迷い桜
一週間の夢物語
第一夜
万物は流転する
単にエネルギーを有する物から、魂の存在を認められた者まで。
限りなく紡がれる生命の連鎖 ――
「やっべエ〜、このあとバイトなんだよなぁ」
幸太郎は頭を抱えた。
うずくまりながら頭を抱えるという芸当は、実際やってみるとキツイものがある。特に体の硬い人間にとって、決して楽な姿勢とは言えない。それでも腹痛と考え事を同時進行させるには、このポーズが最善の策だった。
春休みを迎えた高校生には、のんびりと腹痛に耐える暇はない。痛みを訴える腹をかばいながら、頭ではこれからのスケジュールを思い浮かべた。
「四時からバイトだから、あと二時間か。
母さんに薬もらって、あの坊主の長い話の間におさまるか……」
「いや、それは無理じゃ」
「へっ!?」
「オマエの腹痛は食い過ぎじゃから、出すしかない」
「じ、じいちゃん……なんで、ココにいるんだよッ!?」
幸太郎が驚くのも無理はない。目の前に立っているのは祖父の幸作で、ココというのはトイレの個室だ。
祖父は去年死んだはず。今は、そのじいさんの一周忌の最中だ。
いくら寺のトイレとはいえ、昼間から幽霊が出るものだろうか?そもそも彼は、幽霊なのか?
いや、それ以前に――なんで孫が腹痛で苦しんでいる最中に、わざわざ「個室」に登場するのか?
男が個室に入るということは、無論「大」に用があるわけで、そこに幽霊が現れたとしても唖然とするしか術はない。
いきなり「大」の最中に現れた祖父の幽霊。この奇妙な現象に、幸太郎は困惑していた。
「先祖代々、澤田家の男は、食いすぎると腹痛を起こすと決まっておる。だから薬なんぞ飲んでも意味がない。出すしかないんじゃ」
「そ、そんなこと、先祖代々きまっているのか?」
「少なくとも、ワシが知る限りではな……」
「それじゃあ、たかだか三代じゃねえか! 相変わらず大げさな物言いだな、じいちゃん」
「オマエも相変わらず、うだつの上がらん生活をしているようじゃのう」
テンポよく返される祖父の毒舌に、孫は次の言葉を用意しきれない。
祖父の言うとおり、高校二年の春休みだというのに、幸太郎には何ひとつ「青春を謳歌している」と威張れるものがない。部活に夢中になるわけでもなく、これといった趣味もなく、成績も中の下をフラフラとさ迷っている。熱中するものは、ひとつもない。
だが幸太郎は、その現状に満足していた。べつに高校生だからと言って、無理やり熱くなる対象を探す必要はないと。
しいて挙げれば、バイトは自分なりに一生懸命やっている。ファミレスの調理場での仕事だが、親友の俊也をはじめ、共に働く仲間たちとの会話が楽しくて仕方がない。
恋愛話を中心に、学校では言えない話がいつでもできる。教師たちが口にしないような大人達の失敗談が聞けるときもある。遅刻をしないだけで真面目だと評価され、午前の暇な時間帯に仕事を任されるときもある。
なんとなく楽しく、そこそこ当てにされ、バテない程度に忙しい。そんな時間を過ごせるだけで充分満足だった。
「ほら、早く出さんと、法事が終わってしまうぞ」
祖父に促されて、幸太郎はもっとも優先すべき問題を思い出した。まずは、この腹痛をなんとかしなければ。
「じいちゃん……悪いけど、出て行ってくれないか?」
祖父といえども人に、いや、幽霊に見られて用を足せるほどの度胸はない。しかも個室というのは、一人になれるから「個室」というのだ。
孫の言い分が正しいと思ったのか、幸作はふっと姿を消した。ドアを開けずに、音も立てずに、ロウソクの火が消えるように、一瞬でいなくなった。
「やっぱり、幽霊だったんだ……」
ひとりトイレに残された幸太郎は、遅ればせながら背筋に寒気が走った。
結局あのトイレでの会話以来、夜になっても祖父は現れなかった。
「やっぱり夢だったのか……」
できることなら、「夢」として処理したかった。いくら身内でも、幽霊との会話を楽しみにする奴はいない。自室のベッドに横たわり、幸太郎が全ての記憶を眠りの中に封じ込めようとした時だ。
「そろそろ出てきてもいいかのう?」
消えたときと同様、幸作が音も立てず枕元にふっと現れた。
