第 36 話 最弱の名の下に
唐沢の言う 「実りある賭け」 に関する具体的な説明もないままに、 トオルは
合宿所の部屋の片隅で、 説教には付きものの正座の苦痛に耐えていた。
隣にはハルキと 『闇のバリュエーション』 に参加した慎悟、 千葉、 陽一朗と
いった面々も、 同様に顔を揃えている。
その五人の前を唐沢が神妙な顔つきで数回行き来してから、
仰々しく切り出した。
「今からオマエ達には 『闇のバリュエーション』 の品位を落とした罰として、
『闇の光陵杯』 に参加してもらう」
いかにも正論のように語っているが、 『闇の』 と名のつく限りそれはギャンブルに
違いなく、 彼が心の中で狂喜乱舞しているのは、 一目瞭然だった。
もともと賭け事の対象となる部員の情報収集の為に、 テニス部の副部長を
引き受けたような男である。
部長になって自粛したとは言え、 人間の本質がそう簡単に改善されるわけがない。
現に普段は変化の乏しい口元が、 先程から何度も緩んでは引き締めてを繰り返している。
羽目を外した部員達に制裁を加えるという大義名分の下、 彼は新たな催し物を仕切ろうとしているに違いない。
「唐沢先輩、 その 『闇の光陵杯』 って、 何ッスか?」
まずは我が身に降りかかるであろう厄介事の正体を掴むべく、 トオルは具体的な説明を求めてみたが、
答えを知るはずの唐沢は手をかざすようにして質問を制すると、 おもむろに携帯電話を取り出して
誰かと話をし始めた。
「ああ、 俺 。たった今メンバー決まったから……いいよ、 そっちは5ペア出して。
うちは3ペアで充分だ」
電話を使うという事は、 相手は他校の生徒らしい。
5対3で、 ダブルスの勝ち抜き戦でもやるつもりなのか。
条件的に有利とは言えないが、 唐沢がわざわざ負け試合を申し込むとも思えない。
何か勝算があるのだろう。
トオルだけでなく、 その場にいた誰もが同じ考えでいたはずだ。
彼の最後の台詞を聞くまでは。
「しつこいな。 ハンデは要らないと、 言っただろ?
兄貴、 今年の光陵ナメてかかると 、痛い目見るぜ」
これを聞いた途端、 正座させられている全部員の視線が一点に集中した。
あの携帯電話の向こうで話をする人物は、 ひょっとして唐沢の兄・北斗なのか。
自分達の聞き間違いであって欲しいと願いながら、 それぞれが他の部員の驚いた様子を感じ取り、
今の会話が現実だと認め合う格好になった。
「唐沢先輩、 いま 『兄貴』 って?」
質問の優先順位が変わった。
『闇の光陵杯』 が何であるかの前に、 トオルは対戦相手を確かめることにした。
「ああ、 今回の相手は兄貴のチームだ。
ちょうど兄貴の大学も近くで合宿をすると言うから、 事前に声をかけておいた。
現役とOB、 どちらの時代のテニス部員が強いかハッキリさせようと思ってさ。
『光陵杯』 と呼ぶに相応しい企画だろ?」
唐沢の兄は光陵テニス部の元・部長であり、 今は大学のテニスサークルに所属している。
現役時代はコーチの日高と共に成田、 唐沢の両名を一年生にしてエースを担えるレベルにまで育て上げ、
同時に学年に関係なく実力重視でレギュラーを選出するランキング制度を導入し、
光陵学園が強豪校の仲間入りを果たす為に必要な基盤を築いた功績から、 今も部員達の間では
『伝統を塗り替えたカリスマ部長』 と語り継がれている程の兵 (つわもの) だ。
「と言う事は、 オレ達の対戦相手って、 まさか大学生ですか?」
「そうだ。 兄貴の大学は、 うちのOBが多いからな。
この時期に戦う相手としては、 不足はないはずだ」
「不足どころか、 充分過ぎると思うんですけど?」
「勝てる試合に時間を割いて、 何の得がある?
いいか、 よく聞け。
ここでOBに勝てないようじゃ、 インターハイ優勝は諦めろ。
何度も言っているが、 俺達が目指すのは出場じゃなくて、 優勝だ。
『闇の光陵杯』 はその為の最初のハードルだと思え」
唐沢の意図するところが、 トオルにも徐々に見えてきた。
「だから 『実りある賭け』 なんッスね!
