第 31 話 VS 京極 (前編)

試合イメージ



優勝候補の一角と囁かれた藤ノ森学院を退けた事で、
光陵学園のインターハイ出場の夢はかなり現実味を帯びてきた。
残る難関は、 京極率いる明魁学園のみ。
ここを突破すれば、 東京都代表の枠内に滑り込める。
だがこの難関が最も高いハードルである事は、
今大会の優勝最有力候補の位置づけから見ても
否定しようのない事実である。
過去の対戦で一度だけ、 光陵学園が勝利した記録。
それは成田、 唐沢、 慎悟の三強を軸に固めた、
今にして思えば夢のようなラインナップだった。
現在、 その主力となる成田が抜けた事で光陵の戦力は激減し、
代わりに呼び戻されたトオルは、 試合を重ねるごとに才能が引き出されているものの、
いまだ未知数の枠から抜け出せずにいる。
つまり唐沢の当初の思惑通り、 トオルが成田に取って代わる程の人材かどうか、
これと言った確証も得ぬまま最大の敵を迎えた事になる。

「この一戦を制した者が、 団体戦の勝利を手にすると思ってくれ」
対戦表から片時も目を離さずに、 唐沢は淡々とした口調で トオルに告げた。
彼がこの口調になる時は、 話の内容が紛れもない事実であり、
下手な小細工が通用しない勝負だと覚悟を決めた場合に限られる。
「問題ないッスよ。 どんな相手でも、 オレは先輩を信じてプレーするだけですから」
東京都予選二日目の今日、 光陵のオーダーは唐沢がダブルスに回り、シングルスにハルキと慎悟が指名された。
そして唐沢がパートナーに選んだのは、 ダブルスの要を努める陽一朗ではなく、
非公式ながらも京極と対戦経験のある トオルだった。
昨日の 「オマエがダブルスに降りて来い」 の挑発を真に受けたのか、 最初からそのつもりだったのかは
分からないが、 明魁はダブルスに部長の京極を投入してきた。
これを見越しての光陵側のオーダーが、 見事的中した格好だ。
すでに午前の二試合をストレートで勝ち進み、 次はいよいよ明魁学園との対戦である。
初戦のダブルスで、しかもインターハイ出場を賭けての取り組みでは、 過去に類を見ないリーダー対決。
そのサポート役に選ばれたのだから、 トオル自身もっと緊張しても良さそうなものだが、
不思議な事に、 対戦表に京極の名を認めた後でも、 さほど動揺はしなかった。
むしろ来るべき時が来たと、 落ち着いて腹をくくる事が出来た。
察するにその原因は、 どんなに親しくなろうともライバル校としての一線を引き続けた
京極の態度にあると思う。
彼も心の何処かで、 いずれこんな日が来ると構えていたのかもしれない。
頂点が二つとない事に、 お互い気づいていたのだろう。
ただ試合とは別に気がかりな事があって、 トオルは打ち合わせが終わるとすぐに控え室を後にした。

建物の外に出た途端、 初夏を感じさせる強い日差しと会場の熱気が、 一度に押し寄せてきた。
さすがに予選二日目ともなれば、 選手の数は半減するが、 試合の興奮が引き起こす熱気は倍増する。
勝ち残った者と、 去り行く者。 緊張と興奮、 期待と後悔、 そして喜びと悲しみ。
様々な感情が飛び交う騒がしい空間を通り抜け、 トオルは人通りのまばらになった表門へ足を向けた。
この時間、 誰かと待ち合わせをするには、 そこが最も都合が良い。
案の定、 門の近くでキョロキョロと探し回る分かり易い後姿を見つけると、
話の段取りを考える前に声を掛けてしまった。
「奈緒!」
トオルの呼びかけに反応し、 くるりと振り返る彼女の顔には、 見慣れた笑みが浮かんでいる。
目にした瞬間に惹きつけられるような万人向けの笑顔ではないが、
出来ればずっと傍に置きたいと思う愛着の湧く笑みである。
「あのさ、 実は次の対戦相手なんだけど……」
いつもトオルが試合に出るたび、 休日を返上して応援に来てくれる彼女。
大会二日目の今日も、 急な出場にもかかわらず、 わざわざ弁当持参で駆けつけてくれた。
彼女の手作りの弁当と笑顔が、 何よりの励みになっている。
しかし、 今回ばかりは甘える訳に行かない。
「ダブルスの相手が、 明魁の京極さんと、 その……パートナーが岬さんで……」
名前を挙げたと同時に、 見慣れた笑顔に陰りが差した。
今回トオルが敵として戦う相手は、 京極ともう一人。
奈緒の幼なじみである岬諒平だった。
「京極さんと、 諒ちゃん?」
「うん。 だから、 もし見るのが辛かったら帰っていいぞ。
オレが言うのもなんだけど、 たぶんキツイ試合になると思う」

