がついていたのもあるが、 それ以上に部長、 副部長の両者から託されたものがそうさせた。
部長の成田からは 「真嶋を頼む」 と、 副部長の唐沢からは 「何があっても俺を信じろ」 と。
驚きよりも責任の方が重く、 強く、 圧し掛かった。
部員の間にざわめきと同時に動揺が広がるのを感じた千葉は、 口々に発する疑問をまとめ、
自分が代表として手を挙げた。
「コーチ、 部長が六月に出発するとして、 いつまで俺達と……いえ、 地区予選のメンバーとして出場できますか?
それと、 次の部長はもう決まっているんですか?」
なるべく感情を抑え、 チーム主体で話が進むよう配慮した。
出来ることなら、 少しでも長く成田と一緒にプレーしたい。
その思いを封じ込め、 敢えて今年チームの最大の目標であるインターハイに焦点を合わせて話を進めた。
「具体的な話は、 明日の会議で説明する。
今日は成田の渡米、 それに代わって真嶋トオルのレギュラー入りを認める。
そこまでだ」
「でも……」
「ケンタ、 久しぶりに全員揃ったんだ。
今日は、 これぐらいにしようや」
日高が手にした紙袋を高く掲げ、 トオルの方へ視線を移した。
全員揃って昔のように笑えるのは、 恐らく今日だけなのだ。
コーチの意図を察した千葉は、 抱えていた質問を胸の中へ仕舞うと、 自分もその他の部員の側に加わった。
今日だけは。 今だけは。
「トオル、 ちょっと来い」
「えっ、 オレ?」
日高の呼びかけで紙袋の中身が自分へ向けられたものだと悟り、
トオルはおずおずと部員の集まる最前列へ歩み出た。
「よくやったな。 今日からオマエは光陵テニス部のレギュラーだ」
紙袋の中には、 部員専用のテニスバッグと携帯電話が入っていた。
「俺からの入学祝だ。 もう、 ラケットを背負う必要はないだろ?」
「あっ、 そうか……」
トオルがラケットをカバンに入れて背負うようになったのは、 父・龍之介からの不意打ちに備えての行動で、
剣道四段の木刀から身を守る生活の知恵だった。
だが、 その龍之介はここにはいない。
もう父の気まぐれに振り回されることもなければ、 なんの前触れもなく居場所を奪われることもない。
それはトオルが自力で 「自分の居場所」 を勝ち取ったという証でもあった。
「サンキュー、 おっさん。 それに携帯まで」
「勘違いするな。 携帯はいつでも連絡が取れるようにする為だ。
日本にいる間は、 一応俺がオマエの保護者という事で、 学校には許可を取ってあるからな。
前の家に住むんだろ?」
「そのつもりだけど……」
「一人であの家に住むのが寂しければ、 俺の家に下宿してもいいんだぞ?」
「やめとく。 もう懲りたから」
「どういう意味だ?」
アメリカへ行く前に、 トオルは日高の家に下宿した事があるのだが、
あまり過保護ぶりに窮屈な思いをした経験から、 考える間もなく即答で断った。
「真嶋。 これは俺からだ」
日高に続き、 成田からも紙袋を渡された。
今受け取ったばかりの真新しい紙袋と違って、 こっちはかなり古い物らしく、 所々黄ばんでいる。
「取り替えようか迷ったんだが、 あの時と同じ状態で返した方がいいと思って。
大事な預かり物だから」
「預かり物」 の一言で、 トオルには中身が何か見当がついた。
古さから見ても、 これは退部する前に返却したレギュラージャージに違いない。
「部長、 もしかしてずっと持っていてくれたんですか?」
「オマエが、 そうしろと言ったんだ。
もうサイズは小さいだろうが、 せっかくの勲章だからな。
それと新しいレギュラージャージも中に入れてある。
高等部と中等部はラインの本数が違うだけだから、 間違えるなよ」
「ありがとうございます……本当に……ありがとうございます」
「いや。 礼を言うのは、俺の方だ。
真嶋、 よく帰ってきてくれた。 ありがとう」
「そんな……オレは、ただ……」
それ以上の言葉は続かなかった。
あの日手放したものが、 再び手元に戻ってきた。
古い紙袋を手にした瞬間、 退部した日の光景が頭の中でフラッシュバックした。
思い出にしたくないからと、 一度も袖を通すことなく返却したレギュラージャージ。
泣いた顔を見せたくなくて、 最後まで頭を下げ通しだった。
涙で歪んだ部室の床と、 冗談めかして励まそうとする先輩達の声と。
今思えば、 あれが全ての始まりだった。
「必ずジャージを取りに戻る」 という強い想いがあったから、 ここまで頑張れた。
今トオルが手にしているのは、 その時のレギュラージャージである。
どれだけ月日が経っても決して朽ちることのない努力の勲章。
「なんだトオル、 また泣いているのかよ!?
今の試合で成長したと思ったら、 中身はちっとも変わんねエなぁ」
千葉が顔を覗き込むようにして、 ちょっかいをかけてきた。
「『また』 って、 どういう事ですか?
オレは一度だって泣いてないッスよ!」
「嘘つけ! オマエが泣いていたのなんか、 全員知ってるって!」
「部室では、 絶対に泣いてないッスよ!」
「いいや、 泣いた!」
二人のやり取りに、 懐かしい面々が首を突っ込み始めた。
「俺ッチも、 バッチリ見ちゃったもんね。
肩なんかプルプル震えちゃってさ。 バレバレだったよね!」
まずは双子の弟の陽一朗。 それに寅さんマニアの慎悟が続いた。
「あン時は、 参ったよなぁ。
こっちは次の日から合宿だって言うのに、 全員テンション下がっちゃってさ。
行きのバスの中なんて、 葬式みたいだったぜ」
「でも泣き顔もなかなか可愛かったわよね」
相変わらずの口調で、 滝澤も乱入してきた。
「ねえ、 坊や? ちょっと男らしくなったんじゃない?
アメリカでどんなお勉強してきたのか、 楽しみだわ」
からかい甲斐のあるトオルを目当てに、 次々と部員が会話に加わった。
普段は協調性ゼロの部員達が、 人をからかったり陥れたりする時だけは一致団結するという、
呆れたチームカラーは高等部に移っても健在である。
次第に広がる輪に包まれて、 遅ればせながらトオルは実感した。
空港に到着して、 飛行機を降りてからもずっと感じられなかった。
電車に乗っても、 校門をくぐっても、 コートへ入っても、 確かなものには思えなかった。
しかしライバルとの激闘を終え、 預けていた勲章を取り戻し、 仲間達に囲まれてようやく実感できた。
ついに 「あるべき場所」 へ帰って来た事を。
本当の居場所である光陵学園テニス部へ。
そして、 この瞬間から始まったのだ。
数ある強豪の中からただ一つ。 選ばれし者だけが立てる 「インターハイ」 という名の頂点を極める新たな戦いが。