オレ達の実力が試せるように、 練習試合を用意してくれたんですよね?」
「何を寝ぼけたことを言っている?
それとこれとは話が別だ」
「へっ?」
仕切り直しとばかりに唐沢は一つ咳払いをすると、 『闇の光陵杯』 の詳細を順序だてて説明し始めた。
「今日から五日間、 OBチームの5組をこのメンバーで撃破していく。
最初は陽一とケンタ、 オマエ達が行け。
二番手はトオルとハルキ。 そして最後はシンゴと俺だ。
最後のペアが負けた時点で、 そのチームの敗北が決定する。
勝った場合の戦利品は、 合宿最終日にやるバーベキューの食材全部と、
兄貴は花火もつけろと言ってきたが……」
「部長、 ちょっといいですか?」
唐沢の滑らかな説明に割って入ったのは、 仏頂面したハルキだった。
「なんで俺がトオルとダブルス組んで、 大学生と試合しなくちゃいけないんですか?
俺、 部外者なんッスけど?」
まさしく彼の言う通りである。
もともと 『闇のバリュエーション』 の首謀者は、 慎悟、 千葉、 陽一朗、 トオルの四人であって、
ハルキは付き合わされたに過ぎない。
処罰を受ける対象にあらずと、 彼は主張したいのだろう。
だが仏頂面で異を唱える後輩に対し、 唐沢は冷静且つ、 にこやかな対応をして見せた。
「確かにハルキは部外者だから、 拒否権がある。
相手は大学生だし、 サークル所属と言ってもうちのOBだから、 一筋縄ではいかない連中ばかりだ。
おまけに元・部長が参戦と聞けば、 尻尾巻いて逃げても問題はない。
ただ……」
トオルも最近になって分かった事だが、 ハルキのような負けず嫌いは 「逃げる」 といった類の言葉に
敏感に反応する。
そして唐沢はそれを熟知しており、 容易に思う方向へと誘導していくのだ。
「ただ、 何ですか?」
「いや、 止めておく。
俺から話すのは、 日高コーチの本意じゃないだろうから」
さらにハルキの場合、 父親の名前は効果的だ。
ものの見事に食いついている。
「ちゃんと最後まで話してくださいよ。 余計、 気になるじゃないですか!」
「まあ、そこまで言うなら話すけど……『闇のバリュエーション』 でハルキが全敗したって聞いて、
コーチがかなり落ち込んでさ。
いくらダブルスが苦手だからって、 仮にも日高テニススクールの看板息子が全敗はないだろうって。
おまけに他の部員までオマエ達のことを、 光陵学園始まって以来の 『最低・最弱ペア』 って呼んでいるし」
「何ですか、 そのネーミング!? 『最低・最弱ペア』 って……」
前の予選でトオルと陽一朗が連敗した時でさえ 『最悪ペア』 止まりだったが、
今回は 「最低」 と 「最弱」 の二つの称号をいただいたらしい。
全敗の身では文句は言えないが、 エリート路線を歩んできたハルキには屈辱的な称号である。
「そうなんだよなぁ。 俺もショックだったよ。
光陵のナンバー3を争う可愛い後輩が、 まさか全敗で最悪じゃなかった、 最低で最弱なんてさ。
だけど、 それ以上にコーチがショックを受けているから、
部長の俺としては汚名返上の機会を与えてやろうかと思ったんだが……
あっ、 この話、 コーチには内緒だからな」
絶対に嘘だと、 トオルは思った。
そもそも水面下で数回しか行われていない試合が、 他の部員の噂になる事自体不自然で、
仮に噂になったとしても、 試合結果がその日のうちにコーチの耳に届くなどあり得ない。
しかもプロ意識の高い日高が、 いくら親ばかとは言え、 息子のことで他人に落ち込む姿を見せるとは考えにくい。
最も怪しいと思ったのが、 唐沢がショックを受けたという話。
対・藤ノ森戦では味方を欺き、 「可愛い後輩」 まで騙して相手チームに間違ったデータを流し込んだ男が、
そんな噂ごときでショックを受けるわけがない。
これは明らかに、 ハルキを陥れるための罠である。
心にある疑惑の念を読まれたのか、 唐沢がこっちを睨みつけている。
あれは 「オマエは黙っていろ」 の合図だろう。
口では拒否権があると言いながら、 何としてもハルキを 『闇の光陵杯』 に引きずり込むつもりなのだ。
「分かりました、 部長。 必ず汚名返上してみせますから、 俺にもう一度チャンスをください。
但し、 トオル以外のパートナーでお願いします」
ハルキの反応は、 三年前、 ギャンブルのカモにされた時の自分を見ているようだった。
本人は自らの意思だと思っているが、 最終的には唐沢の作戦通りに事が運ぶ。
トオルもああやって 『レース』 に巻き込まれたのだ。
「ハルキがどうしてもと言うなら止めないけど、 俺が思うに、 『最低・最弱』 ペアで勝たなきゃ
汚名返上にはならないんじゃないのか?」
「理屈はそうかもしれないですけど、 コイツとは……」
侮蔑を込めたハルキの視線が向かってくるのを感じたが、 トオルはあえて知らん顔を決め込んだ。
ここで性質の悪いギャンブラーに逆らえば、 今度は自分の身が危ういからである。
唐沢が最後の説得に入った。
「なあ、 ハルキ? 確かに今回は、 トオルのリードミスも大いに原因がある。
だけど、 本当に敗因はそれだけか?