京極と岬は、 二人にとって関わり深い相手である。
トオルは、 アメリカにいる頃から京極に世話になっており、
また日本で唯一ジャンを知る共通の友人としても時折連絡を取る間柄だ。
ジャンの死後、 道を見失ったトオルを正しい方向へと導き、
さらに成田の抜ける光陵に補充人員として推薦してくれたのも彼である。
岬はと言えば、 彼自身も奈緒に好意を抱いていたにもかかわらず、 彼女の気持ちを考え応援する側に回り、
アメリカでの荒れた生活を気にするよりも、 素直に向き合うようにとアドバイスまでくれた。
実際、世話になった相手と対戦するのに戸惑いがない訳ではないが、
自分の成長を見せる事が、 本当の意味での恩返しになると自覚している。
同じ道を進むテニスプレイヤーとして。
戦いに慣れてしまったせいもあるが、 心の中に大きな迷いはなかった。
だが奈緒は違う。
京極には以前トオルの事で相談に乗ってもらったと、 聞いた事がある。
岬に至っては、 幼馴染みの気安さからか、 兄のように頼りにしている。
その二人が、 自分の彼氏と戦う様を見守れという方が酷である。

「どうしていいか、 分からないけど……」
これから起こる事態を想像して、 心細いのだろう。
奈緒の声がいつもより弱々しく聞こえる。
「でも 、帰っちゃいけないと思う。 みんな頑張っているのに。
だから、 最後まで居てもいい?」
「だいじょうぶか? 無理するなよ?」
「うん」
「オレ、 傍に居てやれないし」
「そんなに心配しないで」
「ごめんな、 奈緒」
「どうして、 トオルが謝るの?」
自分でも説明がつかなかった。 なぜ謝ったのか。
辛い思いをさせる会場に来させてしまったこと。
いつも頼みごとばかりで、 何もしてあげられないこと。
休日なのに、 デートらしいデートもできないこと。
理由を挙げるほど答えはどれも正解で、 その一つ一つに思い当たる節がある。
「オレにもよく分からないけど、 ごめん」
頭に浮かぶ理由を全て伝えるのも気まずくて、 トオルは曖昧な 「ごめん」 を二度言った。
「そんなに謝らないで。 大事な試合なんでしょ?
私は皆を応援する。 京極さんも、 諒ちゃんも、 唐沢先輩も、 トオルも。
だから、 トオルも試合の事だけ考えて」
「本当に? 無理していないか?」
「うん」

半分は強がりだろうが、 復活した笑顔に先程のような陰りはない。
臆病なくせに、 他人の為だと気丈になれる彼女。
そこが愛おしくもあり、 自分に対して向けられると不甲斐なさを感じてしまう。
「ごめん……あ、 いや……」
言いかけた言葉を、 冗談にすり替えた。
「分かった。全員応援していいから、 オレだけちょっと多めに気持ち込めてくれるか?」
ほんのりと色づく頬から、 今度は本物の笑顔が現れた。
やはり彼女には笑っていて欲しい。
無理に笑わせる事しか出来ないが、 それでもと思う。
単なる自己満足だと分かっていても。
「ごめんな、 奈緒」
彼女に聞こえないぐらいの場所まで離れてから、 トオルはもう一度謝った。

