第 5 話 決心
中等部と変わりなく、 高等部でもバリュエーションの翌日は
全体ミーティングと決められている。
ここで大会に出場するレギュラーを選出し、 試合に向けての
練習内容を発表する事も。
しかし今回はその会議が始まる一時間前から、 テニス部の三年生が
コーチを交え話し合いを進めていた。
「海斗? 言いたい事は分かるが、 現実的に考えて無理だろ、 それ?」
あまりの無謀な提案に、 即座に慎悟が反論した。
同様にして、 滝澤も眉をひそめた。
「確かに坊やの実力は認めるけど、 僕も承諾しかねるわ。
何より本人が潰れる可能性の方が大きいもの」
ある程度予想はしていたが、 三年の意見は唐沢の提案を真っ向から否定するものばかりだった。
「成田。 オマエはどう思う?」
案の定、 唐沢が意見を求めてきた。
「じきに退部する人間が、 ここで意見を言うべきではないと思うが?」
「オマエが俺達なら、 どうするか。それを聞きたい。
部長としてではなく、 個人として。
大きな戦力が一人抜けても、 従来のやり方で中途半端なところまで進むのか。
あるいは危険を冒してでも、 もっと先へ進むのか。
成田なら、 どうする?」
中等部の頃から五年も一緒に戦ってきた親友である。
唐沢の意図するところは、 手に取るように分かる。
それを承知の上で、 成田はあえて質問を質問で返した。
「その前に一つ、 確認しておきたい。
滝澤の言う通り、 オマエの意見は真嶋を潰す可能性もある。 それでもやるのか?」
「真嶋は……アイツは、 潰れない」
「何故、 そう言い切れる?」
「俺の勘だ」
会議室全体が異様な空気に包まれた。
今まで、 唐沢から 「勘」 を理由に説明を受けた者は一人もいない。
「勘ほど当てにならないものはない」 と豪語する人間が、 絶対に口にするはずのない言葉。
膨大な情報を元に緻密な戦略を練り上げる軍師からは、 最もかけ離れた存在の。
この勘を理由に今回の計画を進めようとする唐沢に対し、 他の部員からの賛成意見を得られるはずもなく、
困惑が広まる一方だった。
だが成田は違った。
自分の目で見た事しか信じない男が、 堂々と勘を頼りに言い切ったからには、 何か確信があるに違いない。
当人同士にしか分からない何か。
前々から成田は、 唐沢とトオルには不思議な共通点を感じていた。
奥底に眠る才能というのか。
唐沢の場合は、 自らの意思でそれを封印し、 トオルの場合は、まだ本人の自覚がないようだが、
この二人からは同種の気配を感じる。
恐らく昨日の試合で、 唐沢もそれに気付いたのだろう。
だからこそ、 この無謀な計画を、 勘を頼りに進める気になった。
才能同士が引き合う現象は、 確かに存在する。
わざわざ口にしないだけで、 何かしらの才能を持つ者なら一度や二度は経験している。
同種の才能を持つ人間に出くわした時、 反発するにせよ、引き合うにせよ、
相手の力を認める信頼が理屈抜きで生まれる事がある。
もしもその現象が二人の間で起きているのなら――
周りが静かになるのを待ってから、 成田は先程の問いに答えた。
「絶対に真嶋を潰さないという条件なら、 俺は賛成だ」
これまで沈黙を守っていたコーチの日高が、 ここでようやく口を開いた。
「オマエ達、 こんな言葉を知っているか?