シングルス・プレイヤーがダブルスは苦手でも良いという理屈は、
和食の料理人がフレンチは不味くても仕方がないと言っているように聞こえるが?
まあ、 そこそこの選手で終わるつもりなら、 話は別だけど」
案の定、 ハルキの目つきが変わり、 それを認めた唐沢がしたり顔でトオルの方を見やった。
「分かりました、 部長。 トオルとダブルスやらせてください」
ライバルが罠に落ちた瞬間だった。
「それじゃあ、 話を元に戻そう」
唐沢の説明をよそに、 トオルは今の会話が気になっていた。
自分なりに 『闇のバリュエーション』 の結果を分析した限りでは、
敗因はダブルス経験の浅いハルキではなく、 司令塔の役割を果たせなかったトオル自身にあると思っていた。
しかし唐沢の指摘によれば、 まだ何か見落としている点があるらしい。
あの口振りではポジショニング云々の話もさる事ながら、 シングルス・プレイヤーとして、
またトップ・プレイヤーを目指す者として、 ハルキにはもう一段階超えなければならない課題があり、
それが何であるかを見つける事が、 指令塔役のトオルに課せられたハードルだと言われたような気がする。
でなければ、 コンビネーション最悪の二人をわざわざ組ませる事はしないだろうし、
今のしたり顔もギャンブラーのものとは少し違う。
後輩を思い通りに操縦できたからと言って、 唐沢があからさまに喜びを表現するとは思えない。
したり顔に見えた笑みは、 後輩二人の力量を楽しみにするが故に浮かんだものである。
もう一度、 あの試合を分析し直す必要があるのかもしれない。
しかし思考が過去の試合へ向かおうとしたところで、 千葉の悲鳴により現実の会話へ呼び戻されてしまった。
「マジですか!?」
「当たり前だ。 うちの兄貴がバーベキューの食材と花火程度の戦利品で、 満足する奴だと思うか?」
「だけど、 いくら何でも 『体でご奉仕』 っていうのは、 ちょっと……」
「な、 何ッスか、 それ!?」
突如として耳に飛び込んできた内容は、 トオルとって滝澤との悪夢を思い出させるものだった。
「安心しろ。 兄貴の 『体でご奉仕』 は、 宿舎のトイレ掃除と風呂掃除だから。
あ、 あと買出しとコート整備もあったか」
「ゲッ! そっちも、 あんまり安心できないんですけど」
自分達の宿舎の風呂当番だけでも充分辛いのに、 これ以上追加されては身が持たない。
千葉に続いて不満の色を露にするトオルに対し、 唐沢はにこやかな笑みから一変して、 キッパリと断言した。
「分かっていると思うが、 ハルキと違ってオマエ達四人に拒否権はない」
「ハルキだって拒否させなかったくせに」
「何か言ったか?」
「あ、 いえ……」
後の報復を考えれば、 これ以上の反論は慎むべきである。
「負けたペアはチームの勝敗に関係なく、 その日からトーナメント終了まで奉仕活動に入ることになっているから」
次々と課せられる悪条件を聞いて、 今度は陽一朗が悲鳴を上げた。
「それじゃトップバッターの俺ッチは、 メチャメチャ不利じゃないッスか!」
だが口を尖らし抗議する陽一朗にも、 唐沢の態度は変わらない。
「拒否権はないと言っただろ。 要するに、 勝てばいいだけだ。
それに、 陽一とケンタは一番手になってやる義務があるんじゃないか?」
「いや、 普通は後輩が先に行くモンでしょ?」
「品位を落としたという点で、 オマエ達に心当たりはないか?