控え室へ戻ると同時に、 自分でも呆れるほど早く全ての思考が試合に傾いた。
昔はここまで割り切りのいい性格ではなかったはずだが、 そうせざるを得ない環境にいる事と、
もう一つは捨て身でかからなければ倒せない相手だと、 骨身に染みているからだろう。
京極と岬。 彼等が組む事で、 ボレーの達人と俊足のベースライナーの図式が出来上がる。
特に京極が前衛、 岬が後衛のポジションに回った時が要注意だ。
前にも後ろにも隙がない。
明魁は、 京極という切り札を最大限に生かせるカードを添えて勝負を挑んできたのだ。
初戦で光陵学園を束ねるリーダーを粉砕し、 インターハイ出場の切符を彼等の手中に収める為に。
唐沢の言う通り、 この一戦は重要な意味を持つ。
通常は最後に控えるはずの大将戦が、 一試合目から始まる。
偶然なのか仕組まれた事かは、 両部長の胸の内でしか知り得ない事実だろうが、
おかげで出場校の選手だけでなく、 大会関係者までもが注目する大一番となった。
その中で勝利を収めれば選手達の士気は高まり、 逆に負けた側は、 勢いをそがれ総崩れとなるに違いない。
まさに双方とも、 負ければ降伏やむなしの最重要拠点。
「この一戦を制した者が、 団体戦の勝利を手にすると思ってくれ」 との助言は、
それを踏まえての事である。
無論、 唐沢は勝利を前提で仕掛けたのだろうが、 一歩間違えれば自分達の首をも絞める危険な賭けが、
もうすぐ始まろうとしていた。

控え室から試合会場まで。 トオルの前を歩いていた唐沢が、 ふと思い出したように足を止め、
相変わらずの淡々とした口調で切り出した。
「さっきの打ち合わせで変更はないが、 一つだけ確認しておきたい事がある」
「何ッスか?」
「今回のダブルスに関して、 残念ながら勝算はまったくない。
昨日からずっと考えていたんだが、 どう見積もっても互いの実力は五分と五分。
これ以上の数字は出せなかった。 だから……」
「はい」
「この勝負、 諦めなかった者が勝つ。 これだけは忘れるな」
「それなら得意分野ッスよ!
口と諦めだけは悪いですから、 オレ」
「そう言うと思った。
最後まで一緒に戦ってくれるな?」
「任せてください!」
昨日の悲惨なダブルスを経験したせいか、 トオルは唐沢と共にコートに立てる喜びのほうが強かった。
緊張よりも、 不安よりも、 プレッシャーよりも。
弾みが付いたと言うのか、 反動で何処までも勢いに乗って行けそうな気がした。
大勢の観衆に囲まれた興奮みなぎるコートに上がり、 そこで京極と挨拶を交わす前までは。

「エースの藤原を連れて来ると思って、 こっちも岬を指名したんだが、
随分と俺もナメられたもんだな?」
上から自分を睨みつける堂々たる視線が、 身長差を越えて格の差まで伝えてくるようだった。
その昔、 トオルに直感で 「彼こそが頂点に君臨する男だ」 と知らしめた威厳は、 今も尚健在である。
「俺に一度も勝った事のない一年坊主を連れて来るとは、 大した度胸だ」
敵としての京極は、 恩返しなどと生易しい道理が通じる相手ではなかった。
ネットの向こうは誰であろうと、 どんな手を使ってでも叩き潰す。
今更ながら、 200名の部員からなる集団を率いるリーダーの非情さを思い知らされた。
京極に気圧され無言になったトオルを庇い、 唐沢が援護に回った。
「その一年坊主に負けた奴をパートナーに選ぶとは、 そっちも大した度胸だ」
過去の対戦成績で言えば、 藤原慎悟は岬に一敗、 そして岬はアメリカでトオルに一敗している。
唐沢はその事を指して、 やり返したのだ。
「ふん、 相変わらず嫌味だけはトップクラスだな」
「もうすぐ、 そのトップの座から転がり落ちる奴に褒められても、 嬉しくないんだけど?」
「付け焼刃で、 俺達から王者の名を奪い取れると思うなよ?」
「安心しろ。 切れ味のいい真剣しか出さないから」
早くも両部長の間に不穏な空気が立ち始めている。
「まさか軍師と呼ばれたオマエが、 奇跡の勝利を信じる訳ねえよな?」
「奇跡を可能性として捉えた者だけが、 歴史を塗り替える権利を持つ。
クーデターを起こすには、 必要不可欠な発想だ」
「現代社会では、 それを夢物語と言うんだぜ。
俺の位置づけでは奇跡もファンタジーも同じ枠に入る。 非現実的という意味で」
「ついでだから、 そのカテゴリーに 『永遠に続く王者』 も仲間に入れてくれないか?
いつまでも過去の栄光にしがみつく明魁学園という意味で」
「テメ……!」