ハイ ・ リスク、 ハイ ・ リターン……大きな危険を冒すほど、 見返りも大きくなる。
逆に言えば、 リスクなしで得られる成果はない」
暗に唐沢の援護の為に発せられた意見であるが、 この手の言い回しを慎悟が正確に理解した試しはない。
「ですが、 コーチ? 現時点でわざわざ危険を冒さなくても、 俺達だけで確実に勝てますよ?」
「シンゴ、 勝てるというのは、 どこまでの話だ? 地区予選か?」
「それは……」
「もっと先まで進むつもりなら、 確実に勝てる方法がない事ぐらい分かるよな?」
「だから 『ハイ ・ リスク、 ハイ ・ リターン』 ですか?」
「そうだ。 だから唐沢は敢えてリスクの高い提案を出している。
問題は、 そのリスクを抱える覚悟があるか、 どうか。
そこまでして行きたいかどうか。
無理強いはしない。 後は、 自分達で決めろ」
中高通して、 日高が自分の意見を部員に押し付けた事は一度もない。
あくまでも生徒の自主性を尊重し、 やる気のある者には全力でサポートするし、
やらないからと言って非難した事もない。
この部員任せのスタイルに慣れている面々であるが、 さすがに今回の件に関しては決め兼ねるらしく、
互いが互いを見合わせたまま時間が過ぎていった。
成田はなるべく誰とも目を合わせないよう、 俯き加減で腕組みをして、 この長い時間をやり過ごした。
最後まで率いることの出来ないテニス部に、 これ以上一方的な願いを覆い被せないように。
「海斗、 オマエの勘ってヤツ、 本当に当てにしていいのか?」
先程まで頑なに反対意見を出していた慎悟が、 まず切り出した。
「現段階では、 信じてくれとしか言いようがない」
「本気なんだな?」
「ああ」
「よし、 決めた!俺はオマエの勘とそのハイ ・ リスクってヤツに賭けてみる。
どうぜ確実に行けないなら、 危ない道の方が俺達らしいっつうか、 面白そうだ。
一緒に行こうぜ、 インターハイ!」
彼の笑顔につられるようにして、 他の三年生も次々と賛成の意思を見せた。
部員達の同意を確認してから、 改めて日高が唐沢の方へ向き直った。
「成田の抜けたチームをイン・ハイまで引っ張って行くには、 それなりのリーダーが必要だろ?」
「覚悟は出来ています」
「本番は夏だ。 オマエの苦手な熱さじゃないのか?」
「俺、 低血圧だから丁度いいと思いますけど?」
「ふん、 分かった。 尻拭いはしてやる。
但し叩く方は任せたぞ、 新部長」
「ありがとうございます」
本来のミーティングが始まる少し前、 威勢の良い後輩達が集まり出した騒ぎに紛れ、
成田は隣にいる親友に短く礼を述べた。
「海斗、 ありがとう」
「なにが?」
「うん……いろいろ……」
中学一年で初めてダブルスを組まされた相手が唐沢だった。
以来二人の間では、 どんな些細な問題でも曖昧にするのは止めようというルールがある。
例えそれが相手に対する苦言であったとしても、 一つ一つクリアにする事で
「最強コンビ」 と称されるほどの強い絆を培ってきた。
ところが今だけは、 適切な言葉が見つからない。
本当に色々な事に ―― プロへの道を勧め、 自分の代わりに部長を引き継ぎ、
無謀な計画と知りながら、 戦力の落ちたテニス部をインターハイまで引っ張って行こうとしている事。
これら全ての行動に対して、 成田は感謝の気持ちを込めたつもりだが、
言葉にした後から 「ありがとう」 の一言では済まされないような気がした。
「ごめん、 海斗。 上手く言えない……
本当は 『ごめん』 って言うべきだったか?」
「どちらも必要ないと思うけど、 強いて言えば 『ありがとう』 の方が嬉しい。
但しそれは、 俺達がイン・ハイで優勝する時まで取っておいてくれないか?」
「分かった」
短い会話だが、 二人の間では充分だった。
どれだけ深く感謝しているかも、 その気持ちをしっかりと受け止めているかも、 少ないやり取りを通して分かり合える。
そしてもう一つ。 成田には確信に近いものがあった。
この親友が本気を出した時、 歴代の部長とは比べ物にならない程、 非情なリーダーに徹し切れる。
会議室に入るなり、 トオルは張りつくような視線を感じた。
それも複数の先輩達から、 じっと見られている。
入部したての頃の好奇の目ではなく、 気の毒な後輩を哀れむような、 そんな湿った視線だった。
しかし、その視線の意味を問いただす前に、 成田からの発表に驚かされた。
「今日この会議の終了をもって、 俺は光陵テニス部を退部する」
部員達の驚きと動揺が、 ざわざわと小波のような音を立てて幾重にも広がった。
もちろん、 トオルにも予想外の展開である。
養成所への返事を済ませてから渡米までの間、 当然成田は部活に来るものと思っていた。
責任感の強い彼なら、 地区予選に出場しないまでも、 テニス部に残り部員達を見守ってくれると。
それなのに、 どうした事だろう。
皆を代表して、 千葉が手を挙げた。
「部長が出発するのは六月ですよね?