後輩の私物でも、 盗難は立派な犯罪だぞ?」
思い切り心当たりがあったと見えて、 陽一朗の尖った口先が苦笑いへ変化した。
「アハハ、 喜んでッ!」
昨晩の 『怪盗ツパン』 の犯行を、 唐沢は宿舎の窓からでも見ていたのだろう。
急に大人しくなった二年生二人と、 勝負パンツの恨みを晴らしてもらい、 すっかり上機嫌になったハルキとの間に
挟まれて、 トオルは 「やはり、 唐沢だけは何があっても敵に回してはならない」 と固く心に誓うのだった。
「いいか、 全員よく聞けよ。
弟の俺から見ても、 兄貴は勝負に関して容赦のない男だ。
この 『闇の光陵杯』 は、 バーベキューの食材が懸かっているだけじゃない。
俺達の今後の命運も懸かっている。
もう一度、 言う。 この時期に来てOBに勝てないようじゃ、 優勝は狙えない。
光陵の伝統を塗り替えた男を相手にするんだ。
こっちは歴史ごと引っくり返すつもりで、 心してかかれ。 分かったな?」
これは唐沢から兄・北斗に対する挑戦状でもある。
彼が塗り替えようとしているのは、 光陵学園の歴史だけでなく、 確執だらけの兄弟の歴史も。
元・部長の兄を超えることで、 今まで引きずってきた過去を清算しようとしているのかもしれない。
『闇の光陵杯』 が終了したその先に、 彼自身も気付かない大いなる実りがある。
熱のこもった弁舌から、 ふとそんな予感がした。
試合に際しての細かい打ち合わせが終わり、 騒ぎの原因となった先輩達も去って、
部屋の中はトオルとハルキの二人だけになった。
トオルは窓側、 ハルキは廊下側と、 互いにそっぽを向きながら、 隣にいる相手の動きを観察する。
先輩達が持ち込んだ騒動のおかげで少しは緩和されたものの、 ケンカ後のばつの悪さは残っている。
向こうが声をかけてきたら、 すぐにでも返事をする準備はあるのに、 自分からは話しかけたくない。
気にかけながら、 気まずくて。 意地っ張りの典型である。
ぴんとした存在を感じる程に張り詰めた空気。
ここを通れるのは無邪気な風ぐらいだろうが、 今日に限って開放した窓から訪問者は現れず、
部屋の中には暑苦しい空気が充満していた。
「暑いな……雨、 降らねエかなぁ」
トオルが愚痴として発した一言を、 待ちかねたようにハルキが捕らえた。
「でも雨が降ったら、 練習できないし」
「練習なんて、 どこでも出来るだろ?
廊下だって、 風呂場だって、 やろうと思えばトレーニングになる」
「オマエ、 やっぱり原始人だよな?」
「知能低いって言いたいのか?」
「いや……」
短く否定した後で、 慌ててハルキは窓の外に目をやった。
低く垂れ込めた雲の行方を案ずる振りをして。
時折、 ハルキは不安げな顔を見せる時がある。 二人でいる時は、 特に。
子供の頃から、 常に正しい道を正しい道順で歩んできたエリート。
しかしそれを正しいと思うのは与えた側の人間であって、 与えられた側ではない。
龍之介が自分に愛情を持って接していたと分かってから、
トオルは対照的な育てられ方をしたハルキの事が、 前よりもよく理解できるようになった。
彼がトオルといる時に抱く不安は、 恐らく精神力の差を感じた時に起こるものだろう。
自らの手で掴んだものは、 例えそれが不完全だとしても強い信念が宿る。
信念を持って進む者は、 必要以上に間違いや失敗を恐れたりはしない。
間違いだと悟った時点で、 そこを拠点に再び歩き出す覚悟があるからだ。
アメリカでの三年間で、 トオルは多くの苦い経験を通して、この事を学んだ。
自分で選んだ道だから、 成否を問わず糧となる。
成功すれば自信につながり、 失敗すれば教訓として身につく事を知っている。