歯に衣を着せぬ物言いで王者をアピールする京極と、 負けず劣らずの毒舌で応戦する唐沢と。
双方の気迫に呑まれ、 トオルは一言も口を挟めなかった。
「試合慣れした」 と自惚れた自分が非常にちっぽけな存在に思え、
過去に一勝も上げられなかった事実だけが頭の中で鳴り響いた。
確かにトオルは、 未だかつて京極に一度も勝てた事がない。
中等部時代はもちろん、 アメリカでも。
岬に一勝した戦績も随分前の話で、 その時はコート表面の凹凸まで熟知した
『ジャックストリート・コート』 での試合だった。
さっきまで強く感じていた喜びが、 唐沢の足を引っ張るのではないかという不安に変わる。
誰もが注目する一戦。 両校の命運が賭けられた一番勝負。
前からも後ろからも牙を向かれている気がした。
「トオル、 プレッシャーに呑まれるな」
ポジションにつく途中、 唐沢から短く注意を受けた。
普段は本人に気づかせるやり方で指導する先輩が、 珍しくダイレクトに指摘したという事は、
それだけ唐沢にも余裕がないのだろう。
これ以上、 彼に世話を焼かせてはならない。
「まだ始まってもいないのに。 しっかりしろ、 オレ!」
自分自身に喝を入れると、 トオルはネットの向こうにいる京極を睨みつけた。
「今までの借り、 全部まとめて返さなきゃ」

明魁から始まるサービスゲーム。 最初のサーバーは京極だった。
以前にも増して磨きのかかったサーブを叩き込むと同時に、 京極がトオルのすぐ目の前まで前進してきた。
向こうが取ろうとしているのは、 ネット並行陣。
ダブルスの選手二人共がネットの前を陣取り攻撃を仕掛ける陣型は、
引くことを知らない京極らしいフォーメーションだ。
事前に唐沢から指示されたように、 トオルは敵の陣型が固まったと同時に、 後ろへポジションを下げた。
ネット際から攻める相手に対し、 光陵は二人ともベースラインで守る、 ダブルバックの陣型を選択したのだ。
「岬を最初に潰す」
唐沢からは、 そう指示を受けていた。
元・バスケットプレイヤーの脚力を軽視した訳ではないが、 京極を潰すよりは、 まだ可能性が高い。
前に詰め寄る敵二人に対し、 トオル達は出来るだけ岬にボールを集めた。
一見、攻撃型で有利に見えるネット並行陣だが、 一人の選手が狙われた場合、
ボールを受けるまでの時間が短い為に、 簡単に左右のポジションを入れ替われないという弱点がある。
これを臨機応変にこなせるのは、 光陵の中でも双子の伊東兄弟ぐらいだろう。
当然、この試合の為だけに組まれた明魁のコンビに、 そんな芸当は出来るはずがない。
そこを巧みに突いた唐沢の作戦だった。