まだ二ヶ月もあるのに、 今日で退部すると言うのは、 何か特別な理由でもあるんですか?」
「その質問には、 俺が答える」
成田の隣にいた唐沢が席を立った。
「単純な理由だ。
途中で抜ける奴を、 部員として扱うのは無意味だからだ」
「無意味って、 そんな……」
千葉の顔から血の気が引くのを、 少し離れたトオルの席からも見て取れた。
昨日まで部長としてチームに貢献し、 共に戦ってきた仲間を、 平然と 「無意味」 だと言って切り捨てたのだ。
トオルを含め、 ほぼ全部員が青ざめているに違いない。
それも切り捨てた人間は、 成田が心から信頼してきた副部長の唐沢である。
会議室全体が驚きを通り越して、 まるで殺人事件が起こったかのような凍り付き方をしている。
部員達の反応とは対照的に、 普段と変わらぬ態度で唐沢が淡々と話を進めた。
「今日から成田に代わって、 俺が部長を引き継ぐ。
誰が反対意見のある者はいるか?」
反対意見と聞かれても、 この状況でまともに口を開ける者などいない。
凍りついた空気の中で、 非情になった新部長の声が延々と響いた。
「意見がないなら、 賛成と受け取る。
最初に断っておくが、 俺が部長になる限りは目指すのは全国の中でも頂点だ。
その為に必要な事をこれから発表するから、 各自よく聞いておけ。
まず、 副部長はケンタ、 オマエだ。
それから地区予選の団体戦メンバーは、 ダブルスに俺と真嶋……」
「なんで、 俺!?」
千葉とトオルが同時に声を上げた。
「俺なんかじゃなくて、 他に該当者がいると思うんですが……」
トオルに 「悪りィ」 と片手で合図してから、 まず千葉が自分の用件から押し進めた。
今までの慣例で言えば、 部長、 副部長は最高学年の三年生から選ばれる事になっている。
それを唐沢は二年生である千葉に託そうとしている。
「該当者がいないから、 オマエになった。
成田が抜けて、 俺がダブルスに回る事によって、 シングルスを任せる三年のレギュラー陣に大きな負担がかかる。
二年の中で一番暇なのがケンタ、オマエだ」
「暇って……俺は暇だから選ばれたんですか?」
「当たり前だ。
当分の間、 伊東兄弟には次の予選の準備をしながら、 俺と一緒に真嶋の教育係に専念してもらう。
無口な中西じゃ話にならないし、 消去法でオマエになった。
副部長は暇な奴が一番いい。 分かったな?」
昨日まで副部長を務めていた人間から、 ここまでハッキリ断言されれば返す言葉はない。
しばらく思案していた千葉だが、 何か思い当たる事があったのか、 急に納得したように頷いた。
「わかりました。 俺に副部長をやらせてください」
千葉の同意を得ると、 唐沢はさっさと次の議題に移ってしまった。
「シングルスのメンバーは、 シンゴ、 中西、 ハルキだが、 残りのレギュラーも伊東兄弟同様、
地区予選突破を想定して各自準備を進めておくように。
イン・ハイを目指す限りは、 今より練習もきつくなる。
俺に 『がんばりました』 は通用しない。 結果しか認めないから覚悟しろ。
このやり方について行けないと思った奴は、 今すぐ辞めていい。
計算外は却って迷惑だからな。
文句はすべて副部長に言え。 発展性のない話しを持ちかけて、 俺の時間を無駄にするな。
意見は聞くが、 愚痴や不満の類は一切受け付けない。 以上だ」
発表と言うよりは、 まくし立てるかのような勢いで一気に喋りきった唐沢を、
周りの部員は唖然とした様子で見つめていた。
厳格な部長の補佐役を務め、 人当たりの良いスマイルでいつも部員との間を取り持ってくれた、
あの副部長の姿はどこにもない。
むしろ成田以上に厳しくなった新部長に、 全員戸惑いを隠せない。
豹変した新リーダーを、 どう受け入れていいのか。
シングルスの戦力の高さで成り立つテニス部から、 ナンバー1の成田が抜け、
ナンバー2の唐沢もダブルスへ転向すると言う。
この不安定な状況で、 部員のサポート役であるはずの副部長は、 二年の千葉が務める。
