第二夜
「どうじゃ、ワシに頼みごとする気になったか?」
朝日の中で透けるように立っているのは、やはり祖父の幽霊だ。
「じいちゃん……幽霊のクセに、朝から登場するのはやめてくれ」
「何を言っておる。ワシには一週間しか時間がないんじゃ。正確にはあと六日。
朝だ、昼だと時間を選んどる暇はない」
「だから昨日も断っただろう。俺はなにも頼まないって」
「本当に願いはないのか?」
「ない!」
「かおりちゃんのこともか?」
「なっ……なんで、かおりのこと知っているんだよ?」
かおりは、幸太郎が秘かに好意を寄せているクラスメートの名前だ。学校で目立たない存在の彼女は、正直なところ、バイト先が同じになるまで気にも留めなかった。ところが職場での接客態度や仕事に対する姿勢などを見ているうちに、彼女の存在が少しずつ気になり始めた。
幸太郎が出した料理に「ありがとう」と笑顔を向け、嫌な客にもきちんと応対する彼女。クラスでは見られない意外な一面に、すっかり惚れ込んでいた。しかし何故、祖父がそのことを知っているのか。
「こう見えても、ワシは幽霊じゃからな。オマエがどこで何をしているかは全てお見通しだ」
昨日の「年寄り」発言といい、今の「幽霊」といい、いったい幸作は自分の立場をどう思っているのだろう。
どこからどう見ても祖父は年寄りで、去年死んだのだから幽霊だ。「こう見えても」と前置きをしなくても、彼は立派なじいさんの幽霊である。
だがそれを追求するより先に、幸作が誘惑の罠を仕かけてきた。
「どうじゃ、幸太郎。三つの願い事のうち、ひとつを彼女との縁結びに使ってやってもよいぞ」
「縁結びって、もうバイト先で縁はあるから」
「バカタレ! 縁結びというのは、結婚の意味じゃ。まったく、とてもワシの孫とは思えんな。こんな無粋な奴に育っていたとは……そうじゃ! 今からアレに行こう」
「アレって?」
「アレと言えば、アレだ。浪曲だ。おまえの無粋は、浪曲を聴かんからじゃ」
かなり強引な思いつきは、最初から浪曲を聴きたかったに違いない。たしか幸作は牛肉と同じくらい浪曲も好きだった。だが孫の方に、そんな趣味はない。
「俺は行かないよ。じいちゃん勝手に行って来いよ。幽霊なんだから、行けるだろ?」
「それはそうなんじゃが、場所がわからん」
「なんとか演舞場とかで、やっていないのか?」
「幽霊になって移動は楽になったんじゃが、手は不自由になってのう……」
つまり幽霊になって、どこでも行けるようにはなったが、透けてしまう分だけページをめくるなどの「手を使う」作業ができないらしい。仕方なく幸太郎が代わりに調べてやることにした。
「じいちゃん、今はやっていないみたいだ」
「そうか……死ぬ前にもう一度、聞きたかったのう」
「だからアンタは、もう死んでいるんだって」と言いかけて、幸太郎は気がついた。おそらく幸作は、自分が年寄りだという事も、死んでしまったという事実も認めたくないのだろう。たとえ百人が百人とも彼を年寄りだと断言しても、本人だけは「年寄り」だとは思っていない。幽霊にしても、こうして孫と話している限り、自分が死んだという実感が沸かないのだろう。
「ま、いいか……」
祖父と違って諦めの早い孫は「それなら、それでいい」と思った。なにも、わざわざ悲しい現実を本人に突きつける必要はないと。
「おっ! じいちゃん、隣町の公民館であるみたいだぞ」
「本当か?誰の何の演目じゃ?」
「う〜ん、これだけじゃわからないけど……とりあえず行ってみれば?」
「よし、行くぞ!」
「行くぞって……俺もか?」
「当たり前じゃ。ワシは隣町の公民館など行ったことはない」
またしても幸作のワガママが始まった。ふつうは「連れて行ってください」と頼むべき場面で、祖父は「当たり前」だと言い切ってしまう。
「あのさ、じいちゃん。俺にも予定ってヤツがあるからさ。行きかた教えてやるから、自分で行ってくれよ」