しかし選択権のなかったハルキには、 与えられた道の行く先が気になり、
立っている場所さえ架空のものに見えてしまう。
自分はこれでいいのかと、 自信の代わりに、 根拠のない不安がつきまとう。
「ハルキさ、 オレのこと強いと思うか?」
「なんだよ、 急に?」
唐突な質問に、 ハルキが訝しげな顔を向けた。
「いいから、 正直に答えろよ」
「だから、 なんで?」
「オレにとっても、 ハルキにとっても大事なことだから」
今の心理状態から考えて、 素直に口にしたくない内容だと承知の上で、 トオルは返事を促した。
ライバルの床に落とした視線が、 上に向かっては目が合う寸前で外される。
恐らく本音を言うには迷いがあるのだろう。
下から上へ、 交わりかけて、 また下へ。
それを幾度と無く繰り返した後で、 観念したようにハルキが口を開いた。
「最初から……会った時から、 トオルのことを強いと思っていた。
テニスの技術は素人以下で、 ルールも知らなくて、 俺よりも下手だと分かっているのに、
どういうわけか強いと感じた。
理屈じゃなく、 直感で」
固く閉ざされた口から解放された言葉達は、 トオルの予想を遥かに上回るものだった。
「バカみたいに前向きでさ、 一緒にいてもトオルは前しか見ていなくて、
俺はそんなオマエを気にして、 横しか向けなくて。
やっと前を向けたと思った時には、 そこにはオマエの背中があった。
何なんだよ、 この差は……俺だって努力しているのに、 何処が違うんだよって、 いつも思っていた」
「いや 、あの……ハルキ? そこまで詳しく言わなくても……」
「何だよ? 大事な質問だって言うから、 話したのに!」
「ごめん。 単純にどう思っているか聞きたかっただけで、 会った時から遡って話をするとは思わなかったから」
「で、 正直に話したんだけど?」
半分は照れ隠しだろうが、 ライバルはムッとしたまま睨みつけている。
自分で話を振っておきながら、 トオル自身もひどく緊張した。
思いのほか素直に心の内を語ってくれたライバルに対し、 それに見合うだけの返事をしなければならない。
反発するよりも、 向き合う事のほうが大変だと気付かされる。
「オレもハルキのこと、 最初から強い奴だと思っていた。
強くて、 上手くて、 何て言うか洗練されているって言うのかな。
同じ年なのに、 いつも先を歩かれるのが悔しかった」
「思い出話でもしようって言うのか?」
「そうじゃなくて、 オレ達は運命共同体だろ?」
「運命共同体?」
「そう。 初めて唐沢先輩とダブルスを組んだ時に言われた。
『これから俺達は運命共同体だ。 オマエが潰れれば、 俺も潰れることになる』って。
だけどオレはハルキのこと強いと思うから、 絶対に潰れる事はないと思う」
「随分遠回しな慰め方だな」
唐沢の指摘を気にしているのか、 ハルキからの返事は妙に冷めていた。
「慰めとかじゃなくて、 信頼。 コイツなら勝負を預けられるって思う気持ち。
オレはハルキとなら、 いや、 今はハルキとだから一緒に戦ってみたい」
「ダブルスの足引っ張っているんだぜ 、俺?」
「それはオレのリードミスもあるし、 これから二人で問題点を見つけていけばいい事だ。
大事なのは、 オマエがオレを信頼してくれるか、 どうかなんだけど?」
「そんな風に考えた事ない。
第一、 俺達はライバルだろ? この合宿だって、 査定みたいなもんだ。
インターハイのレギュラー枠は補欠を含めて合計五名。
ダブルスは太一先輩と陽一先輩で決まっているし、 シングルスは部長とシンゴ先輩は決定だろ?
残りの一名を俺とオマエで争っている状況なんだぜ?