全員が不安を抱え沈黙する中、 遅ればせながらトオルは、 自分に降りかかった難問を解決しようと手を挙げた。
「あの……オレの質問、 いいッスか?」
トオルにとっては、 唐沢が部長になる事よりも、 千葉が副部長に命じられた事よりも、
自分がダブルスに指名された事の方がよっぽど大きな問題だった。
「なんで、 オレが唐沢先輩……あ、 唐沢部長とダブルスなんですか?」
「俺と組むのは不満か?」
「いえ、 そういう事じゃなくて……オレ、 ダブルスやった事ないし」
「そんな事は分かっている。
だから俺がダブルスに回る事にした」
「パートナーの話ではなくてですね、
どうして他の先輩達を差し置いて、 オレが部長とダブルスに出場するのか理解できません。
シングルスなら分かりますけど」
今まで黙っていた部員達も、 同じ疑問を持っているらしく、 ほぼ全員が唐沢の答えを待った。
「真嶋をダブルスに回す理由か? 簡単なことだ……」
それに続いて唐沢の口から飛び出した発言は、 全部員を再び凍りつかせた。
「オマエが弱いからだ。
今のままの状態では危なっかしくて、 とてもじゃないがシングルスに一人で出せる状態じゃない。
だから、 今日から俺が真嶋のお守り役だ」
「ちょっと待ってください、 部長!
確かにオレは未熟かもしれませんが、 シングルスに一人で出せないってどういう事ですか!?」
「言葉通りの意味だ」
顔色一つ変えずに答える唐沢から、 副部長の頃の和やかさはない。
「昨日は成長したって……4位のレギュラーを倒してもまだ、 オレにはお守り役が必要なんですか?」
これまで自分の中に、 それほど高いプライドが存在するとは思わなかった。
だが、 次々と浴びせられる屈辱的な言葉に、 トオル深く傷ついていた。
4位のハルキに勝利したというのに、 それでもまだ 「お守り」 が必要で、
危なくてシングルスに一人で出せない状態だと言われた。
昨日の勝利をもってしても、 まだ唐沢に認められていない。
侮辱された事よりも、 目標とする先輩に認めてもらえない事の方が悔しかった。
「オレ、 納得できません。 分かるように説明してください!」
「真嶋、 昨日は確かに成長したと言った。
だが、 強くなったと言った覚えはない。
もう一度言うが、 オマエは弱い。 その証拠に、 今から俺と試合をして勝つ自信はあるか?」
「えっ?」
「その下のシンゴはどうだ?」
「そ、 それは……」
「オマエは研究し尽くしたハルキだったから、 昨日の試合で勝てた。
相手の癖、 攻撃の手順、 試合の流れをある程予測できたから、 先手を打てただけだ。
もっとハッキリ言えば、 ハルキと同じレベルの選手で手の内を知らない相手なら、 間違いなく負けている。
何故なら戦術を組むという点では、 うちのレギュラーで最も能力が低いからだ。
行き当たりバッタリの偶然で勝ち抜けるほど、 インターハイは甘くない」
容赦なく突きつけられる欠点はどれも正論で、 それを聞きながらトオルは
先程自分に向けられた湿った視線の訳を理解した。
昨日まで成田の代わりと期待されていた人間が、 今朝には 「子守り」 付きのダブルスに転落したからである。
同時に帰国前、 父・龍之介から言われた言葉が頭を甦った。
「捨て身でかからないと、 足元からすくわれる。
オマエはまだ、 大事なものを何一つ得ていない」
父の忠告どおり、 トオルは今、己の未熟さを全部員の前で曝 (さら) されている。
昨日の試合で少なからずつけた自信は、 新部長の手でこっぱ微塵に粉砕されたのだ。
「オレはまだ……4位になっても、 使い物にならないと?」
「そういう事だ」
「部長がダブルスに回るのは、 オレがシングルスで役に立たないから?」
「ああ、 そうだ。
この三年間、 それなりに努力してきたんだろうが、 他のレギュラーと比べて非常にバランスが悪い。
だから本番までにオマエをシングルスで使えるよう育てなきゃならない。
その間、 残りのレギュラーには迷惑をかけるが、 他に方法がない。