本当はこれといって予定はない。だが、これ以上年寄りのワガママにつき合わされるのは何としても避けたかった。
「幸太郎。オマエのために行くんだぞ」
「本当は自分が行きたいくせに」
「何を言うか! よし、オマエが付き合わんと言うのなら、ワシは一人で出かけてくる。かおりちゃんの家にでも遊びに行ってくるか」
「じいちゃん、なんで彼女の家まで知っているんだよ?」
「昨日オマエを待っとるあいだに、調べてきたんじゃ」
あの笑顔は、昨晩の楽しげな口調は、自由になった体を喜んでいたわけではなかった。幽霊になって、彼女の家に好きな時に好きなだけ行けるようになったのが最大の理由だ。好きなときに、好きなだけ……
「じいちゃん! 昨日の夜、彼女の家に行ったってことは……」
「なんじゃ?」
「あの時間帯に家に入ったってことは……彼女の、その……」
「ワシが何を見てきたのか、教えてやろうか?」
孫の動揺を見透かすように、幸作は次の駆け引きに備えていた。への字に曲がった口元を緩め、右手で顎ひげをなでている仕草は、「教える代わりに、浪曲につき合え」と待ち構えている。
「わかったよ……となり町まで付き合えばいいんだろ」
「つまらん奴、出しおって! やはり、浪曲は虎造でなきゃいかん」
公民館を出るなり幸作は文句を連発した。せっかく孫が連れてきてやったというのに。聞きなれない浪曲を、我慢して付き合ってやったというのに。このワガママな年寄りには、他人を思いやるという配慮がまるでない。思えば昔からそうだった。
祖父が好きな「いなりずし」を買ってきた時も、「あげが黒砂糖で煮ていない」と文句をつけ、たった一口で箸をおいた。修学旅行の土産にプリンを買って帰ったときは、「札幌まで行って、なんで『モリスエ』のプリンを買って帰らんのだ!?」と怒鳴られもした。
長年、呉服屋という商いを続けてきたせいか、幸作の「良質」へのこだわりは人一倍強かった。だがモノには限度がある。人の好意を踏みにじってまで、良質にこだわる必要がどこにあるのか。幸太郎には祖父の「こだわり」が、はた迷惑なワガママとして映っていた。
「そうじゃ!気分直しに桜でも見に行かんか?」
気分を害された本人から「気分直し」と誘われ、幸太郎はますます嫌気がさしてきた。
「桜なら一人で行けるだろう。俺はもう、じいちゃんに付き合う気はないから」
「そうか……なら、ワシも一人で出かけるか。この時間なら、ちょうど風呂でも入っておるはずじゃ」
「こ、このエロじじぃ……」
たとえ幸作が「幽霊」で、「ただの年寄り」だとしても、性別を問われれば男である。しかも齢の割には、かなりのスケベの部類に入る。そんな人間、いや、幽霊が、彼女の家に行こうとしている。しかも夕方の風呂に入っている確立の高い時間に。
「わかったよ……どこの桜がいいんだ?」
まんまと幸作の脅しに屈し、幸太郎は浪曲に続いて花見をさせられていた。
「じいちゃん、ここはうちの近くの川原じゃないか。本当に、こんな所でいいのか?また後で文句言うなよ」
「ああ、桜はここが一番じゃ」
「ふうん、まあいいけど。夜桜まではカンベンしてくれよな」
「なんじゃ、オマエは桜の楽しみ方も知らんのか。いちばん桜が見ごろなのは夕桜だぞ」
「ゆうざくら?」
それは幸太郎が初めて耳にする言葉だった。夜に見るのが夜桜だから、夕桜は夕方に見る桜のことだろうか。
「バカタレが!バカは死ななきゃ、なおらんと言うのは本当じゃな。そんなことだから、女の一人も口説けんのだ」
「バカは死ななきゃ直らない」は幸作の口癖だが、幽霊になった姿で言われると、ずしりと胸にこたえるものがある。
「桜と女と、どう関係があるんだよ?」
「ばあさんは、ここの桜並木が好きじゃった。女を口説くには、桜の下が一番なんじゃ」
「それは自分の話じゃねエか。ばあちゃんと他の地球上のオンナ全部と一緒にするなよ」