「まったくオマエは出て行けと言ったきり、なかなか呼んでくれんから」
「じいちゃん! もしかして、ずっと待っていたのか?」
「そうじゃ。だが心配するな。幽霊になると、腹もすかなければ、暇を持て余すこともない。
待っているあいだにアチコチ行けて、楽しかったぞ」
晩年をベッドの上で過ごした幸作は、久しぶりに得た自由を満喫しているような口ぶりだ。年寄りの楽しげな口調に、忘れかけていた胸の痛みが再び顔を出す。
祖父が亡くなる前の三年間。それはあまり思い出したくない記憶だった。
ベッドに寝たきりで苛立つ祖父と、介護に追い回される母。その二人を横目に、幸太郎は何も手伝いをしなかった。勉強だ、バイトだと口実をつけ、介護に明け暮れる母とは、なるべく距離をおいた。
祖父が暮らした部屋は、六畳の和室に病人用のベッドが置かれていた。
やたらに消毒薬の臭いがする、非日常的な場所。ベッドの脇には雑巾にバケツ、大人用のオムツと簡易トイレが全て一箇所にまとめてあり、上からも下からも、どちらの排泄物にもすぐに対処できるよう準備されていた。どこを向いても汚物を連想させられる空間は、思春期の少年には近寄りがたい場所だった。
それでも可愛げのある年寄りなら、話ぐらいはしたかもしれない。けれど、この幸作という人間は、食べ物の好みから、布団の固さ、果ては風呂の温度まで、徹底的にわがままを通していた。
一人で入浴も出来なくせいに、風呂の湯がぬるいと文句をつけ、敷布団は硬く、掛け布団は柔らかく、そして毛布は厚手のものと、全て指定しなければ気が済まなかった。
ヨーグルト程度の柔らかいものしか口にできない状態で、「牛肉が食べたい」と言い張ったこともある。あのとき母は、細かく刻んだ牛肉を更に軟らかく煮込み、器用に箸でつまんで食べさせた。にもかかわらず、「この肉はロースじゃない」と文句をつけ、皿ごと母に投げつけた祖父。
そんな彼の葬式は誰も涙する者もなく、親戚一同、どちらかと言えば安堵の色を見せていた。正直、幸太郎もホッとした。これで母に対しての罪悪感から解放される。汚物だらけの部屋もなくなり、友達を家に呼ぶこともできる。
祖父の死に安堵する自分にわずかな罪の意識を感じながらも、暗い生活に終止符が打てるという開放感の方が勝っていた。一年前の葬式からずっと、今日までは。
だけど苦しかったのは、母だけではなかった。「アチコチ行けて楽しかった」という祖父の笑顔は、ベッドの上にしか自由のない老人の苦悩を物語っている。
「じいちゃん、なんで今ごろ現れたんだ?」
胸の痛みから逃れるように、幸太郎は話題を変えた。
「それはな……」
幸作は少し間を持たせてから、まるで重大発言でもするかのように真剣な面持ちで語り始めた。
「これから一週間のうちに、オマエの願い事を三つ叶えてやる」
「なんで?」
「理由はいえない」
「だったら、やめとく」
即座に幸太郎は幽霊からの申し入れを断った。根っからの商売人である祖父が、たとえ幽霊になったとしても、理由もなく人に親切にするわけがない。きっとなにか裏があるに違いない。
「人の親切を、どうして素直に受け取れんかのう?」
「それは親切にしてきた人間の言うセリフだって。じいちゃんのことだから、三つの願いを叶えたら俺の体に乗り移れるとか、そういう裏があるんだろう?」
「いくらなんでも孫にそんなヒドイことはせん」
「だったら俺じゃなくて、いちばん世話かけた母さんにしてやれよ」
我ながら「いいこと」を言うと、自画自賛した。
長男の嫁だからと、当たり前のように祖父の介護を押し付けられ、父からのねぎらいもなく、苦労だけをしてきた母。なにも協力しなかった息子からの、せめてもの罪滅ぼしだ。
しかし、せっかくの好意もワガママな幽霊によって即座に却下された。
「おまえの望みでなきゃ、いかんのだ」
「だから、なんで?」
「それは言えん」
「だったら遠慮する」
さっきと同じ話の展開に、幸太郎はうんざりした。こういう年寄りの頑固なところが、なによりも腹立たしかった。何度言って聞かせても、どんなにわかり易く説明しても、結局は自分の思い通りになるまで同じ要求をし続ける。相手の都合などお構いなしで、自分の主張を通すことしか考えていない。年をとっているクセに、子供と同じ行動しかできない祖父に、ひどい苛立ちを感じた。