付いてくる自信がないなら、 今すぐ辞めろ。
さっきも言ったが、 計算外は迷惑だ。 どうする、 真嶋?」
部長の責務から解放されたせいなのか。
これまで黙って成り行きを見続けてきた成田だが、 とうとう堪らなくなって窓の外に目を向けた。
校舎の壁しか映さない灰色だけの景色だが、 この二人を見るよりマシだった。
本音を隠して見事に悪役を演じる親友と、 必死の努力を未熟とけなされ、 悔しさに耐える後輩と。
自分のせいで、しなくていい苦労をさせているかと思うと、 居たたまれなかった。
成田の目から見て、 今のトオルは地区予選のシングルスなら、 問題なく任せられるレベルである。
三十六時間のフライトの後で、 4位のハルキを下したのだから、 一年生にしては申し分のない実力だ。
実際、渡米の話がなければ、 このままシングルスをハルキと交代で任せていただろう。
予選を勝ち抜いていく中で、 先輩達のプレーを参考にしながら、
彼が三年生になる頃までに、 じっくり育っていけばいい。
しかし状況は変わった。
ナンバー1の実力者を欠いたテニス部をインターハイまで連れて行く為には、
数ヶ月のうちに、 成田と同レベルの人間を育てなければならない。
唐沢はそのターゲットとして、 トオルを選んだ。
自らダブルスのペアを組むという方法で、 必要となる知識と技術の全てを、
帰国したばかりの一年生に叩き込もうと言うのである。
反対する三年生を説き伏せ、 悪役を演じ、 トオルと最も近しい人間にフォロー役を託した上で、
今最初の選択を迫っている。
これから始まる過酷な試練に立ち向かえるのかを。
「必死こいて日本まで戻ってきて……なんで……」
悔しさで震える後輩の声が聞こえてきた。
やはり荷が重かった。
後悔と自責の念から、 思わず席を立った、 その時。
「なんで唐沢部長に 『辞めろ』 って言われなきゃならないんですか?
必死になって戻ってきて、 やっと好きなだけテニスができると思ったのに!」
予想外のリアクションに振り返ると、 トオルが唐沢を相手に憤然と睨みつけている。
確かに聞いた通り悔しさで震えているが、 その顔には成田が想像したようなギブ・アップの要素は一つもない。
「昨日約束したじゃないッスか!
一緒に頂点見に行こうって、 約束したじゃないッスか!」
悪役を演じ切るつもりでいた唐沢も、 咄嗟のことに言葉が出ない様子だ。
「オレは皆のお荷物になる為に、 戻ってきたわけじゃありません。
本番とか、 イン・ハイとか関係なく、 超・高速で使い物になるようにしてください!
でなきゃ、 ここへ戻ってきた意味がありませんから。
お願いします、 部長!」
そう言ってトオルが頭を下げた瞬間。
ほんの一瞬だけ、 唐沢が成田に笑みを向けた。
それは賭け事に勝利した時、 彼がよくする誇らしげな笑顔。
わずかに細めた目からは、 予想が当たり満足する様がうかがえる。
本当は嬉しくて仕方がないくせに、 当然だというポーズを取りたくて、 つい上向きに緩んでしまう口元。
五年間、 何度も目にした表情だ。
成田には、 あの笑顔の意味がよく分かる。
「真嶋は……アイツは潰れない」
唐沢の勘は的中した。
どんなに屈辱的な事を言われても、 たとえ 「辞めろ」 と言われても、 トオルにはそれを跳ね返すだけの強さがある。
どれだけ苦しくても、 テニスができない苦しみの方が、 その何倍も辛いという事を知っているから。
「あとは新部長に任せた。 長い間……」
途中まで言いかけて、 成田は先を変えた。
このメンバーならきっと、 やり遂げる。
だから礼を言うのは、 もっと後で。
「長い間、 世話になった」
最後にそう言い残して、 成田は会議室を出た。
背後で、 畳み掛けるように親友の怒鳴り声が響いた。
「いいか、 俺の言う頂点とはインターハイじゃない。
インターハイへ行って、 そこで優勝することだ。
頂点は一点しかない事を肝に銘じて、 全部員、 覚悟してかかれ。 分かったな!」
唐沢が走り出した。 もう共に手を携えて向かう事のできない場所へ。