時にダイレクトに、 時にロブを使って後ろに退け、 徹底的に岬の体力を消耗させる。
コートの縦半分を全てカバーする為には、 彼は前だけでなく、 後方のボールも拾わなければならない。
俊足のベースライナーと呼ばれたプライドも手伝って、 岬は際どい球にも全て喰らいついている。
上手く作戦に乗ってくれたと思いたいところだが、
やはりこちらの狙いを黙って受け入れるほど、 京極は甘くはなかった。
岬を狙ったコースを自ら拾ってみせると、 今度はトオル目がけて反撃を開始してきた。
唐沢が岬を狙ったのと同様、 京極はトオルを潰そうとしているのだ。
もろい箇所から崩していくのは、 ダブルスの戦略の基本である。
「本物とメッキの違いを、 自分の体で思い知るんだな」
一瞬のうちに、 形勢が逆転した。
京極からの執拗な攻撃は、 時に決められるはずのポイントをわざと外してラリーを長引かせるという、
冷酷かつ合理的なやり方だった。
トオルが拾える範囲を計算に入れ、 散々駈けずり回した挙句に点を取る。
獲物の脚から攻めて動きを鈍らせ、 自滅するのを待つ。 野生動物の狩りと同じ手法だ。
両者互角の状況では、 一瞬でも隙を見せた側が集中攻撃の的となる。
トオルと岬、 どちらが先に潰れるか。
頻繁に攻守が入れ替わる過酷な戦いが、 第4ゲームまで続けられた。

互いにサービスをキープし、 カウント 「2−2」 で始まる第5ゲーム。
サーバーは再び、 京極からである。
この時、 トオルは嫌な予感がした。
同じ力加減で引き合う事で均衡を保っていたゲームの流れが、 ここで大きく傾くのではないか。
そんな独特の緊張を感じる。
キッカケとなったのは、 唐沢に向けられたフラット・サーブ。
高いトスに始まり、 長身を生かしたスウィングと、 一気に振り下ろされるラケットと。
三拍子揃った条件下で生まれる打球は、 もう二度と見る事はないと思っていた幻のサーブ。
『伝説のプレイヤー』 と呼ばれた男のサーブが、 再現されようとしている。
かつてトオルも必死になって練習を重ねたが、 身長差がネックとなり思うような球威が出せず、
最終的にトスを前に押し出す事でその差をカバーした。
結果、 完成したのが 『ブレイザー・サーブ』 である。
だが本来は、 京極から繰り出されようとしているこのボールこそが、 正真正銘ジャンのサーブなのだ。
生前のジャンと酷似したフォームに、全身が凍りついた。
本物とメッキの違い。 上辺だけでなく、 体格も、 筋力も、 もちろん技術も。
全てジャンと同じ条件を備え持つ京極。
もしかして自分は、 とんでもない男と戦っているのでは。
恐怖に似た緊張感の中でも、 今かから起こる事は予想できた。
インパクトと同時に着弾するあのサーブだけは、 手も足も出ない。
現に唐沢の技術を持ってしても、 緩めのリターンで岬に向けて返すのが精一杯だった。

カウント上は 「3−2」 と、 単に京極が自身のサービスゲームをキープした形だが、
序盤と明らかに違うのは、 試合の流れが明魁に傾き始めている事である。
それを痛感したのは、 光陵がサービスゲームを死守した後の第7ゲーム目。
岬が後衛、 京極が前衛の最も警戒すべきポジションに回った途端、 彼等は縦型雁行陣に陣型を変えた。
この二人が本来の能力を思う存分発揮できる陣型で、 さらに追い討ちをかけようという算段だ。
無論、 ターゲットはトオルである。
最初から彼等はネット並行陣で徐々に体力を奪っておいて、 優位なポジションになるこの第7ゲームで
一気にトドメを刺すつもりだったのだ。
返しても返しても、 果てしなく続く二人からの攻撃。
京極からのボレーに誘き出され、 ネット前で足止めを食らった状態で攻防を強いられる。
ボレーの達人と勝負するだけでも勝ち目は低いというのに、
そのうえ俊足のベースライナーが後ろで守っていれば、 ポイントを奪えるチャンスは限りなく低い。
ただひたすら、 こちらの体力が削られる。
岬と勝負した前半の疲労も加わって、 トオルは自分でも動きが鈍くなっていくのを感じた。
「絶対に諦めない」
その根性だけで拾い続けるには、 あまりにも強過ぎる相手である。
呼吸が荒くなるにつれ、 徐々に視界も狭くなる。
まるで鉛をつけられたかのように、 手も足も思うように動かない。
「メッキの限界だな」
京極からの囁き声と共に、 不自由な視界の中に再び 『伝説のプレイヤー』 のフォームが現れた。
鋭角に切り込まれた鮮やかなボレー。 ジャンの決め球であるアングル・ボレーだった。
しかも以前アメリカで見せられたものよりも、 遥かにキレがある。
そしてトオルが完成させたと思っていたものよりも。
「そ、 そんな……」
愕然とするトオルに対し、 ボレーを決めたばかりの京極からシビアなコメントが送りつけられた。
「他人のコピーは誰でも出来る。
それを進化させて自分の技にするかどうかが、 本物とメッキの違いだ」