いや、 俺達だけじゃない。
他の部員だって、 残り一名の枠を狙っている。
オマエは四月から唐沢先輩に教わってきたから有利だと思っているだろうけど、 俺だって諦めていない」
「そんな、 有利だなんて思った事は一度もないし、
イン・ハイも、 ハルキとのダブルスも、 オレにとっては同じ試合だ。
また知能低いって笑われるかもしれないけど、 目の前の試合に全力投球する事しか、 オレには考えられない」
「俺はずっと人を疑うことで答えを出してきた。 部長も、 そのスタイルが俺に合っているって。
だから、 急に信頼とか言われても……あっ……」
「なに?」
「でも 『例外を作っておけ』 とも言われた」
何か大事なことを思い出したように、 ハルキが 「例外」 と口走った後で、まじまじとトオルを見つめ呟いた。
「常に気になる存在。 そいつにだけは強がるなって……」
開け放した窓から、 湿った空気が流れ込んできた。
蒸し暑さを鎮める夕立を、 白雨 (はくう) という。
どす黒い雲から生まれる雨がなぜ 「白雨」 と呼ばれるかは知らないが、
トオルの子供の頃の記憶では、 近所の年寄り達がそんな言い方をしていた。
正面切って向き合った時にしか見えないライバルの透けるような頬の色。
よどんだ空気を洗い流す雨の色。
気高い色でありながら、 はかなくもあり、 だからこそ憧れもある。
ただ願わくば、 自分が心から認めたライバルには、 白雨のように我が身をもって穢れを叩き落すような
強靭な白であって欲しいと思う。
強がりなどではなく、 彼の中にも培われているであろう本物の強さを、 彼自身の目で見つけて欲しい。
雨音に合わせるように、 ハルキがポツポツと心にあるものを話し出した。
「俺、 いつも父さんのせいにしていた。
子供の頃から友達の家へ行くにしても、 一人でゲームとかで遊ぶにしても、
全部父さんにレッスンの予定を聞かないとダメだった。
練習ばかりで友達が出来ないのも、 テニス部に入るしかなかったのも、
試合に勝っても負けても、 全部父さんのせいだと思っていた。
だから最初にトオルに会った時、 『なんだコイツ』 って、 驚いた。
父親のことを 『クソ親父』 って呼んで、 自分でさっさとテニス部に入るって決めて、
どんどん友達も作って……父さんの顔色ばかり見ている自分が馬鹿みたいに思えた。
自由にやりたい放題やれるトオルが羨ましかった」
「オレだって、 ハルキのことメチャメチャ羨ましかったぜ。
テニス教えてくれる父親がいて。
うちの親父と入れ替わってくれたら、 どんなにいいかって思っていた」
「あんな過保護な父親なのに?」
「うちの親父にマジで訴えたこともある。
なんでハルキの親父みたいに教えてくれないんだって」
「そうなのか? 俺はオマエの親父さんが父親なら良いのにって、 いつも思っていたけどな」
本格的に雨が降り始めた。
汚れを取り払い、 熱気を押しのけ、 抗うものを洗い流す。 滝のような白い雨。
「なあ、 ハルキ。 オレ達さ、 そろそろ親父から卒業してもいいんじゃねえか?」
「卒業?」
「どっちも偏った親父でお互い苦労したかもしれないけど、 ちゃんと受け取った物もあるだろ?
ハルキには、 日高プロから教わったテニスがある。
それをベースに、 あとは自分で……何つうか、 ここからがオレ達のオリジナルってヤツ?
今度は自分達の力で作り上げてみないか?」
「俺にオリジナルがあると思う?
全部、 父さんから教わったことばかりで、 自分で出した答えなんて一つも無い」
「ハルキは充分オリジナルだ。
あのおっさんは、 ここまで負けず嫌いじゃない」
「『最低・最弱ペア』 なのに?」
「そう、 『最低・最弱ペア』 だから。
ゼロからの出発点なら、 失うものは何もない。 あとは強くなるだけだ。
こんな考え方じゃ、 駄目か? まだオレのこと、 信用できない?」
「いや……駄目じゃない」
久しぶりにハルキの少年らしい笑顔を見た。
こんなヤンチャ臭い顔を見るのは、 付き合いの長いトオルでも滅多にない。
滝のような白い雨は実にマイペースで、 一方的に天の恵みとやらを大地に叩き込んだかと思えば、
その五分後には何事もなかったかのようにピタリと止んだ。
しっかりと潤った風が部屋の中に、 そして二人の間を駆け抜ける。
「よっしゃ、 雨も上がったことだし……」
トオルの言い終わるのを待たずして、 ハルキがラケットを取り出した。
「敗者復活戦に向けて、 特訓始めるか?」
「ああ、 バーベキューは全部オレ達がいただくって事で」
「ついでに花火もな」
三年前、合宿を境に行く道の分かれた二人。
出会った当初から反目し合い、 互いの存在を素直に認められたのは、
トオルがアメリカへ旅立とうという日の別れ際の一瞬だった。
本当はあの時の一瞬を取り戻したくて、 ずっと頑張ってきたのかもしれない。
アメリカでも、 帰国してからも。
「ハルキ? せっかくだから 『最強ペア』 の称号もいただくか?」
「俺も今、 同じ事を言おうとしたところ」
トオルとハルキ。 対極にいた二人が三年の時を経て、 同じ目的に向かって走り出した。