「じいちゃん、そんなだから誰にも葬式で泣いてもらえないんだぞ」
堂々巡りの苛立ちから、思わず余計な一言を発してしまった。
幸作の葬式で涙がなかったのは事実である。ワガママ放題に生きてきた老人は、母だけでなく、ほかの親戚にも迷惑のかけ通しだった。さらに彼より先に亡くなった祖母に至っては、母以上にワガママを通した上に、浮気までしていたという。早い話、幸作という男はワガママでスケベで、頑固でがめつい老人だった。そんな祖父を送り出すのに、安堵よりも涙を先に見せる人間はいない。
しかし、さすがに本人に葬式の話をしたのはマズイと思った。自分が死んだというのに誰も悲しまないなんて、こんな悲惨なことはない。
「じいちゃん、ゴメン。あの……」
とっさにフォローを入れるつもりで、幸太郎が話を続けようとしたときだ。
「知っとる。ずっと見ておった……」
幸作から思わぬ返事が戻ってきた。
「ずっと……?」
「ああ。葬式で泣いてくれたのは節子さんだけで、幸一が式の間ずっと居眠りしておったことも、オマエが精進料理を二人分食べて腹を壊したことも、全部知っておる」
節子というのは幸太郎の母の名だ。祖父は母のことを「節子さん」と呼び、父のことは「幸一」だった。
幸太郎は、この三代つづく「幸」の字の連鎖にも嫌気がさしていた。祖父の「幸作」、父の「幸一」、そして自分の名前の「幸太郎」。ダサいこと、このうえない。
「それに節子さんには、ちゃんと 『感謝の気持ち』を残してある」
いかにも自分は思慮深いとでも言いたげに、幸作はへの字に曲がった口元を緩め、右手で顎ひげをなでている。自画自賛するときの得意のポーズだ。これだけは幽霊になっても変わらないらしい。
「遺品整理したけど、そんなモノなかったぜ。あったのは着物とレコードと、古い茶箱だけだった」
「それじゃ。その茶箱の中に、節子さんへの 『感謝の気持ち』が入っておる」
「だけど鍵がかかっていて、何が入っているかわからないって、父さんがボヤいていたぜ」
「まったく親不孝者めが。アイツはワシの生年月日すら覚えていないようじゃ」
幸作の口ぶりから、どうやら鍵の番号は生年月日らしい。
「だけど、じいちゃんだって悪いと思うぜ。そういうのは誰かに伝えておかないと」
「こういうのはな、最期って時に口にするから 『粋』なんじゃ」
「で、伝えたのか?」
「いや、実際には苦しくて、それどころじゃなかった」
「じいちゃん……意味ないよ、それ……」
あまりの祖父のマヌケぶりに、幸太郎は落胆した。いくらワガママ放題の老人だとしても、死に際に「感謝の気持ち」を残して去れば、受け取る側は感動もするし、「粋なじいさん」だったと惜しんでもらえる。だがそれは、あくまでも伝わっていたら ―― の話である。
何も言わずに、この世を去れば、やはりただの「ワガママなじいさん」になる。現にそうなっている。
「あれだけ母さんと一緒にいたんだから、話す機会ぐらい、いくらでもあっただろう。母さんだって神様じゃないんだから、言わなきゃわからないって」
いまだ納得しきれない孫は、ついつい祖父を責め立てた。
「それじゃあ、ただの年寄りになってしまう……」
「えっ?」
幸太郎は耳を疑った。最期は風邪か老衰か判断がつかないほど、幸作は高齢で亡くなっている。その人間から「ただの年寄り」といわれても、「そうでしょう」としか答えようがない。
けれど祖父はもういちど、同じ言葉を繰り返した。
「生きているうちに 『ありがとう』と言ってしまったら、ワシはそこで 『ただの年寄り』になってしまうんじゃよ……」
そうつぶやく幸作はどこか寂しげで、それ以上の追及はできずにいた。
どこから見ても年寄りなのに、「ありがとう」と伝えることで、どうして「ただの年寄り」になるのか。それのどこがいけないのか。
だいいち、なぜ今ごろ幽霊になって現れたのか。三つの願いは何なのか。
孫に多くの疑問を残したまま、ふたたび幸作は姿を消してしまった。音もなく、ふっと――