久しぶりに味わった逃げ場のない焦り。
背中からじっとりと汗ばんでくる、この嫌な緊張感。
恐らく京極は、 唐沢がトオルと組んで出場することも全て承知の上で、
序盤から少しずつ精神的なダメージを受けるように仕向けたに違いない。
試合前の 「一度も勝ったことがない」 の発言に始まり、
ジャンそっくりのサーブと、 それ以上の威力を持つアングル・ボレーも。
体力を削りながら、 精神的にもダメージを与えていく。
両輪で走ってこそのダブルスの片側を使えなくする為に。
窮地に追いやられた光陵に第7ゲームをブレイクする余裕はなく、
嫌な流れも払拭できないまま、 コートチェンジを迎えた。
奇数のゲーム後に、 選手がコートを入れ替わることをコートチェンジという。
与えられる時間は九十秒。 大抵の選手は、 そこで汗を拭い水分補給を行う。
ベンチに倒れこむようにして座ったトオルに、 唐沢がスポーツドリンクの入ったボトルを渡してきた。
「よく粘ったな、 トオル。 上出来だ……」
夢でも見ているのだろうか。
この先輩が試合中に褒める事など、 今までなかった。
ドリンクを口に含んでみるが、 冷たさも味も感じない。
意識が遠のく感覚があるものの、 それを声に出して訴える事すら出来なかった。
観衆の声や、 隣のコートで打ち合う音も。 全てが遠くに聞こえる。
やはり京極の言うように、 これが限界なのだろうか――

「オマエにしては、 上出来だ……」
深い森の中で、 龍之介の声が響いた。
極端に狭くなった視界から垣間見えるのは、 いきり立ったイノシシだ。
確か仕留めたと思ったはずなのに、 奴は生きている。
不思議な感覚だった。
夢を見ていると分かっていながら、 意識が沈んでいく。
行き着く先は、 トオルが十歳の頃の記憶。
視界が狭く感じるのは、 イノシシの牙で左目の上を裂かれたせいである。
どうやら自分でイノシシを倒したと思っていたのは、 記憶違いだったようだ。
考えてみれば、 十歳の子供が 『山の主』 と恐れられる猛獣をラケットとボールだけで倒せるはずがない。
自分の都合のいいように、 思い込んでいたのだろう。
薄れ行く意識の中で、 記憶に埋もれていた事実が再現されていく。
なぜ今このタイミングで思い出すのか、 その理由を理解し得ないままに。