「いいから、少し黙っておれ。今から夕桜を見せてやる。たそがれ色が来た時しか、本物の桜色が拝めんのじゃ……」
夕桜、たそがれ色、本物の桜色。祖父の口から次々と聞きなれない単語が飛び出してくる。
「よし、今じゃ。ほれ、顔を上げて見てみろ」
言われたとおりに顔を上げると、幸太郎の視線の先には、暮れかかった空を背景に桜の枝が広がっていた。見る見るうちに、夕暮れ時の空の色が茜から濃紺へと移りはじめる。
今まで何故、気づかなかったのだろう。夕方から夜に移る途中で、一瞬だけ空が空白なるという事を。
まるで映画のスクリーンを張ったように、桜を囲む空の色は白い背景に仕上がっている。
それは、ほんの一瞬の彩りの隙間。闇が流れ込もうとしている夜の入り口。
茜から濃紺の間にありながら、そこだけは限りなく白に近い。その色こそ、祖父の言う「たそがれ色が来た」瞬間だった。
そしてその「たそがれ色」を背景に広がる「本物の桜色」―― 薄紅よりもさらに薄く、記憶にあるどの桜よりも高い透明度を持つ花の色。ここまで無に近い色彩を見定めるには、祖父の言う通りこの瞬間を置いて他にはない。
目の前に広がる夕桜は、涙と間違えるほどに薄く透き通り、泣きたくなるほど繊細な色合いを惜しみなく魅せていた。
「これが、夕桜……」
「どうじゃ、ええもんじゃろ?」
「うん。まあ、浪曲よりは」
「素直じゃないのう。本当は 『エエもん見た』と思っとるくせに」
幸作の言うとおり、不覚にも桜ごときで感動していた。今まで見てきた桜はなんだったのか。
そう思うほどに心が震えていた。これが祖父の大切にしている「粋」というものだろう。
洗練された目を持つ者だけが出会える、本物という名の感動。それは桜だけに限らず、あらゆる場面、あらゆる瞬間に潜んでいるのだろう。
「昼間は必要以上に、色が濃くなるんじゃ」
夕桜を見物しながら、幸作が桜についての講釈を始める。いつも聞き流していたウンチクが、今だけは大切な教訓に聞こえてくる。
「身の丈というのがあってな。必要以上に色が濃いのは、ワシは好かん。といって、夜桜ほど白くなっては桜の意味がない」
「夕桜がいちばん、桜らしいってことか?」
「そうじゃ。本物の桜色が見られるのは、この一瞬だけなんじゃ」
桜らしい桜色。最高の条件でしか見られない本物の色。
幸作のこだわりの原点がそこにある。
「なあ、じいちゃん。あれも桜なのか?」
幸太郎が指差したのは、橋の脇にたたずんでいる一本の巨木だった。他の桜はとうに開花し始めたというのに、一本だけつぼみを硬く閉じたまま開く気配すらない。
「あれは、迷い桜じゃ」
「まよいざくら?」
「ワシは、そう呼んでおる。毎年アイツだけ一週間遅れて咲きはじめる」
「随分へそ曲がりな桜だな」
孫の指摘に、幸作がうっすらと笑みを浮かべる。
「へそ曲がりと言われれば、それまでじゃが……ワシはアイツが一番 『粋』だと思っておる」
「なんで?」
「周りに左右されずに、ちゃんと己の咲き時を心得ておるんじゃ」
「品種が違うだけじゃないのか?」
「オマエはまだまだ 『粋』というモンが、わかっておらんのう」
夕桜まではついて行けたが、開花の遅い桜のどこが「粋」なのか。そこからは、さすがに理解できずにいた。
「いいか。咲き時を知っているということは、散り際も心得ているという事じゃ。
アイツは桜として繚乱の魅せかたを、ちゃんと知っておるんじゃ」
「繚乱」の意味を知らない幸太郎は、祖父が日本語を話しているのかさえ、あやふやになってきた。まるで友達のように桜のことを「アイツ」と呼び、品種が違う桜を「粋」と称する祖父。きょうの夕桜を見て少しはわかったものの、やはり幸作には常人の理解を超える偏屈な部分があるようだ。
まだ咲かない枝を見上げながら、幸太郎は迷い桜がどこか祖父に似ている気がした。