韃靼そば茶が揺れる理由(わけ)
さっきから美咲は、我慢していることがある。
潰れかけた蕎麦屋 ―― そう呼ぶしかないこの店は、人里離れた農家そのものだった。萱葺き屋根の平家は緑の苔がこってりと張り付き、周りの鬱蒼(うっそう)と生い茂る木々と同化している。
昨日の夜中、突然ドライブに誘われ、都内から車を飛ばして約十二時間。サンデードライバーの彼は首都高速の入口を見つけるのに四苦八苦し、乗れたと思えば反対方向で、散々回り道をした挙句、ようやく着いた目的地は山形だった。
東北六県のうちの山形だ。ドライブの範囲を大きく超えている。
「どうして山形なの?」
「ここの蕎麦が上手いって聞いたから」
「だからって、こんなとこまで来なくても……」
付き合い始めて五年にもなれば、当初の初々しさは何処へやら、遠慮よりも不満が先んじてしまう。
今日に限って、何故こんな潰れかけた蕎麦屋なのか。初めてデートした日から数えて、ちょうど五年目にあたる記念日に。
店内を漂うダシの香りには心を奪われるものの、十二時間かけてまで食べに来る場所とは思えない。
セピア色に日焼けした畳が敷き詰められた小汚い座敷と、風情とはかけ離れた穴だらけの障子と、周りはオヤジ二人に家族連れが一組。BGMは昼時のバラエティ番組である。
何より不満なのは、目の前にある煙草の焦げ跡が残ったままの低いテーブル ―― 厳密にはテーブルの下を通って押し寄せる匂いだった。
美咲はこの匂いの原因を知っている。昨夜仕事を終えて風呂にも入らず彼女の家に直行し、十二時間靴の中に閉じ込められた結果、汗と雑菌の繁殖によって生まれたもの。それがテーブルの下で胡坐(あぐら)をかかれる事によって、持ち主ではなく向き合って座る相手だけに放たれる。
しかも本人が姿勢を変える度に足元に余計な対流が起こり、繰り返し強烈な悪臭を振りまき続ける。要するに、彼の足が臭いのだ。
もう我慢の限界だが、いくら付き合って五年の月日が経ったとしても、面と向かって言える事と言えない事がある。口にした瞬間、彼を傷つけてしまう恐れだってあるかもしれない。クシャミとは明らかに次元が違う。
なるべく吸い込まないようテーブルと上体を密着させて匂いの封印を試みるが、今度は両脇から鼻に攻め入られ、せっかくの努力が無駄となった。
口で呼吸したいのは山々だが、匂いの元とこれから食事をする事を考えれば、衛生面からも避けたい方法である。だからと言って、ダイレクトに鼻から吸い込めば食欲減退の一途を辿るに違いない。
少しずつ小分けにして新鮮な空気を取り込む努力はしているが、その度に腹筋を使うらしく、低いテーブルに出された韃靼そば茶までもがプルプルと揺れている。
残る手段はただ一つ。隣のテーブルの家族連れを見るふりをして、出来るだけ多量にプレーンな空気を吸い込み、後は徐々に息を吐き、場をしのぐ。自分も彼も救える方法は、もうこれしかない。
さり気なく横を向き、美咲が作戦を決行しようとした矢先。
「お父さん、足臭いわよ!」
一瞬、自分の心の声が届いたのかと思った。隣の席にいる家族連れの母親の叫びは、まさに美咲が彼に対して言いたかった一言である。
「うっせえなぁ。この匂いは俺が汗水たらして働いた証拠だ。
文句あるか!」
「証拠でも何でも、臭いものは臭いのよ!
せめて足を横へ向けるとか考えてちょうだい。でないと、こっちが迷惑するのよ」
「そんな女々しい座り方できるか」
「だったら正座すればいいでしょ?とにかく、その臭い足を私に向けないで」
身も蓋もない夫婦の会話を聞いた子供達が、興味本位で父親の足の匂いを嗅ぎに行き、吸い込んだ途端に鼻を押さえて転げ回っている。そんな子供達にわざと足を向けて追い回す父親と、「おバカ!」と言って叱り飛ばす母親。反対側の席にいるオヤジ二人が、この光景を微笑ましく眺めている。
「本当はさ、あの店に連れて行きたかったんだけど……」
申し訳なさそうな顔で彼が口にした「あの店」とは、初めてのデートで立ち寄った喫茶店のことである。
「まだ俺には似合いそうにないし、ここの方が落ち着いて話せそうだったから」
「話があったの?」
「うん」
「なに?」
「あのさ、美咲?俺達も、そろそろ……なんて言うか……隣の家族みたいに……」
落ち着いて話せるはずの場所で、彼の声が震え出した。
「俺達も隣の家族みたいに……か、家族を作って……」
寂れた蕎麦屋で緊張しまくる彼と、その姿が滑稽に映ったらしく、一斉に注目し始める周りの客達と。しかし、この時ばかりは他人の視線を痛いとは思わなかった。
シミだらけの天井を仰いで呼吸を整える彼に、オヤジ達から「頑張れ、あんちゃん!」と声援が送られた。それにつられて意味も分からず「頑張れ」と励ます子供達と、「静かに!いま大事なところなんだから」と見守る夫婦。店内に妙な連帯感が生まれた。
「はい、お待ちどおさま。天ぷらそば二つね。
早く口説かないと、お蕎麦伸びちゃうわよ」
店のおばちゃんに背中を押されるようにして、飾りっ気のない精一杯の言葉が絞り出された。
「ぼ、僕と結婚してください。
たくさんは無理だけど、少しずつなら幸せにできると思うから」
「一つだけ約束して」
「なに?」
「今後私をドライブに誘う時は、ちゃんとシャワーを浴びてからにしてよね」
美咲の薬指に小さなダイヤのリングが輝いたのは、それから二ヵ月後のことだった。
Fin