あの時、 トオルはイノシシを失神させただけだった。
そして浮かれて近づいた隙を狙って、 反撃されたのだ。
目から滴り落ちる血でパニックを起こしたトオルは、 その場で腰を抜かし、
逆に相手に攻撃のチャンスを与えてしまった。
野生動物特有の獲物を捕らえる鋭い目と、 荒い息がジワジワと近づいてきたのを覚えている。
正直、 もう駄目だと思った。
ここで自分の命は絶えると覚悟した。
ところが次の瞬間、 両者の間に立ち塞がったのが父・龍之介だった。
「オマエにしては、 上出来だ。 あとは俺がやるから、 下がっていろ」
言ったと同時に、 父は息子のラケットを奪い取り、 残りのボールを 『山の主』 目掛けて叩き込んだ。
確か三発目だったと思う。
龍之介の放ったボールの一つが眉間に命中し、 臆したイノシシはふらつきながら退散していった。
最後に勝負をつけたのは父であって、 トオルではない。
自分はただ怖くて震えていただけである。
よろよろと去り行く後姿を見届けながら、 龍之介が肩を押さえている。
古傷が痛んだのかもしれない。
そこで記憶は途切れたが、 もう一つ。
家に帰る途中、 父の背中で何か大事なことを聞いたような気がする。
あと少しで思い出せる。 独り言のような低い呟き声。
「重いもんだな」
そんな台詞だったか。 いや、 違う。 もっと深い意味を含んだ言葉だった。
いつも自分を拒否する父の背中は、 思いのほか温かく、 見かけよりも随分と広く、
戸惑いを感じながら聞いた言葉。
「案外、 重いもんだな。 宝物って、 奴は」
龍之介は、 そう言ったのだ。

何故、 今まで思い出さなかったのか。
「自分より強い奴を倒さなきゃ、 意味がない。 だからオマエが倒せ」
以前、 父に助けを求めた時、 こう言われて突き放されたと思ったのか。
どれだけ困っても、 決して手を差し伸べようとしない父。
十歳のトオルには、 背中で聞いた 「宝物」 の見当がつかず、 記憶の中に埋もれさせたのかもしれない。
しかし、 今なら分かる。
それが何を指すのか。 誰を指して言った言葉なのか。
ずっと守られていた。
気づかなかっただけで。 気づこうとしなかっただけで。
見放されたのではなく、 彼はじっと待っていたのだ。
息子が成長して、 いつか父を超えるまでに強くなることを。
いつもタイミングよく必要なものを与えてくれたのは、 唐沢だけではない。
アメリカでテニス部を追い出された時、 練習場所を用意してくれたのは誰なのか。
帰国する際 、成長に合わせたラケットを授けてくれたのは誰なのか。
光陵学園という優れたプレイヤー達が集う環境を与えてくれたのは。
真嶋龍之介。 間違いなく自分は父に愛されていた。
彼の宝物として。

「よく粘ったな、 トオル。 上出来だ。
あとは俺がやるから……」
やはり一瞬だけ夢の中に落ちていたようだ。
父の声が、 いつの間にか唐沢のものに代わっている。
「唐沢先輩。 オレ、 まだやれます。 やらせてください」
「そんな体で、 無理するな」
「最後まで一緒に戦うって、 約束しましたよね?
この体がどこまで持つか分からないけど、 自分なりに限界と思えるところまでやらせてください」
「次のゲームは、 向こうも本気でブレイクしに来るぞ? 分かっているのか?」
「勝負を人に預けて守ってもらう役から、 もう卒業したいんです。
せめて、 このゲームだけでもお願いします」
「わかった。 次のゲーム、 こっちも縦型雁行陣で真っ向勝負する。 いいな?」
サーブのポジションいついたトオルに、 迷いはなかった。
メッキだったとしても、 実力の差があったとしても、 途中で勝負を諦めはしない。
そんな事をする為に、 ここにいる訳ではない。
アメリカから戻ってきたのも、 苦しい練習に耐えて努力し続けたのも、 勝負から逃げ出す為ではない。
倒すべき敵を見定め、 ボールを握り締める。
気力を取り戻したトオルの視界には、 打つべきコースしか入らない。
それ故、 前衛に位置する唐沢の表情も見えるはずがない。
彼が誰にも悟られないよう笑みを押し殺している事も。
「やっと開花したか……」
地道な実戦経験の積み重ねと、 極限状態に追い込まれてなお己の能力を最大限に引き出そうとする気力と、
そしてどれだけ窮地に立たされても失せることのない勝利に対する執着と。
未知数を実数に導き出すための方程式が、 ここに完